2018年1月23日火曜日

藤井聡太現象


現在中学生棋士の藤井聡太さんです。彼のお蔭で昨年は将棋ブームが起こりました。年始の新聞に、藤井聡太さんと経済学者の対談記事がありました。経済学者さんの名前は覚えていませんが、若手の学者さんでした。

彼曰く、

将棋ほど理論を突き詰めたゲームは他にない。

囲碁は、どうしてくれるんですか?

今回、国民栄誉賞として、将棋の羽生さんと囲碁の井山さんの名が上がりました。が、囲碁の井山さんは「付録」の様。メディアの関心はただ羽生さんにあります。これも藤井さん「効果」ではないかと…、思います。彼の活躍がなければ、誰が、「将棋と囲碁の世界の人に国民栄誉賞を与える」と考えついたでしょうか。

何も、彼を批難しているのではありません。ただ、囲碁と将棋の違いを「誰か言ってよ!」と思うだけ。メディアは「将棋を指す」と「囲碁を打つ」の違いすら意識していませんね。混用しています。









わたしが思うに、将棋はわかりやすい。駒に文字が書いてあるから。将棋をわかっていない人でも、見ていればなんとなく、ゲームの進行がわかります。でも。囲碁は単なる「黒と白」の石。盤上を見ていても、何が行われているのか…、非常に分かりにくい。

つまり、「一般受けしない」という事。

そして、囲碁はゲームの結末が一つではないという事。将棋やチェスは、王将あるいはキングを捕れば勝ち。絶対的な勝ち。そこから、王将をどう追い詰めればいいかの作戦を立てることが出来ます。

が、囲碁は、ひとつの「勝ちパターン」ではないので、少々囲碁のことを知っている人でないと、盤上で何が進行しているのか理解できません。もちろん、これは囲碁の関係者の怠慢でもあります。

まあ、結論としては、門外漢の経済学者が分かったようなことを言うな…、ていう事かな。嫉妬心も込めて。。。






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2018年1月5日金曜日

本を読み返すと、新たな発見もありますね。



『死者の奢り』  大江健三郎著





大江健三郎の初期の短編です。あとがきに「これは大江健三郎の文壇的処女作である。」とあります。彼が東大の学生だったときの著作です。わたしも大学生の時に(私の方が、ず~~~と、年下ですよ。念のため申し添えます。)、この作品を読みました。彼が大学生の時にすでにこんな作品を書いていたのだという事で、当時わたしは「嫉妬心」を感じていたのです。「身の程知らず」でした。



今回、わたしが持っている彼の本を年代順に始めから読み直してみようかと思い立ちました。それが『死者の奢り』です。「文学界」昭和32年8月号に掲載されました。わたしがこの文庫本を購入したのは、昭和47年です。大学生、青春真っ盛りの時でしたね。



当時この作品を読んだときは、「なんだかわからないが面白そう。」といった程度の感想だったと思います。何か「おとな」になった気分で、難しそうな本を読み漁っていたのでした。









内容は、文学部の学生だった主人公が、学生課でアルバイトを探します。それが医学部の解剖用死体の運搬でした。新しいプールが建設されたので、死体を今までのプールから移すという仕事。その仕事には、もう一人雇われたようでした。それが、女学生。二人、死体置き場で待っていると、死体の管理人がやってきます。



管理人の支持を受けながら、死体を運び始めます。「仕事は一日限りなので重労働だ。」とか、「古い死体はプールの底に沈んでいる。戦争時の兵隊さんもいるよ。」とか、「新しい死体はプールの表面に浮いているが、学生はそちらの方が好きなので、すぐ持って行ってしまうんだ。」とかの会話が交わされています。



彼らは、死体を一体ずつプールから引き上げ、運搬台車に載せて新しいプールに運ぶのです。新しいプールは、真新しい透明のアルコホル溶液で満たされていました。古いプールのアルコホル溶液は茶色に混濁していました。死体を運ぶ時、アルコホル液が死体から滴り、床はベチャベチャでした。そこで、女子学生が転んでしまいます。女子学生は気分が悪いからと医務室に行ってしまいます。彼女は、実は妊娠していたのでした。その中絶費用を稼ぐためにバイト代の高いこの仕事を選んだんだと、主人公に言います。



そこに医学部の教授が現われ、「何をしているんだ。」と。彼らの仕事は古い死体を処理することなんだと怒鳴ります。新しいプールには新しい死体を保存するのだと。彼は、さらに物凄い勢いで怒鳴り続けます。「新しいプールのアルコホル液が茶色になったじゃないか。」と。



今までの仕事、死体に新しい番号札を付け、新しいプールに運んだことは、全て無駄になりました。死体は火葬にするので火葬場に運ぶこと、新しいプールの溶液を入れ替えること、それを今日中にしろ、というオーダーです。「仕事の段取りを間違えたことでバイト代が支払われないかもしれない。その交渉をするのも自分でしなければいけないのだ。」と彼は憂鬱になります。死体管理人も「仕事の手順を説明したのは、俺ではなく事務のものだったことをよく覚えていてくれ。」と責任逃れの及び腰です。



教授が仕事の手順を説明する態度に彼は憤りを感じます。彼に、死体を扱う「我々」を見下す態度が感じられたからです。しかし、そう言えば、「僕も死体管理人を知らず知らずのうちに見下していた。」と学生も思いました。そして、火葬場に死体を運ぶために病院が派遣した雑役夫たちもまた、彼を見下してぞんざいな口をきくのでした。



仕事の手違いのこと、そのことを事務所と掛け合わなければならないこと、そして今日は夜中まで働かなければならないだろうと言うこと、また、死体を扱うことで皆から軽蔑的な態度で扱われること、これらの理不尽さに彼の怒りが喉元から飛び出しそうになるのを抑えるのですが、それは塊となって喉元を塞ぐのでした。





さて、わたしは何を思ったのか。一番には、不思議な感覚でした。学生時代に読んだ時は、わたしは大江健三郎についてほとんど何も知らなかったと言えるでしょう。その時は、大江健三郎自身も自分がこれからどのように生きていくのかと言うことは知らなかったでしょう。それが、今、わたしは彼がどのように生きてきたかを知っているのです。もちろん報道された表面的な事のみですが。つまり、自分自身の未来を知らなかった大江健三郎が、この作品を書いたと言うことです。そして読む私は、彼の人生を知ってこの作品を読んでいると言うこと。この不思議…です。



今となってみれば、大江健三郎の生き様がこの作品の中に現れている。…と、感じます。










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2018年1月3日水曜日

お正月


お正月三が日、どこに行くところも無し。明日は、久しぶりにジムに行きますよ。

という訳で、家で囲碁の「研究」をしながら、テレビを見ながらと言う…、生活です。今も、テレビはついています。朝から連続でドラマを流しているチャンネルがありました。再放送ですが。それを見るとはなしに見ていると、普段「?」と思っていることが、そうかもしれないなあ…、と思えてきたのです。ドラマは松潤の主演で、まあ、若い人が見るのかなあとも。

そこで、気になっていた「?」とは、この頃の若い人の「話し方」。なんか変だなあと。どこが変なんだろうかと。家の息子も含むデス。囲碁の若先生もそうです。これは、イントネーションではないのか。








以前、アメリカ翻訳ドラマについて書きました。この中で、日本語に訳されたアフレコは何か変だ。だからこのマネをしたコントが成り立つんだ、と。これは、アメリカ側が「このようにしゃべれ。」と注文を付けているのだとか。

この影響が、若い人に表れ始めているのではないでしょうか。つまり、英語のように日本語を話すこと。各国には、それぞれの言語のイントネーションがあります。海外の英語学校に行くと、英語を話していても「?」と、思ってしまう事があります。訛りです。イタリア訛りの英語、ドイツ訛りの英語等々。わたしの考えは、「その訛りを英語を話すために去勢することはない。」です。意思の疎通が出来る範囲という事で。

そんな日本語のイントネーションが、英語のイントネーションに変わりつつあるのではないか…、なんて。もちろん、日本語共通語は、訛りを消したものですから、その共通語のイントネーションが変わりつつあるのでは。地方の言葉は違いますよ。大阪弁は健在であるし、我が名古屋弁も健在です。言葉は「共通語」を使うようにになってもイントネーションは変わらず「訛って」いますからね。

どうでしょうか。考えすぎでしょうか。











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2018年1月2日火曜日

元旦


恒例の元旦の過ごし方は、「朝から宴会」と言うものですが、今回はちょっとした事情で、宴会はありませんでした。一人で朝から飲む気にはならないので、いつもの通りの朝食となりました。トーストとハムサラダとコーヒー、ヨーグルト。

通例、宴会は午後の2時くらいまで続き、その後昼寝して、また、夜の宴会と言うスケジュールですが、今回は、昼間、バッチリの素面です。なんと時間がたくさんあるのかと感心するばかり。
 
ジムもお正月なのでお休みです。ちょっとお散歩でもしてみようかと考えました。しかし、散歩の習慣はなく、何の目的もなく歩くことはどうしても考えられません。まあ、「運動する」という意味はあるのですが。

そうだ、近くの神社に行って、それからATMで通帳記帳をしてコンビニに切手を買いに行こう…と、計画を立てました。






近くの神社は、結構有名な神社ですが、普段はそんなに人影はありません。去年は、たぶん、三日に郵便局に行くついでに神社を覗いてみました。その時は、参拝者が溢れるばかりでした。「お正月かあ~。」と思ったのを覚えています。

神社は、ただ覗いてみるだけで、お参りをしようと言う気はありません。ふだん全然関心がないのに、お正月だけ神だのみをするとなんだかバチが当たりそうで。ですから、今回も参拝するための長蛇の列が出来ていましたが、ちょっと見学して通り過ぎました。


駅のATMまで行って、帰りは、違う道を選んでコンビニへ。その筋を選ぶと公園を通って帰るという事になります。これで、5000歩くらいは歩くことになります。その公園は、これもちょっとした公園で、テニスコートとか、サッカー場などを備えています。

でもお正月だからなあ~、誰もいないんだろうなあ~、と思ったら、結構、人はいました。子供連れで遊具で遊んでいたり、犬の散歩をしている人とか、です。元旦ですよ。わたしとしては、元旦から外にいるというのは稀有なことなので、不思議でした。

世の中は、…健全だなあ…、と、感じた一日でした。
 






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2018年1月1日月曜日

新年好!

明けましておめでとうございます。平成30年の幕開けです。

去年は、ブログの更新を少々サボってしまいました。今年は頑張ります…、と言いたいところですが、今年も無理そうです。と言うのは、今は囲碁に夢中だから。時間があると、ついつい、囲碁の方に向かって行ってしまうのです。

囲碁を始めて、丸五年。始めた時の目標は、五年で初段になること。それが、まだ、今一歩…、というところなのです。しかしながら、ほんとは(嘘は?)、もうすでに初段のテストを3回合格しているし、3段の認定書も持っています。免状ではありません。免状を手に入れるのには、まあ、5万円ほど要ります。

わたしが、唯一「先生」と思っている人が、まだ「初段はあげられない。」と言うのです。「○○さん(私)が、初段になるまで生きとらなあかんで、長生きできるわ。」と言うのです。わたしは、「先生、すぐ死んでもいいよ。あと2~3か月で初段になるから。」と応じます。









もう一人、先生の弟子の「若先生」がいます。院生でしたが、20歳までにプロになれなかったので、卒業されました。その先生(現在22歳)が、「6子置き碁」で勝ったら初段の免状を個人的にあげましょうと、言います。去年の「新年会(酒の席)」の時にそんな話になりました。一回だけ勝ちました。しかし、スキをみて勝っただけなので、本当に「勝利した」とは言えないところです。

その話を老先生にしたところ、「6子では勝てんわ。」と。「星目(9子)置いても勝てんわ。6子で勝ったら4段とか5段だ。」と。「ちょっと、内緒でメールしてみよか。」と言って、先生が若先生にメールしました。「君に9子で勝ったらどのくらいだね。」と。返事は、「難しい質問ですね。まあ、初段以上でしょう。」と。

なんだかね。

でも、わたしは挑戦し続けますよ。若先生に勝ったとき、棋力が初段でなく3段になっていることも…ですから。それから、囲碁を始めた時の目標は、「5年で初段」と申しました。これは誰にも言っておりませんが、実はその先があるのです。「そして、10年で5段」と言うこと。

ですから、5年で初段になれなくてもあと5年のうちに5段になれば、初期の目標も達成されたという事に…、成りますでしょう。先生が「まだ初段ではない。」と言っても、他の場所で初段であるという事で今のところは手を打っておきます。そして、密かに「あと5年で5段」を目指していきましょう、と。

という訳で、今年もブログのUPは、お留守になるかも…です。









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