2014年3月30日日曜日

『謎の独立国家……ソマリランド』


「今年最高の本」、「本屋さん大賞」と「講談社ノンフィクション賞」を受賞。「三冠制覇!」と帯に謳われています。わたしは、そんなことはどうでもいいのですが、同じ帯に書かれている「西欧民主主義敗れたり!!」に惹かれて買いました。というのは、近年思うこと、「(西欧)民主主義って絶対なの?」からです。

 

西欧の啓蒙主義からの市民革命、第二次産業革命、資本主義などなどが、世界を席巻していますが、これって、人類が最終的に選んだ理想の姿なのか、ということです。歴史は常に動いています。西欧の王権支配から市民革命で民衆が権利を得たということになっていますが、実際は、ブルジョワ革命です。富を持つ「市民」の革命だったのです。アントニオ・ネグリも現在の共和制はすべて「私有財産を守ること」を主眼としている、と述べています。つまり、憲法も法律もすべて「自分の財産を守る」というため制定されているのです。民衆のためのプロレタリア革命は、未だ、一回も成功しておりません。まだ、人類の理想の姿は現われていないのです。

 

加えて、西欧民主主義は単なる一地域から起った概念です。それが、西欧諸国の支配(植民地政策)が進むとともに、全世界的な普遍的概念となっていきます。アジアやアフリカあるいはイスラム諸国は、各々、その地域に合った思想がありました。例えば、アジア民主主義とかアフリカ民主主義とかイスラム民主主義が存在するはずです。今我々を含む第三世界の人々が、西欧に学ぶことによって、西欧に対峙するためのツールを徐々に確立しつつあります。それは、まず文化面から始まりました。音楽、美術等などです。すべての音楽がアフリカのリズムに影響されていると言っても過言ではないと思いますが・・・。(以前、そのようなことを英会話の先生に言ったら、「ばかな。影響を及ぼしているのはクラシック音楽だ。」と言っておりました。)そして現在、学問、経済、政治の分野においても、彼等の活動の幅が広がっています。つまり、有名な経済学者や政治学者、そして社会学哲学者などが(元)第三世界から輩出されているということです。

 



 

何て言う思索的な内容がこの本の中で語られているのか、と想像したのです。が、冒険ドキュメンタリーのようです。実は、まだ最終章『ハイパー民主主義国家ソマリランドの謎』をまだ読んでおりません。なので、結論は性急に付けず、また、後日このことについて書きたいと思います。

 

それ以外の事で一番興味を惹かれたのが「海賊国家プントランド」です。現在、ソマリア共和国は内戦状態です。無政府状態の「崩壊国家」という状況。その中で、ソマリアはだいたい、ソマリランド、プントランド、南部ソマリアに分かれています。ソマリア沖で海賊が横行しているという状況は御存じでしょう。その海賊行為を行っているのが、プントランドの漁民ということです。著者によると、ソマリランドは「天空の城ラピュタ」、プントランドは「リアルONE PIECE」、南部ソマリアは「リアル北斗の拳」ということ。

 

プントランドと南部ソマリアは内戦が続いていますが、ソマリランドは平和な状態を築いています。無政府状態の中で独立国家の体裁を保っているのですが、まだ国際社会からは国家として認められていません。しかし、大統領制を敷いているし、当然大統領は選挙で決定されます。ちゃんと民主主義が機能しているわけです。

 

このそれぞれの地域を著者は探検するのです。と言っても、サハリ探検じゃないんですから、それぞれの国(著者は国と言っているのでわたしも国と書きます)の情報を収集する為、その国のメディア関係の人とコンタクトを取ります。彼等がガイド件、ツアーコーディネイター件、ボディガードです。そして、プントランドへ。

 

 

著者が知りたかったことは、

★海賊行為を誰がやっているのか。プントランド政府はその取り締まりをしているのか。

★外国の裏社会との関係は

 

が、彼にはいまいちそのカラクリがわかりません。それで、

「海賊が外国船を捕まえる映像を撮れないかな~~~。」と聞いてみます。

すると、

「できるよ。」との簡単な答え。

「海賊を雇えばいいんだ。」と。

 

それから、海賊を雇うために必要な諸々の経費の段取りに話は進みます。そのあらましを本から抜粋してみますと、

 

売上(身代金)1億円

経費:

コーベ(メディア関係の案内人の名前)による海賊の町での根回し費用 40万円

ボート代と海賊の日当 180万円

アタック期間の中の諸経費 40万円

武器レンタル代 140万円

カメラマン代 100万円

計 500万円

成功報酬:

通訳代(売上の8%) 800万円

コーベの取り分  500万円

氏族の長老および有力者の取り分 (売上の40%) 4000万円

計 5300万円

 

合計 5800万円

 

差引残高(利益)  4200万円

 

 

ということ。興味湧きますか。

 

つまり、外国の裏社会との関係とは、こんなことだったのかと著者は気付きました。誰でも、海賊行為に投資できるということです。もちろん違法ですが、経済行為として成り立っているんですね。

 

 

ここで、わたしが思ったことは、日本政府は「集団的自衛権」を持ち、海賊から日本の企業を守るとか言っておりますが、彼等はビジネス感覚で海賊行為をやっているということ。つまり本気で政治的理由で海賊を行っているわけではないので、こちらも武器で対処する以外の方法があるのではないかと。もっと他の方法で経済的に潤えば、彼等も海賊などにならないでしょう。人間、やはり「平和と安定」が大事ということではないでしょうか。

 

甘いですか?




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2014年3月21日金曜日

『黒船来航――日本語が動く』  (清水康行 著)


わたしは、「ことば」に興味があります。ソシュールのような論理的「言語学」は、ちょっと理解不能ですが、言葉は文化の源でありますから、言語の成り立ちなどを探れば日本の文化も同時にわかるのではないかとの思いです。ことばと「文化・歴史・政治」のコラボです。

 

この本は「そうだったんだ!日本語」シリーズの一冊です。黒船が江戸時代の日本に来航した時、その事実は日本語にどうような影響を与えたのか……本の帯には、「条約文に見える、新しい文章語への胎動」とありました。

 

ペリー来航に続く文明開化の明治時代、日本は西洋の言葉にさらされて、日本語としていろいろな単語を新たに生み出しました。欧米の単語を訳して新たに日本語となったものや、今までに日本語としてあった語を欧米語にあてはめて少々意味が変わってしまったものとか。そんな内容を期待してこの本を買ったのですが、少々思惑外れ。しかし、違った意味で興味深い点が多々ありました。

 

ペリーが浦賀に現われて以来、日本政府は諸外国と条約を締結する破目に陥ります。この本は条約を日本語で書く時、締結国との言語の違いによる齟齬がないように、日本語をどのように変化して行かなければならなかったのか、というのがメインテーマです。

 




 

浦賀に現われた黒船は4隻でした。2隻が蒸気船、2隻が帆船。そこに、浦賀の奉行所の役人と通詞が偵察に行きました。その時、役人、正確には通詞は、どの船に交渉すべき人が乗っているかということを知っていたのです。日本の湾に4隻の船が現われたら、西洋の知識が全くない人なら、戸惑うはずです。なぜ、役人はこの事態に対応できたのでしょう。それは、ペリーが来る前から、日本に西洋知識を取り入れるルートがあったからです。出島です。1543年のポルトガル人の種子島漂着以来、蘭学の名のもとに西洋知識・その日本独自の技術の発展が継承されていたのです。鎖国体制のもとで、出島は科学技術の摂取、さらに開発のバックグラウンドとして機能していました。

 

さて、浦賀奉行所の幕府船が、黒船の旗艦船に近づいた時の様子が、ペリー側の航海日誌に記されています。『ペルリ提督日本遠征記』です。(『黒船来航』からの引用です。)

 

「多数の予備船の内一隻がサスケェハナ号(旗艦船)に近づき、巻物を掲げた。士官がそれを受け取るのを拒否すると、巻物を高く掲げて読めるようにした。それは、フランス語の文章で『貴艦は退去すべし、碇泊すべからず』という命令書だった。」

 

つまり、幕府は、当時の西洋社会での外交関係における第一公用語がフランス語であると承知していたということです。実際、その時双方はお互いに船上と船上で睨み合って、怒鳴り合っていました。アメリカ側は日本語で、役人側はオランダ語で。しかし、お互いに何語を話しているのかを理解できず、日本側の通詞が「余は和蘭語を話すことができる。」と英語で怒鳴ったDutchという英単語をアメリカ側がキャッチし、それで意思の疎通が始まりました。

 

すごいでしょ。ワクワクするでしょ。映画が一本できそうですね~~~♪。

 

この時の通詞は堀達之助、アメリカ側の通訳はオランダ人ポートマン。もう一人ウィリアムズという通訳もいました。彼は、日本語を少々話すらしく、通詞の堀も英語を少々話せたので、公式の交渉はオランダ語で行われたものの、ちょっとした会話は、彼等の間で英語、日本語が使われていたようです。

 

 

アメリカとの日米和親条約を皮切りに、日本政府(あるいは江戸時代は幕府)は西洋列強と条約を結んで行くことになります。条約の条文は、お互いの利益を担保するもの。必然、意思を反映する正確な文章でなければいけません。そこが、日本政府の苦労したところのようです。先ず、政府は漢文を条約文から排除しました。漢文は日本で公的な言語として君臨してきたので、これは大きな出来事でした。つまり、条約の正文が漢文に訳されていたのが「オランダ語を正文」と改変したのです。この理由を政府は、漢文と和蘭文の齟齬と説明しています。正式に和文と和蘭文が双方で認定されました。ここで、和文が日本において公的にも正式な言語という認識が生まれたのです。

 

続いて、1854年、イギリス艦隊が長崎に入港します。スターリング提督の交渉で、イギリスはアメリカに続く二番目の条約締結国となります(日英和親約定)。この条約では、日本語、オランダ語、英語の三言語の版が作成されています。日本はオランダ語を主張したのですが、世界の覇者であるイギリスは、「英語が世界の言語である」と受け入れなかったのです。その後、イギリスは英語を正文とすることを求め、日本側は英語が上達してからにしてもらいたいと、時間の猶予を交渉します。それからの西洋諸国との条約締結に当たり、日本も世界言語としての英語・仏語の習得を図り、オランダ語の役目も終局となって行きました。日本の通詞はすぐに、英仏語を習得したと、この本では言及されています。

 

いずれにせよ、慎重に意味の定義をしなければいけない条文で、お互いの言語が違うということは大変重大な意味を持ちます。ひとつに欧米の論理的思考をどう日本語に移し替えるかという問題があります。入組んだ仮定的条項や構文の違いを克服しなければいけませんでした。日本語のひとつの変化は、「候文」から「べし文」への移行です。

 

なぜ「べし文」に変わったかの理由として挙げられていることは、候文は敬語の意味が含まれているということ。条約締結に及んでは、上下の関係を表わすことは相応しくない。「べし文」は、話し手の位置関係が含まれていないフラットな表現方法(だそうです)。また、こういう場合はこうする、など仮定的な構文を正確に表すには、「べし文」が優れていた(そうです)。

 

複雑な話は直接この本を読んでもらうとして、わたしが興味を持ったのは、構文の違い。上手く説明できませんが、卑近な例では、イエスとノーの違いがありますね。否定形の疑問分で、西欧とアジアで返事が違うということ。

 

「あなたは元気そうに見えませんね。」では、「いいえ、元気です。」と答えるところ、英語では、「イエス、元気です。」となる。

 

これは、単純な例ですが、複雑な表現でもこんなお互いに違う表現になっている例があるのです。

 

 

以上、たいへん長くなってしまいましたが、日本語ということで最後に一言。

 

出島で蘭学が盛んになり、通詞もたくさん輩出しました。そこで、西洋の本を翻訳する場合、今まで日本語になかったものは新しく創造しなければいけません。例えば、物理学の用語、重力・引力・遠心力・集点などは、179?年頃に通詞によって発明されました。また、化学では酸化・還元・飽和・元素等など…、1800年代初期の創作です。我々の祖先のこんな日本語の創出にわたしたちは多大な恩恵を受けているのです。このような用語を生みだせなかった国々は、科学知識を自らの言語で語ることができません。ある意味、日本人特有の「内向き志向」、例えば「ガラケイ」志向が、日本語を救ったと言えるのかも。

 

とにかく、明治維新前後に活躍した日本人のおかげで、我々は日本語を進化させ、欧米列強と渡り合い、自らの国家を代表する役割を担う言語を「日本語」であると宣言するに至りました。欧米の植民地政策によって言語を失った国は多々あります。言語を守り切ったということが、日本の独立性を担保するひとつの要因ではなかったでしょうか。





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2014年3月16日日曜日

和算・算額

 
和算とは、西洋式数学に対して日本で独自に発展した数学のことを言います。なぜ、和算のことを調べることになったかと言うと、英会話クラスのせいです。プライベート・レッスンなんですが。

 

英語を学んでいると英語以外のこともたくさんわかってきます。そのひとつは西洋文化と日本の文化の違い。そして、ほとんどの先生が、西洋文化を世界の標準と思っていること。簡単に言ってしまえば、マジョリティとマイノリティの典型的な差別構造です。もちろん、彼等はそんな意識さえありませんが。

 

そんな例は、たくさんあります。例えば、クリスマスがナショナル・ホリディでないことへの不満。交通標識が英語でない事への文句。英語が通じないことへの「あなどり」。などなど・・・。

 

その事について言えば、生徒達も同じです。英語を学び始めたばかりの生徒は、たいてい、英語の魔力に押されて、「おおッ、西洋偉大!」なんて感想をもらします。しかし、英語能力が上がって来て、上級のクラスに行くと、生徒達の態度、考えも変わって来るようです。つまり、自分自身を見つめ直すということなのでしょうか。

 


 

と言う訳で、わたしはいつも先生とやり合っています。議論の応酬です。

 

1853年ペリーが浦賀に遣ってきた時、日本の役人は正確に対応しました。それは、1543年にポルトガル人が種子島に漂着した時から、日本のグローバル化は始まっていたからです。先生の主張では、ペリーが来航してきた時に、日本は西洋文化の偉大さを知り西洋の科学技術などなどを漸く取り入れ始めたんだというもの。

 

「それは違う。江戸時代に幕府は鎖国政策を取っていたものの、西洋の知識は確実に輸入され、日本独自にそれを発展させさえしていたのだ。」

 

「そんなことはない。日本に科学的知識があった訳がない。ペリーが来て、あわてて取り入れて、技術を発展させたんだ。その努力は買うけどね。」

 

 

「日本に科学はまったく存在していなかった」という言い草に「カチン」ときて、バトルが始まりました(冗談レベルよ)。それで、先ずは『和算』です。一番英語で説明しやすそうだったから。あくまで、英語のレッスンですから。


 

数学の知識は西洋から輸入されたとは言えません。なぜなら、西洋の数学こそお粗末だったんですから(それを言えば全部か)。たいていは、メソポタミアかインドが起源です。日本の数学は、1872年に明治政府が「学制」を公布し、西洋式になるのです。和算は西洋の数学に対する呼び名です。

 

数学の知識は、遠く昔、遣隋使や遣唐使から伝わりました。その頃の中国はもう役人採用試験で数学の知識の有無をテストしていたんですね。ピタゴラスの定理も飛鳥時代には知られていたそうです。そこから、戦国時代など日本の政情は不安定でしたから、日本に平和と繁栄がもたらされた江戸時代から文化が花開いていきます。数学もね。西洋も中世暗黒時代のあとの繁栄ですから、同じでしょう。全世界的に1600年ころがそんな時代だったんですね。

 

1622年に『割算書』が刊行されました。それから、1627年、『塵劫記(じんこうき)』が、吉田光由により出筆されます。これは江戸の大ベストセラーになりました。内容は、両替商などに必要な実用的な物から、平方根、立方根などの高等数学まで。1641年には、『新編塵劫記」が刊行。この本は、答えを付けない問題が出題され、次回に回答という趣向も付され、江戸庶民の「負けじ魂」に火を点けたようです。この本の刊行は実に187年間も続きました。西洋に先駆けての日本の数学者の発見もあります。関孝和(1640?~1708)は、行列式の発見や円周率、三角関数を発展させ、17世紀に活躍した世界の数学者のベスト10に入っています。ニュートンやライプニッツと同格です。

 

「算額」は、絵馬の一種です。数学の問題と解答が絵馬に記され、神社やお寺の境内に吊るされ奉納されました。数学のデモンストレーションです。日本人らしく、いかに美しく回答できるかが競われました。もちろん庶民も参戦していましたよ。

 

今でも900以上の絵馬が残っています。その内のひとつにものすごいものがありました。それは、後にノーベル化学賞を受賞したフレデリック・ソディが1937年に発表した「六球連鎖の定理」がすでに書かれ奉納されていたのです。奉納されたのは、1822年、ソディの発見より113年前のことでした。詳細な解説本も別途出版されていました。

 

 

以上、研究発表でした。先生も「興味深かった。」と一言。
 
が、
 
「でも、地球が太陽の周りを廻っていたのは知らなかったでしょ。」って。
 
 
 
バトル第二戦の始まりです。





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2014年3月9日日曜日

『日本辺境論』

 

『日本辺境論』を読んだ。大ベストセラーだったので「読んだ」と書くと、なんだか気恥ずかしい気はする。著者は内田樹。

 

彼の言う「辺境」とは、文字通り地理的な辺境のことらしい。日本の国が始まった時から、日本は日本を「中心」だとは考えなかった。古代に文明が起こった国は、総て自国が世界の中心と考えて、自国を「主張」してきた。それに引きかえ日本は、はじまりから「中華」があっての「日本」だった。その根拠は日本の古代の支配者は「中華」に支配権の承認を求めたからだと、彼は言っている。

 

で、この「辺境」であることでの「日本」の特徴は何か。彼によると、たいていの国は自分の国が中心である。中心としての自国の主張をする。だが日本は常に「中心」をどこかに見据えて、そことの関係性をはかる。つまり自分を絶対視する思考がなく、自己主張をしない。日本とはどういう国かとういう独自の発想がない。他国と比べることでのみ、相対的に自分を語ることができるという事だ。

 

 

わたしは常々、日本は「課題・目標(あるいはパラダイム)」を与えられたら非常にうまくそれに順応し物事を成功に導く事ができるが、それ自体をなぜ発信しえないのだろうかと思っていた。この本を読んで、少し納得するところはあった。彼は、「よその世界の変化に対応する変り身の速さ自体が伝統化している。」と書いている。時代の先端が何であるか感知し、それに向かってキャッチアップしていくことに長けているという事。(しつこいようですが、 自ら新しい物は発信しないという事)。

 

もうひとつ、わたしは、日本人は何故権威に逆らわず、迎合してうまく振舞っていけるのだろうかとも感じていた。これについても同様、「自分自身が正しい判断を下すことよりも、正しい判断を下すはずの人を探りあて、その身近にあることに自らのアイデンティティを見出す」と言うような事が書かれている。しかし、ここには少々トリックがあって、「自分は辺境に住んでいるので、そんなことは知りませんでした。」という「作為的な知らんぷり」がひそんでいるらしい。つまり、表だって自分が従いたくない基準に反対はしないが、知らないふりをして結局は従わないということである。少しは自己主張をしているようだが、何にしても自分の望む自らの基準を新たに発信しないのは同じ事である。

 

 

このように、自己主張もしないでいつもまわりとの関係性ばかり意識している国が、繁栄と没落をくり返している世界の国々のなかで、どうして今まで文明を発達させ、植民地化もされず、滅ぼされもせず、二千年も生き延びてきたのか。そして、こういう国にどんな文化が醸成されたのか・・・という壮大なテーマはまたの機会に。




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2014年3月8日土曜日

World Literature と複数形のWorld Literatures


『ハックルベリー・フィンの冒険』の中で使われている「ニガー」という言葉が、人種差別の言葉であるとして、近年アメリカで違う言葉にして出版するという動きが活発だ。そんな動きの中で、nigger hipster robot にした版が出回っていると言う。そこまで行くともう改竄であると前回書いた。このように言葉を換えるということを考えていると、じゃあ翻訳はどうなんだと思った。

 

先日、ゾラン・ジフコヴィッチの『不思議な物語』という本を読んだ。出版元は黒田藩プレスである。ゾラン・ジフコヴィッチはユーゴスラビアの作家であるが英訳版もあるらしいので調べてみた。出版元はKurodahan Press とある。あらっ、同じジャン、と思って、出版社自体をチェックしてみると、やはり同じ会社。日本に住んでいる北米人三人が会社を設立して出版事業をしているらしい。最近、NPOに移行したと報告されていた。彼等の目的は、海外の日本未発表の本を日本語に翻訳し出版することと、日本のまだ海外に紹介されていない本、例えば江戸川乱歩など他の言語に訳しにくいもの、を翻訳し海外で販売することである。そのホームページをみると、日本の独特の文学がどのように英語に翻訳されているかをみるのも興味深いでしょうと書かれていた。―――う~~~ん、興味深いです。

 

また、最近、世界文学には単数形のWorld Literature と複数形のWorld Literatures があると知った。単数形の文学は、普遍/不変的価値を有する各国独自の正統的文学。複数形の文学は、グローバルな世界で単一の国家、言語、文化に属する事のない文学作品群。例えば、ハリーポッターやカズオ・イシグロの作品などだ。複数形の文学は単数形の文学が追求する美学、永遠性・独自性・翻訳不可能性には始めから執着せず、世界中の読者をそもそも前提として作品が書かれている。

 

前回、調子に乗って、ついつい「グローバル社会に賛成しているんじゃないよ。今のグローバル社会は、唯一の観念に収斂していって、開かれた『グローバル社会』とはとうてい言い難いから。」からなんて書いてしまったが、少々反省している。というのは、わたしの考えは少々古臭くなっているのかもと感じたから。

 

経済のグローバル化の場合は、やはり、西欧諸国主導の資本主義・自由主義経済に流されていると言える。資本主義の概念の「巨大さ」は容易には覆し得ないからだ。が、文化の面ではどうだろうか。もちろん、西欧文化が新興国を飲み込んで文化の帝国主義とか植民地化とか言われる面もあるが、それとは別にソーシャルメディアを通して培われた第二のバーチャルな世界が出現しているとも考えられる。

 

わたしの時代にはなかったコンピュータが、生まれた時から存在する世代あるいは青年期に遭遇して容易にコンピュータを駆使する事ができる世代が、違った共通の世界を作り出したのは当然の結果だ。そこは、国籍も言語の違いもない新たな世界だ。そこで生まれる文化は、やはりわたしが「美」と感じとる土着の文化を超える共通の「美」があるのだろう。




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2014年3月5日水曜日

風邪をひいた。。。


わたしは、「全然風邪をひかない」と豪語していたら…、しっかりひいてしまった。先週の土曜日から家に引籠りである。

 

「風邪をひかない」の根拠は、長年彫金師をしていて銀に触れていたということ。つまり、銀イオンには殺菌作用があるということだ。しかし、密かに「これは眉唾ものだな」と思っていた。ほんとうの理由は、ひたすら家で仕事をして、めったに人に会わないということと思う。人との接触がなければ、ビールスにも感染しないでしょう。その証拠に、クリスマスやバレンタインデーのイベントで、雑誌に取り上げられた時には、生徒がどっと押し掛けて来て、すぐに風邪をひいてしまったのだ。

 

さて、今回の「風邪をひいた」原因は碁会所だ。碁は彫金師をやめてから始めた趣味である。普段は、ネットで碁を打っているが、「やはり、人とのつながりは大切でしょう。」と、いつも通る道筋に『囲碁』の看板を見てふらりと入ってみたのである。それが一ヶ月くらい前のこと。

 

そのふらりと入った碁会所は…、「なんということでしょう」…、日本で一番強いアマの棋士がいたのでした。他の人に「なんでここに来たの。誰かの紹介?」と言われて、「看板を見て」と答えたら、「オオッ、なんとラッキーな!」と。「ここでは日本一強い先生が講義をして下さるんだよ。」と。皆さんは、それを目あてに来ていたらしいのだ。

 

と言う訳で、今まで3回くらい行った。そして先週の水曜日、碁会所のオーナーが風邪をひいていたのだ。セキはするはくしゃみはするは、鼻はズルズルだわ…、の状態。碁の相手がいない時、彼が碁の相手をしてくれる。それで、2回ほど彼と碁を打った。が、考えてみれば、碁会所の碁石は皆が共通して使うもの。ちょっと危険じゃないの、と気が付いて密かに手の消毒などを試みていた。それで、何事も起らなかったので、「銀イオンのおかげだあ~~~」と、思っていたら、土曜日からこの始末。きっと、潜伏期間があったのネ。

 

 

ブログも書けない状態だったが、ようやく、治りかけてきた。それで、この文章をUPできたと…いうことです。感謝。




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