2017年7月28日金曜日

A PRAYER FOR OWEN MEANY(by John Irving)  



やっと読めました。この本の中で、John(この本の主人公)が何の本だか忘れましたが、一冊の本を「20歳から読み始めて、ようやく40歳で読み終わった。」と書いているので、わたしも、「まあ、いいか。」っと。多分、読むのに足掛け2年くらいかかっていると思います。読んだり、読まなかったりしていましたから。

アーヴィングの、いつもの如くの、30年以上にも及ぶ人々の「生き様」の物語です。と言って、歴史的系列で出来上がっている物語ではなく、一つ一つのエピソードが積み重なっていって、気がついたら三十数年に及んでいた、みたいな…。

JohnとOwenは、幼馴染です。Johnは、土地の名士の息子でお屋敷に住んでいます。Owenは、石切場で働く父親を持ち、母親の方は少々精神に問題があるような人物です。Johnの母親はOwenのことをとても可愛がり、Owenに奨学金を与え、Johnと同じ小学校に入れます。Owenはとても才能ある子どもだったのです。

しかしながら、ちょっと変わったところもあり、自分がこの世で何をしなければいけないのかを「知って」います。そして、自分が「いつどこで」死ぬのかも。

そして最後の章が圧巻でした。これまでのエピソードが総て重なり合って、クライマックスにもつれ込んでいきます。不思議な相貌を持ち、そして全く身体的に成長しない、しかしすべての人を虜にするような才能と機知を発揮した幼なじみのOwen Meanyが「何者であったのか」が解き明かされるのです。この事は書かない方が良いのではと…、あえて、書かないことにします。

とても宗教的な(キリスト教)内容ですが、既成の宗教という感じではなく、すべての人の心にある「何か」を表現しているのではと感じます。


こんなエピソードがあります。Owen Meanyは身長5フィートくらい。それ以上成長しませんが、Johnといつもバスケットのダンクシュートを練習しています。そのダンクシュートとは、JohnがOwenを投げあげて、Owenがシュートするというものです。

When it was so dark at the St. Michael’s playground that we couldn’t see the basket, we couldn’t see Mary Magdalene(聖像です), either. What Owen liked best was to practice the shot until we lost Mary Magdalene in the darkness. Then he would stand under the basket with me and say, “CAN YOU SEE HER?”(彼のセリフはいつも大文字です。彼のこどものような甲高い特異な声を表現していると思います。)

“Not anymore,” I’d say.
“YOU CAN’T SEE HER, BUT YOU KNOW SHE’S STILL THERE---RIGHT?” he would say.
“Of course she’s still there!” I’d say.
“YOU’RE SURE?” he’d ask me.
“Of course I’m sure!” I’d say.
“BUT YOU CAN’T SEE HER,” he’d say---very teasingly.
“HOW DO YOU KNOW SHE’S STILL THERE IF YOU CAN’T SEE HER?”
“Because I know she’s still there---because I know she couldn’t have gone anywhere---because I just know!” I would say.



“YOU HAVE NO DOUBT SHE’S THERE?” he nagged at me.
“Of course I have no doubt!” I said.
“BUT YOU CAN’T SEE HER---YOU COULD BE WRONG,” he said.
“No, I’m not wrong---she’s there, I know she’s there!” I yelled at him.
“YOU ABSOLUTELY KNOW SHE’S THERE---EVEN THOUGH YOU CAN’T SEE HER?” he asked me.
“Yes!” I screamed.
“WELL, NOW YOU KNOW HOW I FEEL ABOUT GOD,” said Owen Meany. “I CAN’T SEE HIM---BUT I ABSOLUTELY KNOW HE IS THERE!”
(彼等の高校時代の話です。)


引用が長くなりました。しかし、Johnは彼の言った意味を最終章で深く噛みしめることになります。

わたしは無神論者です。でも、そんなこともあるだろうと思います。近代になって「神」が死んで、「科学」が神の地位を手に入れました。しかし、「科学で総ての事を証明しなくてもいいんじゃないか」というのが、今のわたしの心境です。「科学」と「神」は違う次元のことであるばかりでなく、我々はたくさんの違う次元(アイデンティティ)が寄り集まった世界に住んでいるような気がするからです。





もうひとつ、些末なことではありますが、「なるほど」と思う個所がありました。

I was the only one who needed anything; I “needed” a newspaper, I’m ashamed to say. Needing to know the news---it’s such a weakness, it’s worse than many other addictions, it’s an especially debilitating illness.

この本の主人公であるJohnが、カナダのGeorgian Bay に同僚やその子供たちと休暇に来ている時の話です。毎日何か買う必要のあるものが出てくるので、買出しに行くのだが、この日に限って、他の人には必要な買物はなく、彼にだけ必要な買物があった。それは新聞だ――というお話です。

1987年、彼は、ベトナム戦争の兵役から逃れるべく、カナダに移民したのですが、未だに、アメリカのニュースに囚われていると。

I live in Canada, I have a Canadian passport---why should I waste my time caring what the Americans are doing, especially when they don’t care themselves?



作者の意図とは違うわたしの反応と思いますが、「新聞を読むことがほかのどんな中毒より悪い」と書かれていることに、なんだか唸ってしまったのでした。自分のことを思ってしまって、そうかもしれないな、と。

毎日、新聞を読んで世界中の事を知りつくそうとするのは、自分のWEAKNESSからかもしれない。到底そんなことができるはずもなく、彼同様、無駄な時間を過ごしているのかも。空っぽな自分を何かで満たそうとするのだが、それは自分自身で創造したものではなく、ただゴミを溜め込んでいるだけなのかも。

と言って、このADDICTIONから逃れる術もなく、これからも新聞を読み続ける「わたしである」でしょうけど。








 

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2017年7月14日金曜日

The Pillars of the Earth written by Ken Follett



983ページの本です。翻訳ではなく、オリジナル本を読みました。イギリスの1123年から1174年までの話。内容はヴィデオゲームのロールプレイゲームのような話です。ワクワクします。いろいろな人が「複雑に絡み合い」とは常套句ですが、この本の場合は「簡潔に絡み合い」といったところ。しかし、簡潔な故に素晴らしい物語構成と成っている・・・とわたしは思います。



話の筋に興味はおありですか。登場人物をグループに分けると、



1.Tom Builder 家族。Tom 夫(父)、Agnes妻(母)物語の初めですぐ死にます。 Alfred 長男、 Martha長女

2.Prior Philip 良い人

3.Ellen(母)、Jack(息子)森の中で暮らしていた少しミステリアスな人たち。EllenはのちにTomと結婚。

4.Earl Bartholomew の家族。Aliena姉、 Richard弟。Earl であるが、謀反にあって没落。その再興を願う。父Bartholomewは牢獄で死ぬ。

5.Hamleigh 一家。悪い貴族。Bartholomew を落とし入れる。息子WilliamAlienaに付きまとう。

6.Waleran Bigod 悪いBishopPhilipに悪感情を持ち常に陥れようとする。



と言ったところでしょうか。



こんな羅列では話の内容まではわからないと思いますが、それはともかくとして、ひとつ興味を持ったことは、



Christians can’t charge interest. です。イスラム教は人にお金を貸して利子を取ることが禁じられているので銀行はないと聞きましたが、中世のキリスト教徒も利子を取ることを禁じられていたのですね。まだまだ、キリスト教の思想が残っていたのでしょう。この本の中では、ですからJewが人々にお金を貸しています。だから、Jewが代々金持ちになったのかあ?



もうひとつは、Philipです。フィリップは敬虔なクリスチャンでPriorにまでなります。彼は何の野心もなく、ただ神に仕えます。反対にWaleran BigodBishopという地位にありながら自分の私利私欲のためにいろいろな策略をめぐらし、もっと高い位置に登りつめようとしますし、また豪華な服装、住まいなどを求めます。



対して、フィリップは「善」そのもの。すべては神のため。物事がうまくいかなくともそれは「神のご意思」、うまくいっても「神の思し召し」。自分の地位とか自分の利益のために何かをしようという考えは全然ないのです。が、その考えが人々を巻き込み人々を不幸にしていくのです。というのは、「神」を人々に押し付けるから。自分がそれを良いことと信じて疑わないから。彼の心は純粋だけど、それがイコール「良いこと」とは成り得ない。人々の生きる目的は「人それぞれ別」だからですよね。わたしの「生きていく」ひとつのポリシーは「人に影響を与えない」と言う事です。いかに自分が良いことと思っていても、それが他の人にとって「良いか悪いか」は謎です。フィリップの場合は彼が「純粋」であるが故にそのことを「理解し得ない」という不幸です。











最終的には、全てが収まるところに収まって、メデタシめでたしと言うところです。悪い奴は全部死んだり、遠くに追いやられたりしてキングスブリッジの町に再び平和が訪れました。メインの登場人物たちは自分たちの夢をかなえ、その子供たちは自分のやりたい道(夢)を突き進み始めました。



お話はいろいろな要素が含まれていますが―――例えば、王家の陰謀、教会の腐敗、ペスト、階級差別あるいは男女差別―――ちょっと盛り込みすぎと言う感が。その一つ一つで一冊の本が書けそうです。つまり、具だくさんで味が薄い感じ。



その中で男女差別について、



その時代の(14世紀のイギリス)男女差別について全然文句を言うつもりはありませんが、その時代の女主人公が今と同じことで悩んでいる(小説だということは重々承知の上です。)とはね。著者も何故このことをメインのストーリーとして取り上げたのかが少々疑問です。つまり、この話にはいろいろなカップルが現れて、それぞれがそれぞれの道を歩んでいく道程が描かれているのですが、一貫して登場するメインのカップルの女性の方が、「なぜ女は結婚して夫の言う事をきき、子供を育てるために自分のやりたいことを我慢しなければいけないのか」という疑問で結婚に踏み切れずにいます。



男の方Merthin は二人が愛し合っていることは確かなのになぜ結婚できないのかと恋人Carisに迫ります。Carisは医者になりたいのですがその時代は男の人しか医者になれません。薬にも携われません。彼女は町の薬剤師Mattieに薬草の知識を教授されますが、そのMattieに魔女の嫌疑がかかり(薬草を扱って人の病気を治していたが故に)出奔してしまいます。Carisはやりたいことはあるのに「女である」ことで望みが叶えられません。



MerthinCarisに何がしたいのかとききます。Carisは「わからない」と答えます。では、「やりたいことがわからない=無い」のに、何故結婚できないのかとMerthinは彼女に迫ります。



そして彼の夢はイギリスに世界で一番高い塔(カセドラルの)を建てること。Carisは自分のやりたいことがないなら、彼と結婚して彼の夢を支えなければいけないのか。Carisは彼と結婚しても屈辱的に夫の言うことだけを聞く事にはならない――とはわかっています。彼は他の男と違うと。でも、再三再四の彼のプロポーズにも「イエス」と言えません。Merthinは一生彼女の愛人として過ごす訳にはいかないと彼女に伝えます。最後通牒です。結婚できないなら他の人と結婚して子供をもうけると言います。



Carisが結婚してもいいなと思うと何か事件が勃発すると言ったような感じで、この関係が続いていきます。Merthinは奸計に乗せられて他の女の人と結婚しますが、ふたりの愛情は変わりません。



わたしが言いたいことは、



男の人は、どんなに「いい人」でも「女が結婚できない」と言う事を理解できない。男にとっては「結婚=人生」ではない。女にとっては、「結婚=人生」にするしかない。つまり、子供を産み育てなければいけないから。男は自分に夢、やることがなくともお気楽に暮らしていくことができる。女は自分に人生の目的がないなら何故結婚して子供を育てないのかと言われる。



それならば、



何故、女は結婚して子供を産んでも、社会に貢献したと認識されず「生涯の保証を確保できないのか」?人類のサバイバルに貢献したのだから他の「偉大な」仕事を成し遂げたと同様に、その権利はあると思う。これはある意味反フェミニズム思想ではあるが。



で、ひいては男女問わず「人はただこの世に生きているだけで社会に貢献している。」――と、わたしは主張したい。





また、この本を読んでいると「作家は神である」と言う言葉を実感します。作中人物が作者の思惑で操り人形の如く翻弄されていきます。読んでいるこちらとしては、読み進むうちにワクワクドキドキするもののフラストレーションが溜まります。「まだ、引っ張るんかよ~~~」とか「も~お、チャンとみんな幸せにしてあげてよ」とか。とにかく、ワクワク、ドキドキしながらこの長いお話を読み切ることができました。最後の方はもう「根性、根性」という感じでしたが(英語だからです)。



蛇足ながらいろいろな小説を英語で読むと、その小説のジャンルにより学べる単語が違いますよね。今回は、十二世紀前半のイギリスの物語なのでキリスト教関係の言葉をいろいろ知りました。「キリスト教はね~~~、」とか議論する時に役立ちます。私は主に法廷ものとかサスペンス物を英語で読んでいるので、犯罪に関する単語はたくさんファイルできていますよ。英会話教室で最近のニュースとかを話し合う時に「お役立ち」です。でもほんとうに好きな本は、もっとシュールな幻想的な本なのです。ここで学ぶ単語は実生活にはホントに役に立ちませんですネ。





この本には、World Without End という続編もあります。










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2017年7月7日金曜日

昨日の新聞記事

『透明のマウス がん転移見えた』   東大教授ら治療効果の確認に道


マウスの体を透明化する技術を使って、がんが転移する様子を細胞レベルで観察することに成功したーーそうな。

2014年、脂質や血液の色素を取り除く試薬を使い、マウスを透明化することに成功したーーそうな。

今回は試薬を改良し、マウスを透明化することに成功したーーそうな。

赤く光るように操作した腎がんの細胞をマウスの腎臓に移植して透明化したところ、肺や肝臓に転移した様子を特殊な顕微鏡で観察できたーーそうな。

この技術を使えば、抗がん剤治療の効果を確認したり、がんが転移する仕組みを解明することにつながるーーそうな。

上田教授は、「がんだけでなく、再生治療や自己免疫疾患など、未発達の治療法や仕組みが未解明の病気にも貢献できる。」と話しているーーそうな。










また、新たなる技術を人類は手に入れて、人類は「幸せ」になるのでしょうか。もちろん、新技術は多くの人を救うでしょう。が、人類はその意味を理解して使用しているのでしょうか。

今日の新聞では、佐伯啓思名誉教授が、

「こうした先端技術は、こちらに人間という確たる『主体』があって、それが『客体』としての対象に働きかけるという近代の合理的科学の前提を大きく逸脱してしまった。」

と述べています。

つまり、今までの技術は、自然を管理するとか社会を便利にするというところで進歩していったが、今は、人間自身がこれらの技術の中に取り込まれていくという事。その結果を検証することなしに、事は進んで行くのです。

「その答えを近代社会は準備できていない。」との佐伯氏の弁です。










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2017年7月1日土曜日

香港返還20年

香港が返還されたときは、非常によく記憶している。

また、沖縄が返還された時も。
沖縄が返還されたときは、沖縄の道路の交通が、右から左に変わって非常に混乱した。また、「沖縄独立論」もあり、

若かったわたしは(たぶん20歳。ベトナム戦争終結と混同しているかも。)、この際、独立してしまった方が良いのではないかと思っていた。が、経済的問題などいろいろな課題があったのであろう。---沖縄は独立しなかった。

香港返還の時は、もう若くはなかった。

何故、よく覚えているかというと、

その翌日に英会話クラスがあったのだが、前夜、ベロベロに飲みすぎて、二日酔い状態。先生が、テキストを読めと言ったが、何かしゃべると吐きそうな感じ。それで、正直に、「話すと吐きそうだ。」と言うと、
「なぜ?」と。

で、

「香港返還を祝って、一晩中飲んでいたからです。」と。

先生は、イギリス人だったから。先生は、わたしをパスしてくれた。

もちろん、嘘である。






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