2013年8月31日土曜日

ニュージーランド滞在PHOTOS

つづきです。

フィチアンガのビーチ。








フィチアンガから船で対岸に。そこのビーチです。人影はまばら。まるで、プライベートビーチのようですよ・・・。








オークランドに移ってから、フェリーに乗って、島めぐりをしました。そこのカフェです。







その島から見たオークランドのタワーです。






タワーにも行きました。タワーから見える風景。
オークランドの港です。こんな大都市で、すぐ近くにこんな港が見えるとは、・・・素晴らしい!




同じく、港。





タワーから見える街並み。中央に見えるのは、チョコレート工場。今は、ショッピングモールになっていますが、リノベート中でした。ほとんどのお店がクローズ。
今後、行かれる方は、新しいショッピングモールを見る事が出来るでしょう。たぶん。







タワーのガラスの床からの写真。中央のヘリポート・マーク(赤いところ)のようなものは、このタワーから飛び降りる、なんだっけ、バンジージャンプの目的地マークです。観光客は大枚を払って「わざわざ」ジャンプするのです。わたしはこのタワー滞在中、2回ほど見ました。ジャンプする人を。






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やっとニュージーランドの旅のphotoをUP・・・

今年2月にニュージーランドに行ったのですが、その時の写真を整理せず、今に至ります。昨晩、やっとPCに取り込みました。それで、早速このタイトルのバックに入れてみました。ピンクの靴はわたしの足です。


ニュージーランドには、4週間ほど滞在。3週間はフィチアンガという田舎町(しかし、リゾートエリア)に、あと5日間くらいはオークランドに。フィチアンガでは、英語スクールに通ったのですが、目的は「海」。2月はちょうど良い季節かと思っていましたが、もう秋に入る頃・・・ということで、海で泳ぐのには少し涼しかったです。でも、泳ぎましたよ~~~。朝晩は涼しく、日中は太陽が燦々と輝いている時は、真夏のようでした。

その時のお話は、以前にUPしましたので今回はPHOTOを。

フィチアンガで宿泊したのは、ユニバーサル・ヴィレッジという学校の寮みたいなロッジ。でも、その学校の生徒以外の人も泊まっていました。伝説の日本人女性Jさんなど・・・。





この建物は、ロッジの一部です。もうひとつ、メインの2階建ての建物があります。多分10部屋ほどあると思います。もう一つありました。違う棟で、3部屋ありました。一部屋は、現地の方が住んでいて、ひとつは、ロッジのオーナーの娘夫妻が居住、もうひとつは、同じ学校に通っていた日本人の男性。この男性は、テレビ番組の制作およびカメラマンで活躍している人でした。見た事のあるドキュメンタリーのお話をしていましたので、「活躍」している人でしょう。最初にロッジに着いたとき、47歳の金髪の日本人がいるとうわさになっていました。(この話もUP済み)。



ちょっと、続けて写真をUPする方法がわからないので、出直します。つづきはまた。。。










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2013年8月30日金曜日

デザイナーベビー


今週の宿題(プレゼン)は少々難題です。以下のお題から一つ選んで反対か賛成か意見を開陳しなければいけません。

 

experiments on animals    /   euthanasia     /    military service

choosing the sex of your child   /   cloning   /   working from home 

the legalization of soft drugs     /    body piercing    /   banning hand guns

 

 

難題というのは、全然関心がないからです。敢えて言うなら、choosing the sex of your child  cloning でしょうか。他の課題は、「好きにすれば」という感じ。選んだ二つの問題も真剣に考えているわけではなく、ただ興味があります。

 

子供の「性」を生み分けることとクローニングは自然の営みの法則に反します。その他の問題は、安楽死のことは少々脇に置いて、自然の営みの法則に関係なく、人間の制度の問題としてどうなのか、というもの。自然の営みに逆らうと言うことは、その分、過重の責任が人類に課せられるということです。

 

「子供の性を生み分ける」は、デザイナーベビーの問題と言えますが、今、その倫理的問題でアメリカなどでも、「クローン」以上に懸念されています。つまり、クローンと違い、誰にでも手が届きそうな事柄だからです。

 

デザイナーベビーの前段階に試験管ベビーがあります。これが最初の自然の法則に逆らって、人類が子孫を作った例ではないでしょうか。はじめは、採取した精子を子宮内に入れるものでしたが、その後、活性の高い精子を選り分け、卵子と受精させてそれを子宮に戻すと言うように進化してきました。その後は、その精子の選り分け方が高度化し、デザイナーベビーの誕生と進んで行きます。最初の人工授精は、日本では1949年に初めて成功しました。現在では、年間約一万人の新生児が人工授精技術によって生まれているとされます(2012年、新生児約103万人)。体外受精は1978年に英国で成功、1983年日本で成功となっています。体外受精児が誕生してから、年々増加し、現在では、65人に1人が、体外受精によって、命を授かっているようです。何か前の数字と計算が合わないようですが、まあ、そんなところです。

 

 

わたしはこの事に関して、倫理的問題を追及するものではありません。それが自然の営みに逆らうことだから問題なのです。人類はあるいは生物は、この地球でこの法則に則り進化してきました。人類はこの法則に従って生き続けてきたのです。だから、誰も自分が死ぬことに対して文句を言わない。あるいは、言えない。それは、運命なのです。それが、この法則を壊すことによって、人類いは自分の運命に文句を言うようになる。なぜ子供ができないのか。なぜ、病気になってしまったのか。なぜ死ななければいけないのか。このような思いに、誰が全ての人に対して対処できるのでしょうか。全責任を負いきれるのでしょうか。現在の未熟な社会を見れば、そこで誰かは希望を叶えられ、誰かは叶えられないと言う、差別の構造が現れるのは必然です。

 

また、何についても一気に完全な技術を手に入れることはできないのだから、その進歩の過程においても未熟な技術の犠牲になる人が現れるであろうし、無責任な実験行為も行われるでしょう。実際、何年か前に「人工授精で生まれた子供に生殖能力があることが確認できた」と言う報道がありました。言いかえれば、人工授精を推し進めてきた人たちは、不完全な人間ができるかもしれないと言う可能性を無視して、この技術を進めてきたということです。

 

人類が責任を負いきれない技術の発現ということは、なにか原子力問題にも似て不気味な気がします。

 

あるいは人類は、自らの手で全てのものを支配しようと試みているのかもしれない。食べ物を改良する事、養殖する事、治水などなど自然の力を制御しようとすることを筆頭に、自ら自身をもということ。つまり、自らの生殖や生や死の問題をも。クローニングがその最終結論ではないでしょうか。それで、人類は自分の生や死を自然の営みに邪魔されることなく、コントロールすることが可能になります。ある人々はこれを第三の人類あるいは人類の第三世代と呼んでいます。これで宇宙ステーションにでも住めば、すべてを、自分の生死さえも、「人工」で手に入れることができる、最高の人類孤高の世界の出来上がりと言えるでしょう。

 

 




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2013年8月28日水曜日

メゲる・・・・・・・。


毎週金曜日に囲碁講座に通っている。棋院の。2時間のコースで、前半は詰碁とか手筋などの解説、後半は十人程度の生徒が先生を囲んで対戦となる。先生一人に生徒十人ということ。

 

この対戦でいつもメゲて、2~3日は立ち直れない。対戦と言っても、時間に制限があるので、いつも勝敗が付くところまではいかない。なので、負けたからメゲルということではない。

 

何故かな~~~。

 

ひとつは、権威主義的場所に慣れないと言うことかな~~~。と言って、そこがガチガチの権威の塊の場所ではないのですけれど。生徒も先生も親切で良い人たちだ。しかし、先生と生徒という一本の筋は通っている。

 

これはもうわたし自身の問題と言うしかない。つまり、全共闘世代とは言わないが(間に合わなかったので、そのあとの世代です)、大学ではまだ学生運動の余韻は在った。青春時代に「権威」に対抗して過ごしてきたのだ。権威に屈服することはできない・・・なんて、囲碁で大袈裟だけど、ついつい先生に立ち向かって行ってしまうのよ。

 

もうひとつは、十数年英会話クラスに通っていること。日本及び海外。英語の先生と生徒の関係は、日本における「おけいごと」の先生と生徒の関係と大いに違っている。多分それに慣れてしまったのね。ずけずけと何でも言っていいのだ。わたしの中から、先生の言うことを立てると言う感覚がなくなってしまったのね。(おとなでこれなので、幼い時から英語を学ぶのはどうかな。これは別のお話ですが)。

 

「権威に対抗する+先生に何でも言ってしまう」・・・これが、囲碁クラスで災いを招く。

 

先回の事、わたしがへまな手を打ったので、先生が困った顔をした。その顔を見て、わたしは、「ああ、また下手な手を打ってしまったんだ。」と思って、「ケラケラ」と思わず笑ってしまった。自分が情けなかったからだ。で、先生に「笑いごとではありませんよ。」と。大いに窘められた。

 

それから、時間が来て最後に、一人ずつ対局について先生の講評があるのだが、わたしが「この辺で切ろうとしたんですが、だめでしたね。」と言うと、先生が、「あなたは切ろうとしていたんですか。」と仰った。まるで、十年早い!といった様子。・・・メゲタ。

 

 

家に帰ってビールを飲んだ。飲んでいるうちに、「えい、どうにでもなれ」と、ウィスキーを飲んだ。それで、土・日は一日中ふさぎ込む破目になったのである。飲みすぎの・・・欝状態だ。

 

次回は頑張るゾっ!
 

 




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2013年8月25日日曜日

ユーグレナ



実は、次回の英会話クラスのプレゼンの「お題」が『日本人が発明した一番重要なもの』です。わたしは、「えっ、日本人の発明・・・。日本人はリノベーションは得意だけど、どうも、イノベーションはね~~~。」と言ったんです。しかし、考えてみれば、近年、驚くばかりの発明が日本人の手で成し遂げられています。それもニッチでとてもユニークな研究ばかり。わたしは、それで、「ミドリムシ」のことについて述べようと計画しています。
 
 

ミドリムシは、ほんとうは「虫」ではなく学名ユーグレナという微生物の一種です。葉緑素を持ち光合成をするので植物の仲間と思われていましたが、鞭毛運動で動き回ることができる原生動物でした。体長0.05mmながらアミノ酸やビタミンなど59種類の栄養素を持ち、食べ物としてのバランスが良いそうです。ミドリムシのサプリメント自体は以前から存在していましたが、今回の発明は、ミドリムシを大量培養する技術です。ミドリムシは他の生物に食べられやすい微生物なので大量には育てにくかったのです。

 

この技術を開発したのは東大出身者によるベンチャー企業「ユーグレナ」です。会社を起こした原点は社長である出雲充(33)がバングラディッシュに訪れた経験にあります。彼は、飢えに苦しむ子供たちを目の当たりにし、世界の飢餓を解決する仕事をしたいと思い、帰国後、文系から農学部に転向したのでした。そこで、ミドリムシの存在を農学部での友人である鈴木健吾さんから教えられました。鈴木氏は培養技術を確立した立役者で、この会社の研究開発部長として出雲氏をサポートしています。出雲と鈴木が2005年に立ち上げた会社は、今、従業員36人、2012年9月期の売上高約16億円の企業に成長し、2012年、東証マザーズにも上場しました。

 

東京では、「みどりラーメン」なるものを食べることができるそうです。ミドリムシ6億匹の粉末がスープに溶け込んでいます。その他にもお菓子や飲み物を味わえるお店も都内にできたとか。また、JR渋谷駅そばのジュースバーで、ミドリムシの粉末入り飲み物が提供されています。

 

このような食料としてばかりでなく、藻の研究はエネルギー問題からも世界的に注目を集めています。藻からバイオエタノールを作りだし、車や飛行機を動かす計画です。出雲氏は近い将来飛行機の燃料としてユーグレナオイルを供給すると宣言しています(2015年か2020年でしたが忘れました)。その他、世界の大企業(英国の石油会社BP、米国のエクソンモビール、三井物産など)も、新たな資源として研究を進め実用化する為に技術を競い合っています。

 

 

2013年5月、国連食糧農業機関(FAO)が昆虫食を推奨しましたが、昆虫よりミドリムシの方が優雅だと思いませんか。思わないか。

 

 

その他、今、わたしが注目している「日本の発明」はたくさんあります。例えば、紙を木に戻す技術、ガラスより強い透明な紙、人工光合成の技術、光量子ビットの量子テレポーテーション(量子コンピュータにつながる)、人工血管を絹で編む技術などなど。長生きすれば、これから先いろいろ面白い事がありそうですよ。

 





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2013年8月24日土曜日

中途半端なUPですが・・・


思うに、日本の文化の特徴のひとつは、「公」と「民」の異常な隔たりである。日本の「官」は伝統を重んじるばかりのうちに膠着化している。それに引きかえ民間は、猥雑でなんでもありのPOPな状態。古代から明治・大正・昭和初期にかけて、公は漢文を尊び、民間は和文を利用する。そんなところにも、官が自らの立場に権威付けをする意思がみえる。

 

江戸時代の絵画、「官」で登用された狩野派と庶民の浮世絵にもこのことは見て取れる。また、現在の絵画で言うと、「~~~会」という権威ある集団。茶道や華道、その他諸々の「~~~道」のお家元制度。そして、庶民のコミック、コスプレ、オタク文化の隆盛。これらの庶民の文化は、昔から日本人にとっては芸術ではなく、日常の楽しみであった。それを「芸術だ」と指摘したのが、いつも西洋の人々であったことは興味深い。

 

と言って、わたしは日本人が日本の文化を正当に判断できないと言っているのではない。日本には別の価値基準があるのではないかと思うのである。「文化」とは、西洋から入って来た造語である。世の中は、西洋のエンライトメント運動と第二次産業革命以来、西洋の価値基準がまるで世界の(グローバルな)基準の如く、基準を一本化していっている。今、徐々に西洋で学んだ第三世界の学者の間からその矛盾点が指摘されつつある。

 

 

 

さて、こんなことを書き始めてしまいましたが、わたしが書きたいことはそんな芸術の事ではなく、日本の発明についてです。つまり、日本の発明についても同じような事が言えるのではないかと思うのです。「公」の技術革新の膠着化ではなく、民間の研究者はほんとに荒唐無稽の研究に日々取り組んでおります。1991年にアメリカでイグノーベル賞が選出され始めて以来、日本人が毎年のように受賞の栄誉を受けているように。

 

実は、次回の英会話クラスのプレゼンの「お題」なのです。『日本人が発明した一番重要なもの』。わたしは、それで、「ミドリムシ」のことについて述べようと計画しています。

 

 

次回につづく・・・

 






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2013年8月21日水曜日

読書会――もどき

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実はもうひとつ英語の講座を受けています。といっても、こちらは月一回で、講座とも言えません。生徒が三人集まれば、講座を開いてくれるところがあります。先生と場所を提供してくれて、アレンジもしてくれるものです。

 

わたしは前回も書きましたように、英語への情熱は薄れています。というか、満足いくクラスが存在しないと言うことですか。それで、読書会みたいなものを英語で持てたらいいな~~~と。英会話仲間に持ちかけたところ、三人集まりました。で、開催と言う運びとなりました。三人が順番に好きな本を選んで、10ページ程度の、それぞれ家で読んで来て、集まった時に意見を言い合うと言う形式となりました。

 

しかし、三人の思惑はそれぞれ違います。わたしは、ほんとに読書会を持ちたいと。つまり、英語で小説を読んで感想やら批評やらを英語で語り合いたい。もう一人の人は、Fさん、わたしの意見には賛同してくれましたが、どうも選ぶ本が子供向きのもの。とても、善良な精神の持主なのです。邪悪なわたしは、その本性を出していいものかどうかと悩みます。後の一人は、Uさん、彼女は、英語で何かを語りたいだけ。だから内容はどうでもいいけど、具体的に取っ付きやすく話すネタが散りばめられているのが良さそう。例えば、前回彼女が選んだのは、マイケル・J・フォックスの自伝的エッセイです。彼の不治の病にもメゲズ、前向きに立ち向かい、俳優業を充実させて行く精神はとても称賛できます・・・が、「それで、どうなの。」と、わたしは思ってしまう訳です。

 

次回はFさんが選んだ、まるで修身の(表現が古いね~~~、道徳か?)本から持ってきたような話。なんだか、子供の時に読んだような気もします。

 

イタリアの話のようです。多分19世紀半ばの。貧しい家族で、もちろん善良な、お父さんは働き者。子供は多い。いくら働いても貧乏から抜け出せません。それで、生業(レールマン)のほかにも、いろいろ仕事をしています。そのひとつが、宅配の荷物の住所をかくもの。

 

子供たちの中の一人は、「当然」賢く秀でています。父親自慢の「息子」です。彼は、父親が疲れているのになお働かなくてはいけないことをかわいそうに思います。そして、申し訳ないとも。息子が父親のその宛名書きの副業を手伝おうとしますが、父親はそれを許しません。「お前は優秀な子なのだから勉学に励みなさい。一生懸命勉強し、いい仕事に就いて家族を助けるのだよ」と。

 

それでも息子は、父親に隠れて夜中に宛名書きをします。どういう訳か父親は気付きません。しかし、幼い子なので、わからないが10歳くらい、夜中の仕事のため学校で寝てしまいます。先生から責められ、父親からも責められる。「どうしたんだいお前。見損なったよ。もうお前はわたしの優秀な息子ではない」と。息子は、父親からもう自分の息子ではないと言われ、絶望の淵に陥ります。そして、ある日、疲労のため真っ青になって気を失います。それで、お母さんが気付きます。父親は、悪かった、誤解していたと、「お前はやはりわたしの息子だ」と許しを乞います。息子も「内緒にしていてごめんなさい」と許しを乞います。

 

という、ハッピーエンド。どうですか。

 

 

19世紀の話なので仕方がないとは言えますが、第一に、家族の中で一番優秀な子が家族全員の面倒をみると言うのはどんなもんでしょうかね。こんな表現です。

……all the hopes of your family rest on you.

 

これを読んでいて、『コンゴジャーニー』を思い出してしまいました。幻のコンゴ恐竜をThe Marxist-Leninist People’s Republic of Congo Lake Teleに探しに行く旅行記のようなものです。イギリス人とアメリカ人のコンビの学者の珍道中。その中で、賄賂を強要するコンゴの役人たちに嫌気がさしていると、コンゴ大学の教授が、「彼等は、家族全員を養わなければいけないんだ。家族って言っても、兄弟の嫁の両親や兄弟姉妹、そして、叔父や叔母までもだよ。知らない間に家に居着いてしまうんだ。ある日家に帰ったら、また人数が増えているんだ。それに、今の仕事が永久に続くとは限らない。政権が代わればまた一文なしさ」と嘆きます。そんな感じです。

 

これに関連して、もうひとつ思うことは「不満が外に向かわない」と言うことです。貧しいことがすべて、自己責任となっていること。これは、言うまでもなく道徳的な話であり、美談です。ある意味、感動します。しかし、結局は、貧困を貧困のままにしておく体制側になんの打撃も与えない。それ以上に、体制は、善良な行為を利用して、自らの「悪」に蓋をしているのです。我々は、この話を通して「悪」の思惑を認知することはできない。

 

なぜ、父親は死ぬほど働いても貧乏なのか。そして、少年は父親を助けると言う「善」に向き合うばかりで、世の中の矛盾に気付くことは決してない、ということです。

 

 

2013年8月20日火曜日

英会話教室からの・・・「わび・さび」について

週一回、英会話教室に通っています。もう英語を勉強する意思は薄れましたが、今ある英語力はキープして行きたいと思っているのです。

アドバンストクラスに入れました。しかし結構無理やりです。マルタで最終的にアドバンストクラスになりましたが、話す方の実力は上級クラスに付いて行っていません。日本でクラス分テストを受けるとたいていアッパーインターメディエットになります。しかし、この両方のクラスの差は段違い。

そこで、今回はアッパーインターメディエットになったら、入学するのはやめようと思っていました。それをなんだかスタッフは察知したらしく、テストをした先生に「アドバンストではだめか」と聞いてくれたのです。先生は、「まあ、大丈夫でしょう」ということで、つまりは無理やりです。


クラスは三人です。そのうちの一人は、以前その学校に通っていた時の(半年だけです)アッパーインターメディエットのクラスメートでした。彼女は「ひとりしゃべり過ぎるので、クラスを追い出された」と言っています。「キックト・アウトされちゃったのよ」って。もうひとりのご婦人は、半年ほど前にこちらに引越しをして来たらしく、友達がいないので友達づくりに教室に来たと言っています。「彼女が、追い出されて、上級クラスを作らなくちゃいけなかったので、わたしが上級クラスに追いやられたんだ」と。つまり、その二人のクラスにわたしが割り込んだと言うこと。

このお二人は歴とした英語上級者。わたしは、そこででたらめな英語を使いつつ、訳のわからないことを発言しております。 前回のクラスは、日本と他の国の慣習の違いをプレゼンするもの。引越してきた彼女は、まあAさんということで、日本のホスピタリティについて語りました。

旅館の客を受け入れるホスピタリティとか、茶道で人を迎え入れる作法、つまりホスピタリティです。そこで、先生が、茶道は日本独自のものなのか、それとも中国文化の影響を受けているのかと聞きます。

「何言っているんだい、先生。茶道は日本の文化で間違いないじゃないか。」とばかり三人で反論。

わたしは以前鈴木大拙著の「Zen Buddhism」を読んだことがあります。彼は、禅と日本の文化の関連性などもその本の中で触れていました。禅と墨絵とか俳句とか茶道・・・。それを思い出し、これらの共通点は「わび、さび、しぶみ」ということだと書いてあったのを思い出しました。だから、先生、「わび・さび」は日本独自の感性なので決して中国から来たものではありません、と。

しかし、わび・さびをどのように英語で言うのか。鈴木大拙はほとんど英語で本を書いているので、その本を読んだわたしは知っているはずなのですが・・・。必死に思い出したのは、「わび」とは貧困の一形態だと書いてあったと言うこと。それを言ってみたら、そのAさんが、見事に英語にしてくれました。そして、先生も納得。「understated」と。

でもなんだか少し違うとも感じ家に帰って、その本を見直しました。 鈴木大拙は、「わび・さび・しぶみ」を同じような意味ととらえています。それで、特に「さび」について述べています(何故だかはわからない)。彼は英語では、「さび」をeternal loneliness と書いていました。その他、彼の著作を彼の弟子が日本語に訳しているものがあるのですが、それでは「わび」を「貧困の美しいかたち」と表現していました。

こんなところです。前にこの「ZEN BUDDHISM」を読んだ時は、訳がわからなかったのですが、少しは英語が上達したらしく、少々理解できるようになっておりました。もう一度読み直してみようか

な~~~、という今日この頃です。 にほんブログ村 その他日記ブログ ひとりごとへ
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なんだか改行がうまくいきません。

2013年8月17日土曜日

ごあいさつ・・・

ただブログを移しただけですが、新しくブログを開設した感じなので、投稿しなければと思うのですが、今、新しい趣味にハマってしまって。

囲碁です。

パソコンを立ち上げると、心とは裏腹に、囲碁ゲームのサイトをクリックしてしまいます。 「一回だけだから」などと言いつつ。

書きたいことはいろいろあります。

「世の中の不条理と小説について」

「~~道」(茶道、剣道、柔道なんか)と日本人の「オタク志向」について

「iPS」では、人間の器官を他の動物の体内で生産する実験が始まりますね。

また、量子コンピュータの実現性が見えてきたとか。

でも。今一番は、いかに囲碁で勝つかです。 実は、「5級を獲得」と今年の目標を立てました。それで、(囲碁は初心者なので自分がどんな程度か全然わかりません)、NHKの囲碁講座の雑誌の紙上「級・段」査定のコーナーに応募してみました。自分が何級か知りたかったからです。

で、

驚く事に、2級を頂きました。実際にはこんな実力ではございません。コンピュータとの対戦では、せいぜい13級。でも、ありがたいことに認定状も戴きましたので、今年の目標は達成と・・・、シマシタ。

あとは、今年中に免状の2級の実力に近づく努力あるのみ。

以上、近況でした。



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2013年8月15日木曜日

移ってきました・・・

閉鎖されるブログから移動しました。前とのつながりがおかしいと思いますが、ご勘弁ください。

よろしくお願いします~~~。

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2013年8月13日火曜日

暇にまかせて鰯を喰う



朝日新聞の「CM天気図」、天野祐吉さんが書いています。今日のテーマは『でも、デモがある』。



作家の小田実さんが、政治家の中川一郎氏に「民主主義とはどういうものであるか」と言ったら、「選挙である」と答えたとか。選挙は民主主義のひとつであるけど「デモ」もあると言ったら、笑われてと。



ここで、天野さんは「広告」の方に話を持って行って、「選挙演説が政治家の側からの一種の広告なら、デモは国民の側からの一種の広告と言ってもいいだろう」と書いています。今回自民党が大勝したが、もし政策に賛同できなければ、国民はデモで意思表示することができる。「デモは選挙と並ぶ民主主義の大切な表現行為であろう。」と。



わたしが興味を持ったのは、締め括りの言葉。



「ひどい政策だけじゃなく、ひどいCMにもみんなでデモをしたらおもしろいと思うけれど、そんなヒマはないか、でも。」





つまり、ヒトはなんで「ヒマがなくなっちゃったんだろう」と思うのです。『ピダハン』というアマゾン流域に住む部族は、狩猟採集生活をしています。未だに。わたしたちは「狩猟採集生活」と聞くと、さぞかし大変な生活だろうと思うが、実際は全然そんなことはないらしいです。もちろん、彼等は、アマゾン河という豊穣な食料源を持っていることもありますが、一日の労働時間は3~4時間くらいらしい。あとは、ブラブラしているか、仲間でじゃれ合っているくらいのもの。



そう言えば、草食動物は一日中草を食んでいなければ必要なエネルギーを得られないが、肉食獣は、獲物を捕食したらあとはブラブラ過ごしている。その「ブラブラ」は、人類にとって、どこに行ってしまったのだろうか。どのあたりで取り零しちゃったんだろうか。もちろん進化のために「せっせ」と働いていることはわかるが、「民主主義のデモ」ができないくらいにどうして働く。。。。。





最近『タタール人の砂漠』という小説を読んだ。国境の砦に派遣された将校のお話。その砦は、実はとても辺境な地で軍にとっても重要な場所ではない。とても敵など攻めてこないような場所なのです。その任地に赴いた兵士は、すぐに配転を願い出る。しかし、その地に「嵌まって」しまう兵士がいる。彼等は、いつ来襲するともわからない伝説の「タタール人」を夢見ているのだ。当然のことながら、誰も攻めてこない。日々を無為に過ごすだけ。その間に、彼の家族や友人たちは、街で優雅な日々を送り、出世もし、子供もでき、孫もできる。



この主人公の将校も「嵌まって」しまった一人。ここから出るチャンスはあった。でもその瞬間に「いやここに居る」と決心する。人生、ここで夢を追って無為に過ごすのと街で楽しく過ごすのと、どんな違いがあるのか。彼は、最後の瞬間に「潔くかっこよく」死ぬという(気持ち的に。行動ではなく。)幸福感を手に入れることができる。





つまり、わたしが感じたことは、人は何をして過ごしたって同じこと。どの人生が、最高だとか最低だとかは誰にも言うことはできない。進化を求めて一生懸命働く人も、毎日、ただ食べて寝て過ごす人も、結果は同じ「死」だ。それならば、「かっこ良く死ぬ」ために、自分のためにヒマな時間を取り戻そうよ。「ウナギ」を食べるために必死に働くより、鰯をかじって、ブラブラするよ、わたしは。



あなたは、・・・、どっちも欲しいってか。





雑草刈り・・・



母が雑草を刈らなくてはいけないと言う。今まで頼んでいた造園業者は、大きな会社に吸収されて、個人の家にはもう来れないと。



で、どうしようかと。



そんなこと言われたって知らないよ。今まで、親の庭のことにはノータッチだったし、わたしの庭は全然ないし。



母は、わたしが頼りにならないと思ったか、東京に住む兄に電話した。



兄からのわたしへのメール。

「そんなこと言われたって、知らないよ。」



でも、シルバー人材センターに電話しろと、番号が書き添えてあった。彼らは、半分はボランティアだから、時給800円位じゃないのと。



え~~~、そんな、わたしたちが、ボランティアを利用していいの。ボランティアを必要としている人たちが利用すべきではないの。

あるいは、

シルバー人材センターを利用することが、我々のボランティアなの???停年退職をした人たちに仕事を提供するといったことか。



よくわからないが、何かそんな考えになじめず、ネットで業者を探してみる。2~3電話をしてみて、よさそうな対応の所に見積もりだけしてもらうことにした。



昨日やって来た。



若い感じ。でも30代かな~~~。見積もりをしてもらったが、少々高かった。彼は、「今日決めなくても良いですよ、考えが決まってから電話していただければ。」と言う。

わたしも。

「そうですね~~~。」などと口を濁す。



で、もう帰るだろうと思うと、帰る気配がない。「うっ、これは、今決めろと言う意味?」と思う。しかたなく、彼のおしゃべりに付き合っていると、



へ~~~、そうではなさそう。彼は、ただ植物が好きで、家の庭を鑑賞しているだけのよう。



それで、わたしの常々の疑問、

「なぜ、雑草を抜かなければいけないのか。雑草と観賞用植物とはどこが違うのか。雑草は人に有害なのか。」という質問をぶつけてみた。



彼は、雑草はどういう影響を与えるのかと言う説明をしてくれた。そして、「それは、人間にとって害があると言うことにすぎないんですけどね」っと。「草にとっても、そこに棲む虫にとってもなんの問題もないことなんですけどね。」っと。





ふ~~~ん、そうか、



シルバー人材センターに仕事を頼んで、彼らの生活を援助することも必要かもしれないが、こんな若い世代の仕事を支えるのも有益ではないのかな~~~。少々高くてもね。



と言う訳で、とりあえず今回は彼に頼むことに決めた。







あこがれのウッドデッキ

わたしが家の改装を思い立ったのは、「もうあとがない」と思ったからです。実は、適当な時期が来たら、老人介護のレジデンスに入って気楽に生きようと思っていたのです。



が、



未だ、両親が健在。彼らをおいて自分だけ、老人マンションに入れない。ならば、ここに住むしかない。



というわけで、なるべく居心地の良い場所にしようと考えた訳です。



まだ、ちょっと訳がわからないと思います。つまり、わたしは両親の家の隣に居を構えていた訳です。それで、今でもすぐ出ていこうと考えていたので、住処に対する思い入れもなく、いつでも出ていこうという態勢。





で、今、ここに居直った訳です。



デッキとサンルームを造って、外とのふれあいのルートが浮かび上がってきました。日本家屋で言うと「縁側」ですか・・。ちょっと、ツッカケを穿いて、トットッと外に出かけていけるわけです。つまり、ありきたりな表現で言うと、自然とのふれあいです。



「自然とのふれあい」



それは、一言では言えないほど、たいへんなことです。会社勤めをしている方がよほど楽と言えるでしょう。自然は、日々、侵入してきます。ブランドニューのデッキ上にも、松の木が、気がつかないうちに、松脂を垂らしています。虫がすでに行きかっています。鳥も空を飛んでフンを落としていきます。



人類は、自然を征服した・・・感を醸し出していますが、大きな間違いです。近年の自然の猛威あるいは復讐・・・、はすさまじい。いろんなところで、トルネード、モンスーン、もちろん地震、津波、ゲリラ豪雨など、人類が征服したはずの自然の脅威に曝されている所です。



むかし読んだSF小説の、自然が日常に侵入してくる恐怖を、いま体感しています。ちょっと気を許したら、自然はずうずうしく、毎日、1センチほど、我々の世界に乗り出してくるのです。



我が家の、綺麗な体裁を保ちたいなら、わたしは、日々、自然と闘い、彼らの領域に彼らを押し戻し続けなければいけないのです。





「夏への扉」・・・そんな本ありましたね。

めちゃ暑い日が続いています。そんなところに、エアコンが故障するという事態が・・・。もう地獄の日々でしたが、ようやく明日エアコンが届きます。



今朝は夕べ降った雨のおかげか、「ほんの少々」暑さもが薄らぎました。そして、朝、うだる様なセミの声で目覚めました。セミが一斉にはい出してきたようです。いよいよ本格的夏の登場です。



実は、家の改装をはじめ、デッキとサンルームを増設しました。夏にサンルームは「?」ですが、部屋と「外」とのつながりの快適な空間となりました。デッキにキャンプ用のテーブルをおいてリゾート気分。



これが、海辺ならいいのにな~~~、と思いつつ、もう海外旅行しなくてもいいかも、なんて、一人、悦に入っています。



新しい夏の始まりです。





ケープタウン篇



『英語と旅する』連載中



ケープタウン篇





 一日だけ奇跡のような日があった。リスニングの練習で天気予報のテープ(この頃はテープだったと思う)を聞いている時、全くわからなかったが、どういう訳か一カ所だけ完璧にわかったのだ。キャスターが、いろいろな地方の天気予報を順次報告するその一つの地方の天気予報だ。先生が順番に生徒に質問をする。「この地方の天気予報はどうでしたか」と。それで、わたしは心の中で「お願いだから、わたしが聞きとれた地方をわたしに当ててください」と祈るばかりだった。



「はい、ナオコ。この地方の天気は。」と、それが奇跡的に、ピッタリわたしの聞きとれた地方。

「はい。今日は一日中お天気ですが、東よりの風が強く寒い一日になるでしょう。低気圧が近づいてきており、明日は曇り後雨になる模様・・・・。」

先生が、「パーフェクト!」と。ほかの生徒も「オオーッ」ということになり、その時だけ、わたしはクラスのヒロインだった。





 一週目は、午後のクラスはなかったので、学校が企画しているツアーに行ってみることにした。わたしが行きたい所をリスト・アップした中にテーブルマウンテンがあったが、ちょうどそのツアーを学校が提供していたのだ。テーブルマウンテンは山頂がテーブルのように平らなところから付いた名前だ。ケープタウンの街はこの山麓からはじまっているので、街のどこからでもこのテーブルマウンテンを見ることができる。



学校が企画したツアーと言っても、ただ、生徒を集め山まで連れて行って、また帰りも宿泊しているところに送ってくれるという簡単なもの。山頂まではケーブルカーで登るのだが、それも個人的にチケットを買って乗る。このツアーに生徒が三四人参加したと記憶しているが、その中に日本人を見つけて驚いた。はじめての日本人だった。お互い数少ない日本人に遭遇したので、景色もそこそこに日本語で話し始めた。



彼女の名前は光江さん。二十代半ばの若い女性だった。九か月このケープタウンに滞在して英語を勉強すると言っていた。わたしより二三週間前に来たらしく、学校生活は先輩だ。どうして学校で見かけなかったのだろうかと不思議だったが、たぶんわたしが緊張していて、まわりを見る余裕などなかったのだろう。不思議なことに、彼女に会った後には、彼女を学校で見かけるようになった。



わたしはもうこの歳でもあるし、仕事に英語を活かすとか仕事のために英語が必要とか言う切羽詰まったものではないが、彼女にとってはこの九カ月が勝負のようだった。何がなんでも英語をマスターすると。そのために、学校が終わってから英語を話すメイトを持っている。アフリカ人だと言っていた。「だけど、アフリカ人って、馴れ馴れしいのよ。すぐ触ってくる。」と。別段悪意があるわけではなさそうだが、わたしもそんな経験をした。わたしが学校の休み時間にラウンジに坐っていると、必ず近づいてくる男の子がいる。カメルーンの一九歳の男の子だ。なんだかんだと、わたしの肩をさわったり、はめている指輪をさわったりする。一九九八年はワールドカップの年で、フランスで開催されていた。カメルーンの彼は、学校が終わったらフランスに行って、カメルーンを応援するのだと言っていた。いっしょに来ないかと。こんなおばさんに何を言っているんだと思ったが、まあ、悪い気はしなかった。あとで、光江さんは「アフリカ人はやめて、中国人の男の子とメイトになった」と話していた。「中国人は礼儀正しくて、さわってこないから安心」と。





光江さんがこの学校にはもうひとり日本人がいると教えてくれたが、彼女はプライベートコースを取っているので、なかなか会えない。金曜日に学校のパーティがあって、ようやく彼女と会うことができた。見かけは極普通の日本人のお嬢さんという感じ。しかし、話していると、一年間くらい、そこら中を旅しているとわかった。この学校も旅の途中で見つけて入ったので、プライベートコースを取っているという。



海外の学校に行くと、こんな様な人によく会う。実際、同じクラスのスイス人の男性もそうだった。聞いた話では、パン屋さんの社長で、といってもパンのチェーン店のようなものと思うが、旅を続けてもう一年は家に帰っていないという。「社長さんは、いいわね。働かなくてもいいから。」と同じスイス人の女性の感想。その彼女にしたって3カ月のホリデイを楽しんでいる最中らしかった。こんなことも日本にいるだけでは決して知ることができないことだなあと思う。





つづく・・・

最初の一週間の学校生活



『英語と旅する』の続きです。





��一週目の学校生活は…>



学校の授業は大変だった。ひとつは、自分のルーツを述べる時のこと。ヨーロッパの人たちは、たいてい、「父は何人、母は何人」とか、祖父は祖母は・・・、という話になる。また、何時の頃イタリアにやって来たとか、何時の頃ドイツにやって来たとかいう話に。しかし、わたしはただ一言「日本」でおしまい。「父は日本人、母は日本人、日本に住んでいる」、だけだ。一度、父は名古屋、母は京都と言ってみたが、スイス人の女性に「それがどうした」というような顔をされて、メゲタ。



 もうひとつは、ロールプレーゲームをしたこと。生徒は二人ずつ組んで、ひとりはホテルの受付、ひとりは客になる。客が部屋の文句を言い部屋を換えてくれるように言う、受付係はその文句を受け付けないで済ませるようにするという設定だった。わたしはドイツ人の男性と組まされたが、普段から文句など言ったことがないので何を言ったらいいのかわからない。先生が見るに見かねて「駐車場が側にあるのでうるさいから部屋を換えてほしい。」と言ったらどうかと助言してくれた。そうは言ったものの、「他に空いている部屋はないから、換えられない。」と言われると、次の言葉が出てこない。わたしはすぐに降参。「わかりました。このままでいいです。」と言うと、相手のドイツ人は、「では、夕食にステーキをサービス致しましょう。」と言った。後々も、このようなヨーロッパ男性のやさしさに恐れ入るとともに、ヨーロッパ女性の上から目線の態度に辟易した。





 二日目、あまりにもクラスのレベルが高いので、自分のクラスが何クラスなのか壁に貼ってあるクラス分けの表で確認した。インターメディエットクラスだった。日本でのクラスより一段階上のクラス。クラスが終わってから先生を捕まえて、クラスを換えてくれるように交渉しようかと思い悩む。



 先生に話があると言うと、「どうかしたのか」と心配そうにして、わたしを促して窓のそばのベンチに座らせる。



「皆の会話に付いていけないので、クラスを換えてもらいたい。」と言うと、

「授業の内容がわからないの。」

「いえ、テキストの問題はわかります。解けます。」

「わたしの言う事をどのくらい理解していますか。」

「70%は理解していると思いますが。」

「70%も理解していれば十分よ。実際、本当に理解している人は、あのクラスに一人しかいない。他の生徒は、わかっているふりをしているだけ。それから、あの人たちはペラペラしゃべっているけれど、ほとんど間違った英語を話しているのよ。自信を持てば大丈夫。それとも、ほんとうに下のクラスに行きたいですか。」と聞いた。

わたしは、先生が大丈夫と言うなら大丈夫かもしれないと自分に言いきかせた。せっかく上のクラスに入れてもらえたのだから、わざわざ下のクラスに行く必要もないかと考え直したのだ。「頑張ってみます」と答えた。それからも、授業がタフだったのに変わりはないが、先生に相談したことで、少しは気も楽になった。







つづく・・・





学校一日目に学んだこと

『英語と旅する』のつづきです。





「初日に学んだこと・・・」





 この日に学んだこと。90分と90分の授業の間に休み時間がある。2階(イギリスでは1階)にはラウンジがあり、その周りに教室がある構造。そのラウンジには、ポットが置いてあり、インスタントコーヒーやティー・バッグ、砂糖、パウダーのミルクなどが備え付けられている。生徒は自由に何を飲んでもよい。そこで、アフリカ系の人たちがパウダーのミルクをお湯に溶いて飲んでいるのを見かけた。なぜだろうと不思議に思った。そうだ彼等はイスラム教徒なのだと気づく。つまり、コーヒーとか紅茶とかカフェインが含まれているものは飲んではいけないのだ。その後、生徒たちの集まりでも、彼等はアルコール類をいっさい口にしないのが見て取れた。



 また、キム(キンバリー)先生はアパルトヘイトについても話していた。黒人の子供たちがたくさん死んでいると。なぜ死ぬかわかるかと。それは、水がないから。そして窓ガラスがないから。みんな、窓ガラスのない寒い部屋で、雨水を飲んで生きているのだと。おかあさんたちも、暖かいミルクや食べ物を子供たちに食べさせることができない。ただ、水と暖かい部屋があれば助かる命があると。しかしまた逆にこんなことも言っていた。通りを歩くと、ストリート・チルドレンたちがよって来て、「何かくれ」と言うだろう。でも、何もあげてはいけない。「ひとりに何かをあげたら、次の日、もっとたくさんの子供たちに取り囲まれることになるよ」という事だ。





 学校からの帰りのバスは、要領がわかったので、簡単に乗ることができた。どこで降りたらいいかも心配だったが、三日間、近くの大通りを行ったり来たりしていたので、難なく降りられた。ただ、行きは二三の人と一緒に降りたから、ただ付いて降りただけだったが、帰りは降りる人がわたしだけ。なんて言ったらいいのだろうかと思い悩んだ。思い切って、

「I’d like to get off here.」と言ったら、

「Stop! Driver!と言え。」と言われて、

「そうかあ」とそれからはそう言うことにした。しかし、何か付けた方が良いだろうと考えて、PleaseとかThank youをつけ加えることにした。



 この話を日本に帰ってから友達に言うと、

「・・・それで降りるときは『ストップ、ドライバー』と言うのよ。」

「えっ、なに!それでいいの?失礼じゃないの?」

「だって、ドライバーがそう言えと言ったんだよ。」

「ふ~ん」

という感じだ。



つまり、わたしたちはそう言うことに躊躇してしまう。「日本語は原始的だ」と言ったイアンに聞いてもらいたい。なんと礼儀正しい日本人たちかと。こんな小さなところにも文化のすれ違いがあるのかと思う。その後も他の学校で、本屋さんで自分の探している本が見つからない時、「申し訳ありませんが、・・・(はどこにあるか案内して下さい。)と英語で言いたい」と先生に質問した日本人の生徒に、先生は「そんなこと言う必要はありません。どうしてもと言うのなら、Pleaseと付けておけば十分です。」と答えたものである。





つづく・・・





クラス分けとなりました・・・

『英語と旅する』のつづき・・・、



ケープタウンの学校の話の続編です。





 わたしのインタビューの番が来た。ケープタウンに着いてからもう3日間も経っていたので、少し落ち着いた気軽な気分だった。最初は、「どこから来たのか」とか「名前は」などの簡単な質問。わたしが名前を告げると、イングリッシュ・ネームはないのかと言う。そんなことを聞かれたのは初めてだったので、「What?」、と叫んでしまった。彼女は、「いいのよ。いいのよ。」と、なだめる様子。その時は、「何を聞いているのか。」と怒りにも似た感情を抱いたが、あとで中国人などの名前は発音ができないので、彼等はイングリッシュ・ネームを持っているのだとわかった。しかし、この時はなにか傷つけられたような気がしたのだ。その後も「わたしは、イングリッシュ・ネームは持っていない。」とはっきり主張している。



 その後の質問は、ところどころ詰まったところもあったが、概ね良かったと思う。また、生徒たちは、同じ部屋に集められた。今度は先生が一人一人の名前を呼び、その呼ばれたグループが教室から連れられて行く。クラス分けのレベルの低いクラスから呼ばれているらしい。わたしの名前はなかなか出てこない。あと二三人というところで、名前が呼ばれた。わたしは、いったいどんなクラスになってしまったのだろうかと、とても心配だった。





 この時名前を呼ばれたのはわたし一人だけで、ひとり教室に連れられていった。教室には七人くらいの生徒が坐っていた。わたしを連れてきた人は、学校のスタッフらしく、わたしは先生に引き渡された。空いている席を示されて、わたしはこのクラスの一員となる。はじめはお定まりの自己紹介。それによると、スイス人が3人、アフリカ人が1人(スイマセン。アフリカの国名を知らなくて。中央アフリカのフランス語が公用語の国です。)、イタリア人が1人、ドイツ人が1人、そして日本人のわたし。ここまでは、意気揚々とわたしも英語を話していたが、ここでビックリ、ヨーロッパの人たちは本当にペラペラと饒舌に英語をしゃべっている。その光景に驚いて、わたしはいつもの人見知り性格に逆戻りしてしまった。ちょっと、出鼻を挫かれた。



 先生は若い女性。自分のことを「カラード」と言っていたので、カラードとはここでは差別用語ではないのだと思う。名前はキンバリーで、南アフリカの有名な「金山」と同じだ、と自己紹介した。彼女は、「自分はいろいろな人種の血が混ざっている、中国人の血も入っている」と言ったが、見た目は褐色のアフリカ人という感じだった。とても情熱的な人で、日本の英会話学校の先生とは全く違っていた。後々、いろいろな海外の学校で学ぶうちに、なぜ海外の学校の先生は「ちゃんと先生」なのかという理由がわかってきたが、この時は「なんて素敵な先生なんだろう」と単純に感激した。





 午前中の授業は三時間。しかし、90分授業が二枠だ。日本人ではない生徒との90分の授業はとてもタフだった。なにしろ日本語がまるっきり通じないのだから。さてこの調子で午後からの授業はどうなるのだろうと思っていると、午後の授業のクラスにわたしの名前がない。あわてて、スタッフに問い正す。わたしは午後の授業を取っていないことになっているとのこと。「えっ、そんなはずはない。」と主張したが、通るわけがなく、「午後から英会話の授業を取ったらどうか」と提案される。一週間で50US$とのこと。その頃一ドルがいくらだったかは覚えていないが、130円、140円?とにかく安いなあと思って飛びついた。今週はあと3日しかないからと、来週からということになる。

 



つづく・・・、



『英語と旅する』・・・やっと学校に行きますよ!



英語と旅する…の続きです。





��いよいよ学校へ>



いよいよ今日から学校だ。学校へはバスに乗って行かなければいけない。アイリスの説明では埒が明かず、バスがどんなものかがわからないので少々不安だった。覚悟を決めて、とりあえずバスが通るという大通りに出る。それらしいバンに手を振ってみたが、運転手は「ノー、ノー」と言うように手を振って通り過ぎていった。間違えたようだ。次に見たバンはどうかなとは思ったが、前のドライバーが「ノー」と言った顔がチラつきちょっと躊躇していると、向こうから止まってくれた。バスがわたしを見つけてくれたのだ。そうか、アイリスが言うように簡単なことだったのかもしれない。彼等もたくさんのお客さんを乗せたいのだから、道に立っていれば止まってくれるのかもしれないと思いながら、バスに乗り込む。



バスと言っても立って歩ける大型のものではない。ベンチのような椅子が並んでおり、屈んで歩いて、あいている場所に坐る。4列位の細いベンチが取り付けてあった。わたしの後ろに坐っていたおばさんがわたしの肩をたたく。何かと思って振り向くと、小銭を突きだした。反射的に受け取ってしまったが、なんのことかわからない。その小銭を握りしめてどうしたものかと考えていたら、周囲の冷たい視線を感じた。辺りを見回すと、みんな怒っている様子。その内の一人が、その小銭を運転手の方へパスしろというようなゼスチャーをした。それで納得した。みんなはわたしがその小銭をネコババすると思ったらしい。わたしは、あわてて自分の運賃を加えて前の人にパスした。のっけからのタフな経験だった。



次は降りる場所が心配だったが、これは思ったより簡単にいった。窓からあたりの景色に目を凝らしていたら、空港からの運転手が学校を案内してくれた道筋で見た建物を見つけたのだ。それから、会社員風の若い女性たちが二三人降りる素振りを見せたので、ここが街のセンターなのだろうと思い、みんなの後に続いて降りた。



通りに降り立ち、ママから買った地図を見ながら学校を探し始める。この建物だと思ったが、建物に出入り口が見当たらない。前から男性が歩いてきたので、聞いてみることにした。パッリッと糊のきいた白いシャツを着こなした、細身の若い黒人だった。緊張して、恐る恐る聞いたが、相手も緊張している様子なのに気がついた。そうか、わたしはここでは稀有な存在だったのだ。日本人の女性が一人で通りをフラフラ歩いているなんて。名古屋の街で外国人を見るのは珍しいが、ここではわたしが珍しい外国人なのだと気がついた。そういうことかと、妙に納得した。



建物の入口は反対側にあっただけで、その建物はわたしの探している学校だった。やっと学校に到着する。第三の洗礼は、一階はグランドフロアで一階ではないという事。ここはイギリス領だったのだ。二階が一階なのには混乱する。その後も、このことはいつも混乱の種だった。先生が「一階で待っていてください。」と言うと、「一階」に行ってしまうのだ。つまり、教室は「二階」にあった。



一階に上がって行くと、新入生だけが集められた。学校はどこでも月曜日に新入生がやって来て、金曜日に去って行く。だから、今週の新入生ということだ。ペーパーテストとインタビューがあるので、しばらく待っていてくださいと告げられた。集められた部屋には十数人の生徒がいた。大体はヨーロッパ系の人だったが、二三はアフリカ系の人々。英語がオフィシャル言語ではないアフリカの国の人々だ。アジア系はわたしだけだった。



もうひとつここで学んだことは、バッグを教室に置いたままにしてはいけないということ。集められた教室でペーパーテストが行われたが、そのあとのインタビューは、一人ずつ呼ばれて違う部屋で行われた。先生は、「バッグを教室に残さないで必ず持ってくるように。」と言った。気軽にどこにでもバッグを置いて、その場を離れてしまう日本人の習慣はここでは通用しないのかと思う。その後、それは「どこでも」通用しないことだったとわかったのだが。





つづく・・・





ウォーターフロント・・・ケープタウン

『英語と旅する』のつづきです。





次の日の月曜日、予期していなかった休日が一日増えた。前日、ママがこの祝日には、マンデラ大統領がケープタウンで演説すると言っていた。わたしも行けるのと聞くと、

「もちろん広場でするから、誰でも行ける。でも、スリには気を付けた方がいい。それに、そんなアクセサリーを身につけていてはいけない。危険よ。」と言う。



わたしは職業柄シルバーのリングとかネックレスを身につけているが、そんな派手なものではなく高価なものでもない。宝石は付いていない、シンプルなシルバーだけのアクセサリーだ。マンデラ大統領には興味はあるが、ママが危険と言うならば町に近づくかないでおこうと決めた。



事前にガイドブックを調べて、行きたい場所のリスト・アップはしていた。まだここに来たばかりなので、一番簡単に行けそうな場所に行ってみることにする。ウォーター・フロントだ。ガイドブックによると、大きなショッピングモールのようなものがあるらしい。娘のアイリスに会ったので、どうやっていけばいいのかを尋ねた。



「ウォーター・フロントにはどうやって行けばいいの。」

「バスに乗って行けばいいよ。」

「バス停はどこにあるの。」

「バス停はないから、通りに出てバスが来たら手を振ればいい。」

「どんなバスなの。」

「小さなバンみたいなものよ。」

「それは、どこで見分けがつくの。」

「とにかく、なんでも手を振ればいいのよ。」

「???」

そんな会話が続いて、結局バスはあきらめた。ガイドブックによると、歩いていけそうな距離だったので、その日は歩いて行くことにした。





お天気の事を言い忘れていた。帰国後、アフリカだからということで、「暑かったでしょう」とみんなは言ったが、南アフリカ共和国は日本と同じ温帯モンスーン気候。ここに来たのは5月の中旬だったが、南半球は冬。でも、ケープタウンは年中18度くらいの穏やかな気候だとガイドブックは言っていた。実際、涼しいという感じ。つまり、ウォーター・フロントといっても、真夏のビーチを想像してはいけない。秋の潮風が吹く湾岸という感じだ。



ウォーター・フロントなので、海岸沿いの道を歩いて行けば着けると思い、とにかく海の方へ足を向ける。海岸沿いは公園のように整備され、道も立派な遊歩道だった。ジョギングをしたり、スケートボードを楽しんでいる人たちを見かける。乳母車を押している若いカップルや小さな子供たちが飼い犬と戯れている姿も見えた。ちょっと涼しかったがお天気は良く、道のりは楽しかった。しかしウォーター・フロントまで、結局40分ほど歩いた。



道は海岸線より少々高いところに位置していたので、ウォーター・フロントらしき所に着いた時、下の方に大きな倉庫のような建物がふたつあるのが見えた。そこがショッピングモールだった。ひとつが、一般的な食料品売り場、いわゆるスーパーマーケット。それから、さまざまなお店が並んだモール。もうひとつが、アーティスト・ヴィレッジのようにいろいろなアーティストたちのワークショップが並んでいるところだった。今日一日ではとても回りきれないと思ったので、今回はワークショップをパスして、後日またゆっくり見に来ようと計画する。





中に入ると、想像したより一段と大きかった。一階は、広い、広い食料品マーケットとフードコートのような小さな食べ物屋さんがたくさん並んでいる広場。それから、小さな子供たちが遊べるような遊戯具が並んだ広場があった。そして、2階はブティックなどのお店。先ずは、フードコートで食事をすることにした。海外に行き始めた頃は、もう何をするにもドキドキだった。このような小さなお店の場合は、メニューなどなく、たいていボードに手書きで書かれている。だから、食べたいものを食べるのではなく、とりあえず読めたものを注文する。

それから、カウンターで注文するファスト・フードなどは、先ずは、あたりの様子や人々の注文する様子を観察することから始める。



今回は、メキシカン・フードのようなお店を選択。列に並んで自分の番を待つ。少々込んでいたのでプレシャーを感じつつも、順番が来た。「シーフード・トルティーヤ」と注文を言う。無事、通じたようで目の前で、おばさんが調理を始めた。出てきたものは、なんだか「?」と言うもの。そうしたら、後ろに並んでいたおばさんが、「それは、シーフード・トルティーヤか」と言った。それで、わたしも勢いづいて「シーフード・トルティーヤ?」と聞いてみた。「そうだ」との答え。わたしは振り向いて、うしろのおばさんと目を合わせ「しょうがないね~」と目で合図をかわした。確かにシーフードだったが、トルティーヤではなく、ビチャビチャのピラフみたいなものだった。しかし、全部食べた。



それから、いろいろなお店を覗いてみる。特に変わったアイテムはないが、デザインや色調などがいかにもアフリカという感じで目を引く。しばらくブラブラしていると小さなガラス瓶をずらりと並べたお店があった。何かなと思う。中国の漢方薬のお店のような雰囲気で、どうもアフリカ土着の「漢方」を売っているらしい。つまり、ハーブかな。でも、蛇とか何かの小動物のようなものもガラス瓶の中に入っていた。レイ・ブラッドベリーの短編小説のようだなあと思った。



次に見たお店には、大きな甕が置いてあり、その中に一杯の石が詰まっていた。ピンククリスタルやオニキスやムーンライト等など。高貴な石ではないが、本物の石。「1Kg、・・・ランド」という札が立っていた。幾らかは忘れたが、たぶん五百円くらいだったと思う。それで、どうやって買うのかなと思い、店員さんに聞こうとすると、彼女たちはおしゃべりに興じていてわたしの方を見てもくれない。ここで、空港に続いて、第二の洗礼を受けた。つまり、店員さんは日本と違って、客に関心がないということ。「お客様」におかまいなしだ。しかしその時は、「わたしの英語の発音が悪いのか」とか、「日本人だからかなあ」と、ネガティブな感情を抱いた。甕のそばで、お弁当を食べている黒人の男性がいたので、「どういう風に買ったらいいの」と聞いてみた。彼は、話しかけられて、ちょっとビックリしたようだったが、「そこのビニール袋に好きなだけ入れてレジに行けばいいよ。」と教えてくれた。「ありがとう」とお礼を言って、袋に良さそうな石を入れてみる。袋に半分くらい入れたが、1Kgはなかったようで、レジに行くと三百円くらいで買えた。これでいろいろなシルバーアクセサリーができそうだと思い、とても満足、満足。



食料品売り場に行って、晩御飯を買って帰ろうかと思ったが、また歩いて帰るのかと考えると、美味しそうなものはいっぱいあったが、あまりたくさんは買えない。念のためアルコール売り場もチェックした。やはりホリデイだ、棚はチェーンと鍵でがんじがらめだった。出口付近の野菜売り場で、「Daikon, Chinese Radish」というサイン・コピーを見つけた。「大根は日本語だよ」と思って、売場の人にそう言ってみた。普段ならそんなことは言うはずもなく、ちょっと海外旅行という冒険をして、気分がウキウキしていたのだろう。売り場の人は、不審そうにわたしを見つめたが、わたしは、にっこり笑ってその場をあとにした。これからまた40分歩くのかと思うと憂鬱だったが、家までの道を引き返した。





つづく



やっとワインをGET



いったん家に帰って、買ったものを冷蔵庫に入れた。「ママ、冷蔵庫にいれさせてもらいますよ。」と口の中でぼそぼそと言いながら。いくらホストファミリーの家と言っても、他人の冷蔵庫を勝手に開けることに何か悪い気がしたからだ。それからスーパーで買った調理済みのサンドイッチとジュースを飲んで昼食はおしまいとする。問題なのはビール。もう一度言う、わたしにとってはビールは必需品なのだ。もう一度近所の探検に出かけた。スーパーがある大きな通りへ再び戻った。この通りの両側には、ママが教えてくれたイタリアンのレストランや日本料理のお店が並んでいた。マクドナルドやバーガーキングではないが、ハンバーガーのファスト・フードの店も二三あった。



今度はスーパーとは反対の方向に歩いてみる。小さなお店がたくさん立ち並んでいるが、やはりアルコール類は売っていなさそうだった。するとそこで、セブンイレブンを見つけた。久しぶりに知っているお店を見つけたので何か幸せな気分になり、とりあえず中に入ってみる。売っているものは日本とは少々違っていた。ローカルな食品だ。それから、その後行ったどの国とも同様に、コンビニは日本のように煌々と明るくはなかった。このことも今回初めて知ったことだ。たまに、「お休みかな」と思ってしまうほどの所もある。



陳列棚をのぞいていると、「ワォツ」・・・アルコール類が棚に並んでいた。覆いもなくチェーンとか鍵も付いていない。ビールはなかったが、ワインがあった。「オオ、さすがアメリカ」と (この時、セブンイレブンはアメリカの資本) 訳のわからないことをつぶやきながら、ワインを買う。ワインは、日本に比べてとても安い。マルタでは日常的に飲むようなワインが、一本280円くらいで買えた。ここも、それくらいだったと思うが、値段は覚えていない。



ウキウキしながら、来た道を引き返すと、ケンタッキー・フライドチキンの看板が目に入った。またまた見慣れた風景だったので、誘われてフライドチキンを買う。ワインとは合わないが、気にしない、気にしない。今日の夕食はワインとフライドチキンで決まりだ。





家に帰ると、ママがいた。

「日本レストランに行った。」と聞く。彼女はその後もわたしの顔を見ると、なぜか同じ質問をする。他の国でも、ホスト・ママはたいてい「日本レストランに行ったか」と聞くとわかった。

「いえ、行ってないけど、フライドチキンとワインを買いました。」

「それは良かったわね。」

ということで、ワインオープナーを借りて、食事をする。「最高の」一日だった。





つづく・・・



日曜日・・・ケープタウンの続きです。



��日曜日>





朝起きると、誰もいない。娘のアイリスはまだ寝ているようだった。ホスト・ママはホテルの仕事に行ったらしい。地図を見せてもらう約束をしていたので、ホテルに向かう事にする。ホテルまでの道筋は教えてもらっていた。朝ごはんを食べてから出かけることにする。しかし、何を食べるかが問題。インスタントコーヒーは見つかった。食パンらしきものを見つけたが、トースターが見当たらない。仕方がないので、電子レンジで温めてそのまま食べる。そして、ホテルへ。



彼女のホテルは、歩いて10分ほどだった。大きめのシティホテルといった感じで、なかなかよさそうなホテル。さて、このホテルのどこにママがいるのかと思っていると、彼女の方からわたしを見つけてくれた。彼女は、ホテルのホールにある「お土産物屋さん」の店員だったのだ。ということは、地図はホテルの備え付けの地図ではなく、ショップで売っている地図ということなのか。

予想通りだった。彼女は慎重に売り物の地図をパッケージから取り出し、地図を広げて説明し始めた。しかし、あまりに地図を傷つけないように振舞うので、何が何だか訳がわからない。



「わかりました。その地図を買いますから印を付けてください。」

「えっ、ほんとうに買うの。」

「買います。」

彼女は、代金を受け取ってから、地図にめいっぱい印を付け始めた。彼女に文句を言うつもりはない。その後もその地図は大いに役だったから。他の生徒も「いい地図持っているね。どこで買ったの。」と羨ましそうに言ったものだ。とにかく、これで学校へは辿り着けそうな気がした。



地図を手に入れて、いったん家に帰った。これからどうしようかと思う。自分で食事を確保しなければいけないので、先ずは何か買いに行った方がいいかと決断した。教えてもらった近くのスーパーへ再び行く。スーパーの規模は大きく、日本でも大手のスーパー並みの品ぞろえだった。あるいは、物によってはそれ以上。それが、チーズ、ハム、腸詰ソーセージ。その種類の豊富さにはもう感激。その後、わたしの海外でのスーパーの買い物は、こんな調子になったのである。つまり、どの国でも似たようなものばかり買って食べていたということ。あとは、野菜・果物が必要。りんごは日本のものより小さくて、まるかじりには最適。その後の海外生活でも、学校から家に帰ると「りんごをまるかじりしてビールを飲む」というのが習性となった。他にわたしの選んだ野菜は、主にきゅうり、ピーマン。両方とも日本のものより大きめである。キュウリは歯ごたえがあって、キュウリ特有のにおいも「ほんものの」野菜という気がした。日本で買うキュウリに匂いはない。ピーマンは肉厚で、煮るととても美味しかった。またいろいろなソース類も豊富にある。トマト系、クリーム系。それぞれにたくさんの種類が揃っている。スープの素も豊富。ただ気がかりな事は「体にやさしいの?」、という事。つまり、濃厚で美味しすぎて「体に悪そう」な感じだったからだ。





つづく・・・



ケープタウン、ホームスティ始まる



��家に帰る>





とぼとぼとスーパーから家に帰り着くと、なにやら見知らぬ若い女性がいた。誰なんだろうと思うと、

「娘が突然イギリスから帰ってきた。イギリスの学校に行っていたんだけどね。大丈夫、娘はわたしと同じ部屋に寝るから。」とママが説明した。

娘は、要るものがあるから部屋に入ってもいいかと言った。それで、わたしの部屋を見渡すと、確かに若い女の子の部屋の雰囲気。彼女は部屋にあるものは何でも使っていいと言ってくれた。CDプレーヤーとかそんな類のものだ。「えッ、どうするの。彼女の部屋を占拠しちゃっていいの。」と思ったけれど、ホームステイの契約もあるし、特に問題はなさそうなので、そのまま居座ることにした。ホスト・ママも「わたしがいない時は、なんでも娘に聞いて。わたしより、良く知っているから。」と言った。



なんやかんやで、夕食の時間になったが、なんの音沙汰もない。ひょっとしたら日本より遅い時刻に夕食をとるのかもしれないと思い、とにかく7時になったら聞いてみようと決める。それでも、一向になんの気配もない。意を決して、ホスト・ママの部屋をノックする。

「すいません。晩御飯は何時でしょうか。」

「えっ、晩御飯?」

「そうですよ、ホームステイには、朝食と夕食が含まれていますよ。」

「そうだったわね、わかったわ。冷蔵庫の中のものは何を使ってもいいから自分で作るのはどう。その方が気楽でしょうから。とりあえず、今日は作るけど。」とビックリするような提案をした。

もちろん、「それって、どういう事」とは思ったが、わたしの人見知り、人付き合いの悪い性分が顔を出し、「そう言われればそうだ。ホストとしての役割を果たそうと思っていない人と、一緒に食事をしたって仕方がない。」と了解した。実は、人と会話する事が得意ではないのだ。ひとりで気楽に晩御飯を食べる方が嬉しい。それから、馴れない英語を使わなくても済むからと思った。会話が好きではないのに、なんで英「会話」はなんて学んでいるのだろうと、時々嫌になることがあるくらいだ。



彼女は、電子レンジや電気レンジの使い方、どのお水を飲めばいいか・・・などなどを説明して、冷蔵庫を開けて見せ、「なんでも使っていいわよ。」と言う。中を覗いたが、食べられるようなものは何も入っていなかった。彼女はその上「親切にも」レストランの場所なども教えてくれた。



ようやく、彼女が今日だけは料理すると言って作ってくれたスパゲッティのようなものにありついた。それを流し込むビールもなかったが。それからシャワーを浴びる。こうして日本を出発してからの長い、長い一日が終わったのであった。ベッドに入ったら、即、眠りに落ちた。明日は日曜日だ。



つづく・・・



つづきです。



��ケープタウンでの生活のはじまり>



彼女の家はヨーロッパ調のアパートメントだった。玄関ホールまでは、少し階段を登らなければならない。ホールはちょっとしたスペースがあり、ソファーが置かれていた。来客をもてなすことができる。他は、二つの寝室とキッチン、そしてバスルーム。どうも一人暮らしらしい。寝室のひとつに案内された。机とベッドがあり、八畳くらいの部屋。初めての経験なので、それが良い部屋なのか悪い部屋なのかはよくわからないが文句はなかった。



彼女の家に着いたのは4時くらい。それから、荷物をほどいて、お土産などを渡し、キッチンの使い方やシャワーの使い方などを教えてもらった。初めての経験なので聞きたいことは山ほどあったが、先ずは学校の場所。お迎えの運転手に案内はされたものの実際にはどこだかさっぱりわからない。学校までひとりで行かなければならないのだから、それが優先事項だ。

「ここに地図はないけど、ホテルで働いていて、そこにあるから明日いらっしゃい」と彼女が言った。

まだインターネットが普及していない時代だから仕方がない。とにかく場所は明日の話となる。



次の問題は、ビールだ。

「ビールはどこで買えますか。」と聞く。

「近くの大きな通りにスーパーマーケットがあるから、そこで買えるわよ。でも、土曜日と休日は、売ってないわよ。」

「どういう意味ですか。」

「お休みの日には、アルコール類を売ってはいけないのよ。でも、土曜日はスーパーなら売っているかもしれないから、行ってみれば。」

わたしは、「嘘でしょ。」と思ったが、とにかくスーパーの場所だけは心に留めた。



まだ夕食までに時間があったので、スーパーに行くことにした。夕食にはビールも必要・・・でしょう。ファミリーの家から、少し下り坂を下がって行くと、大きな通りに出る。あとでこの坂は上の方から順番にお金持ちの居住区となっているとわかったが、わたしのファミリーの家はだいたい中間地だった。スーパーは通りを右に曲がるとすぐ見えると聞いていた。その言葉通りすぐわかった。スーパーは大きかった。中に入って、ビールを求めて歩き回る。すると驚いた。アルコールの並んでいる棚だけ布で覆いがかけられ、その上にチェーンが張り巡らされている。所々に錠も見える。彼女の言ったことは、ほんとうだった。どうもそれには宗教的理由があるらしい。カソリックの国は、昔はどこでも休日にアルコール類は販売しなかったのだ。南アフリカ共和国は、未だにその規則を守っているということになる。



とにかく、ビールは手に入らなかった。しかし、わたしのビールに対する情熱は並みじゃない。まだ、何か手があるはずだと頑張る。外に出ると、スーパーの警備員らしき制服を着た人が立っているのが見えた。若くてやさしそうな女性だったので、「ちょっと、聞いてみようかな~~~」なんて言う気になって、

「こんにちは。どこか、ビールを売っているところをご存じないですか。」と尋ねてみた。

「そうねえ、今日は土曜日だからお店はどこもアルコール類は売ってないでしょうね。レストランに行ってみれば。」

「ああ、そうか、そういう手があったか」と感心する。しかし、ホームステイ契約には朝食と夕食が付いているので、「仕方がない。今日の所はビールをあきらめて家に帰らざるを得ない。」と断念。



つづく…





『英語と旅する』 南アフリカ篇



ケープタウンにて





わたしが南アフリカ共和国に行ったのは、ゴールデンウィークも終わった五月中旬のこと。空港に降り立ったのは、土曜日だった。日曜日にホームステイ先の近所を探検して、月曜日から学校が始まるというのがわたしの予定表だった。しかし、お迎えの運転手さんが、月曜日はナショナルホリデーで学校はお休みだと言う。ちゃんと調べておけばよかったが全然知らなかった。着いた途端に連休となった。

運転手さんとは、いろいろおしゃべりができた。わたしも英語で答えることができ、彼女は親切にも「英語、うまいね。」と言ってくれた。よかった。これで2週間、ここで学校に通う自信も出てきた。ホームステイ先に行く前に、学校の場所や近所を案内してくれると言う。学校の方へ向かったが、車中であるし、全然知らない道であるし、さっぱりわけがわからなかった。しかし、とにかく学校の付近に何があるかなどの目印を見つけるべく、少しでもいろんなことを覚えておこうと必死に頑張った。なんやかんやと、家を出てから二十四時間。ようやく宿泊先のファミリーの家に着く。ホスト・ママとの紹介が終わって、運転手の彼女と別れる時が来た。少し不安が横切ったが、なるようになるさと居直る。



「南アフリカ共和国ってどんな人たちがいるの」と、帰国後、よく尋ねられた。そんな時、こんな風に説明する。

「南アフリカは、ずっとアパルトヘイト政策を取っていたでしょ。1948年に人種差別的政策が法制化されて、1994年にやっとこの制度が撤廃されたの。だから、それは、わたしが行った1998年のほんの4年前のことなのよ。非白人、特に黒人が解放されて、黒人居住区から出ることが許されたのだけど、その頃彼等は都市まではまだまだ辿り着いていなかった。それから、アパルトヘイトが崩壊すると、支配者側の白人は逃げ出して、ケープタウンでは、あまり見掛けなかった。わたしは一人か二人、ほんとにビジネスマンといった風体の白人を見ただけ。背が高くて、いい体格で、上等そうなスーツを着たアングロサクソン。だから、ケープタウンには黒人もいないし、白人もいない。いるのは、カラードと呼ばれている混血の人たちとアフリカーンスと呼ばれているオランダ系の入植者の子孫。アフリカーンスは統治側のイギリス人に対して経済的弱者だったから、その緩和策としてアパルトヘイトの政策を取った訳。つまり、怒りの矛先を黒人に向けさせようということ。それが崩壊して、実際に都市で働いている人は、そういうオランダ系らしき人とカラードと言われている人達。都市に流れ着いた黒人もいるけれど、まだほとんどがホームレス、そしてストリート・チルドレンだけなの。」





そう言う訳で、ホストファミリーのママはオランダ系アフリカーンスだった。





つづく・・・



2.そしてわたしはケープタウンへ旅立つ

『英語と旅する』のつづきです。







「英語を学ぶのになぜ南アフリカか」というのが、帰国後、わたしに浴びせられる周りの言葉だ。わたしは英語がキライだ。だから海外旅行をしようなどと思ったことは、まったくない。わたしが大学を卒業する頃、卒業旅行に行くことが「走り」だった。中には、卒業旅行に出かけた友達もいたが、わたしは興味なし。そこで、この歳になって「海外に行こう」と思った時、「飛びきり変わったところへ行こう」と、一番に思ったのだ。



ケープタウンの学校は、通信教育の雑誌で見つけた。その頃インターネットは、まだまだわたしの手の届かぬとことにあった。滞在期間を二週間と決め、あとはすべて雑誌が紹介しているエージェント任せ。なにしろ初めての海外旅行、パスポートを取るところから始めなければならなかったので、自分で旅行をアレンジすることなど、その頃は頭にも浮かばなかった。



ケープタウンまでは、ほぼ二十四時間。名古屋から関空、そしてヨハネスブルグ、ケープタウンの道程だった。一番に驚いたのは、名古屋の家の最寄りの駅から地下鉄に乗ってヨハネスブルグの空港に降り立つまで、まったく外の空気を吸わなかったこと。地下鉄、近鉄、空港、そして飛行機に乗りヨハネスブルグまでずっと建物の中。一度も外に出ることはなかったのだ。そして初めてヨハネスブルグの満面の光の中に降り立って、アフリカの空気を一気に深呼吸をしたのだった。アフリカの光は強烈で、アフリカの空気はわたしの肺の中まで暖かく沁み渡った。はじめての海外の空気・・・、少々興奮を覚えた。そしてそこから国内線に乗り換えて一路最終地ケープタウンへ向う。



ここまではすべて順調な旅だった。ケープタウンへの国内線乗り換えも順調にこなせた。しかし、順調だったのは、あくまでもここまで。ケープタウンの空港に学校からわたしをピックアップする運転手が来ることになっていたが、それらしき人が全く見当たらない。お迎えらしい人々が、それぞれに名前を書いた紙をかざして、目あての人を探している。しかし、わたしの名前はなかった。連絡先の電話番号は持っていたが、どのように連絡したらいいのかわからない。仕方なく、その場を動かないでひたすら待つことにした。そうしている間にも、同じフライトで来た旅行者たちが、ひとり、ひとりと迎えに来た人たちと消えていく。「お迎えの人は時間通りに来るもの」と言う日本のルールは通用しないということを知る初めての洗礼だった。2時間くらい待って、もうほとんど泣きそうになった時、一人の女性がわたしの名前を書いた紙を持って近づいてきた。

「ごめんなさい。国際線空港で待っていた。国内線だったんだ。」と。

わたしは、怒るよりも何も、ただただピックアップしてくれる人が現れたということに安心して気が抜けて、引き攣った笑いを返すことしかできなかった。





つづく・・・



『わたしがケープタウンへ行ったわけ(理由)』

『英語と旅する』





��グランダム>





学校の配慮で、たまにマン・ツー・マンの機会が与えられる。どのような頻度になっているのかはわからない。ある日ジェイムスと一対一になった。ジェイムスは「昨日は何をしましたか」とか「趣味はなんですか」なんていう極めて一般的な質問をする。それで、「そんなつまらない質問しかできなのか。」と言ってしまった。他に生徒がいないし先生も先生なので、これくらい言っても良いだろうと思ったのだ。この時は、彼は素直に「テキスト通りだ」と答えた。それから彼との関係がほんの少しではあるが、改善されたような気がした。

この学校には、他にも変な先生達がいた。カナダ人とオーストラリア人の二十代前半の若い先生達は、たいていワーキング・ホリデーで日本に来ていた。つまり観光である。彼等には当然の如く先生としての自覚はない。ただ、日本で稼いで奨学金を早く返そうといったような目的だ。しかし若い女生徒は、彼等に「はしゃいで」いた。イギリス人とニュージーランド人の先生は、一癖も二癖もありそうな人物。わたしが言っているのはもちろんの事、一部の先生の事であり他には良い先生も普通の先生もいる。



そんな中でイアン先生、わたしのクラス分けテストをした先生だが、彼も変な先生の一人だった。彼はイギリス人ではなくスコットランド人であると言い張っている。ある日のクラスで、彼は「日本語は原始的な言語だ」と言った。わたしは自分の耳を疑ったが、他の生徒は無反応。

「そんなことはありません。日本語は洗練された言語です。」と、わたし。

それでも、他の生徒は無反応。イアンだけが、「怒っているのか」と尋ねた。もちろん怒っていたが、それ以上のことを英語で言う能力は、その時点では持ち合わせていなかった。



それからもう一人変なイギリス人がいた。生徒のうわさでは、「ちょっと皮肉れていて、根暗だ」ということ。彼の名前は忘れたが、ある日、「日本人は道徳心がない」と言う。彼は、ボランティアでホームレスの世話をしているらしい。つまり、「日本人はボランティア精神がない。なぜ、ホームレスのことを考えないのか」ということである。他の学校などでも、先生が日本人を評して「日本人は羊の群れ」と言うのは、度々聞いた。「自分の考えも持たず、いつも群れて、人の言いなりになっている」という意味らしい。彼等は日本のあるいは日本人のほんの一部分のことしか知らない。そのほんの少しの知識で、日本の総ての事を判断し、それが正しいと思っている。また、生徒たちは彼等の言い草を唯々諾々と聞いている。そしてわたしには、彼等に反論する英語力がない。そんな最悪の状態だった。



決定的な事件は、ジェイムスが「喧嘩したいなら、正しい英語を話せ。じゃないと、余計馬鹿にされるだけだ。」と言ったことだった。それで、アンガー(怒り)が、わたしの英語を学ぶモチベーションとなったのである。考えれば、昔からそうだった。嫌な先生の教科をより必死に勉強していたことを思い出す。嫌な先生の教科で良い成績を取る事、それがわたしの先生への抗議だった。





こうして「そうだ、海外で英語を学ぼう」となったのである。毎日、英語漬けなら何とかわたしの英語力も良くなるかもしれないという単純な発想だった。







次回、いよいよケープタウンに向かいます。



つづく・・・

グランダム

『英語と旅する』



第1章 南アフリカ・ケープタウン



��. グランダム (3)





受付に行くと、わたしの学生証と何かのリストをチェックして、「はい、5番教室です。」という。そういうシステムなんだと思いながら、5番教室に行く。生徒は6人ほどいた。マックス、一教室6人までと聞いていたのでフルメンバーだ。先生がやってきた。金髪の長い髪を束ねた背の高いハンサムな先生だった。28歳のジェイムスというアメリカ人の先生と後で知った。



“Have you ever met me?”

彼がわたしにたずねた。彼のmet の発音がマットと聞こえたので、

“What does マット mean?”

と聞くと、

“meet, met, met”

とニコリともせずに言う。「なんだ、こいつ」と思ったが、「met の発音がわからなかった」と言うと、「フン。YesかNoか」とかぶせた。ここで、はじめて「フレンドリーではない先生」が存在するのだとわかる。この間も生徒の反応はなし。前の学校の生徒と先生の和気あいあいとした関係はここではなさそうに思われた。



今回の学校は、若い生徒が多かったので、若さ故の軽いうわさ話も飛び交っていた。噂によると、ジェイムスは相当意地悪な先生らしい。教室で泣いた生徒もいると聞いた。わたしも一度その餌食になったことがある。付加疑問の練習でジェイムスは、「文を言うから、すぐに付加疑問を付け加えるように」と言った。例えば、You are a teacher.とジェイムスが言うと、生徒はaren’t you?と続けるのだ。順番に生徒に当てていったが、わたしだけが抜かされた。その後もずっと順番を抜かされた。他の生徒も、段々不思議そうにわたしの方を見る。先生の苛めにあったのである。それで、初日の授業の時に生徒たちがジェイムスの前でリラックスしていない理由がわかった。



授業の最後にジェイムスが言う決り文句があった。「今度会う時まで僕の名前を覚えておくように。生徒はなんでもすぐ忘れるからな。」というもの。その日も、彼は教室のドアの前でそう言った。だから、わたしも”You, too!”と言ってやった。たいていの先生は、「今日も良い一日でありますように」とか言う。そんな時、生徒は「You, too!」と返す。だから、この場面でも、You, too! は有効だろうと考えた。ジェームスは一瞬立ち止まって何か言いたそうだったが、そのままドアを開けて出ていった。生徒たちは驚いてわたしの顔を見詰めたが、そんなことわたしも気がつかないふりをして去った。その後も、この先生との相性は最悪だった。原因のひとつには、わたしが「英会話」教室なのに、真剣に会話をしてしまうという悪い癖にもある。この癖は、良く働く事もあるが、たいていは悪く働く。他の生徒のように、「英語を学ぶために、ただ会話をしているのだ」と割り切ればいいのにと思う。





つづく・・・



英語学校・・グランダム

『英語と旅する』



第1章  1998年  南アフリカ・ケープタウン





��.英語学校、グランダム (2)



男性教師が部屋に入ってきた。彼はイアンでイギリス人だと言った。握手を求めてきたが、人と握手をするなんて初めての経験でもあった。それからイギリス人に会うのも初めてのこと。彼は30代後半の経験豊富な先生に見えた。ではテストを始めますと、先ずはペーパーテスト。それから、ヒアリング。ヒアリングは先生が文章を読んで、あとでそれについての質問に答えるというもの。ちょっとヤバイなと思う。わたしは、なぜか数字と固有名詞を覚えることができないのだ。その文章の内容は、高層ビルで火事が起こり、消防士が駆け付け、人々が避難するというものであった。「消防士はどのように駆けつけたか」とか「人々はどうやって非難したか」という質問に続き、「何階で火事が起こったか」の質問に、う~ん、二十何階だったけど、何階だったっけと、やはり記憶があいまい。「20+何階かです。」と答えると、彼は、ニヤッと笑って、「まあ、いいでしょう」と言った。テストが終わり、スタッフが話しに来るのを待つようにと言って、彼は出ていった。



これでは「体験クラス」ではない。またはめられたのかと思って待っていると、同じスタッフが現れた。採点するのに少々お時間を頂きましたとの言い訳。

「いい成績ですよ。初めてでこのクラスの人はいませんよ。」と言った。

「ほんとですか。どのクラスですか。」

尋ねてみたものの実はクラス分けのルールなど知らない。以前の学校は小さかったので、正式なクラス分けなどはなく、おおまかなレベルで分けられていただけだった。

「ビギナーズクラス、初級クラス、プレ・インターメディエット、インターメディエット、アッパー・インターメディエット、アドバンスクラスがありますが、プレ・インターメディエットになります。」と。

そんな「プレ・インターメディエット」なんて言葉を聞いたこともなかったので、舞い上がってしまって「オオッ、」という感じだった。それから、あれよあれよと言う間に、契約書だなんだかんだと話はまとまって、入学することになる。グランダムという名の学校だが、倒産して今はない。





学校の初日、なんだかドキドキしていた。あんなにたくさんの先生の、どの先生が今日の先生なのかと楽しみでもあった。学校に着くと、フロアにはたくさんの生徒がいた。みんな落ち着いた感じで、先生と談笑したり、生徒同士話したりしていた。いつもの通り、昼間のクラスを取ったのだが、大きな学校で場所も駅の近くと便利な場所にあったためか、学生や若い人たちで賑わっていた。





つづく・・・・

『英語と旅する』  第1章

第1章  1998年  南アフリカ・ケープタウン





��.英語学校、グランダムへ



英語学校のフリー授業の抽選に当って英語を習い始め、一年が過ぎた。先生達はほんとうに良い方たちだったと思う。しかし、ここでわかったのは英会話教室の「英語の先生」は、実は「先生ではない」と言うこと。クラス内では、もちろん丁寧に英語を教えてくれる。しかし、クラスが終わればそれでおしまい。彼等にはクラスでどのように教えたら生徒が理解するかとか、このように工夫したらどうかとか、そんな類の努力はない。ただクラスに来て英語を話しておしまいといった程度の先生も、その後も多く見かけた。生徒に宿題を出しておいて、自分が出した宿題のことを覚えている先生はほとんど皆無である。また、同じ先生に頻繁に習うと、彼等がいつも同じことを言っているとわかる。これはこれで、わたしも同じことを何回も答える機会が増えるという利点もある。一度目に失敗しても、また同じことを聞かれるから、次は上手く話そうと自分を慰めることができる。しかし、そんな「先生ではない先生」に不満を覚え、もう少し大きな学校に行けばもっと先生らしい先生に会えるかもしれないと思ったのである。しかしここであえて結論を言ってしまえば、そんなことはほとんど不可能なことであった。日本の英会話学校でほんものの先生に会える機会はゼロに等しい。「英会話」は学問ではない。先生とは、テクニックを教えるインストラクターである。まだこの時点ではそういう事はわかっていなかった。そして、ちょうどこの時期に保険が満期になってちょっとした金額のお金を手にしたこともあり、思い切って少々授業料は高いが大手の学校に代わろうかと思ったのである。



次に選んだ学校も新聞広告で知った学校だった。一回の体験コースに来てみませんかというもの。それでまたしてもフラフラと乗ってしまったのだ。この学校は大きかった。大きなビルディングのワンフロアを占めている。中に恐る恐る入ってみると、個室のようなブースが10室くらい、そして大きな仕切りのないフロアにはたくさんのテーブルが並べられている。また、同じフロアに低いパーテイションで区切られた場所があり、そこに30人以上と思われる数の先生達がいた。先生の部屋という造作ではないので、彼等がお互いに話している姿や何やらペーパーをチェックしている姿などが垣間見えた。一度にそんなにたくさんの外国人を見たのは初めてだった。



受付に行く。

「体験クラスに来ました。」

「はい。お電話で予約された方ですね。では少々お待ち下さい。」

マニュアルどおりの親切な受け答えが返ってきた。個室の方のブースに通された。平気な顔を装っていたが、内心はもうドキドッキ。ちょっと待つと、事務担当のスタッフのような日本人の男性が現れた。

「それでは、簡単なテストをしますから、そのテストの結果をみてからまたお話いたしましょう。」と言った。

「えっ、そんなこと聞いてないよ」と思ったが、ここまで来たらもう引き返せない。

「では先生が来ますから、もうしばらくお待ちください」と。

テストと聞いて少々ビビったが、この一年間の英語を話す経験と通信教育で勉強したことで、少しは英語に対する自信ができていた。とりわけ通信教育はボキャブラリーとヒアリングマラソンというコースを学び、添削で良い成績を修めていた。もうひとつ、日本の文法の英語教育は素晴らしい。いくら嫌いな英語とは言え、大学受験で目一杯に勉強し、大学受験にパスしたという自負もある。つまりペーパーテストは大丈夫。





つづく・・・





序章 3

『英語と旅する』



序章 (3)



このように勉強をしていくうちに、英語を話すには先ずは第一に英単語を学ぶことだと感じ、通信教育でボキャブラリーのコースを取ることにしました。そうすると、「英単語は考えてもわからない」と思っていたのが、「考えたらわかることもある」と気付きました。適度の量の単語がわかると、そこから単語を推測する事ができます。段々英語の事がわかってくると、理屈は抜きにしてなんやかんやで、英語にハマってしまいました。この学校での契約の1年が過ぎて、違う学校で学んでみようかと思い始めました。



しかし付け加えると、英語は今も嫌いです。「英語」そのものが嫌いという意味ではありません。「わたしは英語が嫌いだ」と漠然と思っていたことが、なぜ嫌いだったのかという理由も英語の勉強を通じてわかってきました。つまり、「英語」が独り歩きして世の中を覆ってしまっているという状況に我慢ができないのです。イギリスで専業革命が起こり、世界は西欧の価値観で進んで行くことになります。他の文化の価値観を淘汰していくということ。そして、英語がインターナショナル言語と成りつつある時代、それが加速していくような雰囲気が感じられます。「英語自体」にとっても、この状況は不幸な事だと思います。なぜなら、言語は相互に作用するからです。ネイティヴスピーカーではない人々が英語を頻繁に話すことにより英語も変わっていきます。そして、それ以上にいろいろな英語が「英語」というものに一つに括られてしまうということです。つまり、イギリス英語、アメリカ英語、カナダ英語、オーストラリア英語、ニュージーランド英語、等などなど。言語はその国の文化です。「英語」と一口に言っても、それはそれぞれの国の文化を担っています。



そんな感想を得た経過は、第一章からはじまるわたしの長く続いた「英語の旅」を読んでもらえればわかって戴けると思います。





第一章に、つづく・・・





序章 2

『英語と旅する』



序章 (2)



さて、一回目。先生はカナダ人の30歳くらいの男性。今からおよそ15年前のこと、展示会に来てくれたドイツ人の女性は別として、外国人と相対して話をした経験など一度もなく、緊張して教室に坐っていました。生徒は私以外にもう一人いました。わたしの職業がフリーランスなこともあり、英語の授業は昼間に受けていたので、生徒の数はたいてい少なか

ったのです。



先生の言うことは、なんとなくわかる・・・というより想像できるという程度。話す方はというと、自分の思う事が英語となって出て来ない。もう一人の生徒は30歳くらいの女性でリラックスした様子。わたしは、ただただ彼女の流暢さに感心するばかりでした。授業後、「凄いね~~~」と彼女に言うと、「なれれば大丈夫だよ」との返事が返ってきました。そうかな、ほんとにわたしに英語が話せる日が来るのかしらと、少々落ち込んだ初日でありました。



この学校には三人の先生がいました。一人は、初日のカナダ人の先生。もう一人は、ハワイの日系三世の女性。見かけは日本人そのものですが、日本語は全然わからないようです。最後の一人はどうみても日本人に見えましたが、日本語は片言。帰国子女かなと想像しましたが、最後までわかりませんでした。とにかくそれぞれ良い先生で、五回のフリークラスが終わった後、一年の契約を結ぶことにしました。やはり、広告にしてやられたのでしょうか。



週一回一年間、学校に通っているうちにいろいろなことがわかってきました。ちょっと大袈裟かもしれませんが、これまで通りの「日本で日本人だけと接する生活」をしていてはわからないようなことが経験できたのです。当然のことながら彼等も同じ人間だということを実感しました。とかく日本人は(その当時は、あるいは今も)、英語を話している人は「かしこい」と思いがちです。わたしたちが理解できない「英語」を話しているからです。少し考えれば、彼等が英語を話すことは、わたしたちが日本語を話すことと同じ次元の事だとわかります。そんなこと当然だと思われるでしょうが、長い英語学校の経験を通して、「先生の言うことは第一、そして正しい」と単純に信じている生徒が多くいると感じました。美人を見ると、「何か素晴らしい事を言うだろう」と期待してしまう心理学のテストに似ているかもしれません。英語をしゃべる人は「何か賢い事を言う」との思い込みです。しかし、彼等はハリウッド映画のかっこ良い、賢いヒーローやヒロインではなく、ただの平凡な人々なのです。

もうひとつ新鮮な驚きだった事は、英語を話せば確実に意思が通じるという事。これも当然だと思われるでしょう。しかし、中学校などの英語の授業は、日本人同士が日本人の間だけで、英語を話していたのです。これは単なる記号に等しい。つまり、This is a pen. と言うと、「これはペンです。」と言う意味だと、決めているとも言えます。別にそれを「今日は良い天気ですね。」と言う意味だと決めてもかまわないわけです。日本人同士でそう決めれば、そう言う意味で通じあうということになります。しかし、英語学校では、英語はほんとうに別の言語なのだという事がちゃんと実感できます。何の取り決めもない、初めて会ったネーティブにThis is a pen. と言えば、ちゃんと意味が通じるということの不思議さ。海外の英語学校に行くといろいろな国の人に会えます。そんな時、彼等はお互い「これはなんて言うの」「これは何」とお互いの言語を確認し合って、きゃっきゃ、キャッキャと喜んでいます。そんな単純な発見の喜びです。





つづく・・・

小説・・・、始めました。

「60歳までに小説を書く」と大豪語してだいぶ経ちますが、まだ、成し遂げず。もう後がないということで、書き始めました。小説ではなくエッセイまがいですが、UPしてみました。



��998年から海外の英語学校に行き始め、ほぼ毎年出かけています。最終的に2008年にアドバンスクラスに昇格できたところまでのお話です。というか、「を目指しています」。単なる、いかに英語を学んだかのお話ではなく、その時にわたしが通っていた日本の学校の話とリインクして、わたしが英語をどうとらえているか、とか、英語を話すとはどういうことかということを考えながら書きたいと思います。続けられるかどうかわかりませんが、努力します。



先ずは、序章から。そして、第1章は、1998年は、南アフリカ、ケープタウンへの旅です(予告です)。







『英語と旅する』





序章



中学で三年間、高校時代に三年間そして大学の教養部での二年間、計八年間英語を勉強してきましたが、大学卒業と共に英語の勉強は一切やめました。英語は大きらいだったんです。まず初めに英単語を覚えなくてはいけないでしょ。数学の計算問題なら考えれば答えが出る可能性もあるけれど、英語の単語ばかりは考えても出てこない。わたしの怠け者根性も相まって、どうしても英語は好きになれませんでした。高校時代の夏休みに、指定された英語の本を一冊読むという宿題が出されたことがあります。「休み明けのテストで、この本から問題を出すぞ」という先生の脅しとともに。わたしは一ページも読みませんでした。いくらテストに出ると言ったって、テスト問題すべてがその本からでることなどないだろうと高を括ったからです。ほかの問題が解ければ、テストの三分の二くらいはできるだろうと踏みました。それが散々の結果に。ほんとにその本だけからの出題でした(怨むよ、先生)。今でも英語は大キライです。それが突然、四十歳にして英語の勉強を再び始めることになります。不惑の年だというのにフラフラと迷い道に踏み込んでしまいました。



仕事は彫金師です。主にシルバーでアクセサリーを製作し販売もします。いわゆるフリーランスのジュエラーということ。英語への回帰は、そのわたしの展示会にふたりのドイツ人が現れたことに端を発します。二十歳代後半らしき女性たち。わたしの展示会の案内はがきの作品写真を見て来たのだと言われてとても感激しました。ひとりは英語を話しませんでしたが、もうひとりが英語でわたしに話しかけてきたのです。そして不思議に彼女の言ったことがわかってしまいました。「あれッ、わたし、英語わかるの」とびっくりです。映画が好きだったので、耳だけが英語に慣れていたのかもしれません。これは英語を勉強せよという「神のお告げ」かもと解釈した次第です。日本語を知らないそして話せない人と意思の疎通ができたということに、純粋に驚きました。

こんなことは多分単なるエピソードで終わってしまうことが普通でしょうが、たまたま新聞で「英語の授業が十回フリー」という広告を見たことで運命が変わりました。はがきで応募し、抽選んで当たれば十回の講義がタダになるという宣伝文句です。そしてフラフラと応募して、当選してしまいました。単に嵌められただけなのかもしれないという思いは今でもあるにはあります。

電話で問い合わせをしてみると、「一度説明を聞きに来てください」と言われました。その学校は某有名英会話学校という類のものではなく、ビルのフロアの片隅のこじんまりとしたもの。受付の男性は気さくな感じで、「うちの学校の先生は、みんなフレンドリーでやさしいからご心配なく」と言いました。初めての学校なので他の学校の事は知りませんが、「え~~~、不親切な先生なんてものが世の中にいるのだろうか」と不思議に思いました。しかし、まあ、とにかく一回目の授業の予約をしてみることに。十回のフリーの授業ということでしたが、実際には45分授業が二枠で、90分が5回ということでした。





つづく・・・

スペイン人のフランチェスコ





フランチェスコは、わたしがユニバーサル・ロッジに宿泊してから1週間後にやって来た。ミキ・リサーチでは30歳。スペインの航空会社のフライトアテンダントで、1年間の休みを取ってここに来たと言っていた。一年間、給料はもらえないが、復職は約束されているとのこと。



クラスで、先生が一人ずつ彼に質問するようにと言う。それで、彼の職業がフライトアテンダントだとわかる。彼が言うには、彼が英語をまだ学ばなければいけない段階であるのに、なぜフライトアテンダントなのかというと、南アメリカ経路のフライトだということ。つまり、スペイン語でいける。



ある生徒の質問は、「どの国の客が良い客か」というもの。彼に答えは、日本人。次にドイツ人。彼等は秩序を守ると。ラテン系の客は、陽気でいいけど、すぐ踊りだすし、ノンシャランだ。その点、日本人とドイツ人は、スムーズに業務が進むと。で、一番悪いのは。ふ~~ん、中国人。すぐ、自分を主張すると。なぜか、このごろ、中国人の評判が世界的に悪い。世界的バッシングにならないようにと、思う。上海に住んでいたということで、少々、理由はわかりますけどね。





一年の休暇が得られるということに、日本は~~~と、思う。一年で自分をグレイド・アップして、次のステージを狙うのね。







スイス人のパスカル





スイス人のパスカルは、ユニバーサル・ロッジに着いた時、はじめて紹介された人物。ミキ・リサーチでは、21歳。今年から大学で物理学を専攻すると言っていました。学校には、二人のスイス人のパスカルがいます。日本人の若い女性の生徒が学校に3人いますが、彼女たちが、「イケメン・パスカル」、「普通のパスカル」と呼んでいたので、「それはないでしょう。」と、わたし。「ロッジのパスカルは、すごくいい人で優しいとは思わないのか。ヤサシイ・パスカルと言いなさい。」と。それから、彼は、陰でわたしたちに「ヤサシイ・パスカル」と呼ばれるようになりました。



実際、すごく優しいのです。まあ、この頃の若い男性は、国籍を問わず、優しいですけどね。今回初めて知りましたが、スイスは徴兵制を取っているのですね。パスカルも軍隊に行っていたんだ、と言っていました。だから、彼は21歳で大学に行くんだろうか。



K氏が「パスカルは凄いね」と言っていました。学校では午後からアクティヴィティ・コースがあります。金曜日だけは、特別なコースがあり、参加費を払えば誰でも行けます。それで、若い子たちに誘われて、参加しようかということになり、申し込みをしにいくと、スタッフが、「いつもは、エブリバディ歓迎だけど、今回は厳しいコースなので、やめた方がいい。」と。結局は、男性と一番タフな女性の一人が参加。



K氏も参加しました。それはすごくタフなものだったそうです。高い崖から海に飛び込んだり、お弁当を入れたリュックをしょって、高波の中を泳ぎきるとか。お弁当は、それぞれウォータープルーフにして持ってくるようにと言う支持もありました。そこで、K氏の言、「パスカルは凄い」。K氏によると彼は、皆が右往左往している時、「フン、フン」とか言いつつ、状況を判断して的確に行動していたと。一番かっこよかったのは、崖からリュックを海に投げて、自分も飛び込んでリュックを取って泳ぐという時、ちゃんと計算して、「リュックを投げるとあそこに流れる。だから、あそこに飛び込む」と一瞬に判断して、パスカルはそのようにしたと。みんなも「ウォー」と歓声を上げたとか。



「さすが軍隊経験があると違うね!」と、K氏の言葉です。





韓国も徴兵制がありますね。マルタに行った時、韓国の男の子が軍隊に行ったと言っていました。その時の、ヨーロッパ系の生徒の反応は、「なんという、野蛮な制度を維持しているのか」と言った感じでしたが、なんだスイスもあったのかというわたしの感想です。まあ、スイスはヨーロッパでは異端の存在のような気もしますが。





最近のニュースから



ニュージーランド物語は、ちょっとスキップして、最近のニュースです。



今日、雅子さまがオランダの公務に行くとの決断のニュースがありました。その前に、いろいろ議論を呼ぶ意見が飛び交っておりました。



先ずは、宮内庁長官の言。

オランダの儀式に参加するかどうかの返事は、3月までにしなければいけなかった。しかし、皇太子殿下、雅子さまは、返事を保留していた(雅子さまのご病状のためと思われますが)。そこで、宮内庁長官は、異例の直言。

「早く返事をした方が良い。」



それから、



宗教学者、山折哲雄氏の提言。

清朝45の3月号とのこと。わたしは読んでいません。朝日新聞の記事から知りました。

それは、『皇太子殿下、ご退位なさいませ』

彼の主張:

皇室には「近代家族」と「象徴家族」の両側面がある。近代家族とは、個人的な性格を意味する。象徴家族とは、国民が求める「公的」な家族像である。今の天皇家はこの両者のバランスを保つことが求められている。

皇太子夫妻の場合は、近代的家族の側にシフトし始めている。適応障害の治療に悩む雅子さまと夫として妻を守るため、「近代家族」を維持しようとする皇太子殿下。

よって、皇太子さまと雅子さま、そして愛子さまと共に、第二の人生を選ばれても良いのではないか・・・、という主張。

それにより、国民の共感と雅子さまの病状回復が期待される。つまり、「弟君に、譲位宣言をする」ということ。



The issue evoked controversy among the media.



この問題の一つの論点は、提言の実現可能性。

作家、竹田恒泰氏の意見:

広域章順位の変更を皇室典範はがどう定めているか。

「精神もしくは身体の不治の重患があり、または重大な事故がある」ことが条件。

よって、皇太子さまの場合順位を変更する事はできない。



宮内庁関係者の言ということで、週刊現代が述べている事、

雅子さまの病気を「重大な事故」と認め、譲位する事はできるかもしれない。



また、経済学者、佐伯啓思氏の言;

皇室典範は通常の法律と同様に、国会においの議決において改正できる。皇室典範を改正すれば退位は可能。戦後の法体系において、天皇制をどう運用すべきかは、すべて国民次第。



次の論点は、「公」と「私」において、天皇や皇太子に「私」はあるのか。

竹田氏、

古来日本では「天皇に私はなし」



佐伯氏、

国民によって正当化されたものだからこそ皇室が「公的」なものになっている。もし、国民が皇室の事は皇室が決めればいいのでは、と言えば、皇室の「公的な性格」はなくなる。





ここでわたしが思うには、

天皇は、ヨーロッパ諸国や他の国の国王とは違う性格を持っている。つまり、天皇は神道の最高祭司なのである。あえて比べれば、法皇やダライ・ラマのようなもの。「公的存在」なのである。それを俗的な家族の区分で考えることはできない。もし、日本国民が神道を信じ、天皇をトップOF祭司と思うならば、その選出方法も家族の尋常な引き継ぎではなく、ちゃんと、ダライ・ラマの後継者探しのように、真剣に取り組むべきだ。あるいは、法皇のコンクラーベのように。



天皇制は、近代になって、初めから矛盾を抱え込んでいる。この矛盾点を天皇家にだけ押し付けてはいけない。ここが、日本の考えどころ。日本人として、ほんとに神道を信じるのか。そして、その正統な道筋を継承していくのか。如何。





S君――ユニバーサル・ロッジの住人





S君は18歳と言っていました。同じくミキさんの情報です。彼も日本人で16歳からここの英語学校に通っています。でも、わたしたちとは別の学校。高校生留学かと思っていたら、高校には行っていないと。ミキさんによれば、もう日本に帰ってキャンパスライフを楽しみたいとか。

「でも、高校に行っていないと言っていたよ。」と言うと、

「大検には受かっていると言っていた。」と。

「へ~~~、凄いじゃん。」

「うん、両親がお好み焼き屋で、彼は、海外に出てお好み焼きを普及するんだって。」



Jさんと言い、世の中、日本の規格に合わない若者たちがいろんなところで暮らしているんだ~~~、と思いました。S君はスラーと長身のスリムなハンサム系。K氏と三人で話していた時、K氏がサッカーは特に好きではないが、仕事の関係上オークランドでの試合を見に行くと言いました。「ほんとはラグビーが好きなんだ。」と。すると、S君が、「僕は6年間ラグビーをやっていた。」と。「え~~~、ほんと。全然、筋肉ないじゃん。」と言った瞬間、「しまった」と思いました。まだ18歳の男の子に言う言葉ではなかったと。

「ふ~~~ん、だいぶ筋肉落ちちゃったね。」

彼は、自分の二の腕をさすってそう言いました。ちょっとさみしそうな顔。反省、反省。



彼も、たいていは部屋にいて、パスカルが言わせれば「部屋でゲームばかりやってるんだ。」ということ。2~3回、夕飯時にキッチンで会いました。器用にカレーライスとか(お米もお鍋で炊いていましたよ)、スパゲッティ・ミートソースとか作って食べていました。とても美味しそうだった。彼は、お酒も飲むし、煙草も吸うし・・・、だったけど、良い子に見えました。本人は「やんちゃしてた。」と言っているけどネ。これから、日本に戻って大学に行って、世界に羽ばたくという未来が待っているんだな~~~、と感慨に耽ってしまいました。





ユニバーサル・ロッジの住人――K氏





K氏に会った時、「英語ではなせ」と言われてムッときたと書きましたが、その後の彼との会話で「いい人じゃん」と思いました。ミキさんの情報網で、彼は47歳と知っていました。それで初めて彼を見た時、ミキさんが言っていた「47歳の金髪の日本人」は彼じゃないなと思いました。ミキさんに「彼じゃないよ~~~」と言うと、「う~~~ん、47歳には見えないけど、金髪だよ」って。「他に金髪の日本人がいると思う?」っと。



なるほど、彼は肩まで髪をのばし、ほんとに金髪です。「茶色の明るいの」という事でなく。2回目に彼と会話した時、彼は「いくつに見える」と聞くから、「あなたのうわさは、ここら中で持ちきりだ。もうすでに知っているよ」と言うと、「言ってみろ」と。で、「47でしょ」と言うと、彼はびっくり。その後、スイス人のパスカルに「あの日本人の女の人、僕に会う前から僕の歳を知っていたよ」と驚いてしゃべっていました。わたしの名前くらい覚えておけよと思いましたが、素直な子供みたいな反応に好印象。



彼との会話でわかったこと。彼はテレビ番組の制作会社に勤めていましたが、中間管理職になってきて、現場から遠ざかり、若手の指導をしなければいけなくなって、仕事がつまらなくなったので独立したそうです。一人で制作会社を運営しているとのこと。だから、こんなに自由に英語学校に何週間もいられるんですね。今、新しいプロジェクトを計画していて、それには自由に英語を駆使しなければいけないので英語を学んでいると言っていました。ネーティブに直接インタビューをしたいんだと。今までどんな番組を作ったかを話していましたが、けっこう私が知っているものもあって、メジャーな人なんだと思いました。



と言って、彼もこの学校に満足しているわけでなく、この学校では英語は上達しないという意見。同感。彼の目的は、サーフィンみたいでした。サーフィンのアクティビティがあるので、絶対ここでサーフィンをできるようになると決心しているみたいです。実際、サーフィン教室の最後の日に「今日、ボードに立って波に乗れた」と興奮して話していました。なんだ、その程度だったんかいと思いましたが、「へ~~~、よかったね。」って。



つまり、季節は秋に向かっていたのです。それで、サーフィン教室はお終いということに。それで、彼はオークランドの勉強できそうな学校に代わろうかと思っていたのですが、学校が、彼がプロのカメラマンで制作会社の人ということを聞きつけて、学校のプロモーションビデオ(ビデオでいいのかな?)を作ってくれないかとのオファーがあったと言っていました。そこで、彼は、あと3週間の授業料を無料にし、サーフィン教室を続けるなら、制作しても良いと言ったそうです。結果は、彼の望むとおりに。やはりキャリアのある人は違うね!と思いました。



彼は、ほんとにノーマルな考えの持ち主で、常識的なんだけど(つまりわたし向きではないという意味)、ちゃんとそれで創作、ものをつくる、書く、ことができるんですね。というか、だから心あたたまる番組ができるのかな。彼の言っていた番組は、泣けてくるような心あたたまるドキュメントでしたから。



彼の常識的なところというと、いつまでも「若くありたい」とのこと。メタボを気にしてのサーフィンだし、朝は早くから散歩しているようだし、笑っちゃったのは(失礼!)、脂肪が燃えるドリンクを持ってきているっていうこと。「毎日飲む分は持って来れなかった、重すぎるよ」ってね。





ユニバーサル・ロッジの住人たち





ユニバーサル・ロッジに4時ごろに着いて、2~3の人に紹介されましたが、まだ会っていない人達がいます。その中で、伝説の人Jさん。彼女は、16歳の時にフィチアンガに来て、英語学校に1年間通いました(学校はここから歩いて5分少々)。日本に帰ってからも、フィチアンガが忘れられず、18歳で再びフィチアンガに。それからこの町に就職して、以来ずっとこのロッジに住んでいます。



今は、22歳とか。ロッジのご主人も、「わからないことがあれば彼女に聞けばいいよ。何でも知っているよ。」と。それはそうでしょうけど、それが、彼女にはなかなか会えないのです。3週間のわたしの滞在のあいだに4~5回見かけましたが、2回は、ただ「こんにちは」と言っただけ。2回は、彼女がリヴィングでお食事しているのに遭遇し、2~3言葉を交わしただけ。1回は、近所を歩いていたら、偶然すれ違い「良いお天気ですね」などと言っただけ。



わたしもそうだけど、彼女も相当シャイらしく、服装はいつも黒っぽい感じで、黒の長パンツを穿いて、黒のテンガロンハットのようなつばひろの帽子を被っていました。ひょっとして、日本語で話しかけず、英語で話しかけた方が良かったのかもしれません。と言うのは、もう一人の住人K氏。彼もうわさに上っていました。47歳の金髪の日本人がいるって。彼らしき人に、その日の夜にキッチンで会いました。あとで、彼がその人だと分かりましたが、わたしが日本語で話しかけると、「英語で話せ」と言われました。「まあ、今日はいいよ。学校の生徒でないなら日本語でもいいけど」と。「あら、ごめんなさい。わたしも一応生徒ですから気をつけます」と、それからは、きっちりと英語で話させてもらいました。その時は、どこにでもこんな奴はいるねえ・・・と、ちょっと憤慨。JとこのK氏が英語で話しあっているのを見かけたことがあるので、Jにも英語で話しかけた方がいいのかしらと思ったのでした。でも、あとでJさんに「日本語で話してもいいですか」と聞くと、「もちろんよ」と言われたので、Jさんの場合は、単に「無口な人」だったようです。



実は、最初にここで遭遇したのはミキさん。彼女は、わたしは日曜日に着いたのですが、土曜日にここに来たようで、同じく明日から学校に通い始めます。それで、同じ日本人が来たという事で、わたしの声を聞きつけて部屋から出てきました。それで、ふたりともまだ食料を買い込んでいないので、今日は奮発してレストランでディナーにしようということに。それから、近所のコンビニみたいなところや、パン屋さんを教えてもらいました。レストラン(このレストランはお迎えの運転手さんにバッチリ聞いていた場所、2~3のレストラン情報は手に入れていました)での彼女との会話からの情報は、まず、彼女は23歳で、この春から市役所で働き始めるということ。仕事を始めると、もう長いお休みは取れないだろうからと、5週間ここで英語を学ぶそうです。彼女は、オークランドの空港で同じ学校に通う予定の日本人のご婦人に会ったそうで、彼女はシニアで初めての海外での学校だから相当ナーバスになっているらしいと。歳は59歳だと。なぜそんな彼女の歳を知っているのかと思いましたが、あとで、彼女は人の歳を聞くのが趣味らしいとわかりました。わたしがK氏の歳を知っていたのもミキさんのおかげです。「47歳の金髪の日本人がいるらしいが、今日来るらしくてまだ会っていない」とこの時は言っていました。



わたしのお隣の部屋の住人はオーストリア人のご婦人で、やさしそうな英語もバッチリのひとでした。ミキさんと一緒の時に彼女とバッタリ会いました。お互い自己紹介した後で、ミキさんは ”How old are you?” と聞いたのでした。わたしは「オオッ~」と思いましたが、ナディーン(オーストリアの女性)も WHAT? っていうような感じ。Are you asking how old I am? と言いながらも、「しかたがないなあ」と、37歳と答えました。それから、学校でもミキさんは “How old are you” と誰彼となしに聞き回っていました。