2013年8月13日火曜日

『アマテラスの誕生』 のつづき

『アマテラスの誕生』 のつづき





『アマテラスの誕生』で溝口睦子は「なぜアマテラスが日本の皇祖神になったのか」という謎ときに挑んでいます。このお話は充分に興味を抱かせますが、先ず、わたしの興味はどのようにして、「日本に文明が興り、国が統一できたのか」という事。マクニ―ルは、国家統一には、官僚組織と「人」を一つにまとめるための「物語」が必要と言っています。その答えが、この『アマテラスの誕生』という本の中にありました。



これは、あくまでも溝口睦子氏の説です。わたしには、それがあっているとか間違っているとかは言えません。しかし、スッキリと納得いたしました。



日本は近代化するまでに、対外的に三つの敗北があると溝口氏は言っています。ひとつは、5世紀初め高句麗と戦っての敗北。ふたつ目は、663年白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に負けた事。そして幕末期の黒船来航。幕末期に西欧諸国に対抗する為、「西欧から」学んだということは、日本の特徴ですね。中国、その他の国などは、その巨大な国力に安住して、気がついたら植民地化されていたということが見受けられますから。それと同様に、高句麗や唐・新羅に敗れた時も、日本はそこから新しい知識を学んだのです。



��~5世紀の東アジアは、ユーラシア大陸と朝鮮半島南部、日本列島を結ぶ文化の流通圏がありました。そして、5世紀初めに高句麗に敗北を喫すると、倭の独自性の強い文化から、朝鮮半島の影響の強い文化へと変化しました。古墳から掘りだされる遺物は、大陸文化そのものだと溝口氏は述べられています。その頃大陸で流行っていた思想が、「天孫降臨神話」だそうです。敗北により、権力の集中と統一国家の立ち遅れを意識した倭王は、統一王権にふさわしい、唯一絶対性・至高性が必要と、天から神が降りられて王家の始祖となったという物語をここで取り入れました。その時の皇祖は「タカミムスヒ」であって、アマテラスではありません。溝口氏によりますと、ヤマト王権(5c~7c)はタカミムスヒが皇祖、律令制国家成立以降は(8c~)はアマテラスが皇祖ということになります。「この時になぜ皇祖の転換が成されたのか」が、『アマテラスの誕生』の主旨です。



��63年に白村江で日本が敗北した時、時の権力は「もう大慌て」といった状況でした。唐と新羅の連合軍に敗れたので、唐が侵攻してくるのではないかという恐れから都を内陸部に移すということもしました。その頃はまだ数多の豪族の頭としての天皇でしたが、天武天皇は統一国家への改革を始めるのです。天武天皇(在位672~686)は、豪族の「部曲(土地・人民)廃止」を675年にします。これで、「私地・私民」が「公地・公民」となります。豪族は国から支給される扶持によって生活することになり、中央集権の成立です。



もうひとつ重要な事が、思想面の改革です。天武天皇は歴史書の編纂を命令します。681年開始、720年『日本書紀』の完成。天武天皇は大陸からのグループの神と見られがちなタカミムスヒをそのまま国家神とすることで、特定の豪族の官僚国家になると受けとられるのを恐れ、それ以前の土着の神であるアマテラスを皇祖神として定め、人心の一新をはかり、新しい国家作りに挙国一致で向かう態度を示そうとしたのです。しかし、『日本書紀』ではまだ完全な転換を果たせず、『古事記』によってその意図は貫徹されます。『古事記』によって神話が一元化され、タカミムスヒは忘れられた存在となりました。





しかしながらアマテラスが名実ともに皇祖神となったのは明治に入ってからで、明治2年明治天皇が伊勢神宮を参拝したのが、はじめての「天皇が伊勢神宮を参拝」ということになります(祖先を参拝するという事)。つまり、江戸時代まではいくら「皇祖神」「絶対神」「至高神」などと言われても、庶民は八百万の神を信じていたのですね。



日本人は無神教だとか言われても、そもそも国を統一する時は、なにか絶対的なものが必要だったんですね。この『アマテラスの誕生』を読んで、『日本書紀』や『古事記』は、キリスト教で言う「聖書」のようなものではと…感じました。



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