2013年8月13日火曜日

オープンカレッジ 2









実はもう一つオープンカレッジで講座を取っています。それも英語ですが、「イージースピーキング2」というもので、レベルは「2」です。でも、結局レベルなんて全然関係ないですね。先生次第です。レベル2の先生はレベルが「2」という訳ではありませんからね。ということで、このレベル2は刺激になります。生徒数は多いので、発言はあまりできないのですが、考えるヒントをもらえます。生徒は「イージースピーキングなのにどこが『イージー』なんだ」と不平とも楽しみともつかぬことを言っておりました。





そこで、今回のHOMEWORKをご紹介します。実は、今回このクラスを取るのは初めてで、いきなりこの「お題」なのでどうしたらいいのか分かりませんでしたが、わたしなりに書いてみました。(先生の意図はcriticizingとthinkingです)



��Onomatopoeiaについて>

オノマトペは発せられた時、言語となる。それぞれの国のオノマトペが違うのは、その国の言語として引き継がれ、教育されていくからだろう。よって、言語として意識されないものは単なる音に留まり観念とはならない。例えば日本人は、いろいろな虫の声を聞き分けられるが、西洋では、雑音と同じであり、言語化(オノマトペ)はされない。



��Educationについて>

教育は人類が繁栄していくためには必要なものだ。自分の持つ知識を時代に伝えることは、ほぼ人類にしかできない。人類の急激な進化は、DNAによる伝達よりも、知識の伝達のおかげである。

しかし、教育には個人的観点を主とするものと社会的観点を主とするものがある。個人的観点による教育とは「絶対的真理」を求めていくようなものだと思うが、社会的観点による教育は「相対的真理」を求めていくものだと思われる。個人的観点による教育には問題点はないが、社会的観点による教育は往往にして問題が生じる。つまり、社会秩序を維持する為の教育、あるいは施政者が人民を自分の都合のよいように教育する事などがある。

植民地時代に、西欧諸国は言語と教育と宗教を被植民者に押しつけた。その教育とは、植民者がその地を支配しやすくするためのものである。しかし、教育を受けたものはそれだけの(支配するのに丁度よいだけの教育)教育では収まらずより高みに行くことを望む。

現在、西欧の教育を受け、西欧の国で学んだあるいは移民した人々が、学問の世界でもわが身の出自を意識し始めている。第三世界の人々の哲学者、文学者、その他人類学者など、西欧の教育を武器に自らの文化のアイデンティティを主張し始めた。西欧に対する「他者」である。

よって、それがいかなる教育であっても、教育は人の思惑を超える力を持っているとわたしは思う。



��Priorities>

わたしは上海に中国人の友達がいる。彼女は夫と息子がいる。わたしが上海に滞在する時、彼女はわたしを優先して、美味しい食べ物などをわたしに譲る。しかし、息子が一緒の場合は彼女の息子を優先する。夫も然り。夫と息子とわたしが同席する時は、夫→息子→わたしという順になる。

わたしにも息子が一人いるが、他の人と同席する場合、息子には我慢させ、ほかの人を優先する。とても興味深い違いがあると感じる。







これで、まだ半分です。たいしたHOMEWORKでしょ。続きはまた。







0 件のコメント:

コメントを投稿