2019年6月23日日曜日

妄想してしまう・わ・た・し






以前、毎日ブログをUPしようと思った。と、書きましたが、未だ至らず。

毎日、「ネタ」は思いつくのですが、そのネタに対し、いろいろなことが頭をよぎるので、小文にまとまりません。

で、「妄想」の部分を抜きにして書いたらどうかと。

例えば、今日のテーマは、「『男の強さ』幅利かす世界とは」です。

「男の強さ」を重視する社会では戦士が特権を与えられ、結果として紛争の頻度が増す―――、というデータ分析の研究結果。

人類学者の報告です。

「男の強さ」とは、攻撃的な事、復讐が良いとされる事。つまり、「名誉の文化」です。そんなことが尊重される社会では(調査対象はマサイ族の戦士など)、隣人の部族との闘争回数が多くなるという研究。








そこで、わたしの妄想が動き出します。

つまり、男らしさを捨てたほうが、平和な世界が来るのか。それが、文明なのか。文明によって、男女の格差が軽減していくのか。という事は、社会は中性化していくのか。そして、男らしさの最後の砦が、「資本主義」ではないのか。

男が筋力を誇示するなら、毎日、外で戦って、獲物を捕まえて来いよ!仕事して金稼いでくるんじゃないよ。金なんか女性も稼げるのさ。

また、現在の男女格差は、「体格差」と「筋力差」。動物は、雌雄の権力の格差が激しいほど「大きさ」に違いがあるとか。その格差が無くなっていくのに連れて体格差が縮まっていくとか。今、一番格差のあるのが、「トド」です。

で、人類は、格差が縮まっているとか。欧米人を見よ!


という、妄想が広がっていくと、短く話がまとまらない訳です。



で、続きはまた。そして、UPは、妄想が始まる前に書くのを止めたい・……という話です。




2019年6月13日木曜日

嫌な予感。







今朝、探し物をしていて、冷蔵庫の上に置いてある籠の中身を調べていたら、冷蔵庫にたくさん引っ付いているマグネット(海外のお土産品)の一番重要な位置にあるものが、ちょっと触ってしまったので、落ちた。

それは、床に落ちて割れた。タイ空港で買った、ちょっと不思議な雰囲気の童女の人形のマグネット。だから、冷蔵庫の扉の一番上に飾って、他のマグネットを見下ろしている感じにしていた。

割れて首が落ちた。首だけ落ちた。不吉な予感。全く<迷信の>根拠はないものではある。

で、

数分後、玄関のチャイムが……、ピンポ~ン、ピンポン、となった。今日は燃えるゴミの日で、扉の前に置くシステムなので置いていたのだが、

チャイムを鳴らした隣の住人が、「お宅のゴミがひどいことになっているよ。」、と。スイマセンと言って、外に出たら、カラスのせいか、ゴミが散乱していた。ちょうど、そこにゴミの収集車が来て、事なきを得た。

次は、違う側の隣の住民が、玄関のチャイムを鳴らす。

エ~~~、何事?また、何かあったの?(今までも、いろいろ言われている。)

この数日の雨で雨どいからの雨水が隣の敷地に落ちて、苔が生してしまったとの御宣託。これは、雨どいの方向が悪いので、何とかしてほしいとの事。

彼女は、いつもそんなにキツイ調子ではなく、スイマセンがと言う態度なので、そんなに「困った」という感じではない。でも、解決しなければならない。そして、そのついで(こっちの方が目的か)わたしの近況とか家族の近況とかを聞いてくる。今日は、「いつも何をしているの?」と聞かれた。


まあ、あれやこれや……、と口を濁すと、「そうね、このお家を維持するには、いろいろやることもあるよね~~~。」と言って去っていった。

やれやれだけど、またひとつやることが増えた。






2019年6月10日月曜日

ちょっと、嬉しくなったので。。。





昨日の本の書評です。

アンソロジスト 東雅夫 という人が、誰だか知らないが、こんなことを書いていました。

世界三大異界散策小説(短編限定)といえば、英国の神秘小説家アーサー・マッケンの「N」、ベルギー最大の怪奇小説家ジャン・レイの「闇の路地」、そして我が泉鏡花の「高桟敷」であると、ひそかに信じて疑わない私でだが、このほどその一角を脅かしかねない凄い作品に出逢ってしまった。

わたしが、喰いついたのは、「アーサー・マッケン」。もちろん彼は評価はされているが、こんな大新聞社の書評では、ついぞ、名前はでないです。

彼は続いて、英国出身作家メトカーフの作品集『死者の饗宴』に収録された「悪い土地」と謎の覆面作家・服部独美のデビュー作『教皇庁の使者』を挙げています。

両方とも、ソソラレルケド、出版社が国書刊行会だからなあ~。高いんだろうなあ~と、考慮中。




2019年6月2日日曜日

名古屋の位置は?




ニュース番組とか、ワイドショーの最後には、必ず天気予報のコーナーがありますよネ。

その時に、東京キー局と大阪キー局で、名古屋の位置が違います。東京では、名古屋が西日本になります。大阪では、名古屋は東日本になります。

で、それは何故か。

名古屋の位置が微妙なんだなあ~と、思っていました。名古屋は、アイデンティティを主張できないのかと。名古屋キー局頑張れよ。

よくありますよね。日本の東西の境目。美容院や理髪店で、洗髪の後、「痒いところはありますか?」と言うと、東京は、「ありません。」と応える。大阪は、「ある。」と応える。冗談交じりに。「背中。」とか、「鼻のあな。」とか、あとで、「先きの質問まだ有効ですか?」とか。

そして、名古屋は中間なんです。50%、50%.。イエスかノウかがね。

名古屋頑張れよ!主張しろよ!と思っていましたが、





これは、画面の問題があるんじゃないの?、って。

つまり、西と東に日本を分ける時、大阪では、名古屋を東にすると、大阪は、画面の一番上に来る。東京が、名古屋を西にすると、東京が画面の一番下に来る。

という事は、

両方とも、一番目立つ……という事か?


今の結論はそんなところです。


どうでしょう。






2019年5月19日日曜日

今日の新聞広告の本






新聞の本の広告を見るのは、まあまあの趣味です。

今日は、

『思考機械』
『美しく呪われた人たち』
『科学tの女性差別とたたかう』

すべて作品社の出版です。

まだ内容をチェックはしていませんが、すべて「そそられる」題名です。





『思考機械』は、あの『ホームズのライバル」のというタイトルの短編を含む本邦初翻訳の50篇の短編集だそうです。

『美しく呪われた人たち』は、あのフィッツジェラルドの本邦初翻訳だそうです。

『科学の女性差別とたたかう』は、最近流行の『妻のトリセツ』などの似非科学本の反論のようです。旧来の科学の偏見に挑むとあります。ーーー是非反論してもらいたい。


以上。





2019年5月16日木曜日

お隣はデニソワ人




以前、『我々はなぜ我々だけなのか』という本の感想をUPしました。現在人類は我々「ホモサピエンス」」だけの存在ですが、過去にはいろいろ多種多様な「人類」が生きていました。

特にアジアには消え去った多様な人類がいました。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人の研究が盛んです。アジアにおける旧人類の研究はまだまだです。そんな中で、この本はアジアにおける人類たちについての研究成果を報告しています。





と、ここまでは、導入部です。私、この本を読んで「デニソワ人」にいたく興味を持ちました。と言ってもその名前の「響き」だけの事ですが。何かそそられませんか。同じように「ガニメデ」という言葉にもいたくそそられています。木星の月の一つの名前です。フィリップ・K・ディックもこの名称が好きらしく彼の作品によく出てきます。

それで、デニソワ人ですが、息子にメールをして、「『お隣はデニソワ人』という話はどお?」と言ってみました。彼は漫画家です。返事は、「あなたが原作を書いて、気に入ったら描いてもいいよ。約束はできないけどね。」というもの。

正直、こんな返事が来るとは思いませんでした。いつものように無視されるか、鼻で笑われるか……を想像していたのです。それで、少々考えてみました。





いろいろな人類が存在していて、我々ホモサピエンスとも「彼ら」は交雑しています。我々のDNAの中に彼らの存在が刻印されています。しかし、交雑によるハイブリッドの子孫は生まれなかった模様。ラバに子孫ができないように。

しかし、デニソワ人にだけは出来た……という設定はどうか。そんな集落があって、その集落に知らずに引っ越してしまった主人公、どお?あるいは、反対に主人公のお隣に、デニソワ人が引っ越して来た、どお?

デニソワ人のDNAで何が起こるのかは知らないけれど、漫画なんだから(お話なんだから)『らんま1/2』のような事が起こってもいいんじゃないの?性別がなくて、出会った人により性別が決まるというような。ミミズのように。

主人公とその妻によって、その性別が変わるのだ。ミミズは、土の中でミミズ同士の出会いが少ないので、そのまれな出会いを有効に活用するようにミミズには性別がなく、出会った瞬間に「どちらがどちらか」が決まるそうです。

つまり、数少ないデニソワ人の存在がこんな風にデニソワ人がなった理由だ、というのはどお?


という事で、また、思いついたら続きを書きます。




2019年5月10日金曜日

読んでいない本の感想文です。








新聞の広告欄を見て興味を持った本です。今回は3冊興味のあるタイトルの本がありました。



1冊目は、『シンギュラリティは近い――人類が生命を超越するとき』です。キャッチコピーは、「2045年、これが私たちの衝撃の姿だ!」。または、「『ポスト・ヒューマン誕生』のエッセンスを集めた決定版!」。



先ず、「シンギュラリティとは何か。」と考えました。Singularの名詞形だなと。だから、単数、単一の意味かと。で、ふだんわたしが考えていること―――、『人類はサイボーグ化している。』つまりiPS細胞からの身体の再生や、コンピュータ制御の人工四肢や人工耳、人工眼、その他諸々で、人はもう自然界から遠い存在。SFの世界の「機械人間」です。この調子で行くと、人は死ななくなる。もはや生殖活動は必要ない。と言うことで、人類は単細胞生物のように「不死」となり、「性生殖」を失うということかなあと。つまり単一性。――シンギュラリティの意味の話ですが。



しかしアマゾンで検索したところ、どうも違うらしい。「特異性」という意味らしいとわかりました。「人類は生命を超越する」です。「AIが人類の知性を上回り、私たちは生物の限界を超えてついにシンギュラリティへと到達する──。」と紹介されていました。つまり、人類はAIのおかげで「生物」を越えてしまうということでしょうか。



著者は、「未来学者として技術的特異点の到来をいち早く予見し、人工知能(AI)の世界的権威として現在はGoogle社でAI開発の先頭に立つレイ・カーツワイル」とありました。彼は、その状況を肯定的にとらえているようで、さすがアメリカ人の楽観主義かあ…、と購入する意欲が失せました。










2冊目は、『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』です。これはわたしが普段から抱いている感想から興味を持ちました。それは、「人は人ひとりで完結していない」ということです。たいていの生物は、他の仲間の助けを借りなくても一個体で生きていけます。しかし、人の生活は全てが細分化されており、もはや生活に必要な事を自分自身一人で出来なくなっています。それが、「社会生活」と呼ばれる人類発展のストラタジーなのだ……です。



この本は、都市でもできる狩猟採集生活――、つまり、都市でもひとりで人生を、生活を、完結することが出来る指南書なのかと思い、アマゾンで検索したところ、都市で暮らす路上生活者のお話のようです。



わたしの思いとちょっと違うなと。路上生活者は都市の「特異」です。物が溢れている都市だからこそ、お余りをお裾分けしてもらって生きていけると言うわけです。全ての人が貧乏な何も持っていない社会では、路上生活者は生きていけません。



アマゾンのカスタマーレビューに「普通、わたしたちは働いて金を得、その金でものを購入し消費する、その繰り返し、そのサイクルの中で生活し、またそれ以外の生活は考えられない、というより考える事もないわけだが、本書によるとその生活は一つの観念に過ぎないのだ。つまり、わたしたちはあまりにも一つの生き方に縛られ続けている。本書の一番のウマ味はその〈気づき〉にあると個人的に思う。」と書かれていました(引用してすいません)。また他のカスタマーレビューでは、「『<都市の幸>で暮らすことは、きみが起こすことのできる唯一の革命なのだ』(本書P148)。」とありました。



わたしはもうそのことに<気付いて>いるからこの本は購入しないことにしました。



その観点では、『増補 サバイバル! 人はズルなしで生きられるのか』と言う本も良いかも。日本海から北アルプスまでを、米と調味料だけを持ち縦断した記録、とあります。他の食料は現地調達し、自然の中で眠る生活というような感じでしょうか。「自然にじかに身体をさらすことで、おぼろげな個人の輪郭がはっきりとしてくる。」と書評にありました。でも、これも都市生活から一歩身を引いて、自分の生活を見直してみると言うことですね。



お金を払わなくてもいろいろなものが手に入るという「田舎暮らし」はまだまだ存在しています。そんな田舎の人々には、どうでもいいことでしょう。しかしこれはGDPの増減を気にしている政府にとっては、とんでもない行為でしょう。お金で物を買わなければGDPに換算されませんからね。



人の行動をいちいちお金に換算することは、もうやめようよ~。










三冊目は、『QJKJQ』。「2016年江戸川乱歩賞受賞作!」とありました。「17歳の女子高生。亜李亜の家族は全員が殺人鬼。ある日、兄の惨殺死体を発見する。亜李亜は父に疑いの目を向けるが、一家にはさらなる秘密があった――。」と。



有栖川有栖氏が、「これは平成の『ドグラ・マグラ』である」と批評しており、その「ドグラ・マグラ」に魅かれ目にとまった訳です。ご存知、夢野久作の『ドグラ・マグラ』です。わたしの本棚にもありますが、内容はすっかり忘れています。



アマゾンで検索したところ、あまり評判はよくなさそう。これは『ドグラ・マグラ』ではない!という一文も目に入りました。それで、即、購入はしないことに。



そのかわり、本棚にある『ドグラ・マグラ』をもう一度見てみました。その解説は「精神操作の恐怖と自由の問題」という題が付いていました。精神操作には、マインドコントロールとルビが打たれています。わたしは、昭和52年にこの本を買いました。しかし、発表されたのは1935年です。その時代に「マインドコントロールとはね。」と興味が湧きあがりました。



この作品が発表された時、多種多様な評価を受けたようです。



狂人自身が書いた狂気の世界――江戸川乱歩

思想の容器として独自の位置を占めている――鶴見俊輔

弁証法の傑作――森秀人

ありうべからざる幻想世界を通じて、ありうべき社会を予言した、狂気のアポカリプス――塚本邦雄

家父長への怨念小説――水沢周

物神崇拝の恐怖の中に人間の自由の問題を描いた作品で、日本推理小説史上の傑作――権田萬治

奔放な空想の極致を示す狂気の文学――荒正人



などなどです。



と言うことで、相当分厚い本で、今では、古くてカビ臭いのですが、読みなおしてみようかな、と思った次第です。



いろいろ迷走した挙句の「これらの本は買わない。」という結論でした。









2019年5月5日日曜日

だんだんと年寄り染みて来ました。






前回、ついつい自分の歳を計算してしまうと書きました。あと10年経つと何歳になると言ったようなことです。そして恐怖心が湧いてきたという事も。もうひとつ、最近思うのは、若い人の命の尊さです。子供が事故などで亡くなると、ああ勿体ないと。

自分が若い時には、「誰が何歳で死んだ」という事には、あまり関心ありませんでした。ただ「人が死んだ」という情報のみの関心です。





今年の初めに息子と道後温泉に行きました。名古屋からなので、長い旅路です。そして、もうすぐ松山駅に着くという手前で、乗車していた列車が事故で止まってしまいました。2時間遅延したら料金払い戻しと言うところでしたが、結局は、1時間50と何分かの遅れでした。

まあ、それは良いのですが、

車掌さんが通るたびに近くの客が様子を聞きます。初めは、踏切で人身事故が起きたと。

息子と、
「なんだかこの頃よく踏切事故が起こるねえ。」と言う会話を。「よくじゃなくて、起きる可能性が、割合が増えたんだよね。」

そうなんですよね。文明の利器の発展によって、「人間力」が落ちてきたのかなあ~。というのは「またの話」という事で、今回は関係ないのですが。

次の情報は、それが子供だったというものでした。そして、死亡したと。警察の鑑識があるから時間がかかりそうとの事。

息子と二人で「酷いことだねえ~。」と。

わたしが、
「子供が死んだら、世界で一番目の年寄りが代わりに死ぬというのはどお。神様は何とかしてくれないかねえ。」と言うと、「それは無理。」と。

「でもさあ、年寄りは何かあると『代われるものなら、わたしが代わってあげたい。』と言うよ。わたしがこどもを生んだ時でもさあ、あなたの事だけど、わたしがウンウン呻っていたら、掃除のおばさんが『代われるものなら、代わってあげたい。』と言ったよ。心の中で、代わってくれ~と叫んだよ。」

「あなた、相当年寄りに悪意があるんじゃないの。」と言われました。

しかし、如何にも勿体なくありませんか。









2019年5月2日木曜日

今月から毎日UPしようと思い立ったが、すでに2日になっていた。








今年の初めにいつもの手帳の代わりに10年日記を買った。どうせ大したスケジュールはないので、「何が起きたか」の方を記録しておこうと思ったからだ。毎年の出来事を比べることが出来るのも面白いかもと。こちらの方は、まあまあ順調に書けている。

その一年目に平成から令和に元号が変わったのは、「ちょっとした出来事」だと感じる。つまり、令和元年から10年までの日記となるからだ。10年書き続けることは出来そうだが、次の10年はどうだろうか?

年齢と共に、この先の年月を勘定してしまう。例えば次の東京オリンピックの時は、まだわたしは生存しているだろうとか。AIのシンギュラリティの年はどうだろうかとか。二十歳の時は、20年後の40歳のことなど想像だにしなかった。40歳の時には、60歳になるのは、遠い先の事と思っていた。そして、今、わたしは容易に「20年後のわたし」を考え、想像し、その「わたしの存在」そのものも疑ってしまう。


そうそう、年齢と共に「恐怖心」も出てきた。出てきというより、恐怖心を理解したのだろう。「痛み」を知ったという事か。今年の初めに息子と会った時に、そんな話をしていて、

「ねえ、まだバイオハザードのプレーできる?わたしはもうできないよ。もう怖くて。」
息子は、
「出来ないよ~。前、バーチャルリアリティーでゲームをしたら、メッチャ怖くて、即やめた。」と言った。








2019年4月22日月曜日

「大江を読む」って何?





『飼育』  大江健三郎著





先日、新聞を読んでいたら、いとうせいこうが、『大江を読む』というコラムを書いていました。「大江って何?」と思ったら、大江健三郎の事でした。彼も「大江」と言われるようになったのかと……、複雑な心境。過去の人になってしまったのか、あるいは、「大江」と言われるほどの権威者になってしまったのか。



そういう訳で、そのコラムはでは違う作品が取り上げられていましたが、わたしは『飼育』を読み直しました。



大江健三郎氏初期短編集の3作目の短編です。昭和33年に書かれた作品で、大江健三郎氏は、これで芥川賞を受賞しました。










簡単に粗筋を書きますと、第2次世界大戦の頃、田舎に住む少年の村に、米軍機が落ちてきます。3人の乗組員のうち黒人兵ひとりのみがパラショートで脱出し、生き延びます。村人たちは山狩りをし、黒人兵を確保します。村の代表が町役場まで出かけそのことを報告しますが、町の役人たちは責任逃れで、結論はでません。少年の父親は猟師ですが同時に村の実力者です。彼が、その黒人兵を町役場の結論が出るまで「飼う」ことになります。



少年の家の地下倉で彼は飼われることになりました。少年が食事を運んだりと、彼の世話を引き受けることに。町役場の方は、町の役場と駐在だけでは、捕虜をどのようにしたらよいか判断できないので、県庁の結論を待つと。県庁が結論を出すまで、村で黒人兵を預かっておくようにということ。



こうして、少年とあるいは村人と黒人兵の交流が始まります。交流と言っても黒人兵は家畜のようにただ養われるだけでしたが。しかし、ここで興味深いのは、捕虜が黒人であったということ。村人の白人に対する感情と黒人に対する感情は、違ったものであると言う事実です。つまり、彼らは黒人を見下していたので、かえって彼に対しての親しみが生みだされたのでしょう。



県庁の結論が出る日が来ました。黒人兵を県に引き渡すというものです。しかし、県は護送する為の兵は出せないので、村人が捕虜を県庁まで連れてくるようにと。その村人たちの動揺に黒人兵が反応し、彼は少年を人質に地下倉に閉じ籠もります。少年は、今まで親しく付き合っていた彼に捕虜にされたことに、怒り、屈辱、裏切られた苛立たしい哀しみ、恐怖に包まれます。



村人たちは、地下倉に続く揚蓋を砕く作業を進めます。追いつめられた黒人兵は、凶暴さを見せ始め、少年の首に手を掛けます。彼が少年の首を絞め始めた時、少年の父親が揚蓋を鉈で打ち破り、黒人兵の頭めがけて、鉈を振り下ろします。黒人兵は、鉈を避けるために少年の左腕を掴み自分の頭の上に。父親の鉈は振り下ろされ、黒人の頭を砕きました。少年の左腕とともに。











というところで、わたしの感想は(内容とは関係ありませんが)、「戦争」です。以前UPした、ブレヒトの『アンティゴネ』も第2次世界大戦を過ごしたブレヒトが、その思いをギリシャ悲劇『アンティゴネ』で表現していました。大江健三郎も戦争を過ごしてきました。つまり、あの頃の作家(あるいは芸術家)は、戦争というものを無視できなかったのです。戦争を抜きにして何かを表現することは出来なかった…。



芸術は「今」何を表現するのか。人間性を失いつつある「人の精神」の葛藤か。小説はリアリズムを失ってしまったと言われています。リアリズム小説でまだ感動を与えられるのは、ラテンアメリカ文学の「マジックリアリズム」のみと。しかしそれは、南アメリカにはまだ、表現するに足りるリアリズム社会が残っているからだと思います。アマゾンの源流には、自然とともに暮す人々がいる。また、そのほんの隣に文明社会が存在する。その混在一体感が、小説のリアリズムとなり得ます。



また、現代の中国文学も興味深いリアリズム小説となっていると思います。それは、中国の田舎の自然と都会の超近代化の混在かも。『愉楽』は面白かったです。西欧諸国の倦み疲れた病んだ社会の小説より、これからまだまだ、アフリカ諸国とかアジアの小説などが活躍しそうな…、と思った次第です。



2019年4月21日日曜日

大変です!!!









先日テレビを見ていましたら、細胞の培養によって肉ができる技術が完成したと言っていました。食べる肉です。世界の人口の爆発的増大で、今は75億人でしょうか、将来的に食料が不足します。その時のために、いろいろな人が代替食品を考えている訳です。



ユーグレナなどもそうですが、その番組では、大豆による模造肉と「本当に肉を造る」という2種類を紹介しました。大豆の方は、進化はしたものの、今まで通りの「肉に真似た」食品です。食品会社の研究です。



しかし、「本物の肉」の方は、アメリカとも研究協力をしているベンチャー企業。今までは、肉を100g造るのに、2000万円くらい掛かっていたそうですが、今回は、肉の細胞を培養する培養液を開発。培養液もその動物の内臓などを作りそこから作成される「本物の液」を使用します。



彼等は、実際ハンバーグを作り、食べる映像をオンエアーしていました。3~4年でコストを下げて、5~6年で市販できるようにするそうです。最初は、高くても買える人をターゲットに「フォアグラ」から始めると言っていました。








何か間違っていません???



第一に、本物の肉はいかがなものでしょうか。肉の食べ過ぎで肥満が蔓延している現在、肉を造ってどうするの。少々、味は劣っても、大豆の肉の方が健康的ではないですか。第二に、世界の飢えた人を救うために「フォアグラ」とは如何に。



最後に、内臓や肉まで創り出したら、『人造人間キカイダー』は、もう眼の前ですね。という事です。




2019年4月15日月曜日

マーク・トウェインの作品は簡単で読みやすいが一筋縄ではいかぬ。



IS HE LIVING OR IS HE DEAD ?





MARK TWAINの短編小説の題名です。『THE COMPLETE SHORT STORIES OF MARK TWAIN』の中の一編です。MARK TWAINの作品は、大好きで読んでいる訳ではありません。英語の勉強の一環として読んでいます。が、他の作品を読むよりは興味を持って読むことは出来ます。



MARK TWAINの生き方に興味があるのです。MARK TWAINは、一般的には子どもの読み物とか「オモシロ話」として受け取られていそうです。実際、童話や子供向けの「ほら話」などの本によく取り上げられていますから。『トムソーヤの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』などから、わたしの周りの人も、「ああ、あの童話を書いている作家。」といった感じの認識です。



しかし彼の作品は、もっと皮肉っぽいものです。話の筋が単純なので子供向けと思われているのだろうか、あるいは、日本語に翻訳されて紹介されている彼の作品が、少々毒気を抜かれているのだろうか。晩年の作品は、そんな彼のシニカルな面が強く表れてきています。実際、人間嫌いになって、ひとり静かに死んでいったようです。



EUが公用語を決める時に、英語が第一公用語になりました。その時、英国のブレア首相が、「英語を徐々にわかりやすく直していく…」、と演説したという話が、まことしやかにネット上に蔓延しました。例えば、「カと発音するCは、Kに変える」というような。CANDYならKANDYのように。また、thの発音はなくすとか、完了形をなくすとか。等々。



わたしは、「うまくできているなあ…、ほんとにそうだ、そうするべきだ。」と大賛成。でも、その後、そのネットの話のネタがMARK TWAINの原稿によっていると知りました。その時から、MARK TWAINがホントはどんな人なのだろうかと興味を持ったのです。











THE COMPLETE SHORT STORIES OF MARK TWAIN』の作品は、お話は単純で単語も難しくはなく、英語の勉強には向いていると思います。が、単語が古いということはあります。そして、簡単な物語は、読んでいてフンフンと読み流してしまいそうですが、一筋縄ではいきませんよ。まるで落語のようにオチのある話もあります。



もうひとつ彼の作品が単純と思われるのは、時代のせいではないでしょうか。彼の生きた時代は1835年から1910年。彼が著術をしていた時は、まだ19世紀末の洗礼を受けていなかったのです。まだまだ資本主義社会も成熟しておらず、人々の苦悩も複雑化していない頃、と思うのですが。



IS HE LIVING OR IS HE DEAD ?』は、貧乏な才能ある若い画家達が自分たちの作品が売れないのは、世間の人が死んだ画家の作品を珍重するからだと考え、仲間の画家のひとりの死亡をでっちあげて、その人の作品を売り出そうというもの。その画家の名前がなんと「ミレー」です。フランスの有名な画家。このお話はフランスが舞台で、昔の小説にありがちな高級リゾートホテルの客の会話という態を取っています。



聞き役の紳士と語り役の紳士。その語り役の紳士が、画家の仲間の一人です。これは今まで誰にも言わず、秘密にしてきたが、もう話しても良いだろうと偶然同じテーブルに坐った紳士に語り始めます。彼らは、ひとりの仲間の死をでっちあげて、彼の描いた作品の値を吊りあげて来た。世間の人々は、作品の本当の価値ではなく、ちがう要素で作品を売買するということですね。そして、彼らは大金持ちになり、こんな高級ホテルにも宿泊できるようになったのだというお話。オチは、「さっき、目の前を通った紳士がミレーなのですよ。」というもの。



MARK TWAINの活躍した時代は、まだ現代の苦悩を知らなかった。ダダイズムも不条理演劇もシュールリアリスムもまだなかった。これらのムーヴメントは大衆の愚かさを揶揄したのでした。しかし、大衆の力は強い。そんな揶揄など吹き飛ばしてしまいました。「芸術」などという物は、もはや存在しない。あるのは、コマーシャリズムだけです。大衆に受け入れられないものは、作品としての価値はないのです。



MARK TWAINは、そんな世の中をシニカルに先取りしました。








2019年4月5日金曜日

人類とは違う「知性」の在り方



『愛しのオクトパス――海の賢者が誘う意識と生命の神秘の世界』





この本の著者は、アメリカの作家でナチュラリストということ。サイ・モンゴメリーさんです。彼女は、タコに興味を持ち水族館を訪れました。タコは人を見分けることができるらしく、彼女はすぐにタコに気に入られました。タコは好きな人間には腕を伸ばして絡ませるそうです。タコの吸盤には味覚を感じる能力があり、触れて相手の味がわかるのです。その味で誰かを見極めるのでしょうね。なんだかとてもeroticですねえ。吸盤が彼女の腕に吸い付くさまは、さながら恋人同士のよう…、と書かれています。



もともとタコは知能が高いと言われています。少々前の話ですが、サッカーのワールドカップで、スペインのタコが勝敗の予想をしているというニュースが流れたことがありました。もちろん、タコが予想をしているわけではありませんが。水槽に鍵をかけても簡単なものは開けてしまうとか、夜中に這い出して隣の水槽の魚を食べて、朝には自分の水槽に戻っているとか、そんなような話はよく聞きますよね。









この本には4匹のタコが登場します。そのそれぞれが違った個性を持っていることはもちろんの事、それ以上に興味深いのがタコの腕にはそれぞれにニューロンが集中し「脳のような」働きがあるという事。そして、腕それぞれが独立して行動しているので、「内気な腕」とか「積極的な腕」があると言われています。そう言えば、あの図体のでかい恐竜が、手足をその貧弱な脳でコントロールできたのかの答えは、4つの足にそれぞれ脳のような機関がある…と、いうことを思い出しました。



著者は、水族館でこのような聞き取りをし、新しい知性の可能性を感じます。このような話を聞くと、人類が万物の霊長であると豪語するのは「驕りである」と、いつも感じます。昔の人は、そのような万物からの知性を感じていたはず。いつの間にか、人類はどんどん増長していったんですねえ。神がいなくなって、科学が「宗教」となってしまってからなのでしょうか。



以前、『植物は「知性」をもっている』という本を読みました。植物は植物なりの知性を持っている。それは、人間の「知性の在り方」と異なるので、人間は植物が知性を持っていることを気付くことができないのだ…、という結論。もし、宇宙人が地球に遣って来ていても、人類の知性と異なる「知性」の持ち主であったなら、人間は彼らを知性ある宇宙人と認識することはない。あるいは、できない。つまり、人間は謙虚に我々の知性がこの世で「唯一の知性」ではないと気付くべきである。



あるいは、他の生物は我々人間を利用して繁殖しているのであるとも言える。我々は彼らを利用していると思っているが、逆にコントロールされていたりして…。そこまで言うと、SFになっちゃうかな。





2019年3月15日金曜日

こんなひと言――見つけちゃいました。





今読んでいる本から―――








フィリップ・K・ディックの『ガニメデ支配』を読んでいます。R・ネルスンとの共作なのですが、欧米のSFでは、共著は珍しくないとの事。しかし、ディックの力の方が相当勝っているようで、他のディックの作品と変わりありません。



家を改築中で、家に「滞在」していなければいけない事が多いので、この本を読み始めました。まだ途中ですが、「なるほど」と思った一言を紹介します。








「黒人は宗教さ!」



ディックのお話は、黒人とかどういう訳か「ジャップ」とか人種の事が良く現れます。この場面はこんな風です。



「<黒人>て言葉はなにを意味すると思う、裏切り女さんよ?人種か、それとも宗教か?」

「人種に決まっているでしょ」

「黒人は宗教さ、ユダヤ人と同じにな。白人もそうだ。白人教を別のひと言で表わすとなんになると思う?」

「知らないわよ」ジョーンは警戒しながら返した。

「<偽善>だ」



ガニメデ星人から地球を守る抵抗勢力の指導者、黒人のパーシィXとガニメデのスパイとして彼に接触する日系アメリカ人のジョーン氷芦の会話です。





これを読んで、何かに「人類に人種は存在しない。」と書いてあったなあと。『ヒトの変異』だったと思います。人は住む場所によって「色や体形」がその土地の環境に影響されているだけで、人の違いは「文化」であると。そんなような意味だった――です。





ナ・ル・ホ・ドです。





2019年3月11日月曜日

予告したのとは違う本の感想ですが……

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『我々はなぜ我々だけなのか』





この本は、一月末に読みました。温泉旅行に行って、時間があったからです。感想文を書く思いはありましたが、なかなか書けず仕舞い。そうこうしている内に、先日この本の書評が新聞に掲載されました。



そこに「新書」とあったので、「あれ~、もう新書になっちゃたんだあ。」――これは、早く感想文を書かねばと。でも、勘違い。わたしの本も新書でした。つまり初めから新書の相当売れ行きの良い本だったのです。という訳で、時代に乗り遅れないように感想文、書きます。






新聞の書評の題は、「原人に肉薄する科学者たち」です。我々ホモサピエンスは、現在は、地球上にただ一種。しかし、およそ200万年前に「原人」と呼ばれる人類がアフリカから出た後、さまざまな原人が世界中に住みついたのです。つまり、「亜人種」と言われる、ホモサピエンスと非常に近い人類です。そして、なぜ今、地球上には「我々しか」いないのか。



その理由は、まだまだ研究途中ですが、本書はどこまでその研究が進んでいるのかという内容です。また、それ以上に興味あることは、今までの本は、ネアンデルタール人に代表されるように、ヨーロッパの亜人種についての研究でしたが、本書は「アジアにおける人類の進化」がテーマです。アジア人として、興味が湧きませんか。



アジアには北京原人、ジャワ原人ばかりでなく、「第4章-フローレス原人の衝撃」や「第6章-台湾の海底から」、また、ロシアのデニソワ洞窟からは、10万から5万年前頃のデニソワ原人が発見されており、同時期にネアンデルタール人も存在していたことがわかっています。私たちは、以前は一人ぽっちではなかった様です。








わたしの第一の疑問は、人類は約20万年前にアフリカから脱出して世界中に居場所を拡大していきましたが、なぜその前に違う人類が世界中にいたのか―――でした。実際、第一回目の人類のアフリカ脱出は、ネアンデルタール人に阻まれました。二回目の挑戦で成功したのです。



本書によりますと、チンパンジーがボノボと別れた700万年前頃に人類である原人が生まれました。人類の歴史は、だいたい、初期の猿人、猿人、原人、旧人、新人となります。この区分は学術的なものではなく、一般向けの理解を助けるための用語です。英語にはないのですが、人類進化の流れを理解するには便利そうです。



300万年から200万年前の間にアフリカで原人が誕生します。ホモ・ハビリスです。ホモ・ハビリスはアフリカに留まっていましたが、ホモ・エレクトスが「出アフリカ」を果たしました。という訳で、ホモサピエンスがアフリカ脱出を図った時、すでに、亜種人類がユーラシア大陸に存在していたのですね。



この辺の事情はとても複雑で、いろいろ疑問が湧いてきます。現在では「アフリカ単一起源説」が確立していますが、これも21世紀に入ってからの事でした。それ以前には、それぞれの地域にいた原人から人類が進化してそれぞれの人種、つまり白人、黄色人種、黒人なんてこと?―――になったという説もありました。「是非、本書を御一読下さい。」と言うほかないです。



もうひとつ興味深いのは、以前、ネアンデルタール人のDNAが現人類にも存在し、ネアンデルタール人と我々の交雑があったと確認されています。クリスチャンには耐えられないような真実です。そのように、アジアの中の原人、ジャワ原人、北京原人、フローレス原人等々が我々の内にあるかもしません。その意味では「我々は一人ぽっちではなかった。」と言えるかもと、本書は指摘しています。













2019年3月3日日曜日

少々、GIVE UP

2月は、1回しかブログを更新できませんでした。

ここで、弱音を吐きますと、今、囲碁の昇段がかかっているのです。文章を書く余力がありません。

しかし、予告だけしておきます。

次回は(今度こそ)、『アナキズム入門』の感想文を書きます。

自分を追い込んで目標を達成するという、いつものパターンでありますが。






2019年2月10日日曜日

あのラヴクラフト以前にこんな人がいたのだ。

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The White People and other stories。作者はArthur Machen。この作者の事は何も知らないのですが、1887年から1901年という少々昔に書かれた作品です。何故この本を選んだかは、あのH.P.Lovecraft が「真ク・リトル・リトル神話体系」の構想を彼から得たと読んだからです。



で、読み始めてみて、単語はそんなにむつかしくないのに何故か意味がわからない。S.T.Joshiという人がIntroductionを書いているのですが、それをすっ飛ばして読んでいたので、これはIntroductionを読んでみなくてはなるまいと、読んでみました。そうすると何故かがわかりましたね。この本が書かれた時代のモラルです。今のようになんでもかんでも赤裸々に書いてある訳ではないんですね~~~。









表題のThe White People についてこのように書かれています。



This story----in which a young girl unwittingly reveals in her diary her inculcation into a witch-cult and, evidently, her impregnation by some nameless entity----transmogrifies illicit sex into a cosmic sin that will either lift us up into the ranks of the angels or plunge us down into the company of demons. And yet, Machen’s exposition of the details of the matter (especially the sexual element) are so indirect that many readers have been puzzled as to the exact nature of the scenario.



それでこれを読んだ一読者も理解できなかったので友達のラヴクラフトに尋ねたそうです。答えがこれ。



On account of a sympathetic action like that described in the prologue, the now-adolescent child----though without contact with any creative element----became pregnant with a Horror, to whose birth (knowing what she did of dark tradition) she could not look forward without a stark frenzy far beyond the fear of mere disgrace. Thus she killed herself.



そしてこのことが我々読者にわかるのは作者が最後に書いている------She had poisoned herself, in time. のフレーズのみなんです~~~。わたしにはラヴクラフトのような友達はいませんから、お手上げです。でも、詩と散文の間のような文章にはとても惹かれます。とうてい自分には書けないと思うけど、何かをつかみたいなあと、英語の本を読む事に日々苦悩しております。(石の上にも三年。の心境)







2019年1月21日月曜日

昨日の続きです。。。


我々が(ノン・イングリッシュ・スピーカー)英語を学んでいるのは、ネイティブ・イングリッシュ・スピーカーのためではない、ということを、言うのを忘れていました。

だいたい、人々の間で英語が話されるのは、英語が母国語ではない人々同士の方が、英語が母国語である人同士より多いという統計があります。そして、英語を話している人口は世界で一番多いわけではなく、ご存知の通り、中国語が一番。そして、スペイン語か英語。統計により違う。

つまり、英語は世界共通言語として、今、機能しているという事です。しかしそれは、時代の局面によって変化するという事。SF小説では、中国語が世界言語になっていると言うものもあります。『未来世紀ブラジル』という映画がありました。もし、ブラジルが世界で強力な位置にある国になったなら、世界言語はポルトガル語ということか。

そして、英語に関しても、どこの英語がメインかという事は、世界における立場によって変わります。今、アメリカ英語が世界共通と日本では思われているかもしれませんが、アメリカ英語は、アジア主体です。ヨーロッパでは、今尚、ブリティッシュ・イングリッシュ。

いくらイギリスが落ち目でも、ヨーロッパはアメリカには追従しませんよ。経済的にはするかもしないが、文化的にはどうでしょうか。この伝で、カナダが主流国になればカナダ英語が主流になるという事。オーストラリアしかり。ニュージーランドしかり。フィリピンしかり。マレーシアしかり。南アフリカ共和国然り…、云々かんぬん。







だから、言いたいことは、英語が世界言語だというのなら、英語を統一してほしい。統一した英語を世界言語として普及してもらいたい。今、色々な国で英語を学ぶと、アメリカ人の先生は、イギリス英語を理解していないし、イギリス人の先生はアメリカ英語を理解していない。その他の国の英語圏の人は、その立場によってアメリカ英語かイギリス英語かを選んでいる。

彼等は、事実、理解しているかもしれない。が、認めない。可哀そうなのは、生徒です。そのはざまで、ある時はそれは英語ではないと言われ、ある時は正しいと言われる。

が、こんなこともこのご時世、お終いになるかもと、推測します。Internet of Things で、AIと何かの器機、そして自動翻訳が充実すれば、他言語など学ばなくてもよくなるかも。そして、その時が、英語が、学問として学ばれる時かもと。


そして、わたしは、英語を研究していますと言える時かもと。








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2019年1月20日日曜日

謎ですね~。

全然、このブログ更新できず、悩んでいます。

が、

全然、UPしていないのに、突然、ビジターが一日で、300人を超えました。UPしない場合、たいていは、一日、10人から20人です。

そして、

突然、ヨーロッパ諸国の一部がグリーンに染まりました。ビジターが多い国が緑に染まります。淡い緑から濃い緑まで。

何か、突然、ロシアが濃い緑になることもあります。が、今回はヨーロッパ。位置から見て、モロッコの向かい側なので、フランスかなあ~~、わかりません。









更新したい意志はあります。

『折々のことば』(朝日新聞コラム)で、

「彼らがわたしのいう事がわからないのはわかろうとしないからだ。」 
 ーーージュンバ・ラヒリ

こう言うのを見つけました。インド系米国人の作家だそうです。

わたしは、「そうそう、いくら英語を勉強して、イングリッシュ・スピーカーに話しかけても、彼らがわたしのことに無関心なら、聞いていない。」と。

正しい英語を話しても会話は無理だという事を言いたい。が、私が言っても、誰も信じないので、こんな人に言ってもらえると嬉しいなあ~、という事を書きたいです。聞いてくれるのは、ショップの人とか、ナンパしてくる人だけです。

「聴くことは他者を人として尊重することであるから。」と。


そんなこんなで、書きたい題材はあるわけですが、熟成する時間がない。囲碁を優先しているから。


言い訳でした。






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