2018年2月25日日曜日

モロッコに行きま~す。

今月中に、ブログをUPしたかったのですが、28日にモロッコに旅立ちます。これが、ブログ・UPと言えるといいですが。

今回はツアーです。2009年にエジプトにツアー旅行に行ってからの、2回目。申し込んだものの、ツアーは大変です。朝の出発が早い。あさ8時出発で、何時に朝ご飯を食べるの?

行く前から、少々疲れ気味。

でも、まあ、行ったら行ったで、楽しかったあ~、となるのでしょうけど。どうかな?







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2018年2月11日日曜日

なんだか、わたしも哲学者か。


読書ノート


先日、本棚をプラプラと探索していたら、いつ書いたかわからない読書ノートを見つけた。中を見てみると、なんだか素敵な事が書いてあった。わたしにこんなこと書けるわけがないので、何かの本の書き写しと思う。



「人間は、哲学によって、人間であることから解放される。」



こう書いてあった。



多分、別冊宝島44『現代思想・入門――サルトルからデリダ、ドゥルーズまで、知の最前線の完全見取り図!』のノートと思う。中を見ると1985年発行とあった。約30年前だ。今はもう「最前線」ではない。この後にポストコロニアリズムやカルチャラル・スタディが続いて行く。



この頃は訳もなく、全然理解しないまま、心に引っかかったフレーズを書きとめていたのであろう。今は、少しわかるような気がする。人間は言葉を発明して以来、物事を抽象化し続けている。この抽象化したものと現実実体の乖離を埋めるものをヒトは探し続けているのだということがわたしにもわかってきたからだ。










デカルトは「認識と実在としての対象の一致は、神によって保証されている。」と言う。神が存在していた時代はこれでよかった。人が神を信じなくなってからは、人類は自らの手でこの問題を解決しなくてはいけない。そして、今なお哲学者と言われる人たちは、この問題に取り組んでいるのだ。



フーコーは、その著書『言葉と物』の中で、エピステーメの三つの時代について述べている。

1.ルネッサンス期とバロック期:言葉と事物が一致していた時代から、裂け目ができ始めた時代

2.古典主義の時代(17世紀前半~18世紀末):言葉と事物が分離し、言葉が事物の記号となった時代

3.19世紀以降のいわゆる近代:「人間」という中心的概念の要求





人間は、確かに宇宙の一部であった。しかし、近代が「合理的理性」を人間の土台に据えたため、人間は自分の中から「自然」を排除し始めた。それは永遠に到達できない目標である。銀河鉄道999の星野鉄郎のように機械の身体を求め続けて行くとでも言うのであろうか。







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2018年2月1日木曜日

J.G.バラードの世界は、美しく崩れていきます。



J.G. Ballard ―― The Drowned Giant 『溺れた巨人』





「英語による読書会らしきもの」のクラスに通っています。次回は、わたしが選んだ小編を皆で読むことになっています。それが、JGバラードの『溺れた巨人』です。自分が選んだものを皆に読んでもらうと言うのは、想像以上になにか罪悪感と「不安な感情」をもたらします。つまり、「このような内容の本を皆に読ませても良いのだろうか。」という感情です。読む事が「強制」ですからね。



バラードは一般的にはあまり知られていないようですが、彼が亡くなった2009年には、朝日新聞が特集を組みました。彼の2~3の作品は映画化もされています。スピルバーグの『太陽の帝国』は見る気にもなりませんが、クローネンバーグの『クラッシュ』は2回ほど見ました。



JG・バラードはわたしの大好きな作家です。高校生の頃、『時間都市』を読んで虜になってしまいました。続いて『時間の墓標』を読み進み、その後は、翻訳された本を買い漁る日々。英語の原文で読めるようになってからは、このThe Best Short Stories of J.G. BallardRunning Wild を読みました。



わたしが最初に読んだ本、『時間都市』と『時間の墓標』は、日本の題名で原題は違います。Billenium Terminal Beach です。日本語で「時間」と訳されたように、彼の関心は「時」です。それから崩壊。『沈んだ世界』The Drowned Worldや『燃える世界』The Crystal World、『結晶世界』The Burning Worldは、破滅三部作とも呼ばれています。人類の発展、そして、その「発展」故に破滅していく様子が「時」というものに絡められて、とても美しく語られます。



彼の近年の作品で三部作と言われているものに『クラッシュ』、『コンクリート・アイランド』、『ハイ‐ライズ』があります。それこそ、高度に発達した社会で、何か崩れて行く「人間性」を表現しているのか、と思います。つまり、わたしの感想は「時間」と「崩壊」と「テクノロジーによる人間崩壊」が、彼の表現したい事ではないのかと言うことです。











この『溺れた巨人』も、嵐の後に海岸に打ち上げられた巨人の死体が海岸に放置され、崩壊して行く様を観察者としての主人公が、ただ見守っている内容です。ここでも、「時」と「崩壊」と「人間性」が絡み合っています。マッコウクジラのように巨大な人間の死体を前にして、人々ははじめ恐れ慄きます。が、それも束の間の事。人々は、巨人の死体の上で、観光気分。若者たちは、死体の上で焚き火をしたり、遊園地の如く走りまわります。そして、最終的には、まだ海岸に巨人の「名残り」が存在しているにもかかわらず、巨人が存在したということをも忘れ去られます。街のそこここには、サメの顎骨の飾り物の如く、巨人の肋骨やなめした皮膚が飾られます。それも、巨人のものとは自覚されずに。巨人は衝撃と共に海岸に現われて、時の過ぎゆくままに忘れ去られて行く――そして、人々は、日々の生活に暮れるのみ。



観察者としての主人公は、この巨人の崩壊の過程と共にこの巨人を見物に来た人々をも観察し描写します。



彼は同僚(図書館員)から巨人を監視してレポートを書く任務を押し付けられます。同僚は彼が、そうすることが好きだと見抜いているから。彼も「そうだ」と認めます。そして、こんな風に表わされています。



Perhaps they sensed my particular interest in the case, and it was certainly true that I was eager to return to the beach.  There was nothing necrophilic about this, for to all intents the giant was still alive for me, indeed more alive than many of the people watching him.----------,Whatever else in our lives might be open to doubt, the giant, dead or alive, existed in an absolute sense, providing a glimpse into a world of similar absolutes of which we spectators on the beach were such imperfect and puny copies.



もう一ヵ所、心に残った文章があります。



This accelerated postmortem development of the giant’s character, as if the latent elements of his personality had gained sufficient momentum during his life to discharge themselves in a brief final resume, continued to fascinate me. It marked the beginning of the giant’s surrender to that all-demanding system of time in which the rest of humanity finds itself, and of which, like the million twisted ripples of a fragmented whirlpool, our finite lives are the concluding products.





引用が長くなりました。とにかく、良い文章が読めて、楽しい時を過ごせました。










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