2019年4月22日月曜日

「大江を読む」って何?





『飼育』  大江健三郎著





先日、新聞を読んでいたら、いとうせいこうが、『大江を読む』というコラムを書いていました。「大江って何?」と思ったら、大江健三郎の事でした。彼も「大江」と言われるようになったのかと……、複雑な心境。過去の人になってしまったのか、あるいは、「大江」と言われるほどの権威者になってしまったのか。



そういう訳で、そのコラムはでは違う作品が取り上げられていましたが、わたしは『飼育』を読み直しました。



大江健三郎氏初期短編集の3作目の短編です。昭和33年に書かれた作品で、大江健三郎氏は、これで芥川賞を受賞しました。










簡単に粗筋を書きますと、第2次世界大戦の頃、田舎に住む少年の村に、米軍機が落ちてきます。3人の乗組員のうち黒人兵ひとりのみがパラショートで脱出し、生き延びます。村人たちは山狩りをし、黒人兵を確保します。村の代表が町役場まで出かけそのことを報告しますが、町の役人たちは責任逃れで、結論はでません。少年の父親は猟師ですが同時に村の実力者です。彼が、その黒人兵を町役場の結論が出るまで「飼う」ことになります。



少年の家の地下倉で彼は飼われることになりました。少年が食事を運んだりと、彼の世話を引き受けることに。町役場の方は、町の役場と駐在だけでは、捕虜をどのようにしたらよいか判断できないので、県庁の結論を待つと。県庁が結論を出すまで、村で黒人兵を預かっておくようにということ。



こうして、少年とあるいは村人と黒人兵の交流が始まります。交流と言っても黒人兵は家畜のようにただ養われるだけでしたが。しかし、ここで興味深いのは、捕虜が黒人であったということ。村人の白人に対する感情と黒人に対する感情は、違ったものであると言う事実です。つまり、彼らは黒人を見下していたので、かえって彼に対しての親しみが生みだされたのでしょう。



県庁の結論が出る日が来ました。黒人兵を県に引き渡すというものです。しかし、県は護送する為の兵は出せないので、村人が捕虜を県庁まで連れてくるようにと。その村人たちの動揺に黒人兵が反応し、彼は少年を人質に地下倉に閉じ籠もります。少年は、今まで親しく付き合っていた彼に捕虜にされたことに、怒り、屈辱、裏切られた苛立たしい哀しみ、恐怖に包まれます。



村人たちは、地下倉に続く揚蓋を砕く作業を進めます。追いつめられた黒人兵は、凶暴さを見せ始め、少年の首に手を掛けます。彼が少年の首を絞め始めた時、少年の父親が揚蓋を鉈で打ち破り、黒人兵の頭めがけて、鉈を振り下ろします。黒人兵は、鉈を避けるために少年の左腕を掴み自分の頭の上に。父親の鉈は振り下ろされ、黒人の頭を砕きました。少年の左腕とともに。











というところで、わたしの感想は(内容とは関係ありませんが)、「戦争」です。以前UPした、ブレヒトの『アンティゴネ』も第2次世界大戦を過ごしたブレヒトが、その思いをギリシャ悲劇『アンティゴネ』で表現していました。大江健三郎も戦争を過ごしてきました。つまり、あの頃の作家(あるいは芸術家)は、戦争というものを無視できなかったのです。戦争を抜きにして何かを表現することは出来なかった…。



芸術は「今」何を表現するのか。人間性を失いつつある「人の精神」の葛藤か。小説はリアリズムを失ってしまったと言われています。リアリズム小説でまだ感動を与えられるのは、ラテンアメリカ文学の「マジックリアリズム」のみと。しかしそれは、南アメリカにはまだ、表現するに足りるリアリズム社会が残っているからだと思います。アマゾンの源流には、自然とともに暮す人々がいる。また、そのほんの隣に文明社会が存在する。その混在一体感が、小説のリアリズムとなり得ます。



また、現代の中国文学も興味深いリアリズム小説となっていると思います。それは、中国の田舎の自然と都会の超近代化の混在かも。『愉楽』は面白かったです。西欧諸国の倦み疲れた病んだ社会の小説より、これからまだまだ、アフリカ諸国とかアジアの小説などが活躍しそうな…、と思った次第です。



2019年4月21日日曜日

大変です!!!









先日テレビを見ていましたら、細胞の培養によって肉ができる技術が完成したと言っていました。食べる肉です。世界の人口の爆発的増大で、今は75億人でしょうか、将来的に食料が不足します。その時のために、いろいろな人が代替食品を考えている訳です。



ユーグレナなどもそうですが、その番組では、大豆による模造肉と「本当に肉を造る」という2種類を紹介しました。大豆の方は、進化はしたものの、今まで通りの「肉に真似た」食品です。食品会社の研究です。



しかし、「本物の肉」の方は、アメリカとも研究協力をしているベンチャー企業。今までは、肉を100g造るのに、2000万円くらい掛かっていたそうですが、今回は、肉の細胞を培養する培養液を開発。培養液もその動物の内臓などを作りそこから作成される「本物の液」を使用します。



彼等は、実際ハンバーグを作り、食べる映像をオンエアーしていました。3~4年でコストを下げて、5~6年で市販できるようにするそうです。最初は、高くても買える人をターゲットに「フォアグラ」から始めると言っていました。








何か間違っていません???



第一に、本物の肉はいかがなものでしょうか。肉の食べ過ぎで肥満が蔓延している現在、肉を造ってどうするの。少々、味は劣っても、大豆の肉の方が健康的ではないですか。第二に、世界の飢えた人を救うために「フォアグラ」とは如何に。



最後に、内臓や肉まで創り出したら、『人造人間キカイダー』は、もう眼の前ですね。という事です。




2019年4月15日月曜日

マーク・トウェインの作品は簡単で読みやすいが一筋縄ではいかぬ。



IS HE LIVING OR IS HE DEAD ?





MARK TWAINの短編小説の題名です。『THE COMPLETE SHORT STORIES OF MARK TWAIN』の中の一編です。MARK TWAINの作品は、大好きで読んでいる訳ではありません。英語の勉強の一環として読んでいます。が、他の作品を読むよりは興味を持って読むことは出来ます。



MARK TWAINの生き方に興味があるのです。MARK TWAINは、一般的には子どもの読み物とか「オモシロ話」として受け取られていそうです。実際、童話や子供向けの「ほら話」などの本によく取り上げられていますから。『トムソーヤの冒険』や『ハックルベリー・フィンの冒険』などから、わたしの周りの人も、「ああ、あの童話を書いている作家。」といった感じの認識です。



しかし彼の作品は、もっと皮肉っぽいものです。話の筋が単純なので子供向けと思われているのだろうか、あるいは、日本語に翻訳されて紹介されている彼の作品が、少々毒気を抜かれているのだろうか。晩年の作品は、そんな彼のシニカルな面が強く表れてきています。実際、人間嫌いになって、ひとり静かに死んでいったようです。



EUが公用語を決める時に、英語が第一公用語になりました。その時、英国のブレア首相が、「英語を徐々にわかりやすく直していく…」、と演説したという話が、まことしやかにネット上に蔓延しました。例えば、「カと発音するCは、Kに変える」というような。CANDYならKANDYのように。また、thの発音はなくすとか、完了形をなくすとか。等々。



わたしは、「うまくできているなあ…、ほんとにそうだ、そうするべきだ。」と大賛成。でも、その後、そのネットの話のネタがMARK TWAINの原稿によっていると知りました。その時から、MARK TWAINがホントはどんな人なのだろうかと興味を持ったのです。











THE COMPLETE SHORT STORIES OF MARK TWAIN』の作品は、お話は単純で単語も難しくはなく、英語の勉強には向いていると思います。が、単語が古いということはあります。そして、簡単な物語は、読んでいてフンフンと読み流してしまいそうですが、一筋縄ではいきませんよ。まるで落語のようにオチのある話もあります。



もうひとつ彼の作品が単純と思われるのは、時代のせいではないでしょうか。彼の生きた時代は1835年から1910年。彼が著術をしていた時は、まだ19世紀末の洗礼を受けていなかったのです。まだまだ資本主義社会も成熟しておらず、人々の苦悩も複雑化していない頃、と思うのですが。



IS HE LIVING OR IS HE DEAD ?』は、貧乏な才能ある若い画家達が自分たちの作品が売れないのは、世間の人が死んだ画家の作品を珍重するからだと考え、仲間の画家のひとりの死亡をでっちあげて、その人の作品を売り出そうというもの。その画家の名前がなんと「ミレー」です。フランスの有名な画家。このお話はフランスが舞台で、昔の小説にありがちな高級リゾートホテルの客の会話という態を取っています。



聞き役の紳士と語り役の紳士。その語り役の紳士が、画家の仲間の一人です。これは今まで誰にも言わず、秘密にしてきたが、もう話しても良いだろうと偶然同じテーブルに坐った紳士に語り始めます。彼らは、ひとりの仲間の死をでっちあげて、彼の描いた作品の値を吊りあげて来た。世間の人々は、作品の本当の価値ではなく、ちがう要素で作品を売買するということですね。そして、彼らは大金持ちになり、こんな高級ホテルにも宿泊できるようになったのだというお話。オチは、「さっき、目の前を通った紳士がミレーなのですよ。」というもの。



MARK TWAINの活躍した時代は、まだ現代の苦悩を知らなかった。ダダイズムも不条理演劇もシュールリアリスムもまだなかった。これらのムーヴメントは大衆の愚かさを揶揄したのでした。しかし、大衆の力は強い。そんな揶揄など吹き飛ばしてしまいました。「芸術」などという物は、もはや存在しない。あるのは、コマーシャリズムだけです。大衆に受け入れられないものは、作品としての価値はないのです。



MARK TWAINは、そんな世の中をシニカルに先取りしました。








2019年4月5日金曜日

人類とは違う「知性」の在り方



『愛しのオクトパス――海の賢者が誘う意識と生命の神秘の世界』





この本の著者は、アメリカの作家でナチュラリストということ。サイ・モンゴメリーさんです。彼女は、タコに興味を持ち水族館を訪れました。タコは人を見分けることができるらしく、彼女はすぐにタコに気に入られました。タコは好きな人間には腕を伸ばして絡ませるそうです。タコの吸盤には味覚を感じる能力があり、触れて相手の味がわかるのです。その味で誰かを見極めるのでしょうね。なんだかとてもeroticですねえ。吸盤が彼女の腕に吸い付くさまは、さながら恋人同士のよう…、と書かれています。



もともとタコは知能が高いと言われています。少々前の話ですが、サッカーのワールドカップで、スペインのタコが勝敗の予想をしているというニュースが流れたことがありました。もちろん、タコが予想をしているわけではありませんが。水槽に鍵をかけても簡単なものは開けてしまうとか、夜中に這い出して隣の水槽の魚を食べて、朝には自分の水槽に戻っているとか、そんなような話はよく聞きますよね。









この本には4匹のタコが登場します。そのそれぞれが違った個性を持っていることはもちろんの事、それ以上に興味深いのがタコの腕にはそれぞれにニューロンが集中し「脳のような」働きがあるという事。そして、腕それぞれが独立して行動しているので、「内気な腕」とか「積極的な腕」があると言われています。そう言えば、あの図体のでかい恐竜が、手足をその貧弱な脳でコントロールできたのかの答えは、4つの足にそれぞれ脳のような機関がある…と、いうことを思い出しました。



著者は、水族館でこのような聞き取りをし、新しい知性の可能性を感じます。このような話を聞くと、人類が万物の霊長であると豪語するのは「驕りである」と、いつも感じます。昔の人は、そのような万物からの知性を感じていたはず。いつの間にか、人類はどんどん増長していったんですねえ。神がいなくなって、科学が「宗教」となってしまってからなのでしょうか。



以前、『植物は「知性」をもっている』という本を読みました。植物は植物なりの知性を持っている。それは、人間の「知性の在り方」と異なるので、人間は植物が知性を持っていることを気付くことができないのだ…、という結論。もし、宇宙人が地球に遣って来ていても、人類の知性と異なる「知性」の持ち主であったなら、人間は彼らを知性ある宇宙人と認識することはない。あるいは、できない。つまり、人間は謙虚に我々の知性がこの世で「唯一の知性」ではないと気付くべきである。



あるいは、他の生物は我々人間を利用して繁殖しているのであるとも言える。我々は彼らを利用していると思っているが、逆にコントロールされていたりして…。そこまで言うと、SFになっちゃうかな。