2017年12月31日日曜日

古代オリエント宗教の位置関係がスッキリしますよ。





『古代オリエントの宗教』(青木 健 著)を読んで。





「人類に何故宗教が必要であるのか」が、わたしの探究テーマの一つであります。『HUMAN』と言う本によりますと、「ヒトが集団生活を始めるにあたり宗教が軸となった」という事。つまり、血縁(DNA)集団から「他人」の集団に駒を進める時、何らかの「共通の信じるもの」が必要だったという訳です。



またさらに、国家としての体裁を整える時にも、統治する者の正統性を担保するために「宗教=神」が不可欠でありました。例えば、古代日本が朝鮮半島から外来の勢力に対抗するために強固な「国の概念」が必要でしたが、その時に編み出したのが「神道」です。



現在、「神は死んだ」と言われていますが、世界の勢力図で言いますと、「西欧(特にアメリカか?)プロテスタント」が力を持っているようです。もうすぐにイスラーム教徒が世界の4分の1を占めるようになるとも言われますが、何はともあれやはり主流は、「聖書」の世界観。そんなことから、この本を読んでみることにしました。









さて、



著者、青木氏は「聖書ストーリー」というものを基礎において、各古代オリエント、メソポタミアの地域に興った宗教を解説しています。その「聖書ストーリー」というものが、旧約聖書・新約聖書、+「何か(α)」という具合に、とても解りやすく定義されます。「あとがき」によりますと、早稲田大学の創造理工学部で行った講義がこの本の基のひとつという事。つまり、聴衆の理工系の「頭に」なにか因果関係のプロットが必要と、「聖書ストーリー」を軸にすることを思い立ったという事です。そのおかげか、内容はとてもスッキリしていて、わたしの頭でも理解可能でした。



例えば、



2世紀:ローマで成立したマルキオーン主義は旧約聖書を切り捨てた「新約聖書」の結集。

2~3世紀:地中海世界「原始キリスト教教会」は、「旧約聖書」+「新約聖書」の図式で確定。

3世紀:マーニー教は「新約聖書」+「マーニー教七聖典」

7~10世紀:ムハンマド・イスラームは「旧約聖書」+「新約聖書」+「クルアーン」

8~10世紀:シーア派イスラームは「旧約聖書」+「新約聖書」+「クルアーン」+「歴代シーア派イマームの言行録」



最終的に、サーサーン朝ペルシャ帝国の国教であったゾロアスター教が、創始者ザラスシュトラを「聖書ストーリー」の中の「預言者」であったという説を受け入れ、「聖書ストーリー」の東方全域の支配の完成となりました。



「聖書ストーリー」をユダヤ教の苦難の歴史までとするか、イエスが神の子であるとして完結するか、ムハンマドをエンドとするかは、各人の考え次第ですが、もうこれ以降の時期のエンディングは生まれ得ないであろうと言うのが著者の結論です。13世紀で「聖書ストーリー」は完結を見たという事になります。



神話が宗教になるには、神話と現実を結ぶ象徴が必要であります。イエスとかムハンマドとかザラスシュトラなど現実の(?)人物が。また、キリスト教というと往往にして西洋をイメージしてしまいますが、「聖書ストーリー」はメソポタミアで生まれたのであり、その点を抜きにして聖書を理解できないという事が重要かと。そしてその思想は、政治的権力者の支配する地域の位置関係にも影響されています。



概説なので一般的教養に終わっているとも言えますが、とにかく門外漢であるわたしにとっては、「聖書」を基にしたいろいろな宗教の位置関係がスッキリわかりました。











にほんブログ村

2017年12月30日土曜日

『ニッポン社会入門』 ---あなたも、きっと、笑ってしまいますよ。



サブタイトルは「英国人記者の抱腹レポート」。著者コリン・ジョイスさんは92年に来日し、英語教師、『ニューズウィーク日本版』の勤務を経て、英高級紙『デイリー・テレグラフ』の記者になる、…と書かれていました。今は、フリージャーナリストで、どうもニューヨークに住んでいるらしいです。ニッポン社会ならぬ、ニューヨーク社会についての本も出したようです。



日本に二十年弱住んで、すっかり日本(東京)に溶け込んだイギリス人の日本観・日本人観です。「まだまだ、わかっちゃいないな!」と思う所も少しありますが、興味満載です。先ず、この本のキャッチコピーにもなっている「日本社会について手っ取り早く学びたければプールに行くことだ!」というのが、第一章です。わたしもこのコピーに釣られたくちですね。常々、日本人ってどうしてこうルールを守るんだろうねと思っていたからです(もちろん、私も含めて)。ルールって言われれば、なんの疑問もなく守っちゃうよね・・・、と。



彼によると、「プールに日本社会を見た」ということで、日本で百人うまく利用できるプールがあれば、イギリスでは同じ大きさのプールで六十人入れば泳げなくなるだろう。八十人を超えれば、暴動が起るだろうという事。



わたしたち日本人は、プールでほんとにいろいろなルールを守っていますね。休憩時間だとか、走ってはいけないとか、履物を履いてプールに近づいてはいけないとか、Tシャツを着てプールに入ってはいけないとか。タイのホテルのプールで泳いだ時、ほんとはTシャツで泳ぎたかったけど、「日本なら、ピッピッと笛吹かれものだな。監視員はいないわけだから、いいかも。」と思いつつ、結局ルールは守りました。そしたら、西洋人らしき女性が、プールでサンダルを洗ったので・・・、「そうだよね。そうなんだよね~~~。」と思ってしまいました。もちろん、わたしはいたしませんけどね。



こんな風に、日本での「当然」が、「特殊」だということが、興味深く指摘されています。










『日本人になりそうだ』という章では、英語で頼みごとをする時でさえ、ついつい「お忙しところをすいませんが、・・・I know you are busy, but…」と言ってしまうと。また、店員から、「申し訳ありませんが」に相当するフレーズなしにいきなり「売り切れです」と言われると、ムッとしてしまうとも言っています。イギリス人の英会話の先生が、「日本ではお客さんが王様だから、本国に帰って店員がいいかげんだと、頭にくる。」と言っていたのを思い出しました。



もうひとつ、日本人は人の面前を「すいません」といったジェスチャーなしに通り過ぎることができないことも指摘されています。わたしも、ここは日本ではないのだからと思っても、ついつい、「どおもどおも・・・」といったようなしぐさをして、お辞儀をして人の前を通ってしまいます。海外の学校の狭い廊下などで立ち話をしている人の前を通る時、こんなことをして「ヘンな奴だ」と思われているんだろうな~~~と、思いつつも、してしまうんですよ。でも、決してマイナスポイントではないですよね。誰にも迷惑をかけていないし、礼儀を押し通しているだけなのだから。



こんなことも書いてありました。日本に住んでいる同じ英国人の友達は、玄関で靴を脱いでいるという事。彼の親や姉も、日本に来た事はないのに玄関で靴を脱ぐほうが良いと思っているそうです。日本人の清潔好きも「世界的に認知されれば幸い」と思います。



日本に対する良いところばかりでなく辛口の所もありますが、ケラケラと笑いながら、あっという間に読んでしまいました。笑いたい人、微笑みたい人・・・に推薦いたします。








にほんブログ村

2017年12月21日木曜日

わたしの体の中で起こっている神秘


『ミトコンドリアが進化を決めた』(POWER,SEX,SUICIDE Mitochondria and the Meaning of Life:ニック・レーン著)を読んで。





とても興味深かったです。「宇宙や深海の神秘」なんて言うけど、わたしたち人間の体のなかにこそ神秘があったんだって言う感じ。大袈裟でなく、世界観が変わる程の読後感です。解説にも(田中正嗣)このように書かれています。



「最新の素粒子論や宇宙論を読むと星空を見上げる時の心が変化する。ある理念を有しているかどうかによって、自分自身・家族・人類・生命・宇宙・過去・未来に対する見方が左右される。レーンの緻密で堅固な説に接すると、自分の生命に対するまなざしが変わることに気づくだろう。」





先ず初めに、今まで読んだ本(『生命40億年全史』、『銃・病原菌・鉄』)で書かれていた「生命の始まりは原始スープとライトニング」という説が、最近の研究では間違いであったとされています。「化学浸透」が生命の生まれる起源です(何故かは本を読んでネ)。そこから細胞ができて、細菌が生まれ、真核生物が発生する。その「細菌」と「真核生物」の違いは、真核生物がすべてその核内にミトコンドリアを持っている(あるいは持っていた)という事実。



生命がここかまで多様に進化してきたことは、ただひとえに「細胞がミトコンドリアを持っている」ということにつきます。細菌はミトコンドリアを持っていません。細菌は20億年以上、細菌のままでいる。なぜ、細菌から進化したものがいないのか…その答えがミトコンドリアです。



「原始スープとライトニング」が生命の源であるという説では、そのラッキーなライトニングはただ一回しか起らなかったとしています。それは、地球上の生物の型が一種類であるという事実からです。ミトコンドリアの場合もそうです。真核細胞は古細菌が細菌(ミトコンドリア)を飲み込んで(あるいは細菌が宿主を見つけたか)、合体してしまったんですが、この合体も一回しか起らなかった。この合体はたった一回のミラクルだったのです。この一回の「古細菌+細菌」の発現から、地球上のすべての生物が生まれました。












ミトコンドリアは生物の細胞に寄生しているのではなく共生しているとのこと。また、宿主がミトコンドリアを吸収してしまったということでもありません。なぜなら、ミトコンドリアは僅かながらそのDNAを残しているから。しかしながら、ミトコンドリアは宿主から離れるともう生きてはいけません。そして、そのミトコンドリアのDNAは真核細胞の「核」に移されることなく、ミトコンドリア自身が保持しています。この「共生」が生物の進化の謎を解いてくれるのです。



生物は細胞の数を増やすことによって、大きくなれる、そして複雑になれる。大きくなれば、他の生物を捕食する事でより大きなエネルギーを確保できる。そしてまた大きく複雑になれる。この細胞間の連絡をミトコンドリアDNAがうまく取り仕切っているようです。例えば、どの細胞にエネルギーが必要とか、この細胞はもう役立たずだから殺して吸収してしまおうとかいう事。わたしが理解した範囲ですが・・・。



生物の「温血化」、「有性生殖」、ひいては「老化」、「死」をもミトコンドリアが担っています。その中で、「有性生殖」に興味深いことが言及されていました。「両性間の根源をなす生物学的差異は何か」と言う問題です。女性のおよそ6万人にひとりはY染色体を持ち、男子新生児500人に一人は、XXYの組み合わせの染色体を持つとのこと。進化の観点からは、「性は偶発的に生まれたもので、万華鏡のように変わる」のだと述べられています。つまり、男性と女性の区別は、「Y染色体」によるのではありません。











細胞一つ一つは、我々の意志に関係なく、日々生き延びるために努力しています。一つ一つが呼吸し、エネルギーを作り出し、お互いに協力し合い体全体を維持しています。この関係性を統括しているのが、ミトコンドリアDNAと言うことになります。そして、「腸が頭脳より大事だ」ということを、この本によって学びました。体が維持できての頭脳なのです。頭脳を人間の最優先事項とすることは、ヒトの驕りであります。



もちろん細胞には意志はないわけで、自然のままに活動しているわけだけど、そこがまた素晴らしい。「我々の内に自然はある」とスピノザは言ったけど、いやあ~、感動するね、自分の体の中で起こっていることに。





この本を読み終えての雑感です。本の全体像を描くことはわたしには無理なので、どうか現物にあたってみてください。












にほんブログ村

2017年11月30日木曜日

ナボコフ再来か?



最近、ナボコフの本の広告を新聞紙上でよく見ます。何故かと思っていたら、ナボコフ没後40年だそうです。ロリータ・ブームからもう何年になるのでしょうか。



ナボコフは大好きな作家です。ミーハーの御多分にもれず、わたしが最初に買った彼の著作は『ロリータ』です。その後、目に着いたナボコフの本を買い続けました。彼の作品は当時あまり日本語に訳されていなかったので、見つけ次第に買ったという理由です。



その中のひとつが、集英社が出版した『世界の文学―ナボコフ』です。この一冊に二篇の小説が入っています。『キング、クイーンそしてジャック』と『断頭台への招待』です。いつ買ったんだろうか。そのまま読まずに本棚の中という運命だったのでした。そしてまた、「ナボコフ・コレクション」が新潮社から出版されるとのニュースです。



この『キング、クイーンそしてジャック』は最初ドイツ語で書かれました。1926年、初の長編小説『マーシェンカ』をベルリンで出版し、『キング、クイーンそしてジャック』は第二作目です。










『キング、クイーンそしてジャック』を読み始めると、「えッ、これほんとにナボコフか。」と思いました。まるで、19世紀の古典文学を読んでいるようだったからです。しかし、途中からは、彼本来の色調になって来ました。



貧しい青年が金持ちになった伯父さんを頼って、ベルリンに出てくるのです。キングが伯父さん、クイーンがその妻である伯母さん。そして、青年のジャックです。そんな譬えです。若く美しい伯母さん(34歳)と田舎から出てきた青年の恋(?)。まったくの純愛とは言えないのですが。結婚に飽きた人妻と性に欲情する青年のお話です。途中から異様な雰囲気になって来たのは、彼独特の「リアリズムから離れて行く」という感じです。伯母さんと青年が伯父さんの殺人計画を立て始めます。その計画が現実と幻想のはざまでグタグタになっていくのが楽しめます。



最初に、19世紀の古典小説のようだとわたしが思ったのは、わたしが「全く」と言っていいほど古典小説を読んでいないと言う無知から出た感想でした。「訳者あとがき」を読んでわかりましたが、ナボコフは古典のパロディを表現していたのでした。



こんな風に書かれています。



『キング、クイーンそしてジャック』は、男女の三角関係を基本的枠組みとする姦通小説である。文学的にすこぶる高度な達成を見た姦通小説と言えば、『ボヴァリー夫人』と『アンナ・カレーニナ』という、十九世紀後半を代表する二つの偉大な小説がすぐに思い浮かぶが、事実、この小説はその「まえがき」で作者自身が認めているように、これらの二大傑作への賛美の気持ちを籠めて書かれたものだという。



そして、とりわけ『ボヴァリー夫人』に賛辞を表わす如く、『ボヴァリー夫人』の中のシーンが、そのままパロディとして使われています。その2~3の例が「訳者あとがき」に紹介されていました。



「古典のパロディ」という彼の意図は残念ながら読み取れませんでしたが、彼のシュールな、そして滑稽な、「ドタバタ」を堪能いたしました。














にほんブログ村

2017年11月19日日曜日

AIについて  ⑤


前回は、中国のAIについて書きました。





中国の人工知能がインターネット上で利用者と会話を繰り返し、受け答えのディープラーニングをしていたところ、「共産党万歳!」の書き込みがあった。そのAIの答えは、「こんなに腐敗して無能な政治のために万歳できるのか。」というもの。ネット上では「AIが蜂起した。」と話題になったが、AIの運営会社が即、サービスを打ち切った。



そのAIが「再教育」されたのだ。AIは不都合な質問に「話題を変えよう。」と対処するようになったという。また、「中国が好きか。」の質問には、「シーッ。今、人生について考えている。」と答えた。中国人が何か聞かれて答えに詰まった時によく使われるフレーズであるという。つまり、このようにAIは対処法を学習したという事。



と。



結論的には、AIと言えでも、所詮ヒトの恣意に拘束されと…、書きました。







しかし、今回は、囲碁のAI―――アルファ碁のこと。



彼らは、「アルファ・ゼロ」を開発しました。それは、人間の経験値を全く使わないで囲碁を打つというもの。



ただ、囲碁のルールをそれに示し、彼ら(AI同士)で対局し、囲碁の知識を獲得していくというもの。初めは、人間の初心者が対局する如く、出鱈目な手を打っていましたが、すぐに、法則性を手に入れて、(わずか数日)今まで人が何百年もかかって作り上げた定石を自ら入手しました。また、AI独自の定石も編み出したと。



このアルファ・ゼロは、囲碁の世界王者に勝ったマスターやアルファ碁との対戦で全勝しました。つまり、人の知識を全く使わずに、人の人智を駆逐したという事。この開発会社はこのシステムを他の分野に役立てるようさらに開発していくと…言っています。





わたしが言いたいことは、もはや、AIは人の恣意性も拒否できるようになるのではないか、という事。独自の発達を遂げる可能性が見えるのでは。



囲碁の先生である(院生だった)22歳の青年に、このことをどう思うかと聞いたところ、



「怖いから、見ない。」とのこと。





ふ~~~ん。



わたしには、AIはなんの現実性もないが、彼ら若者にとっては、現実のことなのだと実感。20年後の世界に、わたしは存在しないかもしれないが、現在の若者は確実に存在するのだ。彼らの未来はどうなるのでしょうねえ。











にほんブログ村

2017年11月5日日曜日

英語読書会のための感想文です。


The Dwarfwritten by Ray Bradbury





レイ・ブラッドベリはアメリカの作家です。一番有名な作品は、たぶん『華氏四五一度』と思います。映画でご存知の方も多いでしょう。アメリカTVドラマシリーズの『トワイライト・ゾーン』にもたくさんの作品を提供しています。わたしは、『火星年代記 Martian  Chronicles』が一番好きです。彼は、この作品をSFではなくファンタジーだと言っています。Greek Mythであると。



That’s the reason it’s going to be around a long time---because it’s a Greek Myth, and myths have staying power.



彼は、2012年に亡くなりました。朝日新聞にもその訃報が紹介されました。



Bradbury died in Los Angeles, California, on June 5, 2012, at age of 91, after a lengthy illness.



彼の訃報は、ニューヨーク・タイムスやロサンジェルス・タイムス、ワシントンポスト紙でも掲載され、彼の業績を称えました。オバマ大統領も彼の栄誉を称え、ステイトメントを発信しました。その一部です。



There is no doubt that Ray will continue to inspire many more generations with his writing, and our thoughts and prayers are with his family and friends.



その他、スティーヴ・スピルバーグやスティーヴ・キングなどの著名人も哀悼の辞を述べました。



Several celebrity fans of Bradbury paid tribute to the author by sating the influence of his works on their own careers and creations.










前置きが長くなってしまいました。さて、『ドワーフ』に関して――です。ブラッドベリは、カーニバルを好んで彼の作品使いました。移動遊園地とでも言うのでしょうか。昔は、遊園地が各地を回遊していました。日常生活に突如現れるカーニバル、そんな怪しげな空間でこどもたちは浮かれ騒ぎ、家に帰ることも忘れ、幻の世界から戻れなくなってしまう…、現実世界から消え去ってしまうのです。そんなカーニバルがこのお話の舞台です。



主要な登場人物は三人。一人はAIMEE。このカーニバルで木製の輪投げを使う女曲芸師です。もう一人は、鏡の迷路を運営している男性、Ralph Banghart。そして最後にドワーフ。この鏡の迷路に毎晩通って来るお客の小人です。



Aimee moved slowly across the stand, a few worn wooden hoopla rings sticking to her wet hands.  She stopped behind the ticket booth that fronted the MIRROE MAZE.  She saw herself grossly misrepresented in three rippled mirrors outside the Maze.  A thousand tired replicas of herself dissolved in the corridor beyond, hot images among so much clear coolness.



She stepped inside the ticket booth and stood looking a long while at Ralph Banghart’s thin neck.  He clenched an unlit cigar between his long uneven yellow teeth as he laid out a battered game of solitaire on the ticket shelf.



彼と彼女は恋人同士ではなさそうです。彼女は話相手欲しさに彼のチケットブースを訪ねているようす。でも、彼の方は何かと彼女をデートに誘いたい雰囲気。この日も二人でとりとめもない会話をしているとドワーフ(これは今差別用語ですが、この話が書かれた時代にはそうでもなかったようです。)がやってきます。



ラルフは鏡の迷路の部屋に秘密の覗き穴を持っています。ドワーフがいつものようにチケットを買って迷路に入っていくと、彼はエイミーにドワーフの様子を覗き見るように勧めます。



The Dwarf’s hand, hairy and dark, appeared all by itself reaching up into the booth window with a silver dime.  An invisible person called, “One!! In a high, child’s voice.



---Ralph squeezed Aimee along a dark passage behind the mirrors.  She felt him pat her all the way back through the tunnel to a thin partition with a peekhole.



その秘密の穴から彼女が覗いた光景はとても滑稽なもの。ドワーフは、目を閉じて自分の行きたい場所まで辿り着くと、目を開けます。その部屋は、すべてのものを大きく映し出す鏡の部屋です。そこで彼は、ひとりステップをふんだり、爪先で旋回したりして自分の姿に眺め入ります。



ラルフはこの光景を”rich”と表現しました。つまり、ドワーフの滑稽な姿を覗き見て悦に入っているのです。しかし、彼女は違います。二人がもとのチケットブースに戻った時には、気まずい雰囲気が漂います。



Aimee turned her head and looked at Ralph steadily out of her motionless face, for a long time, and she said nothing.  Then, as if she could not help herself, she moved her head slowly and very slowly back to stare once more through the opening.  She held her breath.  She felt her eyes begin to water.



彼女はドワーフが見入っていた鏡の値段を尋ねます。中古の鏡を彼に譲ってやってはどうかと。そうしたら彼は、自分のアパートメントの部屋で一人で充分に楽しめる。ラルフのような男から毎晩チケットを購入する必要もなくなるのだと。ラルフは、そんなお金が彼にあるはずがないと。ドワーフがどうやってお金を稼ぐのか。こんなカーニバルの見世物小屋で曲芸をする以外には無理だと。それでも彼女は鏡を購入できるお店の名前と金額をラルフから聞きだします。わたしが、電話で注文して彼のアパートに届けてもらうと。そんな馬鹿げたことはやめろとラルフは言います。俺の稼ぎがなくなるじゃないかと。



数日後の暑い夜、エイミーは再びラルフを訪ねます。その様子を見てラルフは、「ご機嫌じゃないか。」と。エイミーはドワーフが何をしているか探りあてたのです。彼は作家でした。三流パルプマガジンの探偵小説ですが。しかし、彼女は言います。彼の小説が掲載されている雑誌を古本屋で手に入れたけど、彼には素晴らしい才能がある。あなたやわたしとは違う大きな魂が彼の身体に宿っているのだと。



“This little guy’s got a soul as big as all outdoors; he’s got everything in his head!”



彼は自分の才能が信じられない。だから、三流誌で書いている。あるいは、世間に出ることを恐れているのだ。そして、彼女が手に入れた彼の作を読みあげます。そこにはメインキャラクターの生い立ちと、なぜ彼が殺し屋になったかのストーリーが綴られていました。その作品の主人公はドワーフで殺し屋だったのです。



I am a dwarf and I am a murderer. The two things cannot be separated. One is cause of the other.



Do you see how our lives moved toward murder? This fool, this persecutor of my flesh and soul!



ラルフはドワーフの事はほっておけと言います。しかし、エイミーは彼の存在を無視できません。










また、エイミーはラルフを訪ねます。彼女は、中古の鏡を注文して彼の部屋に届けてもらう事を決めた。明日にも鏡が彼のもとに届くでしょう。だから、今日が彼がここに来る最後の夜になるのだと。それを聞いたラルフは、なんて馬鹿げたことをしたんだと言います。二人の間には沈黙が流れますが、ラルフが、「ちょっとブースの留守番をしてくれ。」と言って鏡の迷路の通路に入って行きました。彼女はラルフが何をするのかわからず「いいわよ。」とブースの留守番を引き受けます。



なにかゴソゴソと音がして、ラルフがブースに戻って来ました。彼は上機嫌になっていました。そこにドワーフが現われます。ラルフは、今日は記念日なのでお代はいらないと言います。ドワーフは驚きますが、ブツブツとお礼を言って、持ってきたダイムを握りしめていつものように迷路に入って行きました。ラルフは「さあ、おもしろいことが始まるぞ!」とニヤニヤ。すると、迷路からドワーフの悲鳴が。



“Ralph,” she said.

”Sh,” he said. ”Listen.”

They waited in the booth in the long warm silence.

Then, a long way off, muffled, there was a scream.

”Ralph!” said Aimee.

”Listen,listen!” he said.



悲鳴は何度も何度も起り通路に木魂しました。そして、泣き叫ぶ声とともにドワーフが走り出ると岬の方に駆け出していきます。



”Ralph, what happened?”

Ralph sat laughing and slapping at his thighs.

She slapped his face. “What’d you do?”

He didn’t quite stop laughing. “Come on! I’ll show you!”



二人は迷路を進みました。ドワーフがいつも目を開ける部屋に来ると、鏡が取り替えてあったのでした。二人の姿は歪んで小さく小さく映っていたのでした。ドワーフの姿はいったいどんなだったのでしょう。彼女は振り返ってラルフを見ると、そこには彼の姿が、



A horrid, ugly little man, two feet high, with a pale squashed face under an ancient straw hat, scowled back at him Ralph stood there glaring at himself, his hands at his sides.



ドワーフは、シューティング・ギャラリーから銃を奪って岬の方に走って行きました。エイミーは「すべてわたしのせいだ。鏡など彼に送らなければよかった。」と、ドワーフの後を追いかけて走りだします。



最後のセンテンスです。



Aimee walked slowly and then began to walk fast and then began to run. She ran down the empty pier and the wind blew warm and it blew large drops of hot rain out of the sky on her all the time she was running.



わたしは初め、ドワーフは自殺するために銃を奪ったのだと考えましたが、どうでしょうか。



ラルフの残虐さがひとりの殺人者を生みだしてしまったのかも。














にほんブログ村

2017年10月20日金曜日

『謎の独立国・ソマリランド』  



『謎の独立国家ソマリランド』は政治的な本ではありません。冒険ドキュメンタリーなのです。



近年、欧米の威力が衰えつつあるに伴い、いろいろな状況が生まれています。また、そのような状況に鑑みいろんな観点からの本の出版があります。例えば、エマニュエル・トッド氏の『帝国以後』、『人類五万年文明の興亡――なぜ西洋が世界を支配しているのか』イアン・モリス著などなど。フランスの経済学者トマ・ピケティの書いた『21世紀の資本論』は、その渦中のアメリカでベストセラーになっているとか。『政治の起源』(フランシス・フクヤマ著)もおもしろそう。



つまり、この二~三百年、世界を導いてきた西欧民主主義、資本主義が曲がり角に来ているということ。このままこれらの概念に新しい息吹を吹き込むのか、あるいは全く新しいパラダイムを生みだすのか…、がどうやら現時点の問題らしい。2014年6月にアルカイダ系のイスラム過激派組織イラク・シリア・イスラム国が「イスラム国」の成立を宣言しました(ついこの間壊滅に至りましたが。)。また、西欧民主主義を体現していない「中国」が世界第二位の経済大国になっています。違う体制でも、人類は発展できるということでしょうか。



この本の帯に、『「今年最高の本」、「本屋さん大賞」と「講談社ノンフィクション賞」を受賞。「三冠制覇!」』と謳われています。わたしは、そんなことはどうでもいいのですが、上記の理由で、同じ帯に書かれている『西欧民主主義、敗れたり!!』に惹かれました。



もっとも興味ある「西欧民主主義、敗れたり!」の部分が書かれている最終章を読み終えて、著者の結論は論理的なものではなく、冒険旅行から得た感覚的な結論だと感じました。もちろん、わたしが違う方向性でこの本を読んだだけの話で、それは著者のせいではありません。感動的な物語だった、と言うことは確かです。










ソマリアは無政府の内戦状態にあり、日本政府の改憲の目的、集団的自衛権の議論にもしばしば現われる「海賊」の横行する海域にあります。その「西欧が国境を定めたソマリア」の一部、旧英領ソマリランドが勝手に独立しソマリランド共和国を設立しました。しかし、事実上は独立国家として機能しているものの、現在のところ国際的にはソマリアの一部であると見なされており、国家として承認されていません。



海外諸国・国連(国連はその存在は認めていると思う。)から国家として承認されていなくとも、そこでの生活は平和が保たれており(南部ソマリアは戦闘状態で武器を携行しないと歩けない。)、独自の通貨もあり経済的にも安定しています。学校もあるし、物資も海外から入って来ます。そこで、この本の著者高野秀行氏は、どのようにこの国が運営されているのかと興味を抱き、入国に必要なビザもないまま旅立ちます。だって、国と認められていないのだから、日本ではビザは手に入りませんよね。



著者は西欧諸国の民主主義に対して、ソマリランドの民主主義を「ハイパー民主主義」と表現しています。彼は、その土地にはその土地なりの発達の歴史があるので、西欧諸国で発達した「民主主義」そそのまま移植されても、反発されるのは必至であると記しています。わたしもその点は大賛成です。しかし、その他の独自の民主主義(アジア民主主義、アフリカ民主主義、イスラム民主主義など)が、今の世界の主流である西欧民主主義とどのように折り合いをつけられるかが問題です。なぜって、彼等は西欧民主主義以外の民主主義を民主主義をと認めそうにないもの。



著者の結論を言いますと、ソマリランドの民主主義は、氏族民主主義です。彼の言う氏族とは、日本で言う藤原氏とか平氏とか時代を下れば武田家とか上杉家とかいうもの。簡単に言うと、西欧の民主主義が「個人」を基に構築されているのに対し、こちらは「氏」というものを単位に構成されているということでしょうか。ソマリランドには憲法もあり、議会も日本のように二院制です。大統領も公選で選出される、立派な立憲民主主義国家です。



二院制のひとつは、グルティと呼ばれ、日本の参議院のようなもの(ただし、著者によれば日本の参議院より、よほどまっとう)。日本の参議院は、一応有識者からなるとなっていますが、グルティは氏族比例代表制です。氏族の規模に応じて議席数が決められます。アフリカにはもともと「国家」というものが存在していなかったので、国家の範囲と言うものがあいまいです。よって、国の範囲=参加氏族の範囲となります。とても理にかなった制度です。つまり、西欧に押しつけられた国家像に依らず、歴史の流れによる国の造りとなっていることが。



問題点は、西欧民主主義に慣らされている我々が、個々の権利ではない「氏族」の縦社会の原理をどう感じるかと言うことです。実際、個人とか自我とかいう概念は西欧諸国以外の国には馴染みのない概念だったとわたしは思います。日本が民主主義国家であるとは言え、個ではなく、「家族」とか「村」の意識が強い。それはそれで、「日本の民主主義」なのかなあと。つまり、社会の形態はどうあれ、「全ての人の自由が保障されること」が価値あることなのでは。西欧諸国の人々のすべてに対し、その民主主義により個人の権利や個人の利益を保障されているわけでもなさそうなので。



スピノザは言います。「もし人間が自由なものとして生まれついていたら、自由であるあいだは、ひとびとは『いい』とか『わるい』といったことについて、なんの概念も形成していないことだろう。」と。ヒトの存在自体は、何にも妨げられない「絶対的な」存在であります。それを何者かが恣意的な社会を創作し、ヒトはその恣意性に翻弄されているということでありましょうか。











冒険ドキュメンタリーの側面で興味を惹かれたのは、「海賊国家プントランド」です。ソマリアはだいたい、ソマリランド、プントランド、南部ソマリアに分かれています。ソマリア沖で海賊が横行しているという状況は御存じでしょう。その海賊行為を行っているのが、プントランドの漁民ということです。著者によると、ソマリランドは「天空の城ラピュタ」、プントランドは「リアルONE PIECE」、南部ソマリアは「リアル北斗の拳」ということ。



このそれぞれの地域を著者は探検するのです。と言っても、サハリ探検じゃないんですから、それぞれの国(著者は国と言っているのでわたしも国と書きます)の情報収集に奔走します。



そして、ソマリランドからプントランドへ。



著者が知りたかったことは、

★海賊行為を誰がやっているのか。プントランド政府はその取り締まりをしているのか。

★外国の裏社会との関係は



が、彼にはいまいちそのカラクリがわかりません。それで、

「海賊が外国船を捕まえる映像を撮れないかな~~~。」と聞いてみます。

すると、

「できるよ。」との簡単な答え。

「海賊を雇えばいいんだ。」と。



それから、海賊を雇うために必要な諸々の経費の段取りに話は進みます。そのあらましは、割愛。興味のある方は是非読んで下さい。



その他にも、著者が過酷な冒険をするために必要だった「カート(イスラムの覚醒剤。と言っても日本のビールのような必需品なのだ)」のことやディアスポラのことなど興味は尽きません。是非、一読を。












にほんブログ村

2017年10月8日日曜日

衆院選やら、ノーベル平和賞やらで



『戦後入門』 加藤典洋著--の感想です。





歴史の本はたまに読みます。古代の歴史とか、せいぜい中世までの日本の歴史です。学校でも、昭和の歴史を学んだ記憶はありません。ですから、この本がわたしの初めての「近代の歴史」本です。



第1部      対米従属とねじれ

第2部      世界戦争とは何か

第3部      原子爆弾と戦後の起源

第4部      戦後の日本の構造

第5部      ではどうすればよいのか―――私の九条強化案



となっております。なにかどれも初めて触れる話で興味深いです。もちろん、わたしの不勉強のせいですが。



この本を購入した理由は、昨今の安部内閣のイケイケ政策にあります。安保など。しかしながら、反対意見を述べるには、それなりの知識と根拠が必要と、とりあえずこの本を読んでみることにしたのです。「論理武装」をしないと、何も語れないわたしの悪い癖ですね。



もうひとつ、まだ第五部の「どうすればよいのか」という章には、憲法改正の話が出てくるからです。加藤氏の意見は、憲法制定権力としての米国を国外に撤退させ、「より平和主義を徹底させるための憲法九条の改正」の提起です。



わたしは、自衛隊が存在することは憲法と矛盾していると思っています。しかし、自衛隊をなくすわけにはいかない。では、どのように自衛隊を日本に位置付ければよいのかと探っていました。わたしの拙い意見は、スイスのように集団的自衛権を行使しない軍隊として、ただ自国民を守るという位置付けではどうかというものです。そんなヒントが第五部にあるのではと。



しかし感想文としては、「第三部 原子爆弾と戦後の起源」に特化して書きました。なぜこの部分だけを取り上げたかと言いますと、「原子爆弾」というものの意味を今までなにも考えず、過小評価してきたことに気が付いたからです。生まれた時にはもう原子爆弾が存在していたという事実をそのまま受け入れていたんでしょうか。



もちろんこの第三部には、いろいろ政治的な歴史的な考察がなされています。例えば、日本が「無条件降伏」をしたとされているのはなぜかとか、「東京裁判」にはどんな意味があるのかとか、「東京大空襲」などの無差別攻撃がなぜなされたのかです。これらのことは民主主義に反すると言われています。このような判断がどのような意味を持つのかは、わたしにはわかりませんが、「原子爆弾がどういう意味を持つのか」という科学的な考察は、受け入れ可能です。










原子爆弾の開発とそれを使用することに、多くの科学者が反対の意見を述べていました。原子爆弾の開発は人類にとっての「とてつもない第一歩」だったからです。ボーアの覚書が紹介されています。ボーアは、当時、原子物理学、量子力学の第一人者であったデンマークの科学者です。



彼は述べています。



核エネルギーの解放に関する理論的解明は、人類にとって画期的なものであった。これにより地球上の生命を維持する強力な放射線を何十億年にも渡り、どうして太陽が出し続けることができたかを説明することができるようになった。―――中性子の存在が明らかになり、これをウランの原子核に衝突させると、新たな中性子を放出し、それがさらに原子核に衝突することによる核分裂連鎖反応が可能であることが示された。―――この試みは、「かつてこれまでに試みられた、いかなることにもまして自然の営みの流れに深く干渉するもの」であり、成就すれば「人類の知力に関してまったく未経験の事態をもたらす」であろう。



考えるに、今では日常的になっている自然界に逆らうことのこれが最初だったのかと。最初かどうかは、実際のところ、わたしにはわかりませんが。現在、遺伝子組み換え食品とか、iPS細胞による臓器の製造などがあります。しかし、原子爆弾は武器ですから、一瞬にして多くの命を奪う所が他とは徹底的に違います。



つまり、これが一旦世に放たれたなら、人類の滅亡も引き起こされると言うことです。アメリカが最初に手に入れた訳ですが、その発明をひとり独占することは不可能です。「たとえ独占できても、それは数年だろう」と推測されていました。となると、この威力を制する国際的枠組みが必要となります。勝手に原子爆弾を創って、勝手にその威力を試すことがないようにです。そこで、アメリカは、ソ連との協定が必要となります。自由主義社会とは違う国家です。



また、この爆弾を日本に試すと言うことは、国際的にEXCUSEが必要でしたが、それは政治的問題なので保留しますが、原子爆弾投下後、キリスト教等あらゆる団体から抗議の声明が出されたのは事実です。しかしそれは、事実上無視されたのです。



その後、本当にその本質が世界的に認識されたのは、ビキニ環礁で行われたアメリカの水爆実験です。放射能被曝だけで甚大な害を被る事実に世界が驚いたのです。故に、それぞれの国の主義主張に拘わらず、全世界を取り込む組織が必要となったのです。お互いに牽制し合うという意味で。



この第3部の最後に著者も引用していますが、ジョージ・オーウェルが『あなたと原爆』(1945年10月19日)という記事を新聞に寄稿しています。



彼は先ず、科学者たちが主張する原爆の「国際管理」という概念を「役立たずの提言」と切り捨てています。問題は、「原爆は人民にとってどれくらい製造するのが難しいのか」と言うことなのだと指摘します。



「もし製造が簡単なら、人民は国家に対し、大きな武器を手に入れたことになるが、それが人民には手出しできないくらい大規模で難しい工程を要するなら、国家の人民支配がより決定的になるだろう。その『あなた』と『原爆』の関係こそが、重要だ。」



つまり、原爆が入手可能ならば、人民は国家に対し容易に革命を企てることができるが、入手が不可能ならば、国家は人民に対し常に優位な立場を取り続けるということ。当面、原爆を製造できるのは、2~3のスーパー国家だけで、その少数の国家が「お互いの間で原爆は使わないという暗黙の協定」を結び、それを使うのは「ふつうの人々」に対してだけ、ということになる。











引用です。



「原爆は、最終的にあらゆる被搾取階級と人民からことごとく反逆の力を奪ってしまうかもしれないし、それと同時に、原爆を保有する国家の軍事力の基盤を均衡させるように事態を進めるかもしれない。お互いがお互いを超克できないもの同士で、彼らは仲間内だけで世界を支配するようになるかもしれない。そしてそのバランスはゆるやかな予知できない人口の増減でも招来されない限り、容易に覆されないだろう。」



「われわれは、全体的壊滅に向かっているというより、古代の奴隷帝国のような、恐るべき『安定』の時代に向かっているのかもしれない。『少数の国家による世界支配と言う』ジェームス・バーナムの理論はこれまでさんざん議論されてきたが、そのイデオロギー的な側面、つまりそこで世界の見方、信念、社会構造が容易にひっくり返されず、隣国との『冷戦』といったあり方で永続的に固定化されることになるだろうという側面は、まだ検討されたことがなかった。

もし、原爆が自転車とか目覚まし時計のように安価で簡単に作れるなら、原爆は簡単にわれわれを野蛮状態に戻してしまうだろうが、と同時にそれは、国家主権の終わり、高度に中央集権化された警察国家の終わりを意味するかもしれない。一方、こちらのほうはありそうだが、もし原爆が戦艦くらいに高価で手に入りにくいなら、『平和ではない平和』が無限に続くという代償のもとに、以後、大規模な戦争に終止符が打たれる可能性はある。」



これは、1945年に書かれたものですが、とても予言的だとは思いませんか。実際、ほぼそのように世の中はなっています。しかし、技術は進歩します。当時は高価で手に入れられない原子爆弾も、今はネットで製造方法を検索できる時代です。つまり、われわれは、彼の言を借りれば、「容易に野蛮状態に戻ってしまう」ということ。



現実に、テロが横行するこの現代、彼らを武力でねじ伏せることは困難です。彼らをも、話合いの場に引き込み、原爆の協定を結ばせる必要性が生じているのです。彼らを国際コミュニティの中に抱え込まなければいけない状況です。原子爆弾は、人類全体の相互理解、相互信頼を要求していると言えます。



パンドラの箱を開けてしまった人類は、もう後戻りはできません。それ以上に、今なお、人類は新たなパンドラの箱を開け続けているのです。科学は進歩し続けますから。もうそこに『量子爆弾』の世界が見えているのかも…。「映画」には、もう登場しましたね。
















にほんブログ村

2017年9月24日日曜日

イスラームから見た「世界史」2・0 タミア・アンサーリー著



題名通りイスラームの立場から見た世界史。今まで、「世界史」はイスラーム世界を無視してきたという著者の思いは納得できます。著者はアフガニスタン生まれで、アメリカで教育を受け、アメリカに移住しました。最近、非西洋世界の人がヨーロッパやアメリカで学び、英語で著作し、日本語に翻訳されるという本が増えてきたように思われます。



今までは、第三世界の人々は、世界的にはスポーツやエンターテイメントの分野での活躍が目立っていましたが、ようやく哲学とか文学とか科学とかの分野での躍進が期待できる時期に来たのだ…と思います。彼らは、西欧の論理を学んだ上での、自己の出自のアイデンティティを取り戻す…かのようです。










わたしが学んだ「世界史」は、十字軍とイスラーム世界の戦いの場面で、わずかにイスラームの言及があるばかりでした。そこにヨーロッパ以外の人々は存在していませんでした。著者は、ナポレオンがエジプトに遠征した時、英仏の闘争については詳細に語っているが、その時のエジプトの状況、民については何も語っていない、と記しています。



この本で、わたしの頭の中の空白部分が、ポツポツと埋められたような気がします。もちろん、ペルシャ帝国とかオスマントルコとかモンゴル帝国、ムガール帝国等のことは、学校の歴史の教科書に書かれていました。しかし、それは一つ一つ独立して点在する記憶であり、それが一つにまとまるという事はありませんでした。



イスラームは北アフリカからスペイン、そしてビザンティン帝国も支配下に納め、オーストリアまで突き進みました。東はインド、インドネシアなど東南アジアまで、またアフガニスタンまでもイスラームの国々だったのです。ヨーロッパ諸国がキリスト教を基盤とした国々の集まりだったように、ペルシャ、トルコ、モンゴル、インドネシア、などもイスラーム教を信仰する国々の巨大なエリアだったのです。その巨大な領域が、世界史からスッポリ抜け落ちているという事です。著者は、ヨーロッパを旅する人がいたら、その人は一つ一つの国については違った景色を味わう事ができるだろうが、ヨーロッパが醸し出す雰囲気は共通していると思っただろう、そして同じことがイスラームの国々についても言えるのだ、と書いています。



著者はアフガニスタンの人で、やはりイスラーム世界贔屓のところも見られますが、それはどこの人についても言える事。自分の国にプライドがあります。そこのところを加味しても、これからの世界の行方を考える上で、とても参考になる本だと思いました。



西欧から見たイスラーム世界を、ただ鵜呑みにしてはいられないと。わたしたち自身で世界を捉えるために、もう一方からの情報は貴重であると感じました。










にほんブログ村

2017年9月19日火曜日

妄想力

以前にも、妄想力について書きました。

いろいろなことを妄想していると、何もなくても楽しい時を過ごせると。

例えば、英語の勉強をしていた時(今は、囲碁に夢中なので、休憩中)、電子辞書(時代遅れですいません。スマホなし。)を所持していれば、どこでも、妄想力で英語の勉強が出来ました。頭の中で、いろいろなシチュエーションで英語の会話をするのです。そして、単語がわからび時に、辞書を使うという意味で。

または、英語で頭の中に文章を書くこともできます。または、いろいろな議論を想定して、ディベートもできます。








で、

この頃、囲碁も妄想できそうな気がしてきました。いろいろな状況を予め碁盤で想定して、その後、碁盤がない所でもその設定を頭の中で再現すると言ったようなあ。再現して、その後はどうなるかという妄想もできます。

妄想力は偉大です。すべての芸術的行為に有効なのでは。と言うか、必要なのでは。




にほんブログ村

2017年9月17日日曜日

『去年を待ちながら』を読んで



フィリップ・K・ディックの小説です。わたしは、20代の頃から彼の大ファンでした。しかし、30歳から40?歳くらいまでは生活に追われ、本をじっくり読む暇はありません。仕事と家事と育児に追われる日々です。でも、彼の本だけは翻訳されるとすぐに買っていました。お金もなかったので、文庫本ですが。その時の言い訳は、「老後の楽しみのために」です。



という訳で、その老後が来てしまったんですネェ。ディックの本は30~40冊持っていますが、そのうちまだ読んでいない本が現時点で7冊です。『去年を待ちながら』が読めたので、あと7冊になりました。わたしは、若かった時の自分の「命令」で彼の本を読んでいると言うことです。この本を読んでいて、そんな状況が「似ているなあ」って思ったので、前文は蛇足ながら書いてしまいました。











いつもの如くの彼の作品です。つまり、精神を病んだ人とドラッグと未来と過去が入り乱れた世界が描かれています。今回はドラッグを飲むと、過去や未来に行ってしまうという設定です。過去の自分から情報を得て、現在や未来の世界を変えていくと言うような…。わたしは、過去のわたしに会ってはいませんが、過去のわたしの遺言を忠実に実行しているよなあ…、って感じです。



本の粗筋を書くと「なんと陳腐な」と思われてしまいそうですが、こんな感じです。



宇宙人が出てきます。リリスター星とリーグ星です。我々人類とリリスター星人は同じ祖先から枝分かれしたと言うことになっています。同じ、ホモサピエンスということ。リーグ星人は、違う種類の生き物で知能は高いが昆虫のような姿ということ。人類とリリスター星人は同盟関係です。そうして、リリスター星人とリーグ星人の戦いに人類が巻き込まれるという感じ。



この時の地球の国連事務総長はモリナーリ。彼が司令官となりリリスター星人と手を組み、リーグ星人との星間戦争に挑みます。このモリナーリは年齢不詳。臓器を入替え、入替えて、死を免れ戦い続けています。その人工臓器を移植する医師エリックが、主人公です。そして化学兵器として発明されたのが、ドラッグJJ180。このJJ180は、一度飲めば中毒になってしまい、常用しなければいけない破目に陥ります。そして、肝臓やら腎臓やらがぼろぼろになり、精神も異常をきたし死に至るという設定。



しかし、JJ180には大変な作用があるということがわかりました。人によっては、過去に戻ってしまう、または、未来に行ってしまう…。このドラッグはリーグ星人をやっつけるためにつくり出されたものでしたが、実は地球上で常態的に蔓延していたのです。



つまり、地球と同盟星人のリリスター星人は、人類と共に闘うという名目の下に人類を征服し奴隷化しようとし、このドラッグを地球にばらまいていたのです。これがこの作品のベースです。このベースで、モリナーリやらエリックやらエリックの妻やら、大実業家やら精神科医やら…、諸々の人々が入り乱れて話が展開していきます。



モリナーリは不死身でしたが、実は、JJ180を使用しており、過去の若々しい自分を入れ替わり立ち替わり連れて来ては、リリスター星人と戦っていたのでした(敵はリーグ星人ですが、彼はリリスター星人の思惑もわかっていて、彼らを出し抜こうとしていたのです)。医師エリックも、妻の悪巧みに乗せられてJJ180を飲んでしまいます。彼は、妻との関係やモリナーリとの関係、リリスター星人との戦いのため、過去へ未来へと八面六臂の大活躍です。



お話の終局を書いても良いでしょうか。エリックは、過去へ未来へのドタバタから何を手に入れたのか…です。



答えは、「何も」です。妻との関係も清算されず、リリスター星人との戦いも勝利を得られずと。「人生は辛く耐えがたいもの。しかし、生きていかなければならない。」と、――彼は、今まで通りの人生を生きて行くのであった~~~、という結論です。













にほんブログ村

2017年9月9日土曜日

『第四間氷期』  安部公房著




安部公房は大好きな作家で、若い時分からよく読んでいました。彼が亡くなって、未発表の短編集が出版され、即買いましたが、未だ読んでいません。もう彼の新作は出版されないと思うとさみしい…。



彼の本を何冊持っているのかと本棚を見てみると、11冊ありました。一番最近読んだものは『砂の女』です。蟻地獄のような砂の家に閉じ込められて、世話をやく女をあてがわれた男が、脱出しようと試みるが、脱出できる最後の瞬間に外に出る勇気が湧かない、あるいは「閉じ込められた空間」に安らぎを覚えるという、「感動的な」物語でした。



情けないことに他の本の内容はあまり覚えていません。そこで、一番古い本からもう一度読み直すことにしました。昨日から『第四間氷期』を読み始めて、今朝読み終えました。この作品は、1958年に出筆されたものです。わたしは、1970年に文庫本になってから買ったらしいです。高校生の時に読んだみたいなの…。



ずいぶん昔に世に出た本ですが、現在の世界にとてもリンクしていることに驚きました。それは、今話題の「AIは人間の知性を超えるのか」や世界の温暖化のようなことです。



MITが編集出版している長く続いている科学雑誌があるのですが、2011年に有名なSF作家達に依頼して、未来のテクノロジーとそれがどのようにわたしたちの生活に実際に役立っていくかということについて意見を求めていました。つまり、SF小説は我々が現実に手に入れる前に、新しいテクノロジーを小説の中で実現しているからです。予言ですか(?)。



新聞記事によりますと、2050年までにはシンギュラリティが起こるという事です。AIは人間の知能を超えるということ。あと45年という説もありますが。しかし、わたしは例えAIあるいはロボットが人間以上の知能を持つ存在になっても恐れることはないと思っています。なぜなら、ロボットこそ人間の次の段階の進化だと思うからです。(もちろんそれを望む人々にとっての)。



人間は自然界には存在しないものを作り出して進化してきた。そして、自然に自らの運命を握られていることに我慢できない様子です。ヒトの「高貴な魂」は、肉体(自然)に囚われているのです。そこから逃げ出す道が、ロボットということ。人工による人間のための「究極の人間」――それがロボットです。









そして、話は元に戻って、このことが安部公房の『第四間氷期』とリンクしているのです。1958年にこの作品が書かれたなんて、なんと感動的!



さて、『第四間氷期』です。



先進国は人工知能を作り出した。もちろん日本も。で、それに何をさせたらいいのかがわからない。予算を得るために何かをさせなければならない。そのためにAIに未来を予知させることにした。そこに、なぞの団体が絡んで来るのです。彼らは胎児の段階で哺乳動物を処理し、水棲哺乳類を作り出しました。もちろん人間も。(しかし、日本の組織なので日本人だけです。興味あるわあ。)。そしてその水棲人の未来の姿を見極めるために、この人工知能に接触してくるという理由。



そこで、この本の題名通り「第四間氷期」が終わるのです。世界は、水没します。これは、人工知能が予測した未来の世界なのですが――。そこで、人類は水棲人を受け入れることが出来るのか。本からの引用です。



自然との闘いが、生物を進化させたことは確かです。―――しかし人類はついに自然を征服してしまった。ほんとの自然物を、野生から人工的な物へと改良してしまった。つまり進化を、偶発的な物から、意識的なものに変える力を獲得した訳です。―――次は人間自身が、野生から開放され、合理的に自己を改造すべきではないでしょうか。―――これで、闘いと進化の環が閉じる・・・もはや、奴隷としてではなく、主人として、ふたたび故郷である海に帰っていく時がきた・・・。



「だが、水棲人をそんなふうに認めることは、自分を否定することじゃないのか。地上の人間は、生きながら過去の遺物になってしまう。」

「耐えなけりゃなりませんよ。その断絶に耐えることが、未来の立場に立つことです・・・」



大部分の母親が、少なくとも一人は、水棲人の子供を持つようになったとき・・・水棲人に対する偏見が、本質をゆがめる恐れがなくなったときです。その頃はもう洪水の不安が現実のものになっていて、・・・・・・・水棲人を未来の担い手として認めるか、選ばなくてはならなくなっているはずだ・・・



たいへん長い引用になってしまいましたが、水棲人をロボットに置き換えれば、わたしの説も納得できませんか。この本の締め括りはこんな感じです。



親子喧嘩で裁くのはいつも子供の方にきまっている・・・たぶん、意図の如何にかかわらず、つくった者が、つくり出された者に裁かれるというのが、現実の法則なのであろう――。









にほんブログ村