2014年12月27日土曜日

人権とは…「大型類人猿の権利宣言」


英語の「お勉強」でそれぞれがトピックを持ち寄るクラスが増えました。…と以前書きました。月1回のクラスなので、そんなにトピックを探す苦労はいりません。でも、日々、新聞紙上から興味ある記事を選び切り抜いています。アナログ人間なので…、紙が良いです。

 

で、最近の一押しトピックは、「オランウータンに『人権』」です。アルゼンチンの裁判所がメスのオランウータンを動物園から開放するようにとの判決を出したのです。オランウータンにも人間と同じ基本的権利が認められると言う事。もし、この判決が確定すれば、動物園やサーカスでの動物の扱いに議論が及びます。

 

ブエノスアイレスの動物園にいる28歳のサンドラは、1986年にドイツの動物園で生まれました。94年にアルゼンチンにやって来たという状況です。動物保護団体が、「ずっと不当な監禁生活を強いられている」と、訴えたのです。

 

判決では、「動物であっても、類人猿のオランウータンには基本的な権利は認められるべきだ」としています。3人の裁判官は全員一致で、「オランウータンでも法的には人間と同等の権利があり、自由を享受できる」との結論を出しました。動物園側は当然反論しておりますが。

 

 
 
 
 

この記事を読んで、アメリカの哲学者を思い出しました。人間より能力のある類人猿は、彼等より劣るとされる人間よりも権利を与えられるべきだと言っています。つまり、人間かあるいは類人猿かの境界より、どちらに能力があるかでその位置を定めるべきだと言う事。その人物はちょっとあやふやですが、リチャード・ローティでは。ローティは、自らを「リベラル・アイロニスト」と称しています。違っていたらすいません。

 

それで、ちょっと面白くなって検索してみました。アメリカでも同様の裁判がありました。NPO「非人間の権利プロジェクト」がアメリカ・ニューヨーク州の3つの裁判所に「チンパンジーを法的に人間と認めて」という訴訟を起こしたのです。申し立ては、チンパンジーが保護区での解放を求める内容となっています。

 

ひとつは、中古トレーラーの販売所で檻に入れられたままの「トミー」の代理人としてのもの。二つ目は、ナイアガラフォールズの民家で飼われている耳の聞こえない26歳のチンパンジー「キコ」についての同様の申し立。三つ目は、ロングアイランドで歩行に関する実験に使われている、研究所所有の「ヘラクレス」と「レオ」について。

 

これらの申し立は、ニューヨーク州がかつて奴隷たちが自らの立場に異議を申し立、自由を獲得する為に使った「人身保護令状」の原則に基づいているとしています。

 

 

もっと検索してみますと、『大型類人猿の権利宣言』という本にぶち当たりました。その解説では、

 

「わたしたちは人間であると同時に大型人類猿である。チンパンジー、ゴリラ、オランウータンと人間の境をなくし、彼等も『人権』をもつべきとする既存のモラルへの警鐘の書」

 

とか。

 

英文は、

 

The Great Ape Project: Equality Beyond Humanity

 

This collection of thirty-one essays by the world's most distinguished observers of free-living apes make up a uniquely satisfying whole, blending observation and interpretation in a highly persuasive case for a complete reassessment of the moral status of our closest kin.

 

 

どうですか。賛成しますか。

 

 

わたしとしては、類人猿の権利を認めるなら他の生き物の権利も求めるべきだし、それを超えて、人工知能の権利も認めるべきと思います。

 

 

人工知能については、特別な思い込みがあるものですから……。

 

 





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2014年12月18日木曜日

本を買う


パトリック・モディアノが今年のノーベル文学賞を取りました。新聞紙上で彼のいろいろな本が取り上げられています。なんか全部興味深そう。たいていは、『暗いブティック通り』、『1941年。パリの尋ね人』、『失われた時のカフェで』の三冊を紹介しています。

 

『暗いブティック通り』は、記憶喪失状態の探偵が自らの出自とアイデンティティ探索へと乗り出すミステリ風の物語と言われ、『1941年。パリの尋ね人』は、実際に彼が1941年12月31日付の「パリ・ソワール」で見つけた尋ね人の記事をもとに調査を重ね物語を紡ぎ出したということ。最後の『失われた時のカフェで』は、この二つの作品の精髄を内包する連作短編集と。

 

それで、わたしはどの本も読んだことがないので、最後の短編集を読んでみようかなとアマゾンを検索しました。しかし、どの本もアマゾンは売っていませんでした。「古本の販売者から購入して下さい」というスタンス。なぜかなあ。なんでこんな有名な作品をアマゾンは売らないのかなあ。もう絶版したんかなあ。などと思いましたが、出版社がノーベル賞を取った作品を絶版などしませんよねえ。

 
 
 

 

近くの大きな本屋さんで見てみようと思い本屋さんへ。いつもアマゾンで本を買っていて、本屋さんでは雑誌を買うだけでした。つまり、久しぶりに「本を買う」という目的を持って本屋さんに行った訳です。

 

先ず、新刊書のコーナーに行くと、最近新聞などで書評が書かれた作品が並んでいます。彼の本で棚に並んでいたのは、『暗いブティック通り』のみ。どうしようかなと思いましたが、やはり、初期の目的通り『失われた時のカフェで』を買おうと決心しました。だから、それはカウンターで注文することにし、だらだらと他の本に目をやっていたら、『倍音』という本に目が止まってしまったのです。「止まってしまった」という意味は、同時にたくさんの本を買うと絶対全部読めないので、買うのは彼の本だけにしようと堅く思っていたからです。目に留まると必ず買わずには居られないから。

 

『倍音』はタモリさんや黒柳哲子さんが、紹介していた本です。その時から「おもしろそうだなあ」と。というのは、今私は、日本独特の「身体の所作」に興味があるからです。日本ばかりでなく、他の西洋でない国々にも、その国独自の人間の所作があったはず。それが、日本で言うと明治維新の頃から西洋に追い付け追い越せの政府の「モットー」により、西洋の慣習を追いかけ続けてきました。そこで、日本人独特の身のこなし方などが忘れ去られたということ。『倍音』は音楽関係についての本ですから、日本人の音楽とは何だったのかという興味で……、買ってしまいました。西洋で楽譜というものが発明された時に、楽譜で表わすことのできない「音」が消え去ってしまったのです。合理性の手のうちからこぼれ落ちた不条理です。こちらの方こそが、「人間」そのものと思うのですが。

 

身体で言えば、最近買った本は、『日本人の身体』です。こちらも以前UPした『身体から革命を起こす』のように、日本人の独自の身体の動かし方は明治維新の西洋からの「体育授業」ですっかり失われてしまったという事。『日本人の身体』は、能楽師の身体の所作から日本人の身のこなしを考え直すというもの。

 

 

もう一冊買ってしまいました。これはアマゾンから。1か月お待ちくださいと言う事でしたが、つい昨日届きました。『愉楽』です。中国の最近の作家のもの。現代の中国人の作家の本は、始めてです。障害者ばかりが住む村の話。レーニンの遺体を購入し、それを見せものにして、村おこしを図ろうという意図で、陳腐で壮絶な技能を持つ集団を結成し、旅の一座を作り、遺体の購入資金を作ろうと言う話です。おもしろそうでしょう。閻連科という作家のものです。中国本土では、ほぼ彼の作品は発禁処分。しかし、世界的にはいろいろな賞を受賞しています。2014年度フランツ・カフカ賞も受賞しています。

 

 

という訳で、今、読まなければいけない本は、

 

『失われた時のカフェで』

『日本人の身体』

『愉楽』

『倍音』

 

です。

 

『失われた時のカフェで』は、本屋さんで注文しましたがまだ「入りました」の連絡は来ていません。

 







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2014年12月15日月曜日

MISSENT e-MAIL


ちょっと面白い経験があります。間違いメールです。わたしは、携帯は通常その辺にほったらかしにしてあります。どうせ重要な連絡など来ないからです。しかし、ふと、携帯の方に目が行った時、パカパカと光が点滅しているのに気が付きました。パッカっと蓋を開けてみたらメールが来ていました。見てみるとそれが英語のメールだったんです。内容は(適当に訳すと)、「夏になったね。今が君を訪ねるのに僕にとっては一番いい時期だ。君の家族にも会えずにいるので・・・(実際は、miss your family)。」

 

「ふ~~~ん、わたし、こんな友達いないなあ・・・。」と。それで、何これと思ってよく見ると、宛先がわたしとは違う名前だったんです。でも差出人は、以前のプライベートレッスンの英語の先生。ああ、あんなヤツならミスメールをするのも当り前だと納得しました。前の先生と言っても、教えてもらったのは6回だけ。その内3回は遅刻してきました。2回は、レッスン日を先生の都合で変更。まともにレッスンできたのは1回だけと言う有様。だから、さっさとお引き取り願った次第なのです。

 

先生と会ったのは6回だけなのに、なぜか先生のプライベート生活はよく知っています。彼が自分のことしか語らなかったから。こういう事は、よくわたしにはよく起るんです。何故か話しやすい体質なんでしょうか。わたし、英語の先生の秘密たくさん収集していますよ。彼が日本に来たのは、まず第一に、お金を稼ぐため。まあこれはいいでしょう。日本にいる英語の「先生」なんてそんなものだから。彼らは、日本にフラッと来て英語教えているのよ。彼の以前の仕事は、モデルです。ジャマイカ生まれのアメリカ人のちょっとイイ男でした。周りの連中に俳優になれる、モデルになれると言われてモデルになったとか。中東で仕事していたと言っていました。



 
 
 
 

彼が遅刻をしたひとつの訳は、彼、国際センターでセラピーを受けていたんですよ。なんでそんな日に、わたしとのプライベートレッスンのブッキングができるのよねえ、とも言いたいですが、「お金がないのによくセラピーを受けられるね。」とたずねました。なぜなら、別の日に彼は、「もう少し稼がなければ滞在ビザが更新されない。」と言っていたから。すると、彼は、「タダだ。」と答えましたね。なんでこんなアメリカ人に日本人がタダでセラピーを提供しなければいけないのでしょうか。

 

とにかく、彼のセラピーの理由は、「彼が日本に来たのは7年前でした。そして4年前に日本人の女性と結婚しました。そしてよくある離婚。彼女は子供と自由に合わせてくれないらしく、欝状態だから」と。ほんとかな?現在は新しい彼女はいるらしいのに。でも子供に会えないのは恋人とは別の次元の話とも言えますが。

 

「今までは、一週間に一回会っていたが、家庭裁判所から呼び出しが来た。母親が子供(男の子と女の子。たぶん三歳と一歳)と会うのは一カ月に一回にしてもらいたいと、調停を頼んだようだ。」と話していました。彼は彼女のことをstupid と評しました。そして、日本の家族に関する法律もstupid だと。「日本人の夫はさっさと妻と別れて、子どもに会えなくても平気かも知れないが、アメリカ人は違う。なんで日本はハーグ条約に署名しないのだ。」とも言いました。日本政府がハーグ条約に署名する前の出来事だったんです。

 

「あらッ、アメリカがハーグ条約に署名した時は、アメリカの家族法は日本と同じで親権をどちらか一方に認めていたのよ。映画の『クレーマー・クレーマー』はそんな状況を扱った映画だったんだよ。」と言うと、僕もその映画は見たと言いましたが、納得はしていないよう。つまり、日本人の夫が子供と会えなくても平気なのは、日本の文化だとでも言いたい様子です。

 

「それに、あなたはアメリカに離婚した妻と子供がいると言ったでしょ。その子はどうしているの。」と指摘してみました。と、「彼女とは結婚していない」という返事。「結婚していなくとも、一緒に暮らしていたら日本では内縁関係で結婚と同じと見做されるけどねえ。」と再び指摘すると、「子どもは娘だが、おばあちゃんと暮らしている。お金も仕送りしている。」と答えたもんです。アメリカ人の娘はアメリカに残して来ていて、そんなに会えなくとも大丈夫なんだと。矛盾を感じました。彼の夢は、「将来総ての子供が集まって皆でいっしょに過ごすことだ。」と、ノー天気な発言もしていましたよ。

 

最後には、「いいさッ、彼女が子供に会わせたくないならそうするさ。もう僕はいい。それで彼女が僕に勝ったと思うなら、そう思えばいいさ。彼女に会った時はこんな素晴らしい女性はいないと思った。だけど、女なんて誰でも同じさ、僕を締め出したと悦に入っていればいいのさ。彼女が欲しかったら、すぐにできる。誰でも手当たり次第さ。」と・・・。

 

どうですか。こんな外国人に日本政府は、タダでセラピーを施さなければいけないんですかね。外国人が、日本で快適な生活を送れるように、ってね。

 

こんな奴のメールなので、送付ミスのメールはそのままにしておきました。返事はせず。すると、次の日に二回目のミスメール。わたしがメールしなくても、彼は気付くだろうと思っていたら気付かなかったみたい。二回目の内容は、「明日、君の家に行ける」と言うもの。これはほっとくとちょっとかわいそうかもと思ってメールを送ってやりました。

 

Unfortunately, I’m not Junko. と。これで彼の謝りのメールが来るかもと。まあ、返事はなくてもいいかとも。

 

すると、返事は、whose address is this?  Why is it unfortunate?

 

わたし、完全に頭にきて、無視しました。謝りのメールが来たのは、ようやくその日の夜のこと。ある意味、おもしろい週末だったとも言えますが……。






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2014年12月14日日曜日

昆虫記


ある日湯船に浸かっていると、小さなゴキブリが壁を這っているのが目に入った。それは小さな種類のゴキブリとも言えるし、またはゴキブリの赤ちゃんとも言える。その時は、わたしは半身浴をしていた。お湯に半分浸かりながら朦朧とした意識の中で見るとはなしに壁に目を走らせていたのだ。ふだんは虫を殺しはしない。というよりむしろリスペクトすらしている。その異形の形と古生代から存在し続けている人類の先輩としての生物だからだ。しかし、ゴキブリだけは許せない。その傲慢な態度、なにものをも恐れないノンシャランな態度。

 

その時のゴキブリはとにかく小さかった。許そうという気にもなっていた。しかし彼は(悪い奴は、いつも彼なのだ。)壁に掛かっているわたしのタオルの方に近づいて行きそうな気配だ。咄嗟に、わたしの中に殺意が芽生えた。しかし、下手に殺しては後始末がたいへんと躊躇した。わたしのタオルの上で死んでもらっては困りものである。

 

その上、手近に適当な撲殺武器が見当たらなかった。本来ならば、たいていは新聞紙を丸めて叩く。あるいはビール瓶で叩く。新聞紙はそのまま捨てればよいし、ビール瓶ならば、彼の残骸から溢れ出た汚物を洗い流し、何事もなかったかのように酒屋さんに返せばいい。また、ビール瓶を割らずしてどのくらいの力加減によって、如何に彼を叩けば良いかなどと考えるというエンターテイメント性も加わるのだ。

 
 
 
 

しかし、風呂場には生憎そのようなものはない。わたしは洗面器を手に取った。しかし、洗面器で叩いて彼の死骸がその底にへばりつけば、それは最低な状況になる。そこで、わたしは彼に向かって洗面器をただ投げつけようと考えた。彼に向かってぶつけても、それに当たって死んでしまうような間抜けなゴキブリはいないだろうと思ったからだ。つまり、ただの威嚇。わたしの神聖なタオルに近づくなという警告だ。

 

わたしは投げた。それは彼から外れたように感じた。しかし、その小さな彼は壁に張り付いたまま動こうとしなかったのだ。何かそれは少し平らになった様な気もした。わたしは彼をそのまま見続けていた。しばらくすると前足が少し動いた。はじめは目の錯覚かと思った。が、段々頭も動き出した。しかし、下、半分は動かない。わたしは「下半身不随になちゃったの・・・?」と呟いてみた。

 

彼はそのまま上半身だけでのたうち続けたが、「ふ~ん、そのうち動き出すんだろうよ。」と、わたしはうそぶいてみる。ゴキブリなんてそんなもんさ。一回の攻撃で、死んだためしなんてないのである。案の定、そいつは動き出した。始めはもぞもぞと。そしていきなりダッシュ!あまりの素早さに少し感動さえ覚えた。彼は、わたしが投げつけた洗面器からなんぞ、何のダメージも受けなかったかのように、あちこちと全速力で走り回り始めたのである。むらむらと、彼に対しての悪意が再び湧き上がった。

 

湯船からわたしは、お湯をいっぱい洗面器に満たした。そして、彼に向かって思いっきりお湯をぶつけた。彼はその衝撃で壁から滑り落ち、くるくる回りながら排水溝に滑っていった。そしてそのままわたしの目の前から消え去った。

 

「ふんっ、なめるなよ!」、ビショビショになった壁のタオルを横目に見ながら、そう呟いてみた。








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2014年12月10日水曜日

選挙雑感


選挙ですね。

  

選挙には、特別のことがない限り行くようにしています。が、特に今の政治の問題に興味があるのではありません。大体この世の在り方が間違っているのに、根本を直さないで、問題が解決されるわけはありません。

 

最近、「貧困が受け継がれ続けている」という記事を読みました。つまり、生活苦のためにこどもが教育を受ける機会を奪われて、報酬の良い職業に就けず、貧困が次世代まで続いていくというもの。もう三代も「生活保護」で暮らしている家族がいると指摘していました。日本もスラム化していくのかなあ。

 

資本主義は、はじめから、人々の間に格差が開いていくシステムです。人は生きて行くために「職業」を持たなければいけないようになりました。ただ、裏山に行って、食料を取ってくるわけにはいかないのです。もちろん、今なお、そのような生活は可能です(都市生活でなければ)。しかし、それでは、先進国であることを示すGDPに貢献しないのです。人は、モノを作り出してそれを売る、そして、誰かがそれを買わなければならない。

 

資本を持っているものがモノを作り売る。(もちろん、わたしの意見は相当単純だとは思いますが)、資本を持っていないものが、そういう中で、職業を得てモノ作りを担うのです。これ、平等だと思いますか。思う人は中間層にいるからです。資本主義社会が上手くいくためには、大いなる中間層が必要です。なぜなら、中間層が資本主義の矛盾を隠蔽する手助けをしているからです。中間層が、お互いに喰い合っている間に、上層は下層を搾取しています。しかし、その中間層も世界的に徐々に層が薄くなってきています。

 

タイラ・コーエンはその著『大格差』の中で、「労働市場から脱出、正確には追放されはじめた」成人男性の賃金は1969年から2009年のあいだに28%も下落したと述べています。それは、テクノロジーが「人間の労働者を代替する」からだと。教育とは、DNAで引き継ぐことができない事を学ぶことです。世の中が複雑になり科学が進歩し、人が「学ばなければならない」ものの量が膨大になりました。その膨大な知識を手に入れられる人の数はだんだん少なくなります。能力的にそして経済的に。コーエンは、「天才的なマシーンの時代」である21世紀は、機械と働ける15%の大金持ちには「胸躍る」未来であるが、それ以外の人には、「恐ろしい」時代になると警告しています。

 

 

こんな世の中で、人は「なんであんただけお金持っているのか」って叫ばないのだろうか。

 



 

資本主義は民主主義と個人主義との三位一体です。こんな話を読みました。古代の人類社会をリサーチするためにアフリカの未開社会を調査していた人類学者が書いていたことです。「その部落では、食べ物はすべて皆のものだ。川や森で得た食料は全部持ち帰って、全ての人と分かち合う。誰もズルをして一人占めはしない。もし、一人占めしたとすれば、その人は仲間外れになって、その部落では生きていけなくなる。しかし、貨幣がその部落に入ってくると、人は、「お金」はみなで分かち合わないのだ。家族で分かち合うのがせいぜいなのだが、そんなことも稀である。」と。つまり「個人」の誕生です。一人一人が「個人」でないと、資本主義は成り立たないのです。

 

民主主義はどうでしょうか。市民革命によって市民が表舞台に出てきました。しかし、市民とはブルジョアのことで、はじめからお金を持っていた人々です。そんな人々の私有財産を守るのが、共和国の使命なのです。民主主義は、個人の財産を正当な物とする理論です。

 

今日のニュースです。「皇后さまベルギー訪問へ」。この民主主義の世の中でなぜ国王とか女王とか天皇がいるんでしょうね。考えてみれば、民主主義の本場のヨーロッパの国々にも国王がいますよ。なぜ、生まれた時から身分の違う人々が存在するのでしょうね。

 

 

という雑感でした。








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2014年12月7日日曜日

伝統医療 in Africa  英語バージョン


「伝統医療 in Africa」がわたしのブログ内のランキングに入りましたので、英語バージョンもUPしてみました。

これが「伝統医療 in Africa」について考えた最終稿です。







Today’s topic is the role of traditional medicine and traditional healers. This idea comes from a book whose title is Congo Journey. It is a nonfiction book written by a British explorer, Redmond O’Hanlon. He explored a virgin forest in People’s Republic of the Congo (now the Democratic Republic of the Congo). His purpose was to search for the living dinosaur, Mokele-Mbembe, in Lake Tele with an American ethologist, Lary Shaffer and a Congolese biologist, Marcellin Agnangna. It was around 1990, so they of course, lived in modern society and they were absolutely supposed to have rational and logical thinking. But Redmond and Lary had a sorceress divine the success of their expedition.

 

This episode reminded me of an article in a newspaper. Its title is “the South African Government utilizes traditional healers”. The standard of the living in South Africa is high, but ordinary people mostly rely on traditional curers who use medicinal herbs and ancestorial worship. It is because they have to pay much money for high quality treatment at private hospitals, and consequently, public hospitals are always crowded for people in need. About 27 million people out of the population of 48 million count on traditional medicine.

 

In South Africa, sorcerers or traditional healers are called Sangoma. Sangoma are not only magical pradtitioners but also curers who manage folk remedies. The article introduces Sangoma, Anica Mcondo. Her methods are the same as other sorcerers. She does not question the condition of a patient. Instead, she casts a handful of cowrie shells, pieces of animal bones or pebbles across a raffia mat. Ancestors’ spirits rest in these things. She tells patient’s condition from its formation, and compounds plant powder. Then, what is difference between Ms. Mcondo and other general traditional healers? She has studied a short-term course in University of the Witwatersrand which boasts of the best educational standards in South Africa. Her herbs in plastic containers are classified systematically and displayed in line in an orderly way. And she also writes her patient’s case record.

 

The University has a four-week course for teaching the knowledge of modern medical care, prevention of AIDs, business administration and the law. These courses can assist traditional healers in identifying illnesses beyond their capacity to treat. In addition to this, the South African government brought the Traditional Medicine Law into being in 2007, and has prepared the national certification system of traditional health practitioners.

 

Sangoma are originally people who are particularly sensitive to the spirit world. In general, African people think that there is a primary spiritual factor in disease and luckiness or unluckiness. And Sangoma also tell people’s fortune, hold purification ceremonies and make good-luck charms. Therefore, they need to apprentice themselves to experienced master Sangoma. The master gives them permission to stand on their own when they finish the training. They must learn the way of treating herbs, prescribing medicine, identifying patients’ problems by using afflatus. In other words, basically, they are already qualified as curers.

 

Accordingly, it becomes a matter in hand whether their treatments have medicinal benefits, or not? Sangoma use thousands of herbs, for example, mint which is effective for the circulation of the blood, mugwort (よもぎ) which is effective for a cough and willow which is an effective painkiller. Western medicine tends to deny traditional medicine because it does not have scientific evidence. But, an estimated 70% of modern drugs were derived from plants first used traditionally. Recently, scientists have identified one plant extract that acts like an antiretroviral drug for AIDS. This plant has been well-known as a traditional medicine for AIDS in South Africa since long ago.

 

It is said that collaboration between traditional healers and conventional doctors is especially profitable for HIV remedies. Traditional healers are respected within their communities. It means mutual trust has been already structured between healers and patients. And, they know how to convey health information in a culturally appropriate manner. They are ideally placed to teach HIV prevention, distribute condoms, conduct counseling, encourage HIV testing, and set up support groups for affected people. Their relationship also might boost immunity and relieve stress. Furthermore, it is important to refer that traditional healers also provide immediate and cheaper treatment.

 

In any case, the primary importance is to ensure the certain ability standard of traditional healers. Besides South Africa, the same kinds of institutions are found in some African countries, for example THETA in Uganda, TAWG in Tanzania, PATF in Zambia.

 

In conclusion, although people believe that Sangoma cure disease by manipulating afflatus or incantation, they can experientially give a diagnosis by observing a patient and grasping symptoms like as so-called good doctors. And, Chinese or Japanese Kanpo and European herbs also used to be accused of superstition or an unscientific way of thinking. But, nowadays, they are admitted as effective treatment like as conventional one. Modern medicine is scientific. On the contrary, traditional medicine is empirical. Even if traditional medicine, yet, has not been proven scientifically, thousands of years of historical experience has proven its benefits, hasn’t it? What’s more, if the government gives consideration to traditional healers, it will lead to conservation of their knowledge inherited generation after generation.

 

 

 

(PATF; the Copperbelt Province AIDS Task Force) (the Tanga AIDS Working Group (TAWG) of Tanzania)






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2014年12月2日火曜日

『The Wedding Knell』


次回の英語読書会の作品は、ホーソンの短編『The Wedding Knell』です。この作品を提示した人は、オックスフォードの英語学習者のための本から選んでいるので、英語は書き直してあります。原作より簡単な表現になっています。以前にも書きましたように、英語の情緒はナシ。しかしながら内容は興味深く読みました。

 

ホーソンは生年1804年、没年1864年です。つまり内容は古いと言えます。時代が古いので、現代の考え方とズレているところはありますが、まあ、人間の真実はいつの時代も同じでしょう。ちょっと不思議なお話でした。しかし、今回ばかりでなく、いつも他の人が持ってくる古典の名作にいつも「既知感」があるのはなぜでしょうか。「世界の名作」はあまり読んだことがないので、少々不思議なのですが、小さい時からテレビでアメリカの映画やドラマばっかり見ていたせいでしょうか。例えば「ヒッチコック劇場」とか「トワイライト・ゾーン」とか。そんなところで、名作をパクッていたのかもしれませんね。つまり、そんな奇妙なお話でした。

 


 

ニューヨークの教会で(もちろん現代のニューヨークではありませんからね)、結婚式がとりおこなわれます。でも、その結婚式はおもしろそうだと世間のうわさです。ですから、花嫁花婿に関係のない人々も出席してみようと思っています。

 

そのカップルは、40年以上前に婚約していました。が、女性の方が婚約破棄をし、お流れとなったのです。それで、40ウン年後に再び結婚することになったと言う事。

 

こんな感じです。

 

The couple to be married had previously been engaged forty years ago; since then,

The lady had been married twice.  The gentleman had been single all these years and was now well over sixty years of age.

 

この紳士の名前は、Mr. Ellenwood。相当な変わり者らしく、彼は人の目を引かないように常々しているんですが、世間はほっとかない様子。ここで不思議なのは、世間の人々は花嫁と花婿が相当な年齢だということだけで、awfulとうわさしている事。今ならザラにあることと思います。それ以上に、歳を重ねてから、もう一度パートナーを探すと言うのもブームですよね。

 

花嫁になる女性の名前は、Mrs. Dabney。彼女のことはこのように書かれています。

 

The widow, Mrs. Dabney, was the opposite to her third bridegroom, in everything but age.  She had been forced to end their first engagement and had then married a man twice her age. She was a loyal wife, and after the husband’s death, she was left a huge fortune. She then married a man much younger than herself and was taken to live in Charleston.  After many unhappy years, she was widowed again.

 

これは、お金があったから自分より若い男と結婚できたと示唆しているんでしょうか。

 

 

話は飛んで、いよいよ結婚式の日です。今では歳をとった花嫁は、真っ赤なドレスで着飾って、物見遊山で教会に来た人の嘲笑の種です。「あんな歳で若づくりをして。」と。でも、根っから陽気なDabneyは、まだ来ぬ花婿を待っています。と、そこに葬送の時に鳴らされる鐘の音が……。

 

出席者はみな、不吉な予感に苛まされます。そして、葬送の鐘とともにまるでお葬式に参列する人のような行列が、教会の方に近づいてきます。そして、教会の扉から現われたのが、経帷子を着た花婿、Ellenwoodです。

 

-------, a dark line of people walked into the church.  First, an old man and woman---like chief mourners at a funeral, dressed from head to foot in black, except for their pale faces and white hair---entered.  He was leaning on a stick and supporting the old woman with his thin arm.  Behind them appeared another couple and then another pair, as aged, as black, and as mournful as the first.

 

------, Down the centre walked a dark figure.  It was the bridegroom in his shroud!

 

つまり、花婿は自分の結婚式に死に装束で現われたのです。それは何故でしょうか。

 

彼は言い募ります。彼女とは40年以上前に婚約していた。しかし、彼女は裏切って他の男と結婚した。そしてまた他の男と。彼女の若い美しい時代は、他の男のために費やされたのだ。そして今、彼女は歳を取った。その老いの醜さをわたしに与えると言うのだ。この先は、死が待つばかり。それならば、このまま葬送として、墓までいっしょに歩んで行こうではないか。

 

“Cruel! Cruel!” groaned the shocked bride.

“Cruel!” he repeated, losing control in a wild burst of feeling.

“Judge which of us has been cruel! In youth, you robbed me of my happiness, my hopes, my aspirations.  You took away everything that mattered to me and left me not caring where I went or what I did.  Now, after forty years, when I am ready to die, you call me to get married. Other husbands have enjoyed your youth, your beauty, your love, and everything about you. What is left for me but your old age and death? This is why I am here in my shroud, to marry you in a funeral service so that we can enter the door of the burial chamber together.”

 

この彼の咆哮に会場のみなは驚愕したが、ただ花嫁は引きつけられました。

 

“Yes!” she cried.  “Let us marry, even at the door of the burial chamber!  My life has been empty and wasted.  At its end, I have one true feeling. It is how I felt when I was young and deserving of you.  Time means nothing now.  Let us be united forever!”

 

という訳で、彼は、彼女の所業を許しハッピーエンドとなりました。メデタシメデタシ。

 

Let us hold hands and say that although we were separated in life, we meet again just as we are leaving it and find our affection changed into something holy.  How important is time in a never ending union?

 

 

 

いかがでしたか。このドンデン返し。ちょっといい話でしたでしょうか。

 

 







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