2018年10月29日月曜日

ダンテの『神曲』地獄篇を読んで




ダンテの『神曲』地獄篇を読みました。内容についてとやかく言うことはできませんが、(それから、「詩」なので、わたしに詩を味わう能力があるのかと言う疑問もあります)、興味深いです。わたしの弱点として、本筋ではなく細部にこだわりがいってしまうという事がありますので、その方向で書いてみます。





もちろん翻訳本を読んでいます。それで、興味を引いたのは、キリスト教の「地獄」でありながら、翻訳の言葉に仏教用語が使われているという事。批難している訳ではありません。ただただ、おもしろいなあと思ったので。



例えば、三途の川。アケロンとルビは振ってありますが。その他、地獄の門番の「仁王立ち」とか、です。キリスト教自体が日本特有のものではありませんから、それに相応しい言葉がないことは当然です。それでも宗教らしい雰囲気を出そうとすると、一般の日本語より仏教用語の方がより的確であるのでしょう。



もうひとつ同時に読んでいた本があります。Lafcadio Hearn の『Glimpses of Unfamiliar Japan です。こちらは英語で読んでいます。ハーンの興味は見るところ日本の(明治時代ですが)風景と、民間伝承(おとぎ話を含む)、仏教にあるようです。それで仏教用語とか日本特有の単語が頻繁に散見されます。彼は先ずは日本語でそれを示し、それから英語で意味を示します。時々はノートでさらに詳しく解説しています。例えば、Monju Bosatsu---the Lord of WisdomThe Sai-no-Kawara, which is the place to which all children after death must go など。またこんなものもあります――innen, the result of errors in a previous life



こんな本を二冊同時に読んでいたものですから、なおさらそれぞれの宗教の言葉使いに目が行ってしまった訳です。



もうひとつ、仏教の地獄への入口は三途の川で、道は三つしかありませんが(地獄の種類が三個と言う事)、キリスト教の方は九個あるようです。キリスト教の地獄は三角錐をさかさまにしたような形をしています。つまり、じょうろの内側を下って行くと段々と罪深い過酷な層になって行くという物。上層の界の方が広い円周です。翻訳ではひとつの階層が圏谷(たに)となっております。



興味深いのは、第一の圏谷は辺獄と呼ばれキリスト教の洗礼を受けていない人が行くところなのです。実際、ダンテの先達であるウェルギリウスも神によって辺獄から呼び出されてダンテの地獄めぐりの道案内をしています。その彼はキリスト教以前の人。つまり、キリスト教がなかった訳なので、どう考えても洗礼は受けられません。それでも「キリスト教の」地獄に行っちゃうのですね。その他、ホメロスなどの偉大なギリシャ詩人やソクラテス、プラトン、アリストテレスや、カエサル、ブルータス、キケロやユークリッドもいます。第二の圏谷は愛の為に罪を犯した人が行くところですが、そこにはクレオパトラもいます。



さすが、唯一の神、絶対神!キリスト教に全然関係のない人の罪まで引き受けてしまうのですね。どこかに日本の武将もいるかもしれませんよ。他人に暴力を加えた人として。














ダンテの地獄は次のような構造になっています。



第一の圏谷:キリスト教の洗礼を受けていない者

(辺獄)

第二の圏谷:愛ゆえに現世を逐われた者

第三の圏谷:生前、大食いであった者

第四の圏谷:貪欲な吝嗇家、浪費家

第五の圏谷:地獄の下層界ディースの市

第六の圏谷:皇帝党

第七の圏谷:虚偽瞞着

   第一の円:人殺し、横領

   第二の円:自殺、財産を散財する者

   第三の円:ソドム、高利貸し

第八の圏谷:

   第一の濠:女衒

   第二の濠:女たらし、阿諛追従

   第三の濠:聖職売買

   第四の濠:魔術、魔法

   第五の濠:汚職収賄

   第六の濠:偽善

   第七の濠:窃盗

   第八の濠:権謀術策

   第九の濠:分裂分派

   第十の濠:虚偽偽造

第九の圏谷:裏切り者の円

   第一の円:カインの国―――肉親を裏切って殺した者

   第二の円:アンテノーラ―――裏切りによりトロイアを敗北させた者の名前による

   第三の円:トロメーア―――客人を裏切って殺した者

   第四の円:ユダの国―――恩人を裏切って殺した者



ダンテはこんな地獄をすべてたどって行きます。そして、第二部煉獄篇へと進むのです。





ここまで読んで来て、キリスト教、西洋中心のこの文学が何故世界でも有数の文学になり得るのかと言う疑問がわきました。もちろん、キリスト教文化の国で重要な文学作品の位置を占めるのは理解できます。しかし、キリスト教に関係のない国々ではどうなのでしょう。



例えば、第五の圏谷ディースの市で円屋根の回教寺院が見えます。イスラム教の寺院を悪の城と位置付けているのです。また、第八の圏谷の第九の濠にはマホメットがいます。「俺はめった斬りにされたマホメットだ」と叫んでいるのです。もっと凄いのは、第九の圏谷の第四の円の名はユダの国です。



こんなこと書いていいの、と思って訳者あとがきを読んでみると、翻訳者平川祐弘氏も同じ考えらしく、「イスラム教の始祖を地獄の底に堕としイスラム寺院を下地獄の悪の城に見立てている『神曲』を世界文学の最高峰と呼び続けることははたして賢明なことだろうか」と言っています。



彼によると、『神曲』のアラビア語への翻訳はあるそうです。ただし、地獄篇第二十八歌は削除されていると。また、彼は以前、日本イタリア学会で「『神曲』に見られるキリスト教の厭うべき点」という発表を申し込みましだが、断わられ、その理由の説明も得られなかったと付け加えています。



もう一人川本皓嗣氏も終わりに一文を寄せています。タイトルは『「喜劇」という名の大叙事詩』。その中で、彼もダンテのゆるぎないキリスト教への信仰について述べています。ヨーロッパ中世と古典古代の融合と、逆に真っ向からの対峙という両面を、きわめて高い次元で体現しているのが『神曲』の偉大なる所以であると。



二人ともに、ダンテのこのキリスト教に対する大いなる自負について考察していますが、この事を抜きにしても『神曲』は偉大な詩であることに間違いはないとしています。わたしにとっても、ダンテの描写力は素晴らしいと言い得ます。ビジュアルのないただの言葉だけで地獄のおどろおどろしさを感ずることができました。もちろんこれには翻訳家の技もあるだろうけど。



すばらしい翻訳家の恩恵で、我々読者は階段の第一段をオミットして、二段目から上れるというものです。翻訳家のフィルターを通してより高い段階の観照が得られるなら、日本の翻訳文化に感謝と言うところですね。








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2018年10月28日日曜日

最近のコメンテイターからの……思う事



ニュースショーやテレビ討論会のコメンテイターは、以前は上等そうなスーツを着たおじさんばかりでした。最近は、少々マシになって来たかも。ボツボツ大学教授やその道の専門家の女性が出演するようになってきたから。



これまでは、女性が出ていても、「花を副える」が如きの扱い。タレントや少々頭のよさげな美人系。その後、元ニュースキャスターや弁護士などの女性の登場。そして、今漸く、その道の専門的意見を言えるような人たちが出てきた模様。



わたしが若い時分、安藤キャスターが金丸氏(政治家)の記者会見で質問をしましたが、「お前は黙っとれ!」とばかりに無視されました。女性が偉そうに政治家に質問などしてはいけない時代だったのです。強烈な思い出です。



大学院の入学試験でも、定員があるので、女性は遠慮しなさいという雰囲気。同じくらいの成績なら男性が推薦されるし、「男性には将来があるから君は辞退しなさい。」と、教授にもろに言われた先輩もいました。「女性には将来は無いんかい。」と彼女は、憤慨。









こう書くと、漸く女性も「デキル奴」が現れてきたと誤解される向きもあるでしょう。しかし、女性は以前から「デキル奴」だったのです。育つ環境やら社会慣習の影響です。特に、女性は小さい頃から、「男性に道を譲る」、「男性を立てて勝負に勝たない」というように躾けられています。何か意見を言うとき、男性と女性が同時に手を挙げると、必ず男子生徒が先に意見を述べます。



息子の小学校の運動会の話です。男子対女子の綱引きで女子生徒軍が勝ちました。先生は、男子が女子に負けるのは可哀そうだからと、男子軍が勝つまで3回もやり直しました。父兄たちも男子生徒を応援です。こうやって、女性は男性に道を譲るように育てられていくんだなあ~と、感じた次第です。



しかしまだまだ、「漸く女性も日の目を見られるようになった」という段階です。どこかの医大の入試で女性が差別を受けていたという話。男性はテストの結果に下駄を履かせてもらっていたのでした。この状況を受けて他の大学入試を調査したところ、同じような現象が多々見られたとか。











どこまで女性は我慢しなければいけないのでしょう。女性は差別の構造の最下層にいると学生時代に何かの本で読みました。いろいろな差別がありますが、その差別される人々の中で、また、女性は男性に差別されているのですから。





私、囲碁で最近は勝てるようになって来ました。しかし、男性は(特に囲碁界は年寄りが多いので)女性に負けるのが恥と思っているようで、わたしに負けた男性が、「なんだ女に負けて恥ずかしいなあ。」と言われているのも聞きました。そのせいか、上手(うわて)の人は、わたしと碁を打ってくれますが、同レベルの人には避けられている雰囲気があります。



そんな現状です。









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2018年10月21日日曜日

何故、話しかけなければいけないのか?



俳句への道は、まだまだ取り掛かっていませんが、新聞などで俳句、短歌コーナーがあると、ついつい目が行ってしまいます。と言ってスキャンするだけで、すべてを読んでいるわけではありません。



つい先日、その伝で朝日新聞の「東海歌壇」に目を泳がしていると、ひとつの歌が目に入ってきました。



「パソコンが話しかけろと言っている独り言なら声出るものを」



その通り!!!



今年の初め頃、パソコンを買い替えました。何か前のパソコンにはないキーがあったので、ちょっと押してみると、「何か言え。」と言ってきました。え~~~ッ、と思って絶句している間に、「音声が聞き取れませんでした。」と言って、シャットダウンされてしまいました。その後も、間違えてそのキーを押したことがありますが、わたしは何も話しかけることが出来ず、パソコンは呆れたように閉じてしまいます。



何故、機械に話しかけることが出来るのでしょう。わたしは「恥ずかしさ」に黙り込んでしまいます。昨今、テレビのコマーシャルでも、よく見かけるシーンです。端末に話しかけて何かを通販に注文するとか、灯りを消すとか……。



「オーケイ、グーグル。」なんて恥ずかしげもなくよく言えますねえ。または、スマホに話しかけて質問するとか。最近では、「車に話しかけろ」とコマーシャルは言っています。子供の時からこんな状況で育つと、どんな風になるのだろうかと思いますが、それはそれで時代は進んで行くのでしょうか。










最近、「子供は、大人と比べてロボットからの『同調圧力』に従いやすい。」という記事を読みました。



会話や意思疎通が出来る人型ロボットの開発が世界中で進んでおりますが、そんなロボットが人に与える影響を調査したものです。自分が正しいと思っていても、周囲の回答につられて誤答してしまうかどうかの実験です。3体の人型ロボットが加わり、3体とも間違った回答をします。大人の場合は正答率が変わりませんが、7~9歳の子供の場合、ロボットの回答に同調しがちだという結果が出ました。



結論は、「自律のロボット」が教育を担う時代は遠くない。そんな時代のために、ロボットが子供に悪影響を与えないような規制が必要かどうかの議論が必要との見解の様です。





どうでしょうか。



文明は日々進化しています。現代のわたしたちも昔の人が出来ていたことが出来なくなっています。単純な例では、火が熾せないとか。それでも我々は、不便さを感じず、進化し続けます。しかし、今回は少しオカシイ。それは、人が人でなくなってしまいそうな進化だからではないでしょうか。



今のところは大丈夫ですが~。(わたしが生きているうちはまだ大丈夫そうです)。










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2018年10月6日土曜日

俳句その後



『絶滅寸前季語辞典』のUPを読んで頂けてありがとうございます。その後も、俳句の自由律とは、何かと考えておりました。



先日、新聞のコラムで」、俳人「兜太」の事を詠みました。わたしは、以前にも書いた通り、俳句の世界の事は何も知りませんが、兜太さんは今年2月に亡くなった大層な俳人のようです。



社会学者の上野千鶴子さんは、「季語や五七五の定型にこだわらない句を詠んだ兜太さんを『こんな人が俳句界の主流だったとは信じられない』」と評したそうです(肯定的な意味で)。という事は、自由律の俳句を詠んでいた人でも、俳句のメインストリームになれたという事ですね。



兜太さんは新聞紙上で、「平和の俳句」の選者を務めたそうです。政治的なメッセージをそのままぶつけるような俳句も多かったそうですが、兜太さんは、「言いたいことがある句が強いんだ。」と、そうした句も選んだそうです。



そういう政治的言葉が詩の言葉になり得るのかという疑問に、兜太さんは「すべての日本語は詩語だ。」と言い切りました。しかし、そのために、「詩的で見えない言葉を詩に乗せる仕組みが五七五と言う定型なのだ。」と。









という事はどういうことなのでしょうか。



詩的でないことも五七五にまとめると詩になるという事か。そして、詩的なことは五七五に乗せなくとも詩になるという事か。まだまだ、わたしの迷走は続きます










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