2016年3月24日木曜日

『ことば』と文化


たいそう物々しい「お題」ですが、ペナンに滞在中に思ったことです。去年4月にもペナンに行きました。着いたそうそう、「今日から雨期が始まる。」と言われ、今年は2月に行こうと思ったのです。

 

が、2月は春節がありその混雑ぶりに散々な目に会いました。そしてもうひとつ厭だったところは、日本人が多かったことです。去年はホテルでは、2~3人の日本人しか見かけませんでしたが、今年は7~8組の老夫婦カップルが…。せっかく日本から離れたのに、また日本人のサークルに取り込まれる事がないようにしていました。でも、例の春節でホテルの朝ごはんビュッフェで日本人カップルと相席に。そして彼らから聞きました。日本の寒い2月から逃れるために老夫婦はペナンに来るんですよと。老夫婦と言っても、65歳から80歳くらいと思いますが。

 

今回は2回目の滞在なので、観光はせずだいたいはビーチで寝転んで過ごしていました。そして、彼らをよく見かけたのです。わたしは、囲碁の本を真剣に読んでいたし、「わたしに近づくな」ビームを放出していたので彼らはわたしに近づきませんでした。が、わたしは彼らを観察していたのです。

 

ビーチのチェアーで寝転んでいるのはたいていは白人です。彼らはお互いに見知らぬ者同士でもあいさつ程度はしています。聞いていたところ、イギリス、ドイツ人、あるいは、ドイツ語らしき言語を話す人々でした。そして、日本の老夫婦たちも彼らとあいさつを交わしていました。

 




 

そこで思ったこと…、彼らは日本人の感覚で英語をしゃべっているなあ…、ということ。

 

日本人の謙虚な態度に何も文句を言う所はございません。でも、相手次第ですよね。だいたい、会話において日本人は話相手より「下手(したて)」に出るように話します。しかし、それが通じるのは、その下手感覚をフォローしてくれる日本人が側にいる時のみです。こちらが下手に出ても、必ずその中の一人が「いやいやそんなことはございません。」などと、立ててくれるからです。同じ調子で海外で話すと、「アツ、そう。」と簡単にスルーされてしまいます。もしくは、下手に出て話したことを本当のことと思われて、「バカな奴」と見下されるのがオチです。

 

例えば、何かの役員にでも推挙された時、「とてもわたしの器ではございません。」などと断わると、日本では「なにをおっしゃいますか。あなたが適任ですよ。」などと誰かがフォローしてくれて、その人は「断わったが、仕方なく引き受けた」という「かっこう」が付きます。が、これが海外ならば、そんなことを言ったとたん、「そうですか。では他の人に。」と、すぐ無視されます。

 

ずいぶん前のことですが、中国語を習っていたことがありました。その時の先生は上海から来た女性で、たしか名古屋大学の大学院生だったと思います。彼女が言っていたこと、

 

「日本人賢いね。人が十人いて、リーダーを決める時、中国人なら皆がわたしがリーダーになると騒いで、リーダーは全然決まらないね。でも、日本人はわたしがなると誰も言わないから、皆が推薦して、最後にはリーダーに相応しい人がリーダーになりますよ。」

 

と言うことで、西洋人ばかりでなく中国人の前でも「謙虚」にならない方がよさそうです。

 

わたし、上海に暮らしていた時、上海と日本を往復しているうちに日本人に見られなくなりました。自分ではどうしてかはわかりません。飛行機の中で、フライトアテンダントが食事の注文を取る時に、わたしの前の人達は日本人で、彼女は日本語で「ビーフがよろしいですか、チキンがよろしいですか。」と尋ねていたのに、わたしの前に来ると英語になりました。WHY?ですよね。

 

考えるに、わたしは英語は発音などうまくありませんが、ある時から間違えても平気になってしまったんですね。それかな(?)とも。発音なんかも「発音は悪いが何か問題でも」、なんて態度で話していますから。

 

それで最近気が付きました。上海で暮らしていた頃、日本の文化と中国の文化の違いからなにかしら摩擦が起きますが、「これはどちらが悪いという問題ではなく、単なる考え方の違いなのだから気にしないでおこう。」という心境に達しました。しかし、西洋人の「上から目線」のものの言い方には我慢できませんでした。まだ、修行が足りなかったのだと思い直しました。

 

つまり、日本人が「下手(したて)」に出なければ世の中を渡っていけないのと同様に、彼らもいつも自分が正しいという態度でいなければ、彼らの「世の中を渡っていけない」のだと実感したからです。しかし、マレーシア、タイ、インドネシアでは、日本人の感覚のまま言葉を話しても、イケそうな気がしますがあ~、まだ、研究不足です。






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2016年3月18日金曜日

追記エピソード


AIが囲碁で人間に勝った件で、囲碁のわたしの先生に聞いてみました。彼は、なんだか有名人なのです。もちろんアマでプロではありません。が、「アマ十段」と聞きました。つまり、アマ棋士で日本一になったことがあるということかなあ…。羽根直樹九段も、彼が子どもの時に教えたとか。その他の現プロ棋士でも、幼い時、「面倒を見てやってくれ。」と言われ、指導していたようです。

 

わたしは単に、いつも行っているスポーツクラブの道筋に、「囲碁」という看板を見つけて覗いてみただけなのです。行ってみると、「何故ここに来たんだ。」との、先輩の言。で、わたし、「看板を見てきました。」と言うと、「君はラッキーだ。」と。そんなに有名な先生のようです。その他、「だから来た。」という人々の声も聞きます。わたしにとっては、単なる「おっさん」なんですけどネ。

 
 
 
 

で、先生に聞いたみた訳です。なんだか曖昧な返事だったので、「興味なさそうですねェ。」と言うと、その対戦の棋譜は全部検討したとのこと。「興味は、アルよ。」と。

 

で、「なにか得るところはありましたか。」と聞くと、「美しい碁でなくても勝てるんだと思った。」と。井山名人は、「人と違う大局観を持っている。」と言っています。

 

囲碁では強い棋士の棋譜は美しい形をしているとしています。それは、日本の美学かもしれません。韓国や中国ではそうでもなさそうなので。でも、「美しい形」とAIの棋譜…、はちょっと興味引かれる課題です。わたしの今回の興味は、囲碁よりもAIなのですから。それから、ちょっと先生の言に刺激されて、「感情の無い知性はどのように進化するのか」と思ってしまいました。モチベーションがないのですから。

 

 

そんな感想です。







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2016年3月13日日曜日

人間、負けちゃたヨォ――


グーグル傘下の英国企業が作ったAIについに人間が負けました。人工知能「アルファ碁」と韓国のプロ棋士、それもトップクラスの棋士がこの数日対戦をしていたのですが、昨日プロ棋士の方が三連敗で負けてしまいました。五番勝負だったので、一勝もできず大敗したことになります。

 

今回AIが囲碁で勝つことができたのは、プログラムの作戦を変更したからだそうです。今までは、過去の対戦棋譜が入力され終局までの道筋を勝つ確率が高い手を計算推論して打っていました。つまり、一手一手計算していたことになります。AIの計算能力に頼った力技だったのです。が、今回は、AIが自ら学習しているのです。過去の棋譜をインプットする点では変わりありませんが、そこからAIは碁の打ち方を学習し、自分の中で自分自身と対戦することによって、単なるデータの写しではなく自分で考えた手を打っているのです。自己大戦を三千万回コナシタとあります。とても「人間業」ではありませんネ。

 

日本の棋士の第一人者、井山裕太名人は、AIの安定感と人間とは違う判断力に注目しました。

 

「人間は直前に打った手など、石の流れで打つ手を決めたり、流れを感じながら形勢を判断したりする。アルファ碁は流れにとらわれすぎない。大局観、形勢判断という部分が人間とは違うと感じた。」

 


 

ついにAIが自ら考えて判断する時代が来たのです。これは画期的なことかもしれませんよ。「人工知能にとっての有効な学習方法が示されたインパクトは大きい。」と大学教授も述べています。

 

AIは、人類が発明した最後のものでかもしれないと、誰かが言っていました。名前は忘れましたが。つまり、これから先は、人間が考えなくてもAIが考えてくれて、人間社会は発展していくのです。まだまだ先の話かとは思いますが、流れはそんな様。先日UPしたことと関連し、人間社会はどう成っていくのだろうと懸念します。よく言えば、興味津津。AIが人類の究極の進化系かも…、とも思う今日この頃です。

 

妄想はどんどん広がっていくのですが…、

 

人間はAIに職業を奪われる。実際人類の歴史は、第二次産業革命から、機械に職業を奪われていく歴史です。すべての仕事をAIがしてくれるようになった世界はどうなるのか。先ず資本主義経済体制はどうなるのか。人が物を買って消費することによって、社会は発展してきたのですから、人間は職を奪われてモノを消費できない存在になるのか。あるいは、全ての必要な物を供給されて「生きていく」存在になるのか。これは果たしてユートピアなのかディストピアなのか。

 

人類そのものがそんな社会に不必要になるとも。そして、全てに満たされた人類は精神的に退化していくかも。原始の社会に戻って、動物のように何も考えなくてよい「幸せな」日々を送れるようになるかもしれない。

 

人類が衰退してもAIがその後の世界を引き受ける。そして、AIの中に人類はヒトとしての足跡を残しているのだから、AIが人類の発展系として君臨していくことに人類としての価値・幸せを感じることができる…のだ。








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2016年3月12日土曜日

もはや生物じゃない―――序



ヒトはなぜ働かなくてはいけないのか、つまりなぜ職業を持たなければいけないのか、ということはわたしの研究課題(?)ですが、近頃はそれに関連して人間はどうしてこのような社会を作り上げてしまったんだろうかと言うことを考えています。人類は、今、地球上で動物界においては一番繁栄していると思われるので、ストラタジとしては成功しているのだろうと思いますが。

 

ペナンで読んでいた『高い城の男』の中に、1960年代の頃のお話なのですが、世界の人口が30億とありました。最近の統計では70億を超えたとWHOが2~3年前に発表しました…、と思います。なので、この50年で人口は倍以上に増えたことになります。

 
 
 
 

わたしが思うことは、人は他の動物と全く違う進化をたどっているなあ、ということ。つまり、人は動物としてしなければいけないことをドンドン切り捨てていっているのではないかと。動物は「生きる」ということが個で完結しています。餌を取る、巣を作る、子どもを育てる、身繕いをする等など。人はそうではない。もちろん人間は「社会的動物である」と言われるかもしれませんが。しかし、人の社会での職業の細分化は、もう度を過ぎています。

 

だから、なぜ人は職業を持たなければいけないのか…、と言うことに。一人の人が、一つの仕事に従事するために、そのサポートをする人々の職業が生まれる。そういう現象が積み重なっていくうちに、人間の働く意味がどんどん薄れていくわけです。もう人は、自分が何を目的に働いているのかわからなくなっていきます。「人の役に立っているのだ」という思いだけです。もう自分で餌を狩猟採集しない。何を食べなければいけないのかの知識も薄れ、「身繕いをしなければいけない」意味ももはや忘れられている。

 

そしてその人が従事するひとつの職業は、お金で評価されるのです。報酬です。以前、ニュージーランドの英語学校に行った時に、「医者と配管工」とはどちらが必要かという命題が出て、若い学生たちがなんの躊躇もなく、「それは医者でしょう。配管工は誰でも良いけど、医者は知識が必要だから。」と。つまり、医者の報酬が配管工の報酬より高い事には、なんの疑問もないということです。

 

とどのつまり、医者であれ配管工であれ誰でも何でも交換可能です。その人でなければいけないという立場は、ほんとに天才の一握りの人でしょう。しかし、人が生きるということは、「生きる本人」にしかできないこと。

 

こんなことを考えつつ、次は、iPS細胞のことやロボットスーツのことを考えて行きます。








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2016年3月5日土曜日

ペナン島から帰りました。


先週木曜日に帰国しました。「帰国」なんて大袈裟だけど。何事もなく無事到着です。帰って来て、自分がどのように日常を暮らしていたのかが、ちょっとボケボケ。1カ月、ホテルに滞在していて、朝食はビュッフェに降りていけば食べられたし、部屋の掃除をしなくてもいいし、身の回りの品の整理と言っても、スーツケース1個分なんですから。

 

朝起きてからわたしは何をしていたのでしょうか。朝起きて、1階の台所に降りていって、真っ先にすることは、洗濯物を洗濯機に入れることでした。これは順調にこなしました。それから、何をしたんだっけ。顔を洗う?食器を洗う?新聞を取りに行く?

 
 
 
 
 
 

この1週間のリハビリで、ルーティーンを取り戻しました。でも少々順番が変わりましたが。それから、1ヵ月間郵便物を止めていたので、帰国の次の日には、郵便がドッサッと来ました。そのチェック。早く処理しなければいけないものを選り分け、処理に励みます。今回のペナンの目的の一つに、「囲碁の勉強」というものがあったので、囲碁自習の成果が上がったかどうか、囲碁クラブに2回、日本棋院中部に1回行き、勝負してきました。成果はイマイチ。どうも本を読み過ぎて、「自分らしさ」をなくしたようです。こちらも徐々にルーティーンを取り戻しつつあります。

 

もうひとつすぐに慣れなかったのは、新聞です。1カ月新聞を読んでいなかったので、朝、新聞を新聞受けに取りに行くのをついつい忘れてしまいます。取って来ても、読むのを忘れたりしちゃいます。ほんとは新聞なんてなくても暮らしていけるのかも。

 

囲碁クラブに行って、井山裕太九段が離婚したことを聞きました。知らなかった。新聞読んでないしい~。でも、そんなこと新聞には載らないか。芸能人じゃないんだから。棋院に行って、以前同じクラスの仲間に会ったので、「離婚したんだあ。」と聞くと、「その後連勝してるよ。」との返事。「ふ~ん。ストレスがなくなったのかなあ。」なんて、勝手な事を言っておりました。

 

また、新聞を読み始めますと、iPS細胞から人の耳を再生することができるようになったとか。実験用ネズミの身体からヒトの耳が再生している様子の写真が掲載されていました。世の中まるでSFの世界です。新聞を読んで、何かを感じるというルーティーンも戻りつつあるようです。

 

また一年頑張ります。とか言って、次はどこに行こうかと、頭の中をよぎっているところであります。






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