2016年3月12日土曜日

もはや生物じゃない―――序



ヒトはなぜ働かなくてはいけないのか、つまりなぜ職業を持たなければいけないのか、ということはわたしの研究課題(?)ですが、近頃はそれに関連して人間はどうしてこのような社会を作り上げてしまったんだろうかと言うことを考えています。人類は、今、地球上で動物界においては一番繁栄していると思われるので、ストラタジとしては成功しているのだろうと思いますが。

 

ペナンで読んでいた『高い城の男』の中に、1960年代の頃のお話なのですが、世界の人口が30億とありました。最近の統計では70億を超えたとWHOが2~3年前に発表しました…、と思います。なので、この50年で人口は倍以上に増えたことになります。

 
 
 
 

わたしが思うことは、人は他の動物と全く違う進化をたどっているなあ、ということ。つまり、人は動物としてしなければいけないことをドンドン切り捨てていっているのではないかと。動物は「生きる」ということが個で完結しています。餌を取る、巣を作る、子どもを育てる、身繕いをする等など。人はそうではない。もちろん人間は「社会的動物である」と言われるかもしれませんが。しかし、人の社会での職業の細分化は、もう度を過ぎています。

 

だから、なぜ人は職業を持たなければいけないのか…、と言うことに。一人の人が、一つの仕事に従事するために、そのサポートをする人々の職業が生まれる。そういう現象が積み重なっていくうちに、人間の働く意味がどんどん薄れていくわけです。もう人は、自分が何を目的に働いているのかわからなくなっていきます。「人の役に立っているのだ」という思いだけです。もう自分で餌を狩猟採集しない。何を食べなければいけないのかの知識も薄れ、「身繕いをしなければいけない」意味ももはや忘れられている。

 

そしてその人が従事するひとつの職業は、お金で評価されるのです。報酬です。以前、ニュージーランドの英語学校に行った時に、「医者と配管工」とはどちらが必要かという命題が出て、若い学生たちがなんの躊躇もなく、「それは医者でしょう。配管工は誰でも良いけど、医者は知識が必要だから。」と。つまり、医者の報酬が配管工の報酬より高い事には、なんの疑問もないということです。

 

とどのつまり、医者であれ配管工であれ誰でも何でも交換可能です。その人でなければいけないという立場は、ほんとに天才の一握りの人でしょう。しかし、人が生きるということは、「生きる本人」にしかできないこと。

 

こんなことを考えつつ、次は、iPS細胞のことやロボットスーツのことを考えて行きます。








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