2016年6月23日木曜日

『未来国家ブータン』  高野秀行著


今日、新聞を読んでいて興味を魅かれたニュースが三点ありました。ひとつは、本の新聞広告の中にありました。本の広告欄を眺めるのも好きです。その本の題名は『未来国家ブータン』、高野秀行著。『謎の独立国家――ソマリランド』の著者です。わたしのUP記事で長らくベスト10に入っている「カート(覚醒効果植物)について」の元の本です。

 

彼の肩書は、「辺境作家」。『謎の独立国家――ソマリランド』の前に彼は、コンゴのテレという湖に住む恐竜を求めての冒険紀行文を書いています。わたしは、こちらの本は読んでいませんが、同じ恐竜Mokele-mbembe を探し求めてコンゴの不条理社会を旅するアメリカ人とイギリス人の研究者の本を読んだことがあります。この本はとても興味深かったので、高野秀行さんのこのモケレムベンベについてもきっと面白い本だろうと想像します。

 

つまり、わたしが思うに、彼は世間で「こうだ」と言われている場所に単独で入り込み、(彼はいつも紐付きではありません。出版社などのスポンサーは無し。)その実態を探究し、明らかにします。ソマリアについてみても、世間の評価では長期の内戦状態で人々は貧しく、海賊も横行している…、というような紋切り型のもの。彼はその中で、ひとりいろいろな伝手を求めて奔走し、そこで暮すビビッドな人々を描写します。まさに現地で体験しなければ分からないことを。

 
 
 
 

メディアなんていい加減なものです。記者は現地に行くこともなく、紋切り型のニュースを発信しますし、または、読者が喜びそうなように描写したりします。こう言った方が、「ウケル!」なんてものです。そこで、「ブータン」もそんなものではと。ブータンは、「世界一幸せな国」とよく報道されますが、ほんとにそうなの?ブータンは世界に国を開いたために、近代文明によって汚されてしまったのでは…、そんな感じがするものですから。ブータン政府が人々に、あまり物を買わないようにと牽制していると聞いたこともあります。また、川はそんな消費によりゴミで溢れかえってしまったとか…。

 

広告では、「雪男がいる!?その言葉に誘われブータン入りした著者。注目を集める国に隠された真実とは?」とあります。またまた彼の興味は、政治とか社会情勢ではなく、夢のような不思議な対象です。そういう対象を探究しつつ、彼によってどんなブータンが浮かび上がるのかと、興味津々であります。







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2016年6月21日火曜日

ブレヒトの『アンティゴネ』


『アンティゴネ』はソフォクレス創作のギリシャ悲劇です。この劇をブレヒトは、ドイツ人ヘルダーリンの訳出から、新しく舞台演出し上演しました。1948年のことです。ブレヒトの『アンティゴネ』とソフォクレス原作の『アンティゴネ』の間には、少々の違いがあるようです。その違いはブレヒトが生きた時代に関連があるかもしれません。

 

ブレヒトは、1898年、南ドイツに生まれ、第一次世界大戦に召集されました。そして、医学部に在籍していたことから衛生兵として敗戦まで陸軍病院に勤務しました。その時の経験から、詩や戯曲の創作に入り戯曲作家として名前が売れました。それから時代は、第二次世界大戦に突入していくのですが、ブレヒトはヒットラーが政権を掌握してから、ナチスに追われる身になり、アメリカに亡命。戦後、東ドイツに戻り劇団を設立し、演劇活動を再開するのです。それから、彼の「異化理論」により世界的な名声を手に入れました。1956年に心筋梗塞のため亡くなっています。

 

そんな時代に生きたブレヒトは、『アンティゴネ』で何を表現したかったのでしょうか。







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2016年6月19日日曜日

『アンティゴネ』 ブレヒト


ソフォクレスが書いたギリシャ悲劇をドイツのヘルダーリンが翻訳し、ブレヒトが舞台用に改作したものです。戯曲です。1948年に上演されました。しかし、わたしが購入した文庫本は、2015年8月20日に初版本として出版されたものです。

 

最近、囲碁に夢中でなかなか他の事が出来ないのです。囲碁の本を読んでいると、それなりに頭は使うし、論理的思考は満たされますが、情緒的には満たされません。なんだかどんどん鬱屈していくので、「そうだ、何か小説を読もう。」と…、これは戯曲ですが、戯曲ゆえに早く読めそうと。

 

ブレヒトは、わたしの青春時代のヒーローです。その頃「ブレヒトの異化」ということが流行っていました。それまでの舞台演出は、「アリストテレス的演劇」つまりルネッサンスの時期から始まった西欧の演劇が主流でした。観客は観劇する時、その内容と同化し感動し情緒的に満たされと言う構造です。ブレヒトはそれを嫌い、「異化」、つまり劇と観客が同化しないことを望みました。観客は劇に感情を翻弄されるのではなく、客観的に劇と対峙し、その内容を把握し、自分の意見を述べる事、考える事を要求されるのです。

 
 
 

 

というような事を『アンティゴネ』を読み終わってから、つらつら考えました。わたしも少し満たされた気分です。

 

アンティゴネは、オイディプスの娘です。オイディプスが自らの母親とそうとは知らずに交わったための子どもです。ソフォクレスは、その呪われた子どもたちまたは一族の話を書き連ねています。以前『オイディプスの謎』という本を読みました。ギリシャ悲劇『オイディプス』についての研究書みたいなものです。とても興味深い内容だったので、この『アンティゴネ』を読んでみようとも思ったのでした。ブレヒトに対する興味とともに。









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2016年6月12日日曜日

ベーシックインカム


最近、わたしが興味のあるトピックに関するニュースが、立続きに報道されていると前回書きました。その第2弾が『ベーシックインカム』です。ご存知のようにベーシックインカムとは、なんの区別もなく(例えば収入とか年齢とか)国民の全員に一定のお金が支払われるシステムです。つまり、児童手当とかなんとか給付金とかいうようなもの。

 

この世に誕生したら、全ての人間が一定の収入を保証されます。このシステムは19世紀から理論的には存在しますが、それを具体的に採りいれようという試みは、ヨーロッパでは、十数年前からと思います(間違っていたらスイマセン)。日本では、5~6年前に取り沙汰され、一時期流行った思想です。

 

ニュースによりますと、スイスで今月5日にその是非を問う国民投票が行われました。以前、多分2~3年前、誰かが「スイスではもうベーシックインカムが始まっている。」と言っていたので、「そうかあ~」と思っていたのですが、まだのようでした。

 

スイスの国民投票では、賛成が23.1%、反対が76.9%という結果を得ました。ベーシックインカム推進派は、「貧困撲滅」などを訴え、最低限の生活を維持する為に成人に対して日本円で約27万円、未成年に対して約6万8千円を毎月支給することを提案しました。スイス連邦政府は、年間22兆7千億円超の巨額な費用と、スイス経済の競争力の低下を懸念し反対の立場を表明しました。まあ、国民の判断は反対だったのでした。

 

しかし、スウェーデンやオランダでは、実験的に取り入れる、日本で言う「特区」を作り試験運転するようです。わたしは、時代はベーシックインカムに賛成の方に流れていくと確信しています。今までは個人の問題として政治では取り扱われなかった事柄が、徐々に人の権利として認められてきた実情から見ると、ベーシックインカムも想像の問題ではなくなると。わたしが生きている間にとは…、思えませんが…。

 

つまり、ほんの4~50年くらい前までは、会社務めの女性が出産のために育児休暇を取る等と言うことは、日本では全く考えられませんでした。働く女性の出産育児等というものは、まったく個人の問題だったのです。なぜ、そのために会社が経費を払わなくてはいけないのか…、という論調です。そんな考えは、今では社会的に受け入れられていますが、実際問題としては、まだまだの感。まあ、とにかく、考えだけは社会に受け入れられたとしておきましょう。

 

それ以前では、病気です。病気は個人の問題であるので、そのために働けなくなった人は、会社を退職しなければいけませんでした。会社での福利厚生が義務付けられたのもそんなに「昔」の話ではありません。

 
 
 
 

といった意味で、ベーシックインカムは徐々に受け入れられるでしょう。資本主義が発明され、一番長くその時代を生きている、そして社会も成熟したヨーロッパにおいて、実験が始まると言うことは、世界はその方向に進んでいくということでは。

 

ベーシックインカムでの一番のネックは、ネオリベラル派と社会の平等を推進する市民派の政治家思想家の意見が「賛成」で一致していることです。ネオリベラル派の主張は、ベーシックインカムを推進するために、その他の社会福祉の費用を削減しようというものです。例えば、雇用保険、年金、その他給付金です。市民派は、もっと基本的な「資本主義とは何か」とか「お金とはどういう意味を持つのか」というところから思考しています。矛盾する両派の結論が同じだ…というところが、ベーシックインカムを素直に受け入れられない問題点となっているのです。

 

 

ともあれ、わたしはベーシックインカムに賛成します。しかし、すべての人に生きるための費用が支給された時、人は「何の為に生きるのか」という根源的問題を突きつけられるでしょう。もう言い訳は通用しません。生きる為に働く…という理由は無くなるのですから。全ての人が「生きる目的」を自らの力で志向し、そしてもし手に入れることが出来たとしたなら、この社会はどんな社会に変身するのでしょうか。そこがわたしの一番知りたいところであります。








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2016年6月9日木曜日

ロボット派遣


最近わたしの興味あるニュースが、次々と目に飛び込みます。そのひとつが、「ロボット派遣」です。人手が足りない時や、一時的に増産が必要なとき、工場の生産ラインにロボットを派遣するビジネスです。川崎重工業が始めたとありました。

 

川崎重工業が昨年6月に販売した産業用ロボット「デュアロ」をリース会社に販売し、その会社がそのロボットを派遣すると言う形です。デュアロは1台280万円ですが、短期間だけ使いたいと言う要望が多く、レンタルの方が利用者も増えるとの判断。ロボットを人の代わりに生産ラインに入れます。車輪付きで移動もでき、レンタル料は6カ月間の契約で、月20万円程度とのこと。

 
 

 

わたしの感想は、まだまだ初期段階ですが、こんな時代が来たんだなあ~、と言うもの。というのは、英会話教室に通ったり、プライベートレッスンを受けていた時の話題の一つに「日本も移民を受け入れろ」というのがあったからです。「この日本の高齢化社会また少子化時代になぜ日本は移民を受け入れないのか」と言うのが、アメリカ、イギリス、その他の国の先生達の意見だったのです。

 

まるで、「日本人バカじゃないの。現実を受け入れないと将来たいへんなことになるよ。」と言った感じです。わたしは、その度に彼らに反論していました。「移民は単純労働をするために日本に来るのではない。そういう扱いをするするから、現実にいろいろな問題が生じているのではないか。」と。

 

そんな問題が、イスラム国の問題と絡み合い、最近では移民を推奨する意見は減って来ました。しかし、その頃は(数年前の事ですよ)、そんなことを言っていたらバカを見るのは明らかだと言う彼らの論調。で、わたしは、「日本は大丈夫。『ロボット・サイエンス技術』がありますから。」と。半分冗談で言っていたのですが、現実になりつつありますねえ。

 

その他にもロボット・スーツがありますし、介護用ロボットや歩行支援装置などもあります。ロボット・スーツは、同じくレンタルが始まっています。運送業界や農業の現場など高齢者が身につけての作業はもう日常です。筋力のアシストが得られます。

 

歩行装置は、小さなスツールに足が付いているようなデザインで、柔らかい椅子に坐って歩けるようなもの。そのデザイン力にニューヨークのデザイン博物館に展示されているとのこと。介護ロボも介護する人が利用し、高齢者のトイレのアシストやベッドに寝かせると言うような使い方もあれば、介護される人自身が身に着けるものもあります。また、歩行支援ロボスーツは2015年には、日本でも医療機器として認められました。患者に自己歩行を促すための医療機器です。筋力が衰える筋ジストロフィーやALSなどの難病患者にロボスーツを装着し、歩行訓練を行います。歩行距離が延びたり、実際に歩く能力を取戻せるケースも出ています。身体が以前の状態の記憶を取り戻すのでしょう。

 

このようなロボットやロボット・スーツにAIが加われば、これからも、もっと進歩するのは明白です。日本でも人工知能学会が、年内に「人工知能倫理綱領」を策定することになっています。最近見た新聞の雑誌の広告では、「ロボット・スーツで世界に生き残る日本」という見出しが躍っていました。日本の高齢者は80歳以上になっても、ロボット・スーツを着て働きますよ。
 
少子化なんて問題ナシです。







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2016年6月2日木曜日

リスペクト


わたしが現在持っている大江健三郎さんの本を、年代順に読んでいると以前UPしました。しかしながら「今、囲碁に夢中」なのでなかなか進みません。『死者の奢り』のあと、短編集の中の『他人の足』と『飼育』を読み終えました。

 

その内容の話ではありませんが、大江健三郎の本を読んでいると「ドキドキしている」自分がいることを感じました。たぶん、これが尊敬か、と。わたしは、基本的に現存している人を尊敬することはできません。彼らの才能に手拍子に敬服することができないのです。どうしても、勝負してしまいます。嫉妬でしょうか。亡くなっている人とは、もう勝負できないので素直にその作品を受け入れることが出来ます。そう言う意味で、大江健三郎と安部公房は(彼は亡くなりましたが)、素直に受け入れています。

 
 
 
 

ツイッターをしています。と言うかアカウントを持っているだけで、ほぼ使っていませんが。フォローもあまりしていません。「有名人をフォローしてみよう~」という文句があったのでしてみたことはありますが。でも、その人たちのメッセージが届いてもなんの興味も湧きません。いとうせいこうや糸井重里、津田大介その他です。

 

しかし、メッセージが入るとドキドキしてしまう人がいます。ひとりは横尾忠則。わたしのツイッターのアカウントに横尾忠則の顔写真が出るとドキドキと。横尾忠則は、わたしが高校生の時から気になる存在でした。彼の作品は好きです。『横尾忠則全ポスター』という画集も持っています。が、別に尊敬とか畏敬の念とかそんな感情は全然ありませんでした。で、「このドキドキ感は何?」と。わたしは、ドキドキするくらい彼を好きだったんでしょうか。

 

もう一人が、ダライ・ラマです。ダライ・ラマがツイッターとはと不思議かもしれませんが、もちろん、本人が書いている訳ではないのでしょう。広報官か…。しかし、彼の顔写真は載ります。彼は、ニュースなどで見る限り、どこにでもいそうな「オッサン」です。言うことも、あまり普通の人と変わりません。でも、「普通の人と変わらない」というところが、凄そうです。そんなダライ・ラマのお顔を見るとドキドキしてしまうのです。

 

ミュージシャンをフォローはしていません。音楽を聴くのは好きですが、何も理解できないくらいの音楽音痴です。ただ聴いていると「居心地がイイ」と思うものを聴いているだけです。しかし、ミュージシャンで誰の顔写真が現われるとドキドキするだろうかと想像してみると、忌野清志郎かなあと。あるいは、甲本ヒロシかなあ。

 

 

大江健三郎著の『他人の足』は、前に読んだ『死者の奢り』より、観念的でなくわかりやすい作品でした。感想はまた後日に書きたいと思います。









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