2017年2月24日金曜日

臓器製造工場か…


いよいよ、人の臓器の製造が出来る工場ができそうな気配です。2~3年前でしょうか、あるいはもっと前(?)、覚えておりませんがタイにたくさんの代理母が住むアパートがあり、日本人男性がたくさんの(4人くらい?覚えていませんが)自分のこどもを産ませているとのニュースがありました。その後どうなったかの報告は見ていませんが、そんな感じで、人間の臓器を持ったブタを製造できるような雰囲気になって来ました。そんなブタが並ぶ養豚所を想像してしまいました。

 

今年1月の新聞記事で、『ラット体内でつくった膵臓…マウスに移植、糖尿病治療成功』というのを見ました。

 

ラットの体内で他の種のマウスの膵臓をつくり、糖尿病にしたマウスに移植して治療することに東京大などのグループが成功しました。別の種の動物に臓器をつくらせ、移植し、治療効果が確認されたのは初めてだそうです。

 

現在、文部科学省の指針によりますと、ヒトのiPS細胞などを動物の受精卵に挿入し、一定期間培養することは可能ですが、子宮に戻して出産させることは禁止されています。この実験に成功した東大の山口智之准教授は、「人での応用につなげられるように、次はサルの膵臓をブタにつくらせる実験をしたい。」とおっしゃっているようです。

 

なんだか、おぞましい世界になってきました。

 

今月23日の新聞記事にこんなものがありました。『ヒトの臓器、動物から作る…米で研究先行、日本では倫理面議論』

 

1月に、米国のグループがヒトの細胞が混じったブタの胎児の作成に成功しました。日本では、現在禁止されているので、改定に向けた議論が続いているそうです。

 

ラットとマウスは同じネズミ科で、受精卵から誕生までの妊娠期間がほぼ同じですが、ブタの妊娠期間はヒトの半分以下で、種としても離れているので、キメラ(一つの身体で違う遺伝子を持つ)を作るのは簡単ではないと見られています。今のところ研究所で作られたブタの胎児では、ヒトの細胞はブタの細胞10万個当たり1個程度しか認められないそうです。しかしなにはともあれ、この手の研究は続いて行くのでしょう。

 
 
 

 

以前わたしが興味のある事についてUPしました。そのうちのひとつが、「世界(人類)はどうしてこのような風に発展してきたのだろう。」でした。最近ようやくひとつの結論を得る事が出来ました。もちろん、もうすでに偉大な方々が指摘しているのでしょうが、自分で実感して思いました。つまり、「人は自分が死ぬ事を知っているこの世で唯一の生物である」ということ。

 

人は、この「死」から逃れるため、あるいはどのように「死」について考えるか、というようなこと発展してきたのではないか。そして今、いよいよ人類は「死」から逃れる手立てを得、これからは人類の「第二ステージ」が始まるのではないかと…。もちろんわたしには見る事の出来ないまだまだ先のことでしょうけど。

 

『神々のような人びと』(HG・ウエルズ)という本をご紹介致します。







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2017年2月14日火曜日

『日本人の9割が知らない遺伝の真実』


1月下旬の新聞、「読書欄」で「売れている本」と紹介されていた本です。「行動遺伝学」を研究している安藤寿康氏の著作。

 

思うに、人は「自分が完璧である」(遺伝的に)と思って生きているのでは。しかし、昨今の科学技術の発展は、いろいろな真実を明るみに出します。つまり、遺伝的に完璧な人などいないという事。『ヒトの変異』という本について以前UPしたことがありますが、その本によると、「ヒトの遺伝子は、毎回(人が誕生する時)20%程度は変異している」ということです。

 

人は、遺伝子的に不都合なところがあっても「生きていける」と言えると感じます。その程度のアロウワンスは誤差の範囲内ということか。そのことが、現実に科学の力で明るみに出されると、「差別の構造」が生じてくるということか。著者の意図も「格差社会と遺伝の関係」で、行動遺伝学が誤用される事を恐れての部分もありそう。出来ない事を遺伝子のせいにされ、だから、金持ちになれないのも当然だ…、というような論理のすり替えです。

 
 

 

この本の書評をしている人によりますと、彼は、「空間把握が絶望的に下手」だそうです。そのように人により出来る事と出来ないこと、「向き不向き」は様々で、そこに努力や環境だけでなく遺伝子的要素が働いている…、と考えるのが「行動遺伝学」とのこと。

 

しかし、「だから遺伝子的に不向きな事はやめて、向いている方向に進みましょう。」と言うことではなく、不足する能力を別の方法で補うことで自らの希望する事を出来るようにする事が重要ということ。

 

「遺伝について考える時に大事なのは、私たちの人生を、主体性や自由を損なわずに最適化できるかどうかである。」

 

批評家、早稲田大学准教授の市川真人氏の結論は、

 

「遺伝の認識を差別ではなく可能性の発見と確認として、評価軸の多様化や個人の努力を越えた社会保障の必要性を説く本書は、今日の社会に必要な一冊であるだろう。」

 

です。

 

 

なんか~、映画『ガタカ』を思い出すわあ~。

 

こんな言葉で始まるそうです。(ウィキペディアより)

 

「我々は母なる自然に手を加えようとするが、母もそれを望んでいると私は思う。

 

 

遺伝子操作により、優れた知能と体力と外見を持った「適正者」が数多く存在する近未来。知力体力に非常に優れる「適正者」たちは当然、教育課程においても、社会においても優位だった。一方、自然妊娠で生まれた「不適正者」たちは「適正者」に劣る存在だった。両者の間には社会レベルでも個人レベルでも大きな隔たりがあった。
主人公ヴィンセント(イーサン・ホーク)は、両親の軽はずみな性交渉により「不適正者」として産まれた。弟アントン(ローレン・ディーン)は「適正者」だった。子供のころから「適正者」の能力を目の当たりにし、弟を含め「適正者」たちには決して勝つことができなかった。そんなヴィンセントが小さな胸に抱いた夢は宇宙飛行士になることだった。しかし、宇宙飛行士は「適正者」のみに許された仕事で、「不適正者」には夢のまた夢、なれる可能性など少しもなかった。

 

 

主人公は、なんとか「適正者」のIDを手に入れ、宇宙局ガタカの局員になります。そして、宇宙船に乗りこめると思った瞬間に事件が起こり、彼が「不適正者」であるということが明るみに出そうに。しかし、宇宙船に乗りこむ最終チェックのゲートで、彼を「不適正者である」と知っていた医者や局員(ユマ・サーマン)が、黙って彼にゲートを通らせるのでした~~~。

 

 

未来は、SF小説の中にあると思う…、この頃です。







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2017年2月9日木曜日

藤沢周平の本を買う


最近やたら藤沢周平氏の本の書評やら広告を見かける。今年は彼の没後20年、生誕90年にあたるようだ。と言う事を知らないほど、わたしは彼の事を知らない。彼の名前と時代小説作家だったという事、純文学的作風ではなく何やら「書きものの職人」と言ったような作風らしいという事。

 

純文学的時代小説とは「どんなものか」とは、知らない。時代小説自体をあまり読んだことはないものの、彼の作風は今までわたしが読んだ時代小説の範疇からは外れる正調派のよう。

 

時代小説に関してもわたしの趣味は、怪奇・幻想・妖気漂う…、といったもの。例えば、半村良や山田風太郎。そして、産前産後の育児休暇の間には、柴田錬三郎の『眠り狂四朗』を全巻読破した。何巻あったかは定かではないが、15~20(?)くらい?

 



 

そこで、何かの気の迷いで『藤沢周平』である。なにやら人情話っぽいのだ。賭場の壺振などのやくざっぽい登場人物が、少女の純情とか、市井の無垢な人々の情けに感じ、自分の「キャラに無い」なにか良い事をしてしまう…、といった態らしい。わたしが一番キライな「お涙頂戴物」だ。

 

なぜ、買ってしまったのかなあ。ちょっと「心が弱っている」のかもしれない。とにかく買った本の題名は、『夜の橋』。短編集だ。「表題作他八篇」とある。

 

 

「博打に溺れたせいで夫婦別れしたおきくが、半年ぶりに訪ねて来た。再婚話の相談で、もう自分には関係ないと一旦は突き放す民次だったが、相手がまぎれもないやくざ者とわかるや、危険を顧みず止めにでる……雪降る江戸深川の夜の橋を舞台に、すれ違う男女の心の機微を哀感こめて描いた――」

 

と、文庫本の説明書き。

 

どうでしょう。ググッと来ますか。わたし、きっと泣いてしまうなあ。くだらないと思いつつ、何にでも泣いてしまうのだから。涙と共に弱った心も浄化されるかも…、と。









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