2016年1月31日日曜日

ペナン島にいます。

 

水曜日にペナン島に着きました。その後、ある時ホテルの1階のロビーに降りて行ったら、そこら中にモスラム装いのご婦人たちが。マレーシアはモスラムが多勢を占めているので驚くことはないのですが…、その数が半端ない。

 

で、「ああ、そうだ。今日は金曜日だ。」と。昨年の経験でも、ホテルはいつも閑散としていますが、週末の金曜日の午後からは、人が溢れかえるのでした。ですから、金曜日、昨日、今日と人が溢れていました。今は、落ち着きを取り戻しています。

 

そこで思ったことは、中国の春節です。2月にあることはわかっていましたが、そんなに切実に思っていませんでした。が、同じように溢れかえるんじゃないの、っていう感じです。その上、マレーシアは中国系の人も多い。春節には中国系のお店は閉まっちゃうとか。ちょっと、予想外でした。でも、ちいさなお店だけで、スーパーとかショッピング・モールとかは開いているようです。

 

なので、土日はホテル付近で用を済ませ、ウイーク・デイに街に出かけることにしました。混雑した場所は大の苦手なのです。明日は月曜日。ペナン一番の中心街コムタに明日は行きます。先回行けなかった、ロング・バーにも行ってみようかと計画中。名前の通り長~いバーです。1ブロックほどあるよう。

 

では、またご報告を!









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2016年1月30日土曜日

近況…です。


ペナン島にいます。

 

 

ペナン島滞在のためにゴーグルを手に入れました…、と書きましたが、実はそこそこ大変でした。デパートなどのお店にゴーグルは置いていなかったのです。冬なので、ですよね。で、アマゾンはどうかなと思い、アクセス。で、手に入れました。

 

こうなると、「お店」ってどうなの、と言うところです。アメリカでも大手スーパーの売上高は落ちているとの事。みんなネットで買ってしまうからです。または、お店に現物を見に行って、ネットで注文するとか。この先どうなって行くんでしょうね。ネットの世界は止められないし、また、AIもネ。人間はもう新たな発明をできないと言われています。もし、AIが進んで行ったら。つまり、AIが発明の任務を担うようになるからです。

 

ペナンでのんびりしながら、考えたことでした。







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2016年1月29日金曜日

ペナン島滞在中


27日、朝5時起きでペナンへと向かいました。ペナンに着いたのは、夜8時過ぎです。日本からペナンまでは、8時間くらいのフライトなのですが…。というのは、安いルートで来たからです。香港経由です。成田からの直行便があると思いますが、航空運賃にいかほどの差があるのかは知りません。以前、ハワイ島に行った時は、韓国経由でした。その差は6万円ほど。なので、詳しく調べる前に、香港経由で納得したわけです。

 

そして昨日28日は、ホテルの部屋の巣作り励みました。ペナンの空港での両替がうまくいかなかったので、両替屋に行くところから始めました。手に入れていたINFOと両替所の場所が違っていたのです。去年来た時のマレーシアのお金が残っていたので、まあいいかと。早くホテルについて休みたいと言うのが、本音であります。

 

そして、スーパーで買い物をして、ホテルの小さな冷蔵庫を満杯にしました。これで、明日からは気楽に過ごせるとの魂胆です。と言うわけで、今日は、朝からホテルのビーチで寝転んでいました。そして今年はゴーグルも買い込んだので、ホテルのプールで、何年かぶりにクロールで泳いでみました。ペナンの旅は順調に始まった感です。

 

 

では、またのご報告を!









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2016年1月26日火曜日

ペナン島へ


明日ペナン島に旅立ちます。日本は東京、西日本と寒波に襲われましたが、良い天気に回復してきました。明日のフライトも順調にと祈ります。そしてわたしは、真夏の世界へ…。ちょっと、良くありませんか。

 

海外旅行は好きですが、現地に到着するのにいろいろ煩雑な事があり、ウンザリします。ほんとSF映画のように瞬間移動ができたらなあと思いますよ。しかし今回は、去年の4月に行った時と同じフライト・ルートでホテルも同じ。少しは気が楽です。

 

以前通っていた英会話の先生は、確かアメリカ人でしたがジャマイカ出身の女性だったと思いますが、突然イギリスでテレビの仕事に就くと言いました。アメリカでも、超人気TVドラマ、Xファイルに出演したと自慢していました。しかし、エキストラのその他大勢だったようです。彼女は、そんな突然の海外移住にも何のプレッシャーを感じていないようでした。日本に来た時も、その前の晩に飲み明かして、朝起きたらフライト時間ギリギリで、おまけに二日酔い。皆に早く行けと言われて、空港に急いだそうです。

 

羨ましい。。。わたしもそのくらい肝の据わった、ノンシャランな人間になりたいものです。

 

 

今回の滞在は、1カ月弱です。スーツケースの荷物もパックするのに慣れて来て、段々少なくなって来ました。サンフランシスコに2週間行った時も(2010年)同じスーツケースで、同じくらいの重さでした。次のハワイ島は(2012年)3週間行きましたが、同じスーツケースで、同じ分量。2013年のニュージーランド、フィチアンガの旅は4週間弱でしたが、やはり同じスーツケース行きました。去年のペナン島は今年と同じくらいの滞在ですが、今年の方がややスッキリしています。その内に手荷物ひとつで、気軽に旅立ちといきたいものです。

 

 

と、こんなところで明日出発しま~す。








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2016年1月19日火曜日

Bliss by Katherine Mansfield


次回の英語READINGクラスの小説です。キャサリン・マンスフィールドは、1888年ニュージーランド生まれ。1909年にロンドンに渡っています。ロンドンで結婚し、1923年に没するまで70篇以上のショートストーリーを著しています。つまり典型的な古典小説です。

 

わたしは、このような小説は「サロン小説」と呼ばれていると思いますが、「サロン小説」という言葉は今は使われていないのでしょうか。古典小説の一つのパターンである、金持ちの家に客がディナーに招待され、その場での小さいサークルでのあれこれが描かれているという態です。

 

例の如く、金持ちの夫婦、ステキな招待客、そして召使たち。金持ち夫婦は、いろいろなパターンがあります。前回の小説、チェーホフのAn Upheavalは、中年夫婦の人を見下すような人物でした。その家庭に紛れ込んだ若い家庭教師の不運が描かれていました。今回の夫婦はとても若い非の打ち所が無いような美人、ハンサムの夫婦でした。そして、招待客もそれぞれ個性的な人物達です。

 

しかし、そんな「ステキな」人物たちも、現代社会から見れば差別主義者の俗物たちです。DATEDということでしょうか。古典小説は、風雪に耐えて今にも通じる何かを残しているはずですが、この小説はB級ということでしょうかね。通俗恋愛小説と見れば良いのかも。

 



 

今回の主人公は、Bertha Youngです。30歳。彼女は30歳ですが、ちょっとしたことにも心が躍る、若い感性を持った人物として描かれています。アリガチですね。

 

Although Bertha Young was thirty she still had moments like this when she wanted to run instead of walk, to take dancing steps on and off the pavement, to bowl a hoop, to throw something up in the air and catch it again, or to stand still and laugh at ---nothing---at nothing, simply.

 

彼女が散歩から帰ると、注文した果物が届いていました。召使のMaryに言って持ってこさせると、ダイニングルームにそれを飾りつけます。彼女は、部屋のパープルのカーペットと合わせて果物の種類を選びました。

 

These last (a big cluster of purple ones) she had bought to tone in with the new dining-room carpet.  Yes, that did sound rather far-fetched and absurd, but it was really why she had bought them.  She had thought in the shop: “I must have some purple ones to bring the carpet up to the table.”

 

その飾り付けを終えると、彼女は2階に上がります。そこには彼女の可愛い娘とそのナニーがいました。彼女は、その子がとても好きらしいのですが、ナニーは我が物顔でその子の世話をしています。つまり、自分の子でありながら、好きなように接しられないのです。これもアリガチですね。金持ちとしての「教育」が必要なのでしょう。

 

Thank Heaven!  Nanny went out of the room with the bath towels.

“Now I’ve got you to myself, my little precious,” said Bertha, as the baby leaned against her.

 

そして彼女は、自分で娘の食事の世話をできたというわけです。

 

Harryが彼女のハンサムな夫です。彼女は彼のことを無上に愛しています。彼の顔を見るだけで至上の幸せを感じることができます。彼はディナーにちょっと遅れるとのこと。彼から電話がありました。そして、招待客が表れ始めます。まっこと、スノッビーな奴らです。

 

They had people coming to dinner.  The Norman Knights---a very sound couple—he was about to start a theatre, and she was awfully keen on interior decoration, a young man, Eddie Warren, who had just published a little book of poems and whom everybody was asking to dine, and a “find” of Bertha’s called Pearl Fulton.  What Miss Fulton did, Bertha didn’t know.  They had met at the club and Bertha had fallen in love with her, as she always did fall in love with beautiful women who had something strange about them.

 

バーサは、フルトンという人物にゾッコンのようですが、彼女の夫のハリーは、彼女の悪口ばかり言います。バーサはそのことに異論を唱えています――が、真実はエンドにわかります。

 

招待客の容姿や服装などの描写が続きます。彼らは奇抜な装いで現われました。例えば、

 

She kissed Mrs. Norman Knight, who was taking off the most amusing orange coat with a procession of black monkeys round the hem and up the fronts.

 

そして、口々にミドル階級の人々やタクシードライバーの悪口を言いながら、ディナールームの席に着きます。バーサは彼等がなんと洗練された趣味を持ち、洗練された仕事を持っているのだろうと感嘆し、そんな友達を持った自分はなんと幸せなのだろうかと思います。

 

そして彼等が去る時間が来ます。彼女は、客が一人一人とこの家を去って、家に残るのは彼女と夫だけだと感じます。そして二人だけの時間が訪れることに興奮をおぼえます。こんなに彼のことを求めたことはないと。わたしは、彼のことをこんなに愛している。しかし、彼がわたしと同じくらいわたしのことを愛していないことは知っている。でも、二人は仲の良いカップルだ。それで満足だと思う。

 

First time in her life Bertha Young desired her husband. Oh, she loved him---she’d been in love with him, of course, in every other way, but just not in that way.  And, equally, of course, she’d understood that he was different.  They’d discussed it so often.  It had worried her dreadfully at first to find that she was so cold, but after a time it had not seemed to matter.  They were so frank with each other---such good pals.  That was the best of being modern.

 

そしてラストです。バーサは、Eddieの要求に応え、ちょっと夫とMiss Fultonから見えない場所に行きました。しかし、振り返ると……。原文だけ記載しておきましょう。

 

While he (Eddie) looked it up she turned her head towards the hall.  And she saw……Harry with Miss Fulton’s coat in his arms and Miss Fulton with her back turned to him and her head bent.  He tossed the coat away, put his hands on her shoulders and turned her violently to him.  His lips said: “I adore you,” and Miss Fulton laid her moonbeam fingers on his cheeks and smiled her sleepy smile.  Harry’s nostrils quivered; his lips curled back in a hideous grin while he whispered: “ To-morrow,” and with her eyelids Miss Fulton said: “Yes”

 

バーサの至上の喜びもこの結論の為の伏線だったのでしょうか。彼女は、この真実を知った後も、わたしにはこの素晴らしい、美しい庭にあるPEAR TREEがあると言い聞かせるのです。

 

お終い。








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2016年1月17日日曜日

『植物は<知性>をもっている』という本


著者は、ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ、久保耕司訳です。わたしは、植物についてはまったく興味はありません。どんな種類の植物が存在するのかも植物の名前も全然わかりません。ほんとに一般的な植物のみです。例えば、松とか菊とかチューリップとか。

 

以前、エジプトにツアー旅行に行った時、現地のツアーガイドさんが、「日本人はなんで木の名前に興味があるのか。エジプトには、木の名前はない。木は、ただ太陽から逃れるためのものなんですよ。屋根を葺く木だけ名前が付いています。」と言っていました。日本の観光客が、「あれは何の木だ。あれは、あれは。」と聞くのにウンザリしたのでしょう。わたしもその伝で、「あの木は、何。その木は何。」と言っている周りの主婦仲間に「ああそうですか。」返事するのみです。何々の見ごろになりましたねと言われても、サッパリです。

 

しかし、植物の構造については興味あります。動物が進化する為のミトコンドリアを手に入れたように、植物は葉緑素を手に入れました。彼らは、太陽から栄養を吸収しているのです。日本の科学者で葉緑素の研究をしている人が(女性と思う)います。つい最近、人工的に葉緑素を作りだす第一歩に成功しました。人類が、人口葉緑素を手に入れれば、食料問題は解決します。もし、人が植物のように葉緑素でエネルギーを獲得するなら、人間の大きさは、サッカー・コートくらい必要だと聞いた記憶があります。

 

もうひとつ興味を魅かれることがあります。それは、植物は植物同士でコミュニケーションを図れるということ。何かの化学物質を出して、「ここは、俺のテリトリーだ。」とよそ者に伝えることができる。あるいは、仲間に同様に化学物質で危険を知らせることができるとか。そんな訳で、この本を読みました。

 



 

この本のスタンスは、植物には知性があるということ。それも、人類以上の能力を持っているということ。植物には、「脳」がないので知性を持っていないというのは間違っている。どんなにちっぽけな動物でも、それらが「脳」を持っていれば、人間はそれらに植物以上の地位を与える。それは、それらが「動く事が出来る」という特性を持っている事に一因があると。人間は、動かないものに冷淡であると。そこに著者は疑問を投げかけているわけです。現在、動物は法律的にも守られています。動物保護法とか何とか。ですから、この著者は、将来植物に関する研究が進んで、彼らにも動物と同じく保護される権利があると見なされる時が来ると言います。その時、人類は「植物保護法」を持つことになるでしょう。むやみに木を伐ることはできなくなりますよ。

 

 

本を読んで、一番「なるほど」と思ったことは、「植物はモジュール構造である」という指摘です。動物の器官は一つしかありません(二つあるものもあるが)。腕を切られたら、もうその腕はない。頭を食べられたら、その物は死ぬしかない。が、植物はどこを食べられても、その他の部分は生き残ります。たくさんの構成要素が機能的に集まっているので、どこかが失われても他のところがそれを補完することができます。だから、動物は人類も含め、植物を食べることができるのです。つまり、植物は昆虫とか動物に食べられても死ぬことはなく、引き続き食料を供給していけるのです。

 

しかし、彼等が存在しているのは、動物の食料となるためではありません。それは、彼らの策略なのです。彼らの方が動物を操っているのです(あるいは、共生)。もちろん人間も例外ではありません。彼らは、「二本足で歩く奇妙な動物と無理にでも友人となる価値はある。」と著者は述べています。繁栄の頂点に位置する人間は、彼らの世話をよくしてくれます。人間が好むような果実や味、香り、色を与えることによってです。人間の好みに合わせることによって、人間は世界中に彼らの仲間を広げてくれる、世界中での繁栄が約束されるのです。

 

『植物には、さらに15の感覚がある』という章があります。人の五感プラス15という意味です。例えば、湿度を計ること、あるいは重力、磁場、空気中や地中の化学物質を感知し測定する能力などなど。こういった感覚で植物は日々生き延びています。簡単に言いますと、根は重力を感知してその方に向かう、茎は反対の方へ向かう。そして、有毒な化学物質を避ける、有益な化学物質の方へ向かう等。

 

地球上の生物で、多細胞生物の99.7%は、植物が占めているそうです。人類とすべての動物を合わせても0.3%ということ。もし、宇宙人が地球に来たら、植物が地球を支配していると見ても不思議ではない。地球は植物が支配している生態系なのです。植物は、動物よりはるかに地球という環境に適応し、繁栄しています。

 

では、植物に「知性」はあるのか。著者は、「知性」の定義の問題だと述べています。人間は、自分の姿からしか他の物を判断することができない。動物は、姿かたちは違っても、持っているものはほぼ同じ。脳もあれば肺もある。消化器官は胃である。つまり、同類と理解できます。しかし、植物となればどうか。植物は異なった方法で、地球で生き延びています。生き延びる「知性」を有しています。

 

著者は、人類が植物のような他の「知性」を理解できるようになった時、この宇宙に「知性」を持つ他の生き物が存在するかどうかを「知る」ことができると言います。今、知性を持つ何かが、人間の前に姿を現したとしても、人類は、そのものが「知性」を持っているのかどうかを判断できないという意味。植物の知性を研究することによって、人類は、宇宙に向かってどういう風にメッセージを送信すべきなのかということもわかって来るだろうと言っています。

 

わたし、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』を思い出してしまいました。 









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2016年1月9日土曜日

ミニマリストあるいは断捨離


英語トピック・クラス終わりました。木曜日です。わたしのトピック『The oldest company in the World』は、「なぜ日本には古くから継続する会社が多いのか」という、メイン・テーマまで行かず、消化不良で終わりました。

 

もう一人のトピックが、「断捨離」でした。彼女は、必ずしも断捨離に賛成ではないと言いました。彼女が持ってきた新聞の切り抜きの写真は、何もないガランとした部屋に母と息子が坐っていました。フローリングの部屋です。彼女の説明では、写真に写っていない手前にテレビがあるのだとか。こんな閑散とした部屋で、こどもはどんな風に育つのだろうと思いました。なんの癒しもありません。

 

わたしもミニマリストのことは、新聞記事で読みました。が、こんなことが可能なのだろうかと思います。それは、今、日本が平和であり満たされているからだけのことではないのかと。直近のニュースでは、北朝鮮の水爆実験。あるいは、イランとサウジアラビアの冷戦状態。なにか、世界は一触即発の状況になりつつあります。そんな世界で、物を捨てて大丈夫なの?です。実際、戦争になれば物資は供給されませんよ。

 

そのトピックを持ってきた彼女も、日本が平和だからこんなことができるのだ。何を捨てても、必要なものはすぐ手に入る、買える、からだけのこと。シリアからの難民は手荷持ひとつで、脱出して来ている。彼らはそれで幸せと言えるのだろうか、って、彼女は言いました。真実です。

 

 

ミニマリスト、沼畑直樹さんは、「本や趣味の物を捨てたのは、自分の好きなものもない、ホテルのような何もない部屋の空間を感じたいため」と言っています。物から解き放たれたことで部屋から外に出て、自分の目で見て自分の足で歩いて自分を感じる、と。ほんとかなあ。

 

と言うのは、ミニマリストの持ち物は、スマホとかタブレットとか、デジタル関係を多く持っているとのこと。充電ケーブルとか、アダプター。やはり、禅僧のように世間から逸脱することはできないようです。

 

まあ、この物が溢れている消費社会から脱出するという意味では、共感できますが、「居心地の良い空間」、「自分の好きなもので満たされている空間」というものも精神的安定という観点から必要だと思いますが。どうでしょう。








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2016年1月5日火曜日

年の始めに


苦手と言っておきながら、再び超定例です。

 

次回の英語トピック・クラスは、7日の木曜日ですが、先生が12月最後の授業の時に「次回は、a New Year’s resolutionでも語ってもらいましょうか。」と冗談で言っていました。わたしは、「何を言っているんだい。」と思っていましたが、もしほんとうにそう質問されたら言ってやろうかなと思います。

 

それは、

 

This year, I will go for playing IGO straightly.  Therefore, I will quit studying English clearly.

 

どうですかね~。受けるでしょうか。しかし、これは本心です。この頃、英語の勉強と言うか、英語で人と話すことに興味が湧かなくなりましたし、それより「囲碁の本を読もう!」と気持ちが向いてしまうのです。2月には、ペナン島に1カ月滞在する予定です。何もする当てはないのですが、前回同様ビーチでブラブラ、怠惰三昧です。そこで囲碁を極めようと。

 
 
 

4日には、囲碁クラブの打ち始めでした。先生が、「今年は、なにを目指すつもりか。1目、2目の向上か。」と言うので、わたしは、「初段です!」と声高々、宣言してしまいました。先生が、「ハッハ、ハー」と笑うと思ったからです。つまり冗談。しかし、先生は真面目な顔。どうしたもんでしょうねえ。

 

でも、実際は囲碁三段の免状は持っています。だから、初段はあるのですが、実力は2級くらいです。どうもねえ。つまり、私は「ペーパーテスト・アスリート」で、テストだけは点数を取れます。「この差を縮めたい」――これがわたしのニューイヤーズ・リゾルーションということであります。

 





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