2016年1月17日日曜日

『植物は<知性>をもっている』という本


著者は、ステファノ・マンクーゾ+アレッサンドラ・ヴィオラ、久保耕司訳です。わたしは、植物についてはまったく興味はありません。どんな種類の植物が存在するのかも植物の名前も全然わかりません。ほんとに一般的な植物のみです。例えば、松とか菊とかチューリップとか。

 

以前、エジプトにツアー旅行に行った時、現地のツアーガイドさんが、「日本人はなんで木の名前に興味があるのか。エジプトには、木の名前はない。木は、ただ太陽から逃れるためのものなんですよ。屋根を葺く木だけ名前が付いています。」と言っていました。日本の観光客が、「あれは何の木だ。あれは、あれは。」と聞くのにウンザリしたのでしょう。わたしもその伝で、「あの木は、何。その木は何。」と言っている周りの主婦仲間に「ああそうですか。」返事するのみです。何々の見ごろになりましたねと言われても、サッパリです。

 

しかし、植物の構造については興味あります。動物が進化する為のミトコンドリアを手に入れたように、植物は葉緑素を手に入れました。彼らは、太陽から栄養を吸収しているのです。日本の科学者で葉緑素の研究をしている人が(女性と思う)います。つい最近、人工的に葉緑素を作りだす第一歩に成功しました。人類が、人口葉緑素を手に入れれば、食料問題は解決します。もし、人が植物のように葉緑素でエネルギーを獲得するなら、人間の大きさは、サッカー・コートくらい必要だと聞いた記憶があります。

 

もうひとつ興味を魅かれることがあります。それは、植物は植物同士でコミュニケーションを図れるということ。何かの化学物質を出して、「ここは、俺のテリトリーだ。」とよそ者に伝えることができる。あるいは、仲間に同様に化学物質で危険を知らせることができるとか。そんな訳で、この本を読みました。

 



 

この本のスタンスは、植物には知性があるということ。それも、人類以上の能力を持っているということ。植物には、「脳」がないので知性を持っていないというのは間違っている。どんなにちっぽけな動物でも、それらが「脳」を持っていれば、人間はそれらに植物以上の地位を与える。それは、それらが「動く事が出来る」という特性を持っている事に一因があると。人間は、動かないものに冷淡であると。そこに著者は疑問を投げかけているわけです。現在、動物は法律的にも守られています。動物保護法とか何とか。ですから、この著者は、将来植物に関する研究が進んで、彼らにも動物と同じく保護される権利があると見なされる時が来ると言います。その時、人類は「植物保護法」を持つことになるでしょう。むやみに木を伐ることはできなくなりますよ。

 

 

本を読んで、一番「なるほど」と思ったことは、「植物はモジュール構造である」という指摘です。動物の器官は一つしかありません(二つあるものもあるが)。腕を切られたら、もうその腕はない。頭を食べられたら、その物は死ぬしかない。が、植物はどこを食べられても、その他の部分は生き残ります。たくさんの構成要素が機能的に集まっているので、どこかが失われても他のところがそれを補完することができます。だから、動物は人類も含め、植物を食べることができるのです。つまり、植物は昆虫とか動物に食べられても死ぬことはなく、引き続き食料を供給していけるのです。

 

しかし、彼等が存在しているのは、動物の食料となるためではありません。それは、彼らの策略なのです。彼らの方が動物を操っているのです(あるいは、共生)。もちろん人間も例外ではありません。彼らは、「二本足で歩く奇妙な動物と無理にでも友人となる価値はある。」と著者は述べています。繁栄の頂点に位置する人間は、彼らの世話をよくしてくれます。人間が好むような果実や味、香り、色を与えることによってです。人間の好みに合わせることによって、人間は世界中に彼らの仲間を広げてくれる、世界中での繁栄が約束されるのです。

 

『植物には、さらに15の感覚がある』という章があります。人の五感プラス15という意味です。例えば、湿度を計ること、あるいは重力、磁場、空気中や地中の化学物質を感知し測定する能力などなど。こういった感覚で植物は日々生き延びています。簡単に言いますと、根は重力を感知してその方に向かう、茎は反対の方へ向かう。そして、有毒な化学物質を避ける、有益な化学物質の方へ向かう等。

 

地球上の生物で、多細胞生物の99.7%は、植物が占めているそうです。人類とすべての動物を合わせても0.3%ということ。もし、宇宙人が地球に来たら、植物が地球を支配していると見ても不思議ではない。地球は植物が支配している生態系なのです。植物は、動物よりはるかに地球という環境に適応し、繁栄しています。

 

では、植物に「知性」はあるのか。著者は、「知性」の定義の問題だと述べています。人間は、自分の姿からしか他の物を判断することができない。動物は、姿かたちは違っても、持っているものはほぼ同じ。脳もあれば肺もある。消化器官は胃である。つまり、同類と理解できます。しかし、植物となればどうか。植物は異なった方法で、地球で生き延びています。生き延びる「知性」を有しています。

 

著者は、人類が植物のような他の「知性」を理解できるようになった時、この宇宙に「知性」を持つ他の生き物が存在するかどうかを「知る」ことができると言います。今、知性を持つ何かが、人間の前に姿を現したとしても、人類は、そのものが「知性」を持っているのかどうかを判断できないという意味。植物の知性を研究することによって、人類は、宇宙に向かってどういう風にメッセージを送信すべきなのかということもわかって来るだろうと言っています。

 

わたし、スタニスワフ・レムの『ソラリスの陽のもとに』を思い出してしまいました。 









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