2016年5月27日金曜日

妄想力


今週の『すっぴん!』(NHKラジオ番組)の「ゲンちゃんのゲンダイ国語」のコーナーで取り上げられていたのは、『生物から見た世界』でした。いろいろな生物がこの世界に存在していますが、その生物の「生き方」によって、この世界は全く別物と写っていると言うことです。

 

例えば、犬は人間より嗅覚が優れています。何倍か何十倍か何百倍かは忘れてしまいましたが、犬の世界には「臭い」が溢れているのです。それに引きかえ人間は臭いに関しては貧弱な鈍感な世界に住んでいると言うことになります。以前、雨の街をさまよう小犬の目線で撮られたテレビCMが話題になりました。その小犬の目線では、人間が歩く大きな靴しか見えないのです。つまり、高さ30センチから40センチの世界ではないのでしょうか。

 

また、マダニにことも言っていました。森のダニです。彼らは臭覚と触覚しか発達していないそうです。先ず、彼らは生まれてから生殖し卵を身籠ると木に登ります。彼らの餌は動物の血なので哺乳類がその木の下を通るのを待ち伏せしているのです。あるいは、動物がその木に身体を擦りつけるついでに彼らを自分の身体にくっ付けて行かないかと期待します。

 

木に登るとひたすら動物を待ち続けます。なぜ動物か木の下を通ったのかは、動物が出す臭いでわかります。その臭いがすると、マダニは落下します。首尾よく動物の身体に落下すると毛のないところを探し(ここに触覚が必要)噛み付いて血をすいます。そして、地面に落ちて出産すると言う訳です。この時、失敗して地面に落ちてしまったら、再び木に登りもう一度木の下に動物が通るのを待ち続けます。

 

研究では、マダニは、18年間は何も食べずに生きていられるそうです。つまり、木の上で18年は動物を待ち続けることが出来ると言うこと。源一郎さんの意見では、「マダニは、たぶん仮死状態なのでは」と言うことです。臭いがするとムックと起きて落下すると。彼らには「時間が存在しない」のだと。

 

そう言えば、「ゾウの時間、ネズミの時間」という童話があったと思います。自分の鼓動の間隔によって生きる長さが決まると言うことでした。ノミは脈拍が速いので寿命が短い、像は遅いので寿命が長いと書かれていたと思いますが…。

 

このように生物によって、世界の見方が変わると言うこと。生物は同じ一つの世界に生きてはいないということ。で、わたしは常々思っていたのですが、人間も同じじゃないかなあと。人間の感覚はほぼ同じと思われますが、人はそれぞれの「自分の世界」に住んでいて、決してその個々の世界は交わることはないのだと(交わるのは生殖活動の時だけじゃないかなあ)。つまり、この世には人間の数だけの世界が存在し、また、生き物の数だけの世界が存在するのです。

 



 

もうひとつ妄想を駆り立てられたのは、ベニクラゲです。ベニクラゲは、5億年前から存在し、不老不死の為、5億年生き続けている個体がいるかもしれないとのこと。高橋源一郎さんによると、成熟したクラゲがまた幼年期に戻ることができ、そのループが続くので死なないと。生物は、有性生殖を手に入れた時、「不老不死」を失いました(それ以前は、必要な時だけ細胞分裂をし、個体を増やしますから)。しかしこのクラゲは、有性生殖まで成熟し有性生殖をしたあと、また、有色生殖を手に入れていない未発達の段階まで戻ってしまいます。その仕組みはまだ謎のようですが。

 

これで思ったことが、「iPS細胞」です。今朝の新聞にも慶応大学の研究グループが、「質の良いiPS細胞を効率よく作製することに成功した」と書かれていました。質の良いiPS細胞が効率よく手に入れば、再生医療の実現にも有効です。すでに、iPS細胞を治療手段に使うための法制化も進んでいます。

 

将来、人類がこの技術を日常的に利用することが出来るようになれば、不老不死も夢ではありません。悪いところをiPS細胞で作った組織と置き換えれば、永久に人は死なないわけですから。身体がバラバラになるくらいの大事故に巻き込まれない限りは。

 

となると有性生殖も必要なくなりますから、この世に男性と女性は必要なくなるかもしれませんネ。そんな兆しも…、あるのかなあ…なんて。









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2016年5月19日木曜日

『すっぴん!』 NHKラジオ番組

いつの頃からか、朝は、ラジオを聞いています。たいてい『すっぴん!』です。

先週の放送で、気になることがありました。金曜日の「源ちゃんのゲンダイ国語」です。高橋源一郎さんが、独自の視点でいろいろなトピックを取り上げます。先週は、大正時代の新聞の人生相談のコーナーでした。

 

その頃は、回答者は「新聞記者」だったそうです。で、源一郎さんは、主に男女差別に関するような問題を取り上げていました。数種。

 

例えば、男性からの相談で、

 

「妻が、結婚した時に他に付き合っていた人がいた。その処女性を疑う。では、わたしは、処女の妾を囲おうと思うが。」

 

と言うもの。

 

その解答は、妻が良くない、囲ってもかまわない、が、妻に反省を求め、妾を囲うことは検討を要す…と行ったようもの(スイマセン。ディテールは忘れました。)。

 

高橋源一郎さんと藤井アナは、これはおよそ100年前の相談ですから、100年前はこんなスタンスだったんですね、と言うコメント。イージー過ぎるよ。現在は、法律では認められないけど、第2婦人は健在だと思いますよ。歌舞伎役者とかの「隠し子」騒動は続いているでしょ。

 

しかし、わたしの感想は「100年前も、今も変わらないョ」と言うもの。最近の「保育所」の問題でもわかるように、子育ては、「母に」任せられているような状況。『母は人間である』という本も見ました。

 
 

 

わたしの青春時代の話。およそ、30数年前のことですが。先ずは、大学院生になる、についてのお話。先輩の言によれば、大学院生になる選考で、女性である先輩は、教授から「遠慮する」ように言われたとか。「将来のある男子学生に譲りなさい」と。女性に将来はないのか、と彼女は言っていました。

 

また、わたしのゼミの先生に女性助教授がいました。彼女は、「教授会で、お茶をいれさせられる」と言っていました。知る人ぞ知る、辻佐保子先生ですよ。

 

 

そこでわたしのエピソード。大学を卒業してから就職し、めげてすぐ離職したのですが、その時、メディア系に関係ある友達が、「バイトがある。」との情報。それは、テレビ番組の壁の花。30分坐っていれば、3000円もらえるとのこと。その意図は、「女性が喫煙しても良いのかどうか」というトピック。

 

番組は、女性の喫煙者を募り、番組を構成するとのこと。女性喫煙者の出演者は、仮面をつけて出演しても良い、付けなくても良いと。もちろんわたしは出演料に魅かれて番組に行きましたよ。喫煙は何も悪いことではないので(20歳は過ぎていましたから)仮面はつけませんでした。

 

壁の花ながらインタビューされました。

 

「お父さんは、あなたがたばこを吸うことに反対しているでしょう。」って。

「もちろんですよ。でも、関係ないでしょう。単なる嗜好の問題ですから。」と答えました。

 

これが、ほんの30数年前の事です。

 

 

ほんと、我慢にも限界がありますよ。安部首相!













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2016年5月12日木曜日

『死者の奢り』  大江健三郎著


大江健三郎の初期の短編です。あとがきに「これは大江健三郎の文壇的処女作である。」とあります。彼が東大の学生だったときです。大江健三郎についてのわたしの思い入れは、以前書きました。

 

今回、わたしが持っている彼の本を年代順に始めから読み直してみようかと思い立ちました。それが『死者の奢り』です。「文学界」昭和32年8月号に掲載されました。わたしがこの文庫本を購入したのは、昭和47年です。大学生、青春真っ盛りの時でした。

 

当時この作品を読んだときは、「なんだかわからないが面白そう。」といった程度の感想だったと思います。何か「おとな」になった気分で、難しそうな本を読み漁っていました。



 

内容は、文学部の学生だった主人公が、学生課でアルバイトを探します。それが医学部の解剖用死体の運搬でした。新しいプールが建設されたので、死体を今までのプールから移すという仕事。その仕事には、もう一人雇われたようでした。それが、女学生。二人、死体置き場で待っていると、死体の管理人がやってきます。

 

管理人の支持を受けながら、死体を運び始めます。「仕事は一日限りなので重労働だ。」とか、「古い死体はプールの底に沈んでいる。戦争時の兵隊さんもいるよ。」とか、「新しい死体はプールの表面に浮いているが、学生はそちらの方が好きなので、すぐ持って行ってしまうんだ。」とかの会話が交わされています。

 

彼らは、死体を一体ずつプールから引き上げ、運搬台車に載せて新しいプールに運ぶのです。新しいプールは、真新しい透明のアルコホル溶液で満たされていました。古いプールのアルコホル溶液は茶色に混濁していたのでした。死体を運ぶ時、アルコホル駅が死体から滴り、床はベチャベチャでした。そこで、女子学生が転んでしまいます。女子学生は気分が悪いからと医務室に行ってしまいます。彼女は、実は妊娠していたのでした。その中絶費用を稼ぐためにバイト代の高いこの仕事を選んだんだと、主人公に言います。

 

そこに医学部の教授が現われます。「何をしているんだ。」と。彼らの仕事は古い死体を処理することなんだと。新しいプールには新しい死体を保存するのだと。彼は、物凄い勢いで怒鳴り始めます。「新しいプールのアルコホル液が茶色になったじゃないか。」と。

 

今までの仕事、死体に新しい番号札を付け、新しいプールに運んだことは、全て無駄になりました。死体は火葬にするので火葬場に運ぶこと、新しいプールの溶液を入れ替えること、それを今日中にするというオーダーです。また、仕事の段取りを間違えたことでバイト代が支払われないかもしれない。その交渉をするのも自分でしなければいけないのだ、と彼は憂鬱になります。死体管理人も「仕事の手順を説明したのは、俺ではなく事務のものだったことをよく覚えていてくれ。」と責任逃れの及び腰です。

 

教授が仕事の手順を説明する態度に彼は憤りを感じます。彼が死体を扱う「我々」を見下す態度が感じられたからです。しかし、そう言えば、「僕も死体管理人を知らず知らずのうちに見下していた。」と思いました。そして、火葬場に死体を運ぶために病院が派遣した雑役夫たちもまた、彼を見下してぞんざいな口をきくのでした。

 

彼は、仕事の手違いのこと、そのことを事務所と掛け合わなければならないこと、そして今日は夜中まで働かなければならないだろうと言うこと、また、死体を扱うことで皆から軽蔑的な態度で扱われること、これらの理不尽さに彼は怒りが喉元から飛び出しそうになるのを抑えるのですが、それは塊となって喉元を塞ぐのでした。

 

 

さて、わたしは何を思ったのか。一番には、不思議な感覚でした。学生時代に読んだ時は、わたしは大江健三郎についてほとんど何も知らなかったと言えるでしょう。その時は、大江健三郎自身も自分がこれからどのように生きていくのかと言うことは知らなかったでしょうが。それが、今、わたしは彼がどのように生きてきたかを知っているのです。もちろん報道された表面的な事のみでしょうが。つまり、自分自身の未来を知らなかった大江健三郎が、この作品を書いたと言うことです。そして読む私は、彼の人生を知ってこの作品を読んでいると言うこと。この不思議…です。

 

今となってみれば、大江健三郎の生き様がこの作品の中に現れている、と……感じます。







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2016年5月5日木曜日

『PEACE』 GENE WOLFE著



これは読書感想文ではありません。なぜこの本を読もうと思ったかというお話です。

 

今年初めまで英語の教室に通っていました。月2回で、ひとつは読書クラス、もうひとつはトピッククラスです。二つとも友達同士が集まって作ったクラスで内容も自分たちで決めていました。とても気楽なクラスだったのです。

 

が、私、囲碁を始めました。それゆえ英語への関心が薄れてしまいました。もともと英語は今の私の生活に必要ないけど、現状維持、ブラッシュアップのために勉強していただけなのです。それで、2月にペナンに行ってクラスを1カ月留守にしたのを機会に止めてしまいました。それでも英語を忘れることが不安なので、車での移動中だけイングリッシュジャーナルのCDを聞いています。

 

それが最近突然英語の本を読みたくなったのです。この本は、ずいぶん前に買ったものです。ジーン・ウルフの本は2冊目です。はじめて買った本は、『The Island of Doctor Death and Other Stories and Other Stories』で、短編集。メチャメチャ複雑でとらえどころのない内容でしたが、短篇ゆえになんとか読み通しました。まあ、SFファンタジー怪奇小説です。わからないなりに面白かったです。それで、『PEACE』の書評を見た時に、買ってしまった訳です。

 
 
 
 
 

PEACE』は、1975年に出版されましたが、2012年にNeil Gaimanのあとがきを添えて再出版されました。ですから、わたしもその頃に購入したのでしょう。書評は、日本語版の書評です。早稲田大学教授佐々木敦氏が書いています。国書刊行会が出版しています。国書刊行会の本はどれも不思議で魅惑的で大好きです。が、装丁が凝っていてお値段が高いのです。わたしは英語版を購入しました。

 

佐々木氏の言によりますと、

 

ジーン・ウルフは、まったくもって一筋縄でいかない作家である。日本でもマニアックな人気を誇る彼は、あえてジャンル分けをするならSF・ファンタジーの小説と言うことになるのだろうが、フィクションに、生半可な理解や納得よりも謎と混乱を求める、全てのすれっからしの読者に、過剰なまでの満足を与えてくれる。『ピース』は、ウルフが1975年に発表した比較的初期の長編小説である。

 

長編小説なのですねえ。なので、読み通すことが出来るかどうか、少々不安です。書評には、語り手の「ぼく」は、アメリカ中部の片田舎の街キャシオンズヴィル(架空の町)に独居する老人で、広大な屋敷内をうろつきながら、幼年時代の思い出をとりとめとなく、むやみと断片的に、だが濃密に回想するとあります。だから筋のない曖昧模糊とした不思議空間の本なのでしょうと想像するところです。余計難しいね。

 

英語読書会のクラスでは、10ページほどの短篇を1カ月に1回読んでいたわけですから、今回は、あせらずに少しずつ読んでいこうかなと、思っています。315ページありますが……。








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