2018年12月29日土曜日

無題


一つの事に夢中になっていると、社会の事に無頓着になってしまいますネ。
どうやって、そこに折り合いを付けるべきでしょうか。










にほんブログ村

2018年12月23日日曜日

今、尚、世界はキナ臭く……




『アンティゴネ』 ブレヒト





ソフォクレスが書いたギリシャ悲劇をドイツのヘルダーリンが翻訳し、ブレヒトが舞台用に改作したものです。戯曲です。1948年に上演されました。しかし、わたしが購入した文庫本は、2015年8月20日に初版本として出版されたものです。



最近、囲碁に夢中でなかなか他の事が出来ません。囲碁の本を読んでいると、それなりに頭は使うし、論理的思考は満たされますが、情緒的には満たされません。なんだかどんどん鬱屈していくので、「そうだ、何か小説を読もう。」と…、これは戯曲ですが、戯曲ゆえに早く読めそうと。



ブレヒトは、わたしの青春時代のヒーローです。その頃「ブレヒトの異化」という概念が流行っていました。それまでの舞台演出は、「アリストテレス的演劇」つまりルネッサンスの時期から始まった西欧の演劇が主流でした。観客は観劇する時、その内容と同化し感動し情緒的に満たされると言う構造です。ブレヒトはそれを嫌い、「異化」、つまり劇と観客が同化しないことを望みました。観客は劇に感情を翻弄されるのではなく、客観的に劇と対峙し、その内容を把握し、自分の意見を述べる事、考える事を要求されるのです。



というような事を『アンティゴネ』を読み終わってから、つらつら考えました。わたしも少し満たされた気分です。











ブレヒトの『アンティゴネ』とソフォクレス原作の『アンティゴネ』の間には、少々の違いがあるようです。翻訳者の谷川道子さんが、長い、長い、解説文を書いていますが、その中で述べられているその違いは、ブレヒトの脱神話化の意図のための様です。



そもそも『アンティゴネ』はギリシャ神話です。人間と神のお話。神に定められた運命は人間には変えることが出来ない。それをブレヒトは、人間と人間の話として構築しました。アンティゴネは、自らの運命を神の意志に委ねるのではなく、自分の手で変えようとしたと。そのためにブレヒトは筋の骨組みを少々変えていると、谷川道子氏は指摘しています。



アンティゴネは、オイディプスの娘です。オイディプスが自らの母親と、そうとは知らずに交わったために出来た子どもの一人です。末娘です。ソフォクレスは、その呪われた子どもたちまたは一族の話を書き連ねています。



オイディプス王が自分の犯した罪を引き受けて去った後、テーバイの王権は、息子である兄弟が一年ごとに交互に治めると協定しながら、約束を守らなかった兄エテオクレスから政権を奪うために、弟ポリュネイケスが敵国アルゴスと組んでおこした戦争がテーバイの勝利に終わったという後日譚があります。



しかし、ブレヒトの場合は、王権を継承した伯父クレオンが起こした戦争での事件です。兄エテオクレスの戦死に驚いた弟ポリュネイケスが逃亡し、逃亡兵として殺されます。その弔いを禁じたクレオンのお触れに妹であるアンティゴネが逆らい捉えられるという内容。クレオンの戦争も、アルゴスの鉱石目当てにテーバイがしかけた侵略戦争であることが明らかになります










その違いはブレヒトが生きた時代に関連があるかもしれません。ブレヒトは、1898年、南ドイツに生まれ、第一次世界大戦に召集されました。そして、医学部に在籍していたことから衛生兵として敗戦まで陸軍病院に勤務しました。その時の経験から、詩や戯曲の創作に入り戯曲作家として名前が売れました。



それから時代は、第二次世界大戦に突入していくのですが、ブレヒトはヒットラーが政権を掌握してから、ナチスに追われる身になり、アメリカに亡命。戦後、東ドイツに戻り劇団を設立し、演劇活動を再開するのです。それから、彼の「異化理論」により世界的な名声を手に入れました。1956年に心筋梗塞のため亡くなっています。



そんな時代に生きたブレヒトは、『アンティゴネ』で何を表現したかったのでしょうか。第二次世界大戦終結後、ブレヒトは、「古代ギリシャ悲劇の偉大な抵抗者は、我々にとって最も重要な意味を持たなければならない反ナチ抵抗戦士の代理を務めているのではない。今日では彼らを思い出させるようなことが殆ど起こらず、それどころか忘れさせてしまうようなことばかり起こっているだけに、なおさらこれは残念である。」と書いています。



解説ではこれを、「終戦と共に核戦争の危機と東西冷戦が始まり、反戦と抵抗の論理が終焉していくことへの苦々しい思い」と、分析しています。ブレヒトの『アンティゴネ』は、ナチズムとスターリニズムとマッカーシズムの三つの極を生き延びて、これから生まれるべき新しい世界と新生ドイツを前に、国家とは、祖国とは、演劇とは何かが、ブレヒトにもドイツ人にも、根底から問われなければならなかったであろう時代に書かれ、創られたのだ、との提言です。



時代は、今尚ですね。











にほんブログ村

2018年11月30日金曜日

18か国語に翻訳決定とあったので、買ってはみたものの……



『コンビニ人間』を読んで。





芥川賞受賞作です。文庫になったと新聞にあったので買ってみました。読み終えたのは、少し前でしたが、感想文を書く気になれずにいました。感動しなかったからです。しかし、色々なことを考える契機にはなりました。



そもそも芥川賞受賞作は、あまり読みません。二、三購入した本もありますが、結局は読めず仕舞いです。何故か。読み出しから辛気臭いからです。この『コンビニ人間』は、軽いノリで調子よく最後までスラスラと読めました。



では、なぜ感動しなかったのでしょう。つい最近、芥川龍之介選の『英米怪異・幻想譚』というアンソロジーを買いました。この本を読みつつ、「わたしはこういう本がつくづく好きなんだなあ。」と実感しました。ですから感動しなかったのは、単なる好みの問題でしょう。



「こういう本」とは、どういう本でしょう。一言で言うと「不条理」ですかね。不条理が不条理のまま終わるというモヤモヤ感です。











『コンビニ人間』の設定は、一見不条理です。主人公の36歳独身女性は、人とは違う感性を持っているらしく、人との社会生活がスムースに行かず、会社に就職できないままコンビニでのアルバイトで暮らしています。また、準主役と言った体の白羽さんも社会に馴染めません。この二人が出会って、ひと騒動おきて、その結果収まるところに収まるというお話。



この「不思議人間」の二人ですが、何か設定が単純すぎます。二人の性格がカリカチュアライズされすぎで、漫画の主人公の様。二人の周りにいる「一般の」人々の方が、複雑な生活・複雑な人生を送っているように思われます。



主人公が笑うということがどういうことかがわからず笑う振りをしながら職場に馴染んでいるのを、普通にコンビニでアルバイトをしている登場人物が、「あなたは笑ったことがないね。」と喝破します。その他の人も然り。しかしながら、コンビニの内部のディテールやコンビニの仕事のディテールは圧巻です。まるで「コンビニ道」なるものを書きたかっただけではないのかと勘ぐってしまいます。



少し前、『タンゴ・インザ・ダーク』という本を買いました。こちらは「太宰治賞受賞作」で、何か物々しい宣伝文句でした。「ゆがみとずれを抱えた夫婦の、奇妙な物語―――地下室に閉じこもる妻、インポテンツの夫、暗闇のセッション」とか。読み終えることはできましたが、こちらも人物像が単純でした。しかし、暗闇でのタンゴのセッションの描写や暗闇での二人のセッションの描写は圧巻。やはり、この地下室の暗闇の話だけで終って置いたらいいのにと。



『コンビニ人間』で、主人公は、白羽さんと会って同棲することで、コンビニのアルバイトを辞めて、会社員としての道を否応なく選ばなければいけなくなるのですが、その面接の日に入ったコンビニで「自分にはコンビニしかない(コンビニ=自分)。」との啓示を取り戻します。それがこの物語のエンドです。



中村文則さんが解説文を寄せています。彼はこの最後を「ベビーエンド」と呼びます。最後に赤ん坊が生まれることで終る物語。終わりを始まりにすることが出来る。主人公にとってコンビニは赤ん坊なのだと。



これで主人公は、自分自身の生きる道を見つけてハッピーになったのでしょうか。コンビニで生きることを肯定したのであれば、彼女は初めからハッピーだったのではないか。これで、自分がハッピーであると気付いたのだとしたら、36歳はあまりにも遅すぎると思うのですけど。







にほんブログ村

2018年11月16日金曜日

歴史が苦手なわたしでも読めました。




『日本の歴史をよみなおす』 網野 善彦著





題名通り日本の歴史の本です。しかし、わたしが興味を抱く本はどうもいつも「異端」のようで、この著者も学界のなかでは異端児です。彼は「日本は農業国」ではないと言っています。この「日本=農業立国」という誤解から、日本の歴史も間違って解釈されている部分があるとの指摘です。



例えば「百姓」。現在、「百姓」は日本では農民を意味します。ですから、歴史的な資料の中で「水呑百姓」と書かれていると、田畑を所有していない貧しい農民と解釈されてしまいますが、彼によりますと、「百姓」は農業に従事していない(漁業とか林業または貿易業)お金持ちの事も多々あるといいます。しかし、歴史学界の主流は「農民=百姓」であるので、まだまだ、彼の「日本は農業国ではなかった」との主張は受け入れられないということでした。



「百姓が農民ではない」という説は、わたしには受け入れやすい物です。それは、もともと百姓というのは、百の姓(私の解釈)で一般の人を指していると思うからです。上海にいた時、いろいろなところに百姓という文字が見受けられるので、不思議に思い、友達に聞いてみたことがあります。彼女は、「普通の人、平民とか言う意味だよ」と教えてくれました。中国での意味はそのようです。この本でも、中国人ならすぐわかるが、日本では違う意味が定着しているので、なかなかわかりにくいこともあると指摘しています。



こう考えて歴史的資料を精査すると、日本は農業国ではなく、いろいろ多彩な職業で成り立っていたと彼は述べています。最初に中国(唐)からの「律令制」という日本に馴染みのない制度を受け入れたことで矛盾が生じてきました。この制度は、すべての日本人(その頃のどこまでの人を言うのかはわかりませんが6歳以上という事)に土地を与え、それに基づき税制が敷かれました。



税金は基本的に「米」で納めるものですが、資料によると、「絹」とか「鉄」、「馬」、「塩」で納められている例も多々あります。つまりこれは、農業以外の産業も相当進んでいたという証拠になります。



このように律令制が敷かれた。しかし、本来、農地の少ない日本では、農業では暮らしていけない。そして、律令制が乱れてくる。するとまた、時の権力者が税制を立て直すべく、「農業中心に」改革を進める。その繰り返しです。江戸時代然り、明治維新然り。とにかく、日本は「農業国」でなければいけないようです。













わたしが感じた事がふたつあります。



1.15世紀あたりが、人類の転換期であること。



この本によりますと「13世紀以前の問題は常識では及びもつかない」そうです。つまり、13世紀以前は、古代に近く、精神的にかなり今とは異質な世界だったのではということ。例えば、盗みや人殺しは、許容はされていないものの、日常的に起るものだったとか、幽霊とか妖怪が普通に信じられていたとか。



モノとモノの交換については、このように書かれています。物と物を交換するというのは、贈り物でしかあり得なかった。商業的な意味を持たせてはいけないという事です。贈り物ではなく商品として交換する場合は、その物を日常の世界から切り離し、「無縁」のものとしなければならない。つまり、「市場」。市場は神の世界と人間の世界、聖なる場所と俗界の境に設定されるのです。モノを世俗の縁から切り離し、商品としての交換を可能にする場所です。



従って、商品の交換に携わる「人」自身も「世俗の人」であってはならない。12~13世紀の商工業者や金融業者は神仏天皇の直属民と言う地位を持っていました。



世界的に見ても、15世紀頃が近代精神の幕開けです。私が言いたいことは、学校の授業でこのような基本的な事柄を学べていたら・・・ということ。古代・中世の人の「人間観」がわかっていたら、歴史の理解がもっとスムースにできただろうと思います。また、興味も、より湧いただろうと感じます。





2.日本の文化の二面性について



日本の文化は「公」と「私」で相当の違いがあると思います。それは何故でしょうか。この本を読んで、唐から無理やり「律令制」がもたらされたことに関係しているように感じました。遣唐使によってもたらされた中国の文化です。天皇家の食事のメニューも唐の皇帝と同じものが供されたようです。他の本には、唐の衰退で影響力がなくなると、もとの「日本食」に戻ったとありました。よって、「無理に」と思った次第です。



この頃から、「『公』は中国式に」ということになったのでは。公文書は漢文で書かれていましたし、また、漢文は貴族のたしなみでありました。後に武士のたしなみにも。民間はひらがな、はなし言葉です。ここで、文化は「公」と「私」に分化されます。民間の文化が本来の日本の文化なのではと思ってしまいます。江戸時代に漸く庶民の生活が潤ってきました。その時が、日本文化の爆発の時です。



とにかく、「おおやけのもの」は難しい。わざと難しくしているのではないかと勘ぐってしまうくらいです。言文一致運動もようやく明治に入ってから起こりました。しかし、明治維新では、「中国」が「西欧」に変化しただけでした。



「日本独自の文化とは何か。」という定義も難しいですが、やっとわたしたちは「日本文化」を見直し始めたのではと思うこの頃です。












にほんブログ村

2018年10月29日月曜日

ダンテの『神曲』地獄篇を読んで




ダンテの『神曲』地獄篇を読みました。内容についてとやかく言うことはできませんが、(それから、「詩」なので、わたしに詩を味わう能力があるのかと言う疑問もあります)、興味深いです。わたしの弱点として、本筋ではなく細部にこだわりがいってしまうという事がありますので、その方向で書いてみます。





もちろん翻訳本を読んでいます。それで、興味を引いたのは、キリスト教の「地獄」でありながら、翻訳の言葉に仏教用語が使われているという事。批難している訳ではありません。ただただ、おもしろいなあと思ったので。



例えば、三途の川。アケロンとルビは振ってありますが。その他、地獄の門番の「仁王立ち」とか、です。キリスト教自体が日本特有のものではありませんから、それに相応しい言葉がないことは当然です。それでも宗教らしい雰囲気を出そうとすると、一般の日本語より仏教用語の方がより的確であるのでしょう。



もうひとつ同時に読んでいた本があります。Lafcadio Hearn の『Glimpses of Unfamiliar Japan です。こちらは英語で読んでいます。ハーンの興味は見るところ日本の(明治時代ですが)風景と、民間伝承(おとぎ話を含む)、仏教にあるようです。それで仏教用語とか日本特有の単語が頻繁に散見されます。彼は先ずは日本語でそれを示し、それから英語で意味を示します。時々はノートでさらに詳しく解説しています。例えば、Monju Bosatsu---the Lord of WisdomThe Sai-no-Kawara, which is the place to which all children after death must go など。またこんなものもあります――innen, the result of errors in a previous life



こんな本を二冊同時に読んでいたものですから、なおさらそれぞれの宗教の言葉使いに目が行ってしまった訳です。



もうひとつ、仏教の地獄への入口は三途の川で、道は三つしかありませんが(地獄の種類が三個と言う事)、キリスト教の方は九個あるようです。キリスト教の地獄は三角錐をさかさまにしたような形をしています。つまり、じょうろの内側を下って行くと段々と罪深い過酷な層になって行くという物。上層の界の方が広い円周です。翻訳ではひとつの階層が圏谷(たに)となっております。



興味深いのは、第一の圏谷は辺獄と呼ばれキリスト教の洗礼を受けていない人が行くところなのです。実際、ダンテの先達であるウェルギリウスも神によって辺獄から呼び出されてダンテの地獄めぐりの道案内をしています。その彼はキリスト教以前の人。つまり、キリスト教がなかった訳なので、どう考えても洗礼は受けられません。それでも「キリスト教の」地獄に行っちゃうのですね。その他、ホメロスなどの偉大なギリシャ詩人やソクラテス、プラトン、アリストテレスや、カエサル、ブルータス、キケロやユークリッドもいます。第二の圏谷は愛の為に罪を犯した人が行くところですが、そこにはクレオパトラもいます。



さすが、唯一の神、絶対神!キリスト教に全然関係のない人の罪まで引き受けてしまうのですね。どこかに日本の武将もいるかもしれませんよ。他人に暴力を加えた人として。














ダンテの地獄は次のような構造になっています。



第一の圏谷:キリスト教の洗礼を受けていない者

(辺獄)

第二の圏谷:愛ゆえに現世を逐われた者

第三の圏谷:生前、大食いであった者

第四の圏谷:貪欲な吝嗇家、浪費家

第五の圏谷:地獄の下層界ディースの市

第六の圏谷:皇帝党

第七の圏谷:虚偽瞞着

   第一の円:人殺し、横領

   第二の円:自殺、財産を散財する者

   第三の円:ソドム、高利貸し

第八の圏谷:

   第一の濠:女衒

   第二の濠:女たらし、阿諛追従

   第三の濠:聖職売買

   第四の濠:魔術、魔法

   第五の濠:汚職収賄

   第六の濠:偽善

   第七の濠:窃盗

   第八の濠:権謀術策

   第九の濠:分裂分派

   第十の濠:虚偽偽造

第九の圏谷:裏切り者の円

   第一の円:カインの国―――肉親を裏切って殺した者

   第二の円:アンテノーラ―――裏切りによりトロイアを敗北させた者の名前による

   第三の円:トロメーア―――客人を裏切って殺した者

   第四の円:ユダの国―――恩人を裏切って殺した者



ダンテはこんな地獄をすべてたどって行きます。そして、第二部煉獄篇へと進むのです。





ここまで読んで来て、キリスト教、西洋中心のこの文学が何故世界でも有数の文学になり得るのかと言う疑問がわきました。もちろん、キリスト教文化の国で重要な文学作品の位置を占めるのは理解できます。しかし、キリスト教に関係のない国々ではどうなのでしょう。



例えば、第五の圏谷ディースの市で円屋根の回教寺院が見えます。イスラム教の寺院を悪の城と位置付けているのです。また、第八の圏谷の第九の濠にはマホメットがいます。「俺はめった斬りにされたマホメットだ」と叫んでいるのです。もっと凄いのは、第九の圏谷の第四の円の名はユダの国です。



こんなこと書いていいの、と思って訳者あとがきを読んでみると、翻訳者平川祐弘氏も同じ考えらしく、「イスラム教の始祖を地獄の底に堕としイスラム寺院を下地獄の悪の城に見立てている『神曲』を世界文学の最高峰と呼び続けることははたして賢明なことだろうか」と言っています。



彼によると、『神曲』のアラビア語への翻訳はあるそうです。ただし、地獄篇第二十八歌は削除されていると。また、彼は以前、日本イタリア学会で「『神曲』に見られるキリスト教の厭うべき点」という発表を申し込みましだが、断わられ、その理由の説明も得られなかったと付け加えています。



もう一人川本皓嗣氏も終わりに一文を寄せています。タイトルは『「喜劇」という名の大叙事詩』。その中で、彼もダンテのゆるぎないキリスト教への信仰について述べています。ヨーロッパ中世と古典古代の融合と、逆に真っ向からの対峙という両面を、きわめて高い次元で体現しているのが『神曲』の偉大なる所以であると。



二人ともに、ダンテのこのキリスト教に対する大いなる自負について考察していますが、この事を抜きにしても『神曲』は偉大な詩であることに間違いはないとしています。わたしにとっても、ダンテの描写力は素晴らしいと言い得ます。ビジュアルのないただの言葉だけで地獄のおどろおどろしさを感ずることができました。もちろんこれには翻訳家の技もあるだろうけど。



すばらしい翻訳家の恩恵で、我々読者は階段の第一段をオミットして、二段目から上れるというものです。翻訳家のフィルターを通してより高い段階の観照が得られるなら、日本の翻訳文化に感謝と言うところですね。








にほんブログ村

2018年10月28日日曜日

最近のコメンテイターからの……思う事



ニュースショーやテレビ討論会のコメンテイターは、以前は上等そうなスーツを着たおじさんばかりでした。最近は、少々マシになって来たかも。ボツボツ大学教授やその道の専門家の女性が出演するようになってきたから。



これまでは、女性が出ていても、「花を副える」が如きの扱い。タレントや少々頭のよさげな美人系。その後、元ニュースキャスターや弁護士などの女性の登場。そして、今漸く、その道の専門的意見を言えるような人たちが出てきた模様。



わたしが若い時分、安藤キャスターが金丸氏(政治家)の記者会見で質問をしましたが、「お前は黙っとれ!」とばかりに無視されました。女性が偉そうに政治家に質問などしてはいけない時代だったのです。強烈な思い出です。



大学院の入学試験でも、定員があるので、女性は遠慮しなさいという雰囲気。同じくらいの成績なら男性が推薦されるし、「男性には将来があるから君は辞退しなさい。」と、教授にもろに言われた先輩もいました。「女性には将来は無いんかい。」と彼女は、憤慨。









こう書くと、漸く女性も「デキル奴」が現れてきたと誤解される向きもあるでしょう。しかし、女性は以前から「デキル奴」だったのです。育つ環境やら社会慣習の影響です。特に、女性は小さい頃から、「男性に道を譲る」、「男性を立てて勝負に勝たない」というように躾けられています。何か意見を言うとき、男性と女性が同時に手を挙げると、必ず男子生徒が先に意見を述べます。



息子の小学校の運動会の話です。男子対女子の綱引きで女子生徒軍が勝ちました。先生は、男子が女子に負けるのは可哀そうだからと、男子軍が勝つまで3回もやり直しました。父兄たちも男子生徒を応援です。こうやって、女性は男性に道を譲るように育てられていくんだなあ~と、感じた次第です。



しかしまだまだ、「漸く女性も日の目を見られるようになった」という段階です。どこかの医大の入試で女性が差別を受けていたという話。男性はテストの結果に下駄を履かせてもらっていたのでした。この状況を受けて他の大学入試を調査したところ、同じような現象が多々見られたとか。











どこまで女性は我慢しなければいけないのでしょう。女性は差別の構造の最下層にいると学生時代に何かの本で読みました。いろいろな差別がありますが、その差別される人々の中で、また、女性は男性に差別されているのですから。





私、囲碁で最近は勝てるようになって来ました。しかし、男性は(特に囲碁界は年寄りが多いので)女性に負けるのが恥と思っているようで、わたしに負けた男性が、「なんだ女に負けて恥ずかしいなあ。」と言われているのも聞きました。そのせいか、上手(うわて)の人は、わたしと碁を打ってくれますが、同レベルの人には避けられている雰囲気があります。



そんな現状です。









にほんブログ村

2018年10月21日日曜日

何故、話しかけなければいけないのか?



俳句への道は、まだまだ取り掛かっていませんが、新聞などで俳句、短歌コーナーがあると、ついつい目が行ってしまいます。と言ってスキャンするだけで、すべてを読んでいるわけではありません。



つい先日、その伝で朝日新聞の「東海歌壇」に目を泳がしていると、ひとつの歌が目に入ってきました。



「パソコンが話しかけろと言っている独り言なら声出るものを」



その通り!!!



今年の初め頃、パソコンを買い替えました。何か前のパソコンにはないキーがあったので、ちょっと押してみると、「何か言え。」と言ってきました。え~~~ッ、と思って絶句している間に、「音声が聞き取れませんでした。」と言って、シャットダウンされてしまいました。その後も、間違えてそのキーを押したことがありますが、わたしは何も話しかけることが出来ず、パソコンは呆れたように閉じてしまいます。



何故、機械に話しかけることが出来るのでしょう。わたしは「恥ずかしさ」に黙り込んでしまいます。昨今、テレビのコマーシャルでも、よく見かけるシーンです。端末に話しかけて何かを通販に注文するとか、灯りを消すとか……。



「オーケイ、グーグル。」なんて恥ずかしげもなくよく言えますねえ。または、スマホに話しかけて質問するとか。最近では、「車に話しかけろ」とコマーシャルは言っています。子供の時からこんな状況で育つと、どんな風になるのだろうかと思いますが、それはそれで時代は進んで行くのでしょうか。










最近、「子供は、大人と比べてロボットからの『同調圧力』に従いやすい。」という記事を読みました。



会話や意思疎通が出来る人型ロボットの開発が世界中で進んでおりますが、そんなロボットが人に与える影響を調査したものです。自分が正しいと思っていても、周囲の回答につられて誤答してしまうかどうかの実験です。3体の人型ロボットが加わり、3体とも間違った回答をします。大人の場合は正答率が変わりませんが、7~9歳の子供の場合、ロボットの回答に同調しがちだという結果が出ました。



結論は、「自律のロボット」が教育を担う時代は遠くない。そんな時代のために、ロボットが子供に悪影響を与えないような規制が必要かどうかの議論が必要との見解の様です。





どうでしょうか。



文明は日々進化しています。現代のわたしたちも昔の人が出来ていたことが出来なくなっています。単純な例では、火が熾せないとか。それでも我々は、不便さを感じず、進化し続けます。しかし、今回は少しオカシイ。それは、人が人でなくなってしまいそうな進化だからではないでしょうか。



今のところは大丈夫ですが~。(わたしが生きているうちはまだ大丈夫そうです)。










にほんブログ村

2018年10月6日土曜日

俳句その後



『絶滅寸前季語辞典』のUPを読んで頂けてありがとうございます。その後も、俳句の自由律とは、何かと考えておりました。



先日、新聞のコラムで」、俳人「兜太」の事を詠みました。わたしは、以前にも書いた通り、俳句の世界の事は何も知りませんが、兜太さんは今年2月に亡くなった大層な俳人のようです。



社会学者の上野千鶴子さんは、「季語や五七五の定型にこだわらない句を詠んだ兜太さんを『こんな人が俳句界の主流だったとは信じられない』」と評したそうです(肯定的な意味で)。という事は、自由律の俳句を詠んでいた人でも、俳句のメインストリームになれたという事ですね。



兜太さんは新聞紙上で、「平和の俳句」の選者を務めたそうです。政治的なメッセージをそのままぶつけるような俳句も多かったそうですが、兜太さんは、「言いたいことがある句が強いんだ。」と、そうした句も選んだそうです。



そういう政治的言葉が詩の言葉になり得るのかという疑問に、兜太さんは「すべての日本語は詩語だ。」と言い切りました。しかし、そのために、「詩的で見えない言葉を詩に乗せる仕組みが五七五と言う定型なのだ。」と。









という事はどういうことなのでしょうか。



詩的でないことも五七五にまとめると詩になるという事か。そして、詩的なことは五七五に乗せなくとも詩になるという事か。まだまだ、わたしの迷走は続きます










にほんブログ村

2018年9月24日月曜日

『絶滅寸前季語辞典』



俳句に興味はありますが、70歳くらいから始めても良いかなあと思っています。と言うのは、現在、囲碁に夢中だからです。何事も極めるには少なくとも10年はかかると考えていますので、まあ、このご時世80歳くらいまでは生かしてもらえるのではと思いつつ。



また、70歳くらいまでには、囲碁の方も何らかの形が出来ているんじゃないでしょうかと。そして、80歳の脳みそでは、囲碁を上達させるより俳句を上達させる方がより難しくないのではとの個人的な意見です。



しかしながら、俳句の方にも触手が伸びる今日この頃。ついつい、『絶滅寸前季語事典』という本を買ってしまいました。今、テレビにも登場して大人気の夏井いつきさんの著書です。テレビで拝見していると、「ほんとに見事に下手くそな俳句を蘇えらせるなあ。」と感服いたします。



この本の紹介で「俳句を詠んでいない人も楽しく読める。」とのコメントがあり、まさにその通り、面白く読めました。先ずは「絶滅寸前」の季語を示し、その意味の解説、そしてその季語を使った俳句の紹介と進みます。または、夏井先生自らその季語に挑戦し俳句を詠んでいらっしゃいます。絶滅寸前季語の意味の解説も、たまに少々脱線し、小噺のような趣もあります。








さて、なぜ「絶滅寸前季語」なのか。「まえがき」によりますと、「最近、俳句の世界では、歳時記を見直そう、新しい季語を探そう、季節感のズレてしまった季語を修正しよう、古くなった季語を一掃しようといった議論がかまびすしい。」とあります。夏井先生は、その議論に反対のようです。



彼女の意見は、



「聞いたことも、見たこともない季語でも、空想の産物でもなんでもかんでも、今の時代に生きる私たちが、ともかく詠んでみたらどうなるのか。ひょっとすると、古い革袋に新しい酒を注ぐような新鮮な俳句が飛び出さないとも限らない。もしも、万が一、私にそんな俳句が詠めたとすれば、少なくとも私が生きている間、その季語は私とともに生き残れるはず。」



そうしているうちに、彼女の意見に賛同する人が出てきて、今では「絶滅寸前季語保存委員会」というものできたとの事。そして、「あとがき」によりますと、この本で例句として挙げてあるものは、著作権の切れている俳人の作品、そして絶滅寸前季語保存委員会のメンバーの作品という事です。









この本を読んだ後、わたしは俳句について考えました。先ず、「わたしがなぜ俳句か」というと、俳句は5・7・5の17文字、そして季語を入れなければいけない。この縛りがあることで、ちょっと手掛かりがあって取っ付きやすのではと思ったからです。しかしまた、この縛りがある分、難しいともいえます。アンビバレンスです。



季語のことを調べなければいけない、勉強しなければいけない。この本の中でも夏井先生は、度々、「『大歳時記』を調べてみると」とか、「『大辞典』を調べてみると」と述べられています。先生でも未だにいろいろ調べて書いていらっしゃるのですから、「わたしをや」です。



そして、その季語の事を調べるという行為を考えると、俳句とは季語が先行する(面白い季語があるからその季語で俳句を創る)のか、または、自分の言いたいことに合う季語を探すのかと疑問です。たぶん両方だとは思いますが。もうひとつ、俳句は自然を詠むという事。自然を全然観賞しない私が、俳句を詠めるのか。この季語先行と自然観賞を考えると、わたしが俳句を選ぶことは正しいのか?



夏井先生の番組に渡辺えりさんが、たまに出ます。渡辺えりさんは、あのユニークな劇団を率いている通り、その俳句も特異です。5・7・5、季語を無視した自由律。彼女の作品は、才能ナシだったり、才能アリだったりの両極端。夏井先生が評して曰く、自由律の俳句は難しい。自分で律を奏でなければいけないし、自分で季語を作り出さなければいけない。自由律は嫌いだが、「良いものは良いと認めなければいけない。」と、渡辺さんが「才能アリ」を獲得した時の言です。この俳句でお芝居が出来たなら、わたしは金を払って見に行きますよ、と。



わたしがもし俳句を創るなら、または創れるなら、そんな俳句が良いです。でも、渡辺えりさんのような才能はありませんねえ。










最後に本書からの例句を示したいと思います。



絶滅寸前季語は「川止め」。意味は、「河川が増水した時、渡ることを禁じた事。」

私たちにも、水戸黄門のテレビ番組など時代劇でお馴染みですね。



芭蕉の句では、



さみだれの空吹おとせ大井川



夏井先生の解説。



止められる焦燥感は、江戸時代も現代も変わらないでしょうが、昔なら腹をくくって水が引くのを待つか、死ぬのを覚悟で泳ぎ切るかの選択。現代で当てはめると、飛行機が欠航してしまう感覚か。



夏井先生の一句。



川止めの宿に私と九官鳥



興味のある方は、是非一読を。









にほんブログ村

2018年9月17日月曜日

メゲル。

ブログを書き始めて、まあ、たぶん、2005年、上海から帰って来たときからだから・・・、十数年?


始めたサイトのブログが閉鎖されたので、ここに移って来ました。それから何年でしょうか。

十数年、書き続けて、少々、文章力も付いたかと、自負。

しかし、最近UP出来ていません。理由は、囲碁。なによりも囲碁を優先しているからです。

で、

考えました。

日々、1センチでも前進すれば、人生、「良く生きた」という事にならないかなあと。1ミリでもいいです。

そして、このUPが、その1ミリです。









にほんブログ村

2018年9月2日日曜日

『オリオン座はすでに消えている?』


題名に惹かれて購入しました。

オリオン座の一等星「ベテルギウス」が超新星爆発しているかもしれないというキャッチ。ベテルギウスは640光年離れているので、もし、この過去640年の間に爆発していたとしても気がつかない訳で、その640年目が今年か来年か、はたまた2~3年後かも知れません。



なのでェ……、「えッ、ほんと?もう爆発しちゃって今年にでもそれが見られるの。」と、この題名を見て早とちりしてしまいました。読んでみると、実際にはわかりませんが、過去の他の超新星爆発をした星の例から考えると、わたしたちが生きている間に「見られるかもしれない」ということです。もし、ベテルギウスが爆発を起こすと、3~4ヶ月は満月の100倍の明るさで輝き、昼間でも見えます。そして4年後には見えなくなります。



さて、本の内容はと言いますと、とてもシンプルで読みやすいです。わたしは宇宙の話も大好きで、他の本も少々読んでいますが、それらの本から得たわたしの雑多な知識をスッキリ整理してもらったような――感じです。



「わたしたちの」宇宙がいつ、どのようにできたかというお話がとても簡潔にわかりやすく書かれています。興味はあるが、どうも「わかりづらい」とお思いの方にはピッタリの本です。











近年、「理論上はこうだ」ということが、いろいろな観察機器の発達によりちゃんと証明されるようになってきました。「ヒッグス粒子」しかりです。「まだわからない暗黒時代の謎」というのも興味津津です。



ビッグバンが起きて、水素とヘリウムと少々のリチウムが生まれました。それが38万年後に原子として安定したのです。それらの原子から星が生まれることになるのですが、星が生まれなければ光が生まれないので、第1番目の星が生まれるまでの10億年の間は、我々人類は光をとらえられないということになります。つまり、光をとらえてわかる宇宙の誕生物語は、その期間だけは知る手段がないという事です。それがダークエイジ、暗黒時代と言う訳です。



南米のチリでALMAという電波望遠鏡が日本、アメリカ、ヨーロッパ共同で建設されました。宇宙に最初の天体ができた時の光や電波をとらえることができるかもと。これで暗黒時代の謎を解く「手がかり」が得られると期待されています。また、次世代の望遠鏡も研究されており、暗黒時代に何が起ったのかを知る事ができるようになりそうです。



1999年、ハワイ島のマウナケア山頂に日本の望遠鏡「すばる」が設置されました。この日本の技術が結晶された望遠鏡は、「宇宙の謎を解く」と、世界的にも期待されています。



2011年の8月、ハワイ島に行った時、見てきましたよ~~~。標高4200メートルのマウナケア山頂に行くには、いろいろな条件、試練が(ちょっと大袈裟)あるのです。そこを乗り越えて(ツアーですが)「すばる」と雄大な夕日と天体ショーを満喫しました。このような本を読むと、「オオッ、マウナケアに行ってよかった!」という気になりますね。



日本は世界でもアマチュア天文学者が多いそうです。平安時代にも1054年の超新星爆発を見た人がいます。鎌倉時代初期の歌人である藤原定家が残した『明月記』に平安時代の出来事の伝聞として、超新星爆発(客星)のことが記述されています。中国の『宋史』にも客星(一度だけ現れる星)として記述があり、1054年の7月4日から1056年の4月5日まで見ることができたと記されています。



過去から(そして未来の人もと想像しますが)、人類は星を見ながらいろいろ哲学するのだなあと感嘆します。








にほんブログ村

2018年8月26日日曜日

『不思議な物語』を読んで




『ハックルベリー・フィンの冒険』の中で使われている「ニガー」という言葉が、人種差別の言葉であるとして、近年アメリカで違う言葉にして出版するという動きが活発だ。そんな動きの中で、nigger hipster robot にした版が出回っていると言う。そこまで行くともう改竄である。このように言葉を換えるということを考えていると、じゃあ翻訳はどうなんだと思った。



先日、ゾラン・ジフコヴィッチの『不思議な物語』という本を読んだ。出版元は黒田藩プレスである。ゾラン・ジフコヴィッチはユーゴスラビアの作家であるが英訳版もあるらしいので調べてみた。出版元はKurodahan Press とある。あらっ、同じジャン。と思って、出版社自体をチェックしてみると、やはり同じ会社。日本に住んでいる北米人三人が会社を設立して出版事業をしているらしい。最近、NPOに移行したと報告されていた。彼等の目的は、海外の日本未発表の本を日本語に翻訳し出版することと、日本のまだ海外に紹介されていない本、例えば江戸川乱歩など他の言語に訳しにくいもの、を翻訳し海外で販売することである。そのホームページをみると、日本の独特の文学がどのように英語に翻訳されているかをみるのも興味深いでしょうと書かれていた。―――う~~~ん、興味深いです。











また、最近、世界文学には単数形のWorld Literature と複数形のWorld Literatures があると言う事を知った。単数形の文学は、普遍/不変的価値を有する各国独自の正統的文学。複数形の文学は、グローバルな世界で単一の国家、言語、文化に属する事のない文学作品群。例えば、ハリーポッターやカズオ・イシグロの作品などだ。複数形の文学は単数形の文学が追求する美学、永遠性・独自性・翻訳不可能性には始めから執着せず、世界中の読者をそもそも前提として作品が書かれている。



調子に乗って、ついつい『グローバル社会に賛成しているんじゃないよ。今のグローバル社会は、唯一の観念に収斂していって、開かれた「グローバル社会」とはとうてい言い難いから。』からなんて思ってしまったが、少々反省している。というのは、わたしの考えは少々古臭くなっているのかもと感じたから。



経済のグローバル化の場合は、やはり、西欧諸国主導の資本主義・自由主義経済に流されていると言える。資本主義の概念の「巨大さ」は容易には覆し得ないからだ。が、文化の面ではどうだろうか。もちろん、西欧文化が新興国を飲み込んで文化の帝国主義とか植民地化とか言われる面もあるが、それとは別にソーシャルメディアを通して培われた第二のバーチャルな世界が出現しているとも考えられる。



わたしの時代にはなかったコンピュータが生まれた時から存在する世代、あるいは青年期に遭遇して容易にコンピュータを駆使する事ができる世代が、違った共通の世界を作り出したのは当然の結果だ。そこは、国籍も言語の違いもない新たな世界だ。そこで生まれる文化は、やはりわたしが「美」と感じとる土着の文化を超える共通の「美」があるのだろう。



でもね。薄まっているんじゃないの?そんな世界になってくのかなあ。












にほんブログ村

2018年8月23日木曜日

『後手の先手』とは。



今日の朝日新聞の「折々のことば」は、



家事は、あなたと家族が快適に暮らしていくための手段であって、けっしてあなたの生涯の目的ではないのです。       ―――犬養智子



50年前に刊行された『家事の秘訣集』によるものです。上手に家事をサボる400の驚きの提案がなされているという事。家事は大切なことだからこそみなで協力し合いましょうとの提言です。





もちろん、家事は「大切な事」です。しかし、わたしはそれ以上に、もっともっと「生きるそのもの」と思っています。生物は、生きるために自分自身の体をメンテナンスし、また、清潔に保つ努力を四六時中しています。人類は、自分自身が「生物である」という事を忘れてしまっているのでは。



自分の命を大切にするという基本的なことをないがしろにし、他の事を、例えば勉強とか仕事とかを、重要視します。つまり、体に良い食べ物を考えるより、もっと働いて多く稼ごうとか、身の回りを綺麗にすること――部屋を掃除する、洗濯をする、あるいは自分自身を清潔に保つ――よりもっと実利のあることをしようとか。









さて本題の「後手の先手」とは、囲碁用語です。囲碁は先手を取って自分の有利な方向に囲碁を進めて行こうと考えます。ですから後手を取ってはいけません。しかし、「後手の先手」とは、今はこの手は後手のように見えるが、将来的に働くので実は先手なのだ――というような手の事です。



碁会所の囲碁仲間は、たいてい70歳前後の爺さんなので、よくセクハラまがいの発言を聞きます。



「奥さんは家で何をしているんだろうねえ。掃除とか洗濯とかしかしてないんだよ。」とか、「女は家でご飯でも作っているしかないね。」とか。



まるで、自分は外で働いてお金を稼いで「大層な事」をしているのだと言うかのような発言。そのあなたの体を守ってきたのは誰なのだ――と言いたい。つまり、そんな囲碁仲間に対し、



あなたが思っている女性の仕事とは、『後手の先手』なんですよ~。



と言いたいわけです。








にほんブログ村

2018年8月20日月曜日

『面白い人』に出会うという事





23日前に、息子にメールをした。返事はなかったが、今朝返信が来た。わたしがメールしたのは、



ちょっと思いついた事を言っとるだけだけど、世の中そう面白い人はいないネ。



返事は、



面白い人がいっぱいいたらそれは普通の人なので











なるほど。面白くない人々とわたしは呼んでいるが、私自身、他の人に「面白くない人」と言われているのかもしれない。わたしが面白い人(わたしが感心するような事を言う人)と思える人は、わたしのことを面白くない人と分類しているのでわたしを受け入れることはなく、わたしは面白い人に出会えることはない。



だから、



結局は、自分自身を鍛えるしかない。わたしが出会いたい人に会った時、その人にわたしが面白い人と思ってもらえるように。しかし、その人は、その時はすでに「普通の人」となっているので、やはりわたしは「面白い人」には会えないのだ。



だから、



わたしは永久に自分の道を鍛えていきながら、たくさんの「普通の人々」と出会う道を進んで行くしかない。











にほんブログ村

2018年8月9日木曜日

俳句を創ってみたもののーー




重大な欠陥に気が付きました。わたしの「俳句を創るにあたり」の欠陥です。

わたし、
風物詩や、自然の営みに「全く」興味がないのです。俳句は、自然の状況を心情に合わせて詠むもの。

で、良いのだろうかと。

前回の物も、自分の好きなビールを詠んだだけで、自然は全くなし。

それで、次に、
この熱帯夜で、エアコンの効いていない廊下やトイレは、まるで「熱帯雨林」のよう、という俳句を詠もうとしたのですが、
「アレッ。全然自然に関係ないじゃん。」と。

どうでしょう。この路線。








にほんブログ村

2018年8月6日月曜日

俳句、創ってみました。


全く経験ありません。

しかし、英語を研究していたので、一度、「英語俳句」なぞにトライしたことはあります。「英語俳句雑誌に投稿したら絶対掲載されます。」と言われたことは、一回あります。

でも、別物ですねえ。。。英語俳句には「季語」はいらないから。

で、

わたしの詠みたいことは、

冷たいビール瓶に触ると、手も喜んでビールを飲んでいるよ。ということ。

で、

先ず、「ビール」が季語かどうかを検索。俳句季語サイトを見つけ、調べたところ「ビール」は季語だと。

第一関門、突破。

で、最初に書いたのは、

キンキンの
ビール冷たし
飲み干す掌


次は、

キンキンに
冷やした麦酒
掌も飲み干す

その後、いろいろ考えましたが、

キンキンに
冷たきビール
掌も踊る(OR 相伴す)

キンキンに
冷やすビールや
掌も喜ぶ

そして、

最後に

キンキンに
掌も喜ぶや
凍ビール


となりました。

如何に。










にほんブログ村

2018年7月29日日曜日

俳句に興味アリ。

以前から俳句には、興味があるのですが、やり始めるには、しんどいなと。

通信教育の「俳句入門」などの講座の案内書を入手したこともありました。でも、いったん始めたら、やり続けなければいけないし、その分、囲碁の方が疎かになると。

しかし、やりたい。

で、

先ず、

夏井先生の『絶滅寸前季語事典』を買いました。俳句をしていなくても、十分面白く読める本というコメントがあったからです。

で、

十分面白く読めました。

ひとつひとつの季語(絶滅寸前)の解説(エピソードとか、面白話+解説)があり、そして、夏井氏の俳句または有名な俳句が一句。

まるで、麻薬のように、一つ読んだら、また一つと、読み続けてしまう事、確実。

ここで、俳句にはまるかどうか?思案のしどころです。









にほんブログ村

2018年7月26日木曜日

オウム6人死刑執行


今日の朝日の夕刊の一面のタイトルです。

何故、このタイミングですべてのオウムの死刑囚の執行が判断されたのか?

まあ、いろいろな分析はあるでしょうが、わたしの意見では、考えすぎだと言われようとも、

法務大臣が女性だという事が関係していないのか?

死刑を執行する法務大臣は、まあ、非難されるのが現状だ。そのために、将来の政治生命にも係わる。

川上陽子法相は、今回、1か月に2度死刑を執行にサインをしたことについて記者会見をしている。

「過去に前例を見ない重大事件。残酷極まりなく、社会に大きな衝撃を与えた。---、裁判における十分な審議を経た上で死刑が確定した。慎重にも慎重な検討を重ね、執行を命令した。」

と述べている。

これで、川上法相が在任時の死刑執行は計16人となり、1993年以降では最多。

この将来的にマイナスな責任を押し付けられたのが、女性の法相。女性には将来がないという暗示なのか。これで政治家として、歴史に名を残すことだけで満足しろという自民党の思惑なのであろうか。





にほんブログ村

2018年7月22日日曜日

日本語と英語翻訳の『Self-Reference Engine』を読んで。




この本を買った理由は二つあります。ひとつは、円城塔氏がフィリップ・K・ディック特別賞をアメリカで獲得したという事です。ディックはわたしの大好きな作家なのです。1960年代の作家ですが、今でも、いろいろな映画の原作になっています。一番有名なものは、『ブレードランナー』でしょう。『ペイ・バック』とか『トータルリコール』等も。ほんとにたくさんの映画があります。彼の原作と意識されていなくても。円城氏のこの本を読んだところ、なるほどフィリップ・K・ディックの賞に相応しいなと感じました。



そしてもう一つの理由が、日本語の本が英訳されてアメリカで賞を取ったということです。つまり、日本語がコンテキストなのです。ワールド・リタリチャーには、「ワールド・リタリチャーと複数形のワールド・リタリチャーズ」があります。単数形のワールド・リタリチャーは、それぞれの国の文学の中で「世界的な観照」に耐えられる作品を意味します。



そして、それらの国々の作品が日本語に訳される時、日本語とその言語との微妙なニュアンスの違いが生じます。完璧に日本語には訳しきれません。そんな作品をわたしが読むとき、その真実は彼らの側(書いた側)にあるのです。訳された日本語が間違っているわけではないのですが、日本語に訳しきれないということです。同じ意味を持つように表現することが困難なのです。



日本の文学もワールド・リタリチャーあるいはワールド・リタリチャーズとして、英語に訳されます。彼等がそれを読むことになると、真実は我々の側にあるという状況が生まれます。英語の文章と日本語の文書に齟齬がある場合、日本語が正しくて、英語の表現が間違っているのだということに。そんなこと当り前だと思われるかもしれませんが、英語スピーカーたちはなかなかこの真実を受け入れません。



Self-Reference Engine』の中で、「明後日(あさって)の方向」という表現が度々出てきます。この本の根幹は時間軸が崩壊し過去も未来もぐちゃぐちゃにこんがらがっている状況です。そんな中で話が展開しています。だから、「明後日の方向」というのは、文字どおりの意味で理解されうるということですが、日本語としては、「明後日の方向」とは、「デタラメ」という意味を含んでいます。この二つの意味が相まって、日本語での本は話に厚みが出ます。が、英語では、意味が一つとなります(英語にはそんな表現方法はないと確認済み)。



あるいは、主語を明確に表現しない日本語でも我々は、何が主語かわかりますが、訳された英語では、主語が間違っていることがあります。そんないろいろな間違いに、「真実は我々の側にある」と主張できる幸せ(倒錯してますね、わたし)。とにかく、わたしが言いたいことは、文化の違いを謙虚に受け入れること。我々は、パーフェクトにお互いを理解し合える存在ではないのです。



それは、時間軸が狂った世界で、お互いが別々の違った方向に進んでいるのと同様に、時間軸の狂っていないこの現実世界でも、我々の意識は必ずしもリンクしないのだという事実。つまり、我々は、「ひとりひとりが常に異次元の世界に住んでいる」のです。














この本は円城氏の処女作のようですが、処女作にありがちな、あらゆるものが詰め込まれた装飾過剰な作品になっていると思います。第一に「イベント」が余分なのでは。イベントとは世界の時空間が混乱した瞬間のことを指しています。そのイベントが起きてからの混乱した状態の描写です。それぞれのショート・ストーリはイベントに関連していますが、イベントを中心に置かなくとも、それそれぞれの話だけで「ある時イベントが起った」という事実を暗示した方がスッキリするような……。



あとがきの解説文を読むと、円城氏はこの「イベント」というものを出汁にして、ただハチャメチャな世界を書きたかっただけだと感じます。彼は「あさっての方向」という言葉に惹かれてこの本を書きだしたのではとさえ思えます。芸術家とはそんなものでは。人々は、つい、芸術家の意図を読み取ろうと勝手に難しい理論を組み立てて「こんなことを言いたいのだ」と解説します。が、実体は、ほんとに単純な動機だと思いますよ。



ある作家は、「単なる状況をただどれだけ長く描写する事ができるかを試してみたかっただけだ。」と作品について述べています。また、画家にしても「ある色とある色の組み合わせが美しかったから、その組み合わせの美の極限を描いてみたかった。」と。わたしは芸術家ではありませんが、わたしの彫金の作品を見て、「これは何を表わしているの?」とよく聞かれました。わたしはいつも適当に答えていましたが、作品制作の動機は、「平らな面に滑らかな曲線を持った凹みを入れたら美しいだろう」と言ったような単純なものでした。



円城氏の文を読んでいると、星新一氏の影響を受けているんじゃないかと思わされます。または、落語。言葉あそび。だから、それだけに留めておけばよかったのにと。イベントを中心に添えると、勢いその説明に追われてしまいます。通常ではない世界を舞台にするのは、フィリップ・K・ディックの得意なところですが、彼の場合は、その正常でない世界が、ただ「ある」と言うだけです。そんな世界で、人々はその世界の説明を求めるではなく、普通に普通ではないことをしています。円城氏は、too much あるいはtoo lessです。つまり、通常でない事を描き過ぎる、世界を説明し過ぎる、そして、その世界に生きる人々の日常性を描き切れていない。そんな感想を持ちました。





余分ですが、ひとつ面白いことに気付きました。英語の先生と『Self-Reference Engine』のプロローグと一作目の「Bullet」を読みました。二人には感じ方の違いがあったのです。



わたしは、Bullet を読んで、この主人公の3人は、中学生くらいの少年・少女と思いました。イギリス人の先生は、「大人の男と女」と感じたようです。それは、言うことがスマートだからと。わたしは、彼らの言うことは、どことなく、コミックブックの主人公の子供たちの表現と似ていると思いましたが。実際には、13歳の少年・少女でした。



先生は(イギリス人の男性、30歳くらい)、想像の世界にスンナリ入っていけないようです。つい最近聞いたラジオ番組で、ゲームのイベントをしている人(かなり有名なようですが、名前を忘れてしまいました)が言っていました。「いろいろな国でゲームのイベントをしているが、想像の世界にスッと入っていけるのは日本人だけのようだ。」と。カフェで、「ここは列車の車室です。」と設定すると、日本ではたいてい「はあ、そうですか。」となるが、他の国では、「なぜだ。ここはカフェじゃないか。」と言いだす人が必ずいるそうです。



Bulletの中で、「リタ(少女)は頭の中に弾丸を持っているのだが、それは、母親が撃たれた時、リタが母親のお腹の中にいたからだ」、という描写がありました。先生の反応は、「頭の中に弾丸があって、彼女は死なないの?」でした。わたしは、「ああ、弾丸が入っているのか。」という反応。



それなら、過去でリタが撃たれたことになるので、明後日の方向に銃を撃ちまくるのはおかしい。過去の方向に打つべきなのではと思いました。で、読んで行くと、「リタはある時点で撃たれた。そしてその衝撃で過去の方向に押しやられ、母親の子宮に戻ってしまった。そして、この世に生まれて現在の13歳の時点に来た。この時、リタの頭の中に弾丸はあるがまだ撃たれてはいない。だから、これから彼女を撃つであろう未来の方向の人物に向けてガンをぶっ放し続けているのだ。」と。どうですか。



わたしは、「はあ、そうですか。」と思いました。先生は、「それでは、リタは2回生きているの?」って。どうでもいいじゃん、そんなこと。でしょ。












にほんブログ村

2018年7月15日日曜日

世界史からの―――日本の歴史に興味津々。



『アマテラスの誕生』を読んで





マクニ―ルの『世界史(A World History)』に取り憑かれています。マクニ―ルは文明を四つに分け、それ以外の文明はその文明の亜流であると書いています。その四つの文明とは、チグリス・ユーフラテス文明、ナイル文明、黄河文明と、インダス文明―――ではなく、ギリシャ文明。ギリシャ文明とは、少々変だと思いました。しかし、誤解していました。彼は、メソポタミア文明に影響を受けて興ったギリシャ文明、インダス文明、メソポタミア・エジプト文明と黄河文明―――と区分していたのです。



19世紀の終わり、あるいは20世紀の初め、『世界最古の物語』が発掘されました。4~5千年前に楔形文字で書かれた物語です。その内容はまだまだ研究つくされていませんが、近東地域に位置するバビロニア、ハッティ、カナアンの文明です。これが、彼の言う最初の文明でしょう。聖書もインド叙事詩もホメロスもこの影響下にあります。そして、そこからのギリシャ文明・メソポタミア文明・インダス文明・黄河文明ということです。



彼は、文明にはひとつの理論に基づいた官僚国家が必要だとしています。「ひとつの理論」とは、現在意味する「理論的」なものという事ではありません。人心をひとつにする「物語」です。つまりこの「物語」を他の文明は創り出すことが出来なかった。だからこの四大文明のどこかから拝借したのだと、彼は言います(四大文明以外の文明は亜流だという意味)。実際には「物語」とは、宗教です。西欧キリスト教、インドのヒンズー教、イスラム教と仏教。例えばモンゴルはどうでしょう。彼等のジンギス汗はユーラシア大陸を征服しましたが、人を説得する「ひとつの理念」は持っていませんでした。イスラム教に接触するとすぐイスラム教に転向してしまったのです。





マクニ―ルは『世界史』を書いています。その『世界史』がやや西欧中心的なのは致し方ありませんが、新しい世界史観を創出していることは確かだと思います。そこでは日本のことも触れられていますが、やはり日本人の書いた日本の歴史ほどではありません。そこで、実際、日本の歴史はどうなんだろうかと思った訳です。彼は、日本の歴史を中国文明に影響を受けたいわゆる「亜流」文明とみなしています。そこまで単純なのだろうかと思いました。故に『アマテラスの誕生』(溝口睦子著)に辿り着いたということです。



溝口氏は、「アマテラスを日本に統一国家をもたらすための皇祖神」としています。つまり、ひとつの文明に不可欠な「物語」。前置きが大変長くなってしまいましたが、やっと、お題の『アマテラス』に行き着きました。













『アマテラスの誕生』で溝口睦子氏は「なぜアマテラスが日本の皇祖神になったのか」という謎ときに挑んでいます。あくまでも溝口睦子氏の説です。わたしには、それが正しいとか間違っているとかの判断はできません。しかし、スッキリと納得はいたしました。



日本は近代化するまでに、対外的に三つの敗北があると溝口氏は言っています。ひとつは、5世紀初め高句麗と戦っての敗北。ふたつ目は、663年白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に負けた事。そして幕末期の黒船来航。幕末期に西欧諸国に対抗する為、「西欧から」学んだということは、日本のひとつの特徴です。中国、その他の国などは、その巨大な国力に安住して、気がついたら植民地化されていたということが見受けられますから。それと同様に、高句麗や唐・新羅に敗れた時も、日本はそこから新しい知識を学んだのです。



4~5世紀の東アジアは、ユーラシア大陸と朝鮮半島南部、日本列島を結ぶ文化の流通圏がありました。そして、5世紀初めに高句麗に敗北を喫すると、倭の独自性の強い文化から、朝鮮半島の影響の強い文化へと変化しました。古墳から掘りだされる遺物は、大陸文化そのものだと溝口氏は述べています。その頃大陸で流行っていた思想が、「天孫降臨神話」だったそうです。



敗北により、権力の集中と統一国家の立ち遅れを意識した倭王は、統一王権にふさわしい、唯一絶対性・至高性が必要と、天から神が降りられて王家の始祖となったという物語をここで取り入れました。その時の皇祖は「タカミムスヒ」であって、アマテラスではありません。溝口氏によりますと、ヤマト王権(5c~7c)はタカミムスヒが皇祖、律令制国家成立以降は(8c~)はアマテラスが皇祖ということになります。「この時になぜ皇祖の転換が成されたのか」が、『アマテラスの誕生』の主旨です。



663年に白村江で日本が敗北した時、時の権力は「もう大慌て」といった状況でした。唐と新羅の連合軍に敗れたので、唐が侵攻してくるのではないかという恐れから都を内陸部に移すということもしました。その頃はまだ数多の豪族の頭としての天皇でしたが、天武天皇は統一国家への改革を始めるのです。天武天皇(在位672~686)は、豪族の「部曲(土地・人民)廃止」を675年にします。これで、「私地・私民」が「公地・公民」となります。豪族は国から支給される扶持によって生活することになりました。中央集権の成立です。



もうひとつ重要な事が、思想面の改革です。天武天皇は歴史書の編纂を命令します。681年に開始されました。そして、720年『日本書紀』の完成です。天武天皇は大陸からのグループの神と見られがちなタカミムスヒをそのまま国家神とすると、大陸との繋がりが深い特定の豪族の官僚国家なのだと受けとられる事を恐れました。そこで、それ以前の土着の神である「アマテラス」を皇祖神として定め、人心の一新をはかり、新しい国家作りに挙国一致で向かう態度を示そうとしたのです。しかし、『日本書紀』ではまだ完全な転換を果たせず、『古事記』によってその意図は貫徹されます。『古事記』によって神話が一元化され、タカミムスヒは忘れられていきました。



しかしながらアマテラスが名実ともに皇祖神となったのは明治に入ってからの事で、明治2年明治天皇が伊勢神宮を参拝したのが、はじめての「天皇が伊勢神宮を参拝」ということになります(祖先を参拝するという事)。つまり、江戸時代まではいくら「皇祖神」「絶対神」「至高神」などと言われても、庶民は八百万の神を信じていたのですね。



そもそも国を統一する時は、なにか絶対的なものが必要だったという事が、納得できました。『日本書紀』や『古事記』は、キリスト教で言う「聖書」のようなものだったんだと、この『アマテラスの誕生』を読んで、思い至った次第です。












にほんブログ村