2017年9月19日火曜日

妄想力

以前にも、妄想力について書きました。

いろいろなことを妄想していると、何もなくても楽しい時を過ごせると。

例えば、英語の勉強をしていた時(今は、囲碁に夢中なので、休憩中)、電子辞書(時代遅れですいません。スマホなし。)を所持していれば、どこでも、妄想力で英語の勉強が出来ました。頭の中で、いろいろなシチュエーションで英語の会話をするのです。そして、単語がわからび時に、辞書を使うという意味で。

または、英語で頭の中に文章を書くこともできます。または、いろいろな議論を想定して、ディベートもできます。








で、

この頃、囲碁も妄想できそうな気がしてきました。いろいろな状況を予め碁盤で想定して、その後、碁盤がない所でもその設定を頭の中で再現すると言ったようなあ。再現して、その後はどうなるかという妄想もできます。

妄想力は偉大です。すべての芸術的行為に有効なのでは。と言うか、必要なのでは。




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2017年9月17日日曜日

『去年を待ちながら』を読んで



フィリップ・K・ディックの小説です。わたしは、20代の頃から彼の大ファンでした。しかし、30歳から40?歳くらいまでは生活に追われ、本をじっくり読む暇はありません。仕事と家事と育児に追われる日々です。でも、彼の本だけは翻訳されるとすぐに買っていました。お金もなかったので、文庫本ですが。その時の言い訳は、「老後の楽しみのために」です。



という訳で、その老後が来てしまったんですネェ。ディックの本は30~40冊持っていますが、そのうちまだ読んでいない本が現時点で7冊です。『去年を待ちながら』が読めたので、あと7冊になりました。わたしは、若かった時の自分の「命令」で彼の本を読んでいると言うことです。この本を読んでいて、そんな状況が「似ているなあ」って思ったので、前文は蛇足ながら書いてしまいました。











いつもの如くの彼の作品です。つまり、精神を病んだ人とドラッグと未来と過去が入り乱れた世界が描かれています。今回はドラッグを飲むと、過去や未来に行ってしまうという設定です。過去の自分から情報を得て、現在や未来の世界を変えていくと言うような…。わたしは、過去のわたしに会ってはいませんが、過去のわたしの遺言を忠実に実行しているよなあ…、って感じです。



本の粗筋を書くと「なんと陳腐な」と思われてしまいそうですが、こんな感じです。



宇宙人が出てきます。リリスター星とリーグ星です。我々人類とリリスター星人は同じ祖先から枝分かれしたと言うことになっています。同じ、ホモサピエンスということ。リーグ星人は、違う種類の生き物で知能は高いが昆虫のような姿ということ。人類とリリスター星人は同盟関係です。そうして、リリスター星人とリーグ星人の戦いに人類が巻き込まれるという感じ。



この時の地球の国連事務総長はモリナーリ。彼が司令官となりリリスター星人と手を組み、リーグ星人との星間戦争に挑みます。このモリナーリは年齢不詳。臓器を入替え、入替えて、死を免れ戦い続けています。その人工臓器を移植する医師エリックが、主人公です。そして化学兵器として発明されたのが、ドラッグJJ180。このJJ180は、一度飲めば中毒になってしまい、常用しなければいけない破目に陥ります。そして、肝臓やら腎臓やらがぼろぼろになり、精神も異常をきたし死に至るという設定。



しかし、JJ180には大変な作用があるということがわかりました。人によっては、過去に戻ってしまう、または、未来に行ってしまう…。このドラッグはリーグ星人をやっつけるためにつくり出されたものでしたが、実は地球上で常態的に蔓延していたのです。



つまり、地球と同盟星人のリリスター星人は、人類と共に闘うという名目の下に人類を征服し奴隷化しようとし、このドラッグを地球にばらまいていたのです。これがこの作品のベースです。このベースで、モリナーリやらエリックやらエリックの妻やら、大実業家やら精神科医やら…、諸々の人々が入り乱れて話が展開していきます。



モリナーリは不死身でしたが、実は、JJ180を使用しており、過去の若々しい自分を入れ替わり立ち替わり連れて来ては、リリスター星人と戦っていたのでした(敵はリーグ星人ですが、彼はリリスター星人の思惑もわかっていて、彼らを出し抜こうとしていたのです)。医師エリックも、妻の悪巧みに乗せられてJJ180を飲んでしまいます。彼は、妻との関係やモリナーリとの関係、リリスター星人との戦いのため、過去へ未来へと八面六臂の大活躍です。



お話の終局を書いても良いでしょうか。エリックは、過去へ未来へのドタバタから何を手に入れたのか…です。



答えは、「何も」です。妻との関係も清算されず、リリスター星人との戦いも勝利を得られずと。「人生は辛く耐えがたいもの。しかし、生きていかなければならない。」と、――彼は、今まで通りの人生を生きて行くのであった~~~、という結論です。













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2017年9月9日土曜日

『第四間氷期』  安部公房著




安部公房は大好きな作家で、若い時分からよく読んでいました。彼が亡くなって、未発表の短編集が出版され、即買いましたが、未だ読んでいません。もう彼の新作は出版されないと思うとさみしい…。



彼の本を何冊持っているのかと本棚を見てみると、11冊ありました。一番最近読んだものは『砂の女』です。蟻地獄のような砂の家に閉じ込められて、世話をやく女をあてがわれた男が、脱出しようと試みるが、脱出できる最後の瞬間に外に出る勇気が湧かない、あるいは「閉じ込められた空間」に安らぎを覚えるという、「感動的な」物語でした。



情けないことに他の本の内容はあまり覚えていません。そこで、一番古い本からもう一度読み直すことにしました。昨日から『第四間氷期』を読み始めて、今朝読み終えました。この作品は、1958年に出筆されたものです。わたしは、1970年に文庫本になってから買ったらしいです。高校生の時に読んだみたいなの…。



ずいぶん昔に世に出た本ですが、現在の世界にとてもリンクしていることに驚きました。それは、今話題の「AIは人間の知性を超えるのか」や世界の温暖化のようなことです。



MITが編集出版している長く続いている科学雑誌があるのですが、2011年に有名なSF作家達に依頼して、未来のテクノロジーとそれがどのようにわたしたちの生活に実際に役立っていくかということについて意見を求めていました。つまり、SF小説は我々が現実に手に入れる前に、新しいテクノロジーを小説の中で実現しているからです。予言ですか(?)。



新聞記事によりますと、2050年までにはシンギュラリティが起こるという事です。AIは人間の知能を超えるということ。あと45年という説もありますが。しかし、わたしは例えAIあるいはロボットが人間以上の知能を持つ存在になっても恐れることはないと思っています。なぜなら、ロボットこそ人間の次の段階の進化だと思うからです。(もちろんそれを望む人々にとっての)。



人間は自然界には存在しないものを作り出して進化してきた。そして、自然に自らの運命を握られていることに我慢できない様子です。ヒトの「高貴な魂」は、肉体(自然)に囚われているのです。そこから逃げ出す道が、ロボットということ。人工による人間のための「究極の人間」――それがロボットです。









そして、話は元に戻って、このことが安部公房の『第四間氷期』とリンクしているのです。1958年にこの作品が書かれたなんて、なんと感動的!



さて、『第四間氷期』です。



先進国は人工知能を作り出した。もちろん日本も。で、それに何をさせたらいいのかがわからない。予算を得るために何かをさせなければならない。そのためにAIに未来を予知させることにした。そこに、なぞの団体が絡んで来るのです。彼らは胎児の段階で哺乳動物を処理し、水棲哺乳類を作り出しました。もちろん人間も。(しかし、日本の組織なので日本人だけです。興味あるわあ。)。そしてその水棲人の未来の姿を見極めるために、この人工知能に接触してくるという理由。



そこで、この本の題名通り「第四間氷期」が終わるのです。世界は、水没します。これは、人工知能が予測した未来の世界なのですが――。そこで、人類は水棲人を受け入れることが出来るのか。本からの引用です。



自然との闘いが、生物を進化させたことは確かです。―――しかし人類はついに自然を征服してしまった。ほんとの自然物を、野生から人工的な物へと改良してしまった。つまり進化を、偶発的な物から、意識的なものに変える力を獲得した訳です。―――次は人間自身が、野生から開放され、合理的に自己を改造すべきではないでしょうか。―――これで、闘いと進化の環が閉じる・・・もはや、奴隷としてではなく、主人として、ふたたび故郷である海に帰っていく時がきた・・・。



「だが、水棲人をそんなふうに認めることは、自分を否定することじゃないのか。地上の人間は、生きながら過去の遺物になってしまう。」

「耐えなけりゃなりませんよ。その断絶に耐えることが、未来の立場に立つことです・・・」



大部分の母親が、少なくとも一人は、水棲人の子供を持つようになったとき・・・水棲人に対する偏見が、本質をゆがめる恐れがなくなったときです。その頃はもう洪水の不安が現実のものになっていて、・・・・・・・水棲人を未来の担い手として認めるか、選ばなくてはならなくなっているはずだ・・・



たいへん長い引用になってしまいましたが、水棲人をロボットに置き換えれば、わたしの説も納得できませんか。この本の締め括りはこんな感じです。



親子喧嘩で裁くのはいつも子供の方にきまっている・・・たぶん、意図の如何にかかわらず、つくった者が、つくり出された者に裁かれるというのが、現実の法則なのであろう――。









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2017年9月2日土曜日

『ゾミア』を読んで



最近のテクノロジーの発展、科学の発展により、現在いろいろな事が明らかになって来ています。ビッグバン以前の宇宙がどんなものであったかも理論的には解明されつつあります。また、深海に生きる生物の生態なども深海まで到達できる潜水艦の技術により明らかになりつつあります。



それでは、わたしたちが住んでいるこの社会はどうなのか。わたしたちは、どうしてこのような社会に暮らしているのかは、わかっているのでしょうか。わたしの机の引き出しに「国民国家の問題点」というメモがひっそりしまわれています。『ゾミア――脱国家の世界史』を読んで、少しだけわたしにも理解ができそうな気がしてきました。



The Art of Not Being Governed---An Anarchist History of Upland Southeast Asia, by James C. Scott です。「脱国家」と謳われているように、デリダの「脱構築」系統の本のようです。











ゾミアはベトナム中央高原からインドの北東部に至る地域です。面積およそ250万平方キロメートル、約1億の少数民族の人々が住んでいます。一番驚いたことは、わたしの無知からですが、彼等は文明から取り残された人々ではないと言うことです。それ以上に、文明から逃れようとしている人々なのです。



文明とはなにかは、以前『HUMAN』という本を読んで少々理解できました。初期国家の人々は、大半は自由民ではなかった。国家に拘束された人々だった。国家(支配者)は、その存続を維持する為に、人々を囲い込み、労働力と徴税を確保しなければならなかった。つまり、人を土地に縛り付けコントロールしやすいようにする。考えてみたら、牧場のようなものかもしれませんね。そして、その人々に国家や支配者の正統性を敬うように明確なイデオロギー、セオリーを与える。宗教もそのひとつです。



そして、そのような束縛から逃れようとする人々がいる。労役と搾取からです。「国家」から離れて、「国家」の勢力が及ばないところを移動し続けるのです。止まれば捕まってしまいますから。そして、そのようなコントロールが効かない人々を、国家は、「文明」と対比して「野蛮な未開人」と呼ぶのです。



この「野蛮な未開人」は歴史の初期段階で留まっている人々ではありません。『ゾミア』には、このように書かれています。「山岳部族は、人類史の初期段階の残存者で、それは、水田稲作農耕を発見し、文字を学び、文明の技巧を発展させ、仏教を取り入れる前の人々・・・と考えるのは間違いである。・・・定住型農耕と国家様式の発明に失敗した古代社会ではない。」



つまり、今日狩猟採集民として暮らしている人々は、百年前も狩猟採集民族であったとは単純に考えられないということ。彼は農耕民であったが、「国家」の締め付けにより、辺鄙な土地に逃れた人々かもしれない。実際、今農耕民で裕福な生活を営んでいるのは、先進国の農業従事者だけだと、なにかの本で読んだ記憶があります。低地で土地に縛られて農耕を志すより、焼畑農耕で点々と場所を換えて作物を作る方が、より労働としては効率がよいそうです。焼き畑が環境を破壊すると言うのも、「文明」の側からの間違った喧伝だと。日本人が割り箸を使うので、森林が破壊されるという喧伝のようなものですか。



この逃亡は、何も古代のものではありません。実際、第二次世界大戦前までは、頻繁に起っていたことなのです。低地民が山岳に逃れたり、また山岳民が低地にまいもどったり。植民地時代にも、彼等は植民者の西欧人を悩ましていました。居場所が特定できないので、支配する事ができないのです。また、彼等には真の意味での「支配者」を持っていないので(彼等の社会は平等です。支配者が現われてそれが引き継がれていくのを嫌いました。彼等は頻繁に支配者を殺していたそうです。「支配する者」は殺されるという強迫です。)、支配者を通じて民を統括するということができないのです。植民者は、先ず、彼等の支配者をでっちあげるところから始めなければいけなかった。



彼等は、永住が必要な水田農耕を捨てた。また、ほかにいろいろなものを捨てました。歴史、文字、アイデンティティをもです。ここから、歴史とは何か。文字とは何か。アイデンティティとは何か、という疑問が湧きあがります。



第二次世界大戦以降、近代的国家の概念は世界を覆い尽くしています。国と国の間には国境線が引かれ、もうあいまいな場所はほとんどない。「文明」から逃れたい人々の行き場所がなくなりつつあります。著者は、「だれが文明人でだれが未開人であるかを見分けるための座標軸は、国家によって収奪しやすい形態であるかどうである。」と述べています。










訳者の佐藤仁氏は、「あとがき」でこのように述べています。



「彼等を小さく、端へ追いやることに加担してきた私たち自身の歴史に向き合うのは、ちょっとした勇気がいる。山の民という鏡の中に、国家や資本主義に依存する私たちの本当の姿を覗き見る覚悟を持てるかどうかが、今、問われている。」



日本にも「山の民」はいました。また、現在の中央集権政治体制から追いやられている「地方」の実情を考えると、まだまだ、わたしたちの社会は到達点を迎えられないと思わざるを得ません。拙い文章なので、この本の意図が伝わっているかどうか。興味がある方は、是非『ゾミア』を読んで下さい。












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2017年8月27日日曜日

「殺人ロボ」



23日前の新聞記事です。「殺人ロボット」と呼ばれる自律ロボット兵器の禁止を話し合う初の国連専門家会議が11月に延期されたことで、人工知能やロボットを開発する企業の創業者や科学者がこれらの兵器の早期禁止を国連に迫る公開書簡を発表したというもの。



書簡では、「このようなロボットがいったん開発されれば、人間の理解を超えて戦い、紛争はこれまで以上の規模になる。パンドラの箱が開かれてら、閉じるのは困難。」と警鐘を鳴らしています。



また、ロボット企業の創業者である広瀬茂男東京工業大名誉教授は、「自動車の衝突安全技術が次々と搭載されているが、人を検知して止まれるなら、人を狙うこともできる。ソフトをちょっと改変すればAIがテロを起こす。」と、指摘しています。







こんな時代が来たんだなあ…、と思います。フィリップ・K・ディックのSF小説をたびたび例に出して申し訳ありませんが、彼が書いた短編小説を思い出しました。『SECOND VERIETY』です。



ロシアとアメリカが地球外の惑星で戦闘を繰り返しているのですが、アメリカ軍の方がこのような殺人ロボをこの戦いに導入しました。生き物をすべて殺せという命令を出して。アメリカ軍の兵士は、それに検知されないような器機を身に着けています。戦闘が長引いて、もうその惑星に数人の兵士しか存在しないとなったころ、一人のロシア兵士がアメリカ兵士基地の方に近づいてきます。その様子がいつもとは異なります。



アメリカ兵が外に出てみたところ、殺人兵器の様子がいつもと違っていました。アメリカ兵も見たことがない殺人ロボの登場です。自律ロボは自ら次世代のロボを作り始めたのです。2世代、3世代の殺人ロボの出現となります。そして、人と見分けが出来ないほどの精巧な第4世代ロボが現れたところで…、人類の運命や如何に……。



ディックは、1950年代から小説を発表しています。彼がこの短編をいつ書いたのかは、ちょっとわかりませんが、1970年代(?)くらい…。



興味のある方は、一読をお薦めします。早川書房のディック傑作集①『パーキーパットの日々』の中に収められています。映画化もされていますよ。











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2017年8月22日火曜日

文明に抗する



新聞の書評欄に『文明に抗した弥生の人びと』という本を見つけました。読んではいません。が、その書評を読んで思ったことです。著者は寺前直人氏(駒沢大学准教授)、評者は宮田珠己氏(エッセイスト)です。

 

書評によりますと、この本は、明治期に弥生式土器が発見されてから、研究者たちが弥生時代をどうとらえていたかの変遷を追います。そして、西から来た文明が縄文社会を先進的に塗り替えていくという一面的な捉え方に異議を唱えます。



稲作の普及にともなって、人を殺すための道具やムラを守る施設が増えるが、一方で人間関係を緩和するための儀式も活発に行われていたということ。評者は、「過剰な富がもたらす負の面を見抜いていたのである。」と書いています。



また、弥生中期に鉄や青銅が伝わったときは、武器にすれば殺傷能力が増し権威の象徴となるものを、あえて実用的でない形に変容し、武器としてはダサい石器を使い続けたと。そして、銅鐸。なぜ、あんなものを大量に作ったのか…、そんな成り立ちを丁寧に分析している本だそうです。出土品にある小さな痕跡から当時の人の心を読み解く考古学の底力との評価です。









そしてわたしの思ったことは、どこからか「文明人」がやって来たとき「未開人」は喜んでその「便利な道具」を皆ウェルカムしたわけではないという事。却って「悪魔の道具」として退けたかも。何年か前に、アマゾン川流域のまだ世間に知られていない部族が、航空写真で捉えられ、新聞の一面を飾っていたことを思い出しました。撮影された彼らは顔を真っ赤な顔料で塗りたくり、皆、槍を振り上げて怒り、飛行機に対して敵対の感情を表していました。



「文明人」は、彼らを文明の利器も知らない可哀そうな人々と言えるでしょうか。『ゾミア』という本を読んだ時も同様な感想でした。ゾミアとは、ベトナムの中央高原からインドの北東部にかけて広がり、東南アジア大陸部の五ヵ国と中国の四省を含む丘陵地帯です。そこに住む一億の人びとは、国家の圧力から逃れ文字も持ちません。しかしそれは、権力からの自由と自治のためなのです。



彼らは、初めから文字を持たない「原始人」ではなかった。文字を手段として民衆を縛る国家への反逆として文字を捨てたのです。文字は、誰が何を持っているか、そしてそのために税を幾ら払わなければいけないかなどの道具として使われ、人々を国家に縛り付けたのです。



どこの国にも属さないエリア。もうこの地球上にそんな地域が存在する可能性はゼロに等しいのです。「ゾミア」はそんな「文明に抗する」人々の最後の楽園なのかも。












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2017年8月13日日曜日

『身体から革命を起こす』  2.0


古武術家甲野善紀氏とフリーライターの田中聡氏の共著です。主に甲野氏が語った事を田中氏が文章化したらしい。甲野氏は、古武術の技を介護などに応用している人物で、日本の古い技を継承している貴重な存在の人なのだ…というわたしの感想。



もともと『忍者武芸帳』とか『カムイ外伝』などの白戸三平の劇画のファンだったので、わたし自身は昔の武術家の「凄技」を信じています。が、「本当のところはわからない」というのが本音です。甲野さんは、その凄技を体現し現実に出来ることを証明している人。どんな、技があるのかなあと軽いノリでこの本を手に取りましたが、さあ大変、「人の在り方」を問う深い内容でした。



とは言え、難しい本ではなく、甲野氏はただご自分の日々の修行のことを語っています。そして、甲野氏に圧倒された各分野の一流の人たちが、彼の「技」に対して共感しています。例えば、元巨人軍桑田真澄氏、コンテンポラリー・ダンサーの山田うん女史、フルート奏者の白川真理女史そして介護福祉士の岡田慎一郎氏などなど。



感銘を受けたところは多々ありますが、一番は「人間は自分の身体の使い方を忘れてしまった」ということ。わたしも常々、科学の進歩で「人間は何かヤバいことになっている」とうすうす感じていました。実際に「どうなのか」ということが語られていて、わたしが感じていたこともあながち間違いではなかったと思いました。









日本における最初の変化は、やはり「黒船来航」によるものでした。西欧人を見た日本の「偉い人たち」が、日本人の身体が西欧人と比べて貧弱であり、動き方も洗練されていないと感じたのです。もうひとつ、日本の近代化を促進する為の富国強兵に携わる軍隊が、日本人の身体行動パターンでは成り立たないということ。つまり、日本人は近代的な行動科学に基づく身体の動きをしていなかったということです。もちろんそれは日本人にとっては、理にかなった動きでありました。



近代医学で身体の構造を示されれば、なるほどそれは解剖してみればその通りだが、こういう構造だから、身体はこのように動いていると「概念化」されても、ところがどっこい、身体はそのように動いていないらしいのです。「医学的にあり得ないことが、我々の日常の暮らしである」と、著者は言っています。例えば、プロ野球でバッターがボールを打つことすら、情報の神経伝達の早さを考えると「ありえない」ことなのです。



いろいろな物が発明されるまでは、人間は己の身体を使って仕事をしていました。現在考えれば重労働のような仕事も、当時の人々はその仕事に合った身体の使い方をしていたので、それ程のことではないということです。当時は、身体の動き方で「何の仕事をしている人」とわかったそうです。日本人がアフリカの国々に行って、日常生活を体験するというテレビ番組がよくあります。そんな中で、アフリカの辺境に住む人々の身体能力に驚きますが、明治以前の日本においても、同様だったのではと。



著者によると、日本人の身体の動かし方はアジア人と比べてみても特殊なようです。しかし、例えどの国であっても(西欧でも)近代化される以前は、人は生活にあった動き方をしていました。科学的思考に基づき身体はこう動くものと概念化されたことにより、人は自分の自然な動きではなく、そのように概念化された動きに支配されるようになったと言えます。



「近代には、人々の暮らしが刻印された多様な身体に対して、一律な、あるべき体格や姿勢や動きが理想とされるようになる。健康で、清潔で、規律ある体である。その理想像の根拠をなしているのは、近代医学が解剖して見せる、一様な構造をもった身体である。(中略)。同様に、歩き方や運動の仕方も、日々の労働と無縁な、構造としての身体の営みとして指導されるようになる。学校は子供を家業の手伝いから引き離し、学校体育は、日々の暮らしと無縁な、すなわち生きるということと無関係な身体を築くべく教育する。」



と、書かれています。



冒頭で紹介したそれぞれ違った分野で活躍する人々は、甲野氏の講演や実技に接し、衝撃を受けます。そして、その一部でも自らの仕事にフィードバックできた時、彼らは「自分が持っていた感覚が蘇った」と感激します。



自分の持っている感覚を目覚めさせればいいんだと。フルート奏者の白川真理女史は述べています。



「音楽大学というのは、昔なかったんですよね。音楽は、本当に才能があって神様に選ばれた様な人だけがやっていた。それがフランス革命とかで市民階級が台頭して、その後有産階級の子弟が入れる学校ができて、ようするにお客さんになっちゃった。そうすると。大勢のほどほどの人に、そこそこのことができるように教えないといけないから、マニュアル化していった。」



才能がない人をそこそこにする教育ではなく、才能がなくても「身体の感覚を磨けば可能性が広がる」ということを、彼女は言いたかったのでは。



「マニュアル化する=学校」の存在は、資格制度の構築です。人間を平均化する事。だから、人は自らの能力を取り戻すしかない。自分の身体に聞いてみること。自分にとって何が正しいのかを見極める事。「生きているものとして在ること」、「生きている身体を取り戻すこと」…、そんな感想です。



また、西欧との違いはindividuality をどう見るかと言う事と思います。キリスト教文化と仏教文化の最たる違いはここにあります。この古武術を習得するにも、先ずは、意識を消すこと。己を消すこと。身体を自然な流れに任せ、意識せずに身体を動かせるようになる事とあります。



う~~~ん、西欧化してきた現代では、打ち破りがたい相克でしょうか。










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