2019年5月19日日曜日

今日の新聞広告の本






新聞の本の広告を見るのは、まあまあの趣味です。

今日は、

『思考機械』
『美しく呪われた人たち』
『科学tの女性差別とたたかう』

すべて作品社の出版です。

まだ内容をチェックはしていませんが、すべて「そそられる」題名です。





『思考機械』は、あの『ホームズのライバル」のというタイトルの短編を含む本邦初翻訳の50篇の短編集だそうです。

『美しく呪われた人たち』は、あのフィッツジェラルドの本邦初翻訳だそうです。

『科学の女性差別とたたかう』は、最近流行の『妻のトリセツ』などの似非科学本の反論のようです。旧来の科学の偏見に挑むとあります。ーーー是非反論してもらいたい。


以上。





2019年5月16日木曜日

お隣はデニソワ人




以前、『我々はなぜ我々だけなのか』という本の感想をUPしました。現在人類は我々「ホモサピエンス」」だけの存在ですが、過去にはいろいろ多種多様な「人類」が生きていました。

特にアジアには消え去った多様な人類がいました。ヨーロッパでは、ネアンデルタール人の研究が盛んです。アジアにおける旧人類の研究はまだまだです。そんな中で、この本はアジアにおける人類たちについての研究成果を報告しています。





と、ここまでは、導入部です。私、この本を読んで「デニソワ人」にいたく興味を持ちました。と言ってもその名前の「響き」だけの事ですが。何かそそられませんか。同じように「ガニメデ」という言葉にもいたくそそられています。木星の月の一つの名前です。フィリップ・K・ディックもこの名称が好きらしく彼の作品によく出てきます。

それで、デニソワ人ですが、息子にメールをして、「『お隣はデニソワ人』という話はどお?」と言ってみました。彼は漫画家です。返事は、「あなたが原作を書いて、気に入ったら描いてもいいよ。約束はできないけどね。」というもの。

正直、こんな返事が来るとは思いませんでした。いつものように無視されるか、鼻で笑われるか……を想像していたのです。それで、少々考えてみました。





いろいろな人類が存在していて、我々ホモサピエンスとも「彼ら」は交雑しています。我々のDNAの中に彼らの存在が刻印されています。しかし、交雑によるハイブリッドの子孫は生まれなかった模様。ラバに子孫ができないように。

しかし、デニソワ人にだけは出来た……という設定はどうか。そんな集落があって、その集落に知らずに引っ越してしまった主人公、どお?あるいは、反対に主人公のお隣に、デニソワ人が引っ越して来た、どお?

デニソワ人のDNAで何が起こるのかは知らないけれど、漫画なんだから(お話なんだから)『らんま1/2』のような事が起こってもいいんじゃないの?性別がなくて、出会った人により性別が決まるというような。ミミズのように。

主人公とその妻によって、その性別が変わるのだ。ミミズは、土の中でミミズ同士の出会いが少ないので、そのまれな出会いを有効に活用するようにミミズには性別がなく、出会った瞬間に「どちらがどちらか」が決まるそうです。

つまり、数少ないデニソワ人の存在がこんな風にデニソワ人がなった理由だ、というのはどお?


という事で、また、思いついたら続きを書きます。




2019年5月10日金曜日

読んでいない本の感想文です。








新聞の広告欄を見て興味を持った本です。今回は3冊興味のあるタイトルの本がありました。



1冊目は、『シンギュラリティは近い――人類が生命を超越するとき』です。キャッチコピーは、「2045年、これが私たちの衝撃の姿だ!」。または、「『ポスト・ヒューマン誕生』のエッセンスを集めた決定版!」。



先ず、「シンギュラリティとは何か。」と考えました。Singularの名詞形だなと。だから、単数、単一の意味かと。で、ふだんわたしが考えていること―――、『人類はサイボーグ化している。』つまりiPS細胞からの身体の再生や、コンピュータ制御の人工四肢や人工耳、人工眼、その他諸々で、人はもう自然界から遠い存在。SFの世界の「機械人間」です。この調子で行くと、人は死ななくなる。もはや生殖活動は必要ない。と言うことで、人類は単細胞生物のように「不死」となり、「性生殖」を失うということかなあと。つまり単一性。――シンギュラリティの意味の話ですが。



しかしアマゾンで検索したところ、どうも違うらしい。「特異性」という意味らしいとわかりました。「人類は生命を超越する」です。「AIが人類の知性を上回り、私たちは生物の限界を超えてついにシンギュラリティへと到達する──。」と紹介されていました。つまり、人類はAIのおかげで「生物」を越えてしまうということでしょうか。



著者は、「未来学者として技術的特異点の到来をいち早く予見し、人工知能(AI)の世界的権威として現在はGoogle社でAI開発の先頭に立つレイ・カーツワイル」とありました。彼は、その状況を肯定的にとらえているようで、さすがアメリカ人の楽観主義かあ…、と購入する意欲が失せました。










2冊目は、『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』です。これはわたしが普段から抱いている感想から興味を持ちました。それは、「人は人ひとりで完結していない」ということです。たいていの生物は、他の仲間の助けを借りなくても一個体で生きていけます。しかし、人の生活は全てが細分化されており、もはや生活に必要な事を自分自身一人で出来なくなっています。それが、「社会生活」と呼ばれる人類発展のストラタジーなのだ……です。



この本は、都市でもできる狩猟採集生活――、つまり、都市でもひとりで人生を、生活を、完結することが出来る指南書なのかと思い、アマゾンで検索したところ、都市で暮らす路上生活者のお話のようです。



わたしの思いとちょっと違うなと。路上生活者は都市の「特異」です。物が溢れている都市だからこそ、お余りをお裾分けしてもらって生きていけると言うわけです。全ての人が貧乏な何も持っていない社会では、路上生活者は生きていけません。



アマゾンのカスタマーレビューに「普通、わたしたちは働いて金を得、その金でものを購入し消費する、その繰り返し、そのサイクルの中で生活し、またそれ以外の生活は考えられない、というより考える事もないわけだが、本書によるとその生活は一つの観念に過ぎないのだ。つまり、わたしたちはあまりにも一つの生き方に縛られ続けている。本書の一番のウマ味はその〈気づき〉にあると個人的に思う。」と書かれていました(引用してすいません)。また他のカスタマーレビューでは、「『<都市の幸>で暮らすことは、きみが起こすことのできる唯一の革命なのだ』(本書P148)。」とありました。



わたしはもうそのことに<気付いて>いるからこの本は購入しないことにしました。



その観点では、『増補 サバイバル! 人はズルなしで生きられるのか』と言う本も良いかも。日本海から北アルプスまでを、米と調味料だけを持ち縦断した記録、とあります。他の食料は現地調達し、自然の中で眠る生活というような感じでしょうか。「自然にじかに身体をさらすことで、おぼろげな個人の輪郭がはっきりとしてくる。」と書評にありました。でも、これも都市生活から一歩身を引いて、自分の生活を見直してみると言うことですね。



お金を払わなくてもいろいろなものが手に入るという「田舎暮らし」はまだまだ存在しています。そんな田舎の人々には、どうでもいいことでしょう。しかしこれはGDPの増減を気にしている政府にとっては、とんでもない行為でしょう。お金で物を買わなければGDPに換算されませんからね。



人の行動をいちいちお金に換算することは、もうやめようよ~。










三冊目は、『QJKJQ』。「2016年江戸川乱歩賞受賞作!」とありました。「17歳の女子高生。亜李亜の家族は全員が殺人鬼。ある日、兄の惨殺死体を発見する。亜李亜は父に疑いの目を向けるが、一家にはさらなる秘密があった――。」と。



有栖川有栖氏が、「これは平成の『ドグラ・マグラ』である」と批評しており、その「ドグラ・マグラ」に魅かれ目にとまった訳です。ご存知、夢野久作の『ドグラ・マグラ』です。わたしの本棚にもありますが、内容はすっかり忘れています。



アマゾンで検索したところ、あまり評判はよくなさそう。これは『ドグラ・マグラ』ではない!という一文も目に入りました。それで、即、購入はしないことに。



そのかわり、本棚にある『ドグラ・マグラ』をもう一度見てみました。その解説は「精神操作の恐怖と自由の問題」という題が付いていました。精神操作には、マインドコントロールとルビが打たれています。わたしは、昭和52年にこの本を買いました。しかし、発表されたのは1935年です。その時代に「マインドコントロールとはね。」と興味が湧きあがりました。



この作品が発表された時、多種多様な評価を受けたようです。



狂人自身が書いた狂気の世界――江戸川乱歩

思想の容器として独自の位置を占めている――鶴見俊輔

弁証法の傑作――森秀人

ありうべからざる幻想世界を通じて、ありうべき社会を予言した、狂気のアポカリプス――塚本邦雄

家父長への怨念小説――水沢周

物神崇拝の恐怖の中に人間の自由の問題を描いた作品で、日本推理小説史上の傑作――権田萬治

奔放な空想の極致を示す狂気の文学――荒正人



などなどです。



と言うことで、相当分厚い本で、今では、古くてカビ臭いのですが、読みなおしてみようかな、と思った次第です。



いろいろ迷走した挙句の「これらの本は買わない。」という結論でした。









2019年5月5日日曜日

だんだんと年寄り染みて来ました。






前回、ついつい自分の歳を計算してしまうと書きました。あと10年経つと何歳になると言ったようなことです。そして恐怖心が湧いてきたという事も。もうひとつ、最近思うのは、若い人の命の尊さです。子供が事故などで亡くなると、ああ勿体ないと。

自分が若い時には、「誰が何歳で死んだ」という事には、あまり関心ありませんでした。ただ「人が死んだ」という情報のみの関心です。





今年の初めに息子と道後温泉に行きました。名古屋からなので、長い旅路です。そして、もうすぐ松山駅に着くという手前で、乗車していた列車が事故で止まってしまいました。2時間遅延したら料金払い戻しと言うところでしたが、結局は、1時間50と何分かの遅れでした。

まあ、それは良いのですが、

車掌さんが通るたびに近くの客が様子を聞きます。初めは、踏切で人身事故が起きたと。

息子と、
「なんだかこの頃よく踏切事故が起こるねえ。」と言う会話を。「よくじゃなくて、起きる可能性が、割合が増えたんだよね。」

そうなんですよね。文明の利器の発展によって、「人間力」が落ちてきたのかなあ~。というのは「またの話」という事で、今回は関係ないのですが。

次の情報は、それが子供だったというものでした。そして、死亡したと。警察の鑑識があるから時間がかかりそうとの事。

息子と二人で「酷いことだねえ~。」と。

わたしが、
「子供が死んだら、世界で一番目の年寄りが代わりに死ぬというのはどお。神様は何とかしてくれないかねえ。」と言うと、「それは無理。」と。

「でもさあ、年寄りは何かあると『代われるものなら、わたしが代わってあげたい。』と言うよ。わたしがこどもを生んだ時でもさあ、あなたの事だけど、わたしがウンウン呻っていたら、掃除のおばさんが『代われるものなら、代わってあげたい。』と言ったよ。心の中で、代わってくれ~と叫んだよ。」

「あなた、相当年寄りに悪意があるんじゃないの。」と言われました。

しかし、如何にも勿体なくありませんか。









2019年5月2日木曜日

今月から毎日UPしようと思い立ったが、すでに2日になっていた。








今年の初めにいつもの手帳の代わりに10年日記を買った。どうせ大したスケジュールはないので、「何が起きたか」の方を記録しておこうと思ったからだ。毎年の出来事を比べることが出来るのも面白いかもと。こちらの方は、まあまあ順調に書けている。

その一年目に平成から令和に元号が変わったのは、「ちょっとした出来事」だと感じる。つまり、令和元年から10年までの日記となるからだ。10年書き続けることは出来そうだが、次の10年はどうだろうか?

年齢と共に、この先の年月を勘定してしまう。例えば次の東京オリンピックの時は、まだわたしは生存しているだろうとか。AIのシンギュラリティの年はどうだろうかとか。二十歳の時は、20年後の40歳のことなど想像だにしなかった。40歳の時には、60歳になるのは、遠い先の事と思っていた。そして、今、わたしは容易に「20年後のわたし」を考え、想像し、その「わたしの存在」そのものも疑ってしまう。


そうそう、年齢と共に「恐怖心」も出てきた。出てきというより、恐怖心を理解したのだろう。「痛み」を知ったという事か。今年の初めに息子と会った時に、そんな話をしていて、

「ねえ、まだバイオハザードのプレーできる?わたしはもうできないよ。もう怖くて。」
息子は、
「出来ないよ~。前、バーチャルリアリティーでゲームをしたら、メッチャ怖くて、即やめた。」と言った。








2019年4月22日月曜日

「大江を読む」って何?





『飼育』  大江健三郎著





先日、新聞を読んでいたら、いとうせいこうが、『大江を読む』というコラムを書いていました。「大江って何?」と思ったら、大江健三郎の事でした。彼も「大江」と言われるようになったのかと……、複雑な心境。過去の人になってしまったのか、あるいは、「大江」と言われるほどの権威者になってしまったのか。



そういう訳で、そのコラムはでは違う作品が取り上げられていましたが、わたしは『飼育』を読み直しました。



大江健三郎氏初期短編集の3作目の短編です。昭和33年に書かれた作品で、大江健三郎氏は、これで芥川賞を受賞しました。










簡単に粗筋を書きますと、第2次世界大戦の頃、田舎に住む少年の村に、米軍機が落ちてきます。3人の乗組員のうち黒人兵ひとりのみがパラショートで脱出し、生き延びます。村人たちは山狩りをし、黒人兵を確保します。村の代表が町役場まで出かけそのことを報告しますが、町の役人たちは責任逃れで、結論はでません。少年の父親は猟師ですが同時に村の実力者です。彼が、その黒人兵を町役場の結論が出るまで「飼う」ことになります。



少年の家の地下倉で彼は飼われることになりました。少年が食事を運んだりと、彼の世話を引き受けることに。町役場の方は、町の役場と駐在だけでは、捕虜をどのようにしたらよいか判断できないので、県庁の結論を待つと。県庁が結論を出すまで、村で黒人兵を預かっておくようにということ。



こうして、少年とあるいは村人と黒人兵の交流が始まります。交流と言っても黒人兵は家畜のようにただ養われるだけでしたが。しかし、ここで興味深いのは、捕虜が黒人であったということ。村人の白人に対する感情と黒人に対する感情は、違ったものであると言う事実です。つまり、彼らは黒人を見下していたので、かえって彼に対しての親しみが生みだされたのでしょう。



県庁の結論が出る日が来ました。黒人兵を県に引き渡すというものです。しかし、県は護送する為の兵は出せないので、村人が捕虜を県庁まで連れてくるようにと。その村人たちの動揺に黒人兵が反応し、彼は少年を人質に地下倉に閉じ籠もります。少年は、今まで親しく付き合っていた彼に捕虜にされたことに、怒り、屈辱、裏切られた苛立たしい哀しみ、恐怖に包まれます。



村人たちは、地下倉に続く揚蓋を砕く作業を進めます。追いつめられた黒人兵は、凶暴さを見せ始め、少年の首に手を掛けます。彼が少年の首を絞め始めた時、少年の父親が揚蓋を鉈で打ち破り、黒人兵の頭めがけて、鉈を振り下ろします。黒人兵は、鉈を避けるために少年の左腕を掴み自分の頭の上に。父親の鉈は振り下ろされ、黒人の頭を砕きました。少年の左腕とともに。











というところで、わたしの感想は(内容とは関係ありませんが)、「戦争」です。以前UPした、ブレヒトの『アンティゴネ』も第2次世界大戦を過ごしたブレヒトが、その思いをギリシャ悲劇『アンティゴネ』で表現していました。大江健三郎も戦争を過ごしてきました。つまり、あの頃の作家(あるいは芸術家)は、戦争というものを無視できなかったのです。戦争を抜きにして何かを表現することは出来なかった…。



芸術は「今」何を表現するのか。人間性を失いつつある「人の精神」の葛藤か。小説はリアリズムを失ってしまったと言われています。リアリズム小説でまだ感動を与えられるのは、ラテンアメリカ文学の「マジックリアリズム」のみと。しかしそれは、南アメリカにはまだ、表現するに足りるリアリズム社会が残っているからだと思います。アマゾンの源流には、自然とともに暮す人々がいる。また、そのほんの隣に文明社会が存在する。その混在一体感が、小説のリアリズムとなり得ます。



また、現代の中国文学も興味深いリアリズム小説となっていると思います。それは、中国の田舎の自然と都会の超近代化の混在かも。『愉楽』は面白かったです。西欧諸国の倦み疲れた病んだ社会の小説より、これからまだまだ、アフリカ諸国とかアジアの小説などが活躍しそうな…、と思った次第です。



2019年4月21日日曜日

大変です!!!









先日テレビを見ていましたら、細胞の培養によって肉ができる技術が完成したと言っていました。食べる肉です。世界の人口の爆発的増大で、今は75億人でしょうか、将来的に食料が不足します。その時のために、いろいろな人が代替食品を考えている訳です。



ユーグレナなどもそうですが、その番組では、大豆による模造肉と「本当に肉を造る」という2種類を紹介しました。大豆の方は、進化はしたものの、今まで通りの「肉に真似た」食品です。食品会社の研究です。



しかし、「本物の肉」の方は、アメリカとも研究協力をしているベンチャー企業。今までは、肉を100g造るのに、2000万円くらい掛かっていたそうですが、今回は、肉の細胞を培養する培養液を開発。培養液もその動物の内臓などを作りそこから作成される「本物の液」を使用します。



彼等は、実際ハンバーグを作り、食べる映像をオンエアーしていました。3~4年でコストを下げて、5~6年で市販できるようにするそうです。最初は、高くても買える人をターゲットに「フォアグラ」から始めると言っていました。








何か間違っていません???



第一に、本物の肉はいかがなものでしょうか。肉の食べ過ぎで肥満が蔓延している現在、肉を造ってどうするの。少々、味は劣っても、大豆の肉の方が健康的ではないですか。第二に、世界の飢えた人を救うために「フォアグラ」とは如何に。



最後に、内臓や肉まで創り出したら、『人造人間キカイダー』は、もう眼の前ですね。という事です。