2018年1月5日金曜日

本を読み返すと、新たな発見もありますね。



『死者の奢り』  大江健三郎著





大江健三郎の初期の短編です。あとがきに「これは大江健三郎の文壇的処女作である。」とあります。彼が東大の学生だったときの著作です。わたしも大学生の時に(私の方が、ず~~~と、年下ですよ。念のため申し添えます。)、この作品を読みました。彼が大学生の時にすでにこんな作品を書いていたのだという事で、当時わたしは「嫉妬心」を感じていたのです。「身の程知らず」でした。



今回、わたしが持っている彼の本を年代順に始めから読み直してみようかと思い立ちました。それが『死者の奢り』です。「文学界」昭和32年8月号に掲載されました。わたしがこの文庫本を購入したのは、昭和47年です。大学生、青春真っ盛りの時でしたね。



当時この作品を読んだときは、「なんだかわからないが面白そう。」といった程度の感想だったと思います。何か「おとな」になった気分で、難しそうな本を読み漁っていたのでした。









内容は、文学部の学生だった主人公が、学生課でアルバイトを探します。それが医学部の解剖用死体の運搬でした。新しいプールが建設されたので、死体を今までのプールから移すという仕事。その仕事には、もう一人雇われたようでした。それが、女学生。二人、死体置き場で待っていると、死体の管理人がやってきます。



管理人の支持を受けながら、死体を運び始めます。「仕事は一日限りなので重労働だ。」とか、「古い死体はプールの底に沈んでいる。戦争時の兵隊さんもいるよ。」とか、「新しい死体はプールの表面に浮いているが、学生はそちらの方が好きなので、すぐ持って行ってしまうんだ。」とかの会話が交わされています。



彼らは、死体を一体ずつプールから引き上げ、運搬台車に載せて新しいプールに運ぶのです。新しいプールは、真新しい透明のアルコホル溶液で満たされていました。古いプールのアルコホル溶液は茶色に混濁していました。死体を運ぶ時、アルコホル液が死体から滴り、床はベチャベチャでした。そこで、女子学生が転んでしまいます。女子学生は気分が悪いからと医務室に行ってしまいます。彼女は、実は妊娠していたのでした。その中絶費用を稼ぐためにバイト代の高いこの仕事を選んだんだと、主人公に言います。



そこに医学部の教授が現われ、「何をしているんだ。」と。彼らの仕事は古い死体を処理することなんだと怒鳴ります。新しいプールには新しい死体を保存するのだと。彼は、さらに物凄い勢いで怒鳴り続けます。「新しいプールのアルコホル液が茶色になったじゃないか。」と。



今までの仕事、死体に新しい番号札を付け、新しいプールに運んだことは、全て無駄になりました。死体は火葬にするので火葬場に運ぶこと、新しいプールの溶液を入れ替えること、それを今日中にしろ、というオーダーです。「仕事の段取りを間違えたことでバイト代が支払われないかもしれない。その交渉をするのも自分でしなければいけないのだ。」と彼は憂鬱になります。死体管理人も「仕事の手順を説明したのは、俺ではなく事務のものだったことをよく覚えていてくれ。」と責任逃れの及び腰です。



教授が仕事の手順を説明する態度に彼は憤りを感じます。彼に、死体を扱う「我々」を見下す態度が感じられたからです。しかし、そう言えば、「僕も死体管理人を知らず知らずのうちに見下していた。」と学生も思いました。そして、火葬場に死体を運ぶために病院が派遣した雑役夫たちもまた、彼を見下してぞんざいな口をきくのでした。



仕事の手違いのこと、そのことを事務所と掛け合わなければならないこと、そして今日は夜中まで働かなければならないだろうと言うこと、また、死体を扱うことで皆から軽蔑的な態度で扱われること、これらの理不尽さに彼の怒りが喉元から飛び出しそうになるのを抑えるのですが、それは塊となって喉元を塞ぐのでした。





さて、わたしは何を思ったのか。一番には、不思議な感覚でした。学生時代に読んだ時は、わたしは大江健三郎についてほとんど何も知らなかったと言えるでしょう。その時は、大江健三郎自身も自分がこれからどのように生きていくのかと言うことは知らなかったでしょう。それが、今、わたしは彼がどのように生きてきたかを知っているのです。もちろん報道された表面的な事のみですが。つまり、自分自身の未来を知らなかった大江健三郎が、この作品を書いたと言うことです。そして読む私は、彼の人生を知ってこの作品を読んでいると言うこと。この不思議…です。



今となってみれば、大江健三郎の生き様がこの作品の中に現れている。…と、感じます。










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2018年1月3日水曜日

お正月


お正月三が日、どこに行くところも無し。明日は、久しぶりにジムに行きますよ。

という訳で、家で囲碁の「研究」をしながら、テレビを見ながらと言う…、生活です。今も、テレビはついています。朝から連続でドラマを流しているチャンネルがありました。再放送ですが。それを見るとはなしに見ていると、普段「?」と思っていることが、そうかもしれないなあ…、と思えてきたのです。ドラマは松潤の主演で、まあ、若い人が見るのかなあとも。

そこで、気になっていた「?」とは、この頃の若い人の「話し方」。なんか変だなあと。どこが変なんだろうかと。家の息子も含むデス。囲碁の若先生もそうです。これは、イントネーションではないのか。








以前、アメリカ翻訳ドラマについて書きました。この中で、日本語に訳されたアフレコは何か変だ。だからこのマネをしたコントが成り立つんだ、と。これは、アメリカ側が「このようにしゃべれ。」と注文を付けているのだとか。

この影響が、若い人に表れ始めているのではないでしょうか。つまり、英語のように日本語を話すこと。各国には、それぞれの言語のイントネーションがあります。海外の英語学校に行くと、英語を話していても「?」と、思ってしまう事があります。訛りです。イタリア訛りの英語、ドイツ訛りの英語等々。わたしの考えは、「その訛りを英語を話すために去勢することはない。」です。意思の疎通が出来る範囲という事で。

そんな日本語のイントネーションが、英語のイントネーションに変わりつつあるのではないか…、なんて。もちろん、日本語共通語は、訛りを消したものですから、その共通語のイントネーションが変わりつつあるのでは。地方の言葉は違いますよ。大阪弁は健在であるし、我が名古屋弁も健在です。言葉は「共通語」を使うようにになってもイントネーションは変わらず「訛って」いますからね。

どうでしょうか。考えすぎでしょうか。











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2018年1月2日火曜日

元旦


恒例の元旦の過ごし方は、「朝から宴会」と言うものですが、今回はちょっとした事情で、宴会はありませんでした。一人で朝から飲む気にはならないので、いつもの通りの朝食となりました。トーストとハムサラダとコーヒー、ヨーグルト。

通例、宴会は午後の2時くらいまで続き、その後昼寝して、また、夜の宴会と言うスケジュールですが、今回は、昼間、バッチリの素面です。なんと時間がたくさんあるのかと感心するばかり。
 
ジムもお正月なのでお休みです。ちょっとお散歩でもしてみようかと考えました。しかし、散歩の習慣はなく、何の目的もなく歩くことはどうしても考えられません。まあ、「運動する」という意味はあるのですが。

そうだ、近くの神社に行って、それからATMで通帳記帳をしてコンビニに切手を買いに行こう…と、計画を立てました。






近くの神社は、結構有名な神社ですが、普段はそんなに人影はありません。去年は、たぶん、三日に郵便局に行くついでに神社を覗いてみました。その時は、参拝者が溢れるばかりでした。「お正月かあ~。」と思ったのを覚えています。

神社は、ただ覗いてみるだけで、お参りをしようと言う気はありません。ふだん全然関心がないのに、お正月だけ神だのみをするとなんだかバチが当たりそうで。ですから、今回も参拝するための長蛇の列が出来ていましたが、ちょっと見学して通り過ぎました。


駅のATMまで行って、帰りは、違う道を選んでコンビニへ。その筋を選ぶと公園を通って帰るという事になります。これで、5000歩くらいは歩くことになります。その公園は、これもちょっとした公園で、テニスコートとか、サッカー場などを備えています。

でもお正月だからなあ~、誰もいないんだろうなあ~、と思ったら、結構、人はいました。子供連れで遊具で遊んでいたり、犬の散歩をしている人とか、です。元旦ですよ。わたしとしては、元旦から外にいるというのは稀有なことなので、不思議でした。

世の中は、…健全だなあ…、と、感じた一日でした。
 






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2018年1月1日月曜日

新年好!

明けましておめでとうございます。平成30年の幕開けです。

去年は、ブログの更新を少々サボってしまいました。今年は頑張ります…、と言いたいところですが、今年も無理そうです。と言うのは、今は囲碁に夢中だから。時間があると、ついつい、囲碁の方に向かって行ってしまうのです。

囲碁を始めて、丸五年。始めた時の目標は、五年で初段になること。それが、まだ、今一歩…、というところなのです。しかしながら、ほんとは(嘘は?)、もうすでに初段のテストを3回合格しているし、3段の認定書も持っています。免状ではありません。免状を手に入れるのには、まあ、5万円ほど要ります。

わたしが、唯一「先生」と思っている人が、まだ「初段はあげられない。」と言うのです。「○○さん(私)が、初段になるまで生きとらなあかんで、長生きできるわ。」と言うのです。わたしは、「先生、すぐ死んでもいいよ。あと2~3か月で初段になるから。」と応じます。









もう一人、先生の弟子の「若先生」がいます。院生でしたが、20歳までにプロになれなかったので、卒業されました。その先生(現在22歳)が、「6子置き碁」で勝ったら初段の免状を個人的にあげましょうと、言います。去年の「新年会(酒の席)」の時にそんな話になりました。一回だけ勝ちました。しかし、スキをみて勝っただけなので、本当に「勝利した」とは言えないところです。

その話を老先生にしたところ、「6子では勝てんわ。」と。「星目(9子)置いても勝てんわ。6子で勝ったら4段とか5段だ。」と。「ちょっと、内緒でメールしてみよか。」と言って、先生が若先生にメールしました。「君に9子で勝ったらどのくらいだね。」と。返事は、「難しい質問ですね。まあ、初段以上でしょう。」と。

なんだかね。

でも、わたしは挑戦し続けますよ。若先生に勝ったとき、棋力が初段でなく3段になっていることも…ですから。それから、囲碁を始めた時の目標は、「5年で初段」と申しました。これは誰にも言っておりませんが、実はその先があるのです。「そして、10年で5段」と言うこと。

ですから、5年で初段になれなくてもあと5年のうちに5段になれば、初期の目標も達成されたという事に…、成りますでしょう。先生が「まだ初段ではない。」と言っても、他の場所で初段であるという事で今のところは手を打っておきます。そして、密かに「あと5年で5段」を目指していきましょう、と。

という訳で、今年もブログのUPは、お留守になるかも…です。









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2017年12月31日日曜日

古代オリエント宗教の位置関係がスッキリしますよ。





『古代オリエントの宗教』(青木 健 著)を読んで。





「人類に何故宗教が必要であるのか」が、わたしの探究テーマの一つであります。『HUMAN』と言う本によりますと、「ヒトが集団生活を始めるにあたり宗教が軸となった」という事。つまり、血縁(DNA)集団から「他人」の集団に駒を進める時、何らかの「共通の信じるもの」が必要だったという訳です。



またさらに、国家としての体裁を整える時にも、統治する者の正統性を担保するために「宗教=神」が不可欠でありました。例えば、古代日本が朝鮮半島から外来の勢力に対抗するために強固な「国の概念」が必要でしたが、その時に編み出したのが「神道」です。



現在、「神は死んだ」と言われていますが、世界の勢力図で言いますと、「西欧(特にアメリカか?)プロテスタント」が力を持っているようです。もうすぐにイスラーム教徒が世界の4分の1を占めるようになるとも言われますが、何はともあれやはり主流は、「聖書」の世界観。そんなことから、この本を読んでみることにしました。









さて、



著者、青木氏は「聖書ストーリー」というものを基礎において、各古代オリエント、メソポタミアの地域に興った宗教を解説しています。その「聖書ストーリー」というものが、旧約聖書・新約聖書、+「何か(α)」という具合に、とても解りやすく定義されます。「あとがき」によりますと、早稲田大学の創造理工学部で行った講義がこの本の基のひとつという事。つまり、聴衆の理工系の「頭に」なにか因果関係のプロットが必要と、「聖書ストーリー」を軸にすることを思い立ったという事です。そのおかげか、内容はとてもスッキリしていて、わたしの頭でも理解可能でした。



例えば、



2世紀:ローマで成立したマルキオーン主義は旧約聖書を切り捨てた「新約聖書」の結集。

2~3世紀:地中海世界「原始キリスト教教会」は、「旧約聖書」+「新約聖書」の図式で確定。

3世紀:マーニー教は「新約聖書」+「マーニー教七聖典」

7~10世紀:ムハンマド・イスラームは「旧約聖書」+「新約聖書」+「クルアーン」

8~10世紀:シーア派イスラームは「旧約聖書」+「新約聖書」+「クルアーン」+「歴代シーア派イマームの言行録」



最終的に、サーサーン朝ペルシャ帝国の国教であったゾロアスター教が、創始者ザラスシュトラを「聖書ストーリー」の中の「預言者」であったという説を受け入れ、「聖書ストーリー」の東方全域の支配の完成となりました。



「聖書ストーリー」をユダヤ教の苦難の歴史までとするか、イエスが神の子であるとして完結するか、ムハンマドをエンドとするかは、各人の考え次第ですが、もうこれ以降の時期のエンディングは生まれ得ないであろうと言うのが著者の結論です。13世紀で「聖書ストーリー」は完結を見たという事になります。



神話が宗教になるには、神話と現実を結ぶ象徴が必要であります。イエスとかムハンマドとかザラスシュトラなど現実の(?)人物が。また、キリスト教というと往往にして西洋をイメージしてしまいますが、「聖書ストーリー」はメソポタミアで生まれたのであり、その点を抜きにして聖書を理解できないという事が重要かと。そしてその思想は、政治的権力者の支配する地域の位置関係にも影響されています。



概説なので一般的教養に終わっているとも言えますが、とにかく門外漢であるわたしにとっては、「聖書」を基にしたいろいろな宗教の位置関係がスッキリわかりました。











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2017年12月30日土曜日

『ニッポン社会入門』 ---あなたも、きっと、笑ってしまいますよ。



サブタイトルは「英国人記者の抱腹レポート」。著者コリン・ジョイスさんは92年に来日し、英語教師、『ニューズウィーク日本版』の勤務を経て、英高級紙『デイリー・テレグラフ』の記者になる、…と書かれていました。今は、フリージャーナリストで、どうもニューヨークに住んでいるらしいです。ニッポン社会ならぬ、ニューヨーク社会についての本も出したようです。



日本に二十年弱住んで、すっかり日本(東京)に溶け込んだイギリス人の日本観・日本人観です。「まだまだ、わかっちゃいないな!」と思う所も少しありますが、興味満載です。先ず、この本のキャッチコピーにもなっている「日本社会について手っ取り早く学びたければプールに行くことだ!」というのが、第一章です。わたしもこのコピーに釣られたくちですね。常々、日本人ってどうしてこうルールを守るんだろうねと思っていたからです(もちろん、私も含めて)。ルールって言われれば、なんの疑問もなく守っちゃうよね・・・、と。



彼によると、「プールに日本社会を見た」ということで、日本で百人うまく利用できるプールがあれば、イギリスでは同じ大きさのプールで六十人入れば泳げなくなるだろう。八十人を超えれば、暴動が起るだろうという事。



わたしたち日本人は、プールでほんとにいろいろなルールを守っていますね。休憩時間だとか、走ってはいけないとか、履物を履いてプールに近づいてはいけないとか、Tシャツを着てプールに入ってはいけないとか。タイのホテルのプールで泳いだ時、ほんとはTシャツで泳ぎたかったけど、「日本なら、ピッピッと笛吹かれものだな。監視員はいないわけだから、いいかも。」と思いつつ、結局ルールは守りました。そしたら、西洋人らしき女性が、プールでサンダルを洗ったので・・・、「そうだよね。そうなんだよね~~~。」と思ってしまいました。もちろん、わたしはいたしませんけどね。



こんな風に、日本での「当然」が、「特殊」だということが、興味深く指摘されています。










『日本人になりそうだ』という章では、英語で頼みごとをする時でさえ、ついつい「お忙しところをすいませんが、・・・I know you are busy, but…」と言ってしまうと。また、店員から、「申し訳ありませんが」に相当するフレーズなしにいきなり「売り切れです」と言われると、ムッとしてしまうとも言っています。イギリス人の英会話の先生が、「日本ではお客さんが王様だから、本国に帰って店員がいいかげんだと、頭にくる。」と言っていたのを思い出しました。



もうひとつ、日本人は人の面前を「すいません」といったジェスチャーなしに通り過ぎることができないことも指摘されています。わたしも、ここは日本ではないのだからと思っても、ついつい、「どおもどおも・・・」といったようなしぐさをして、お辞儀をして人の前を通ってしまいます。海外の学校の狭い廊下などで立ち話をしている人の前を通る時、こんなことをして「ヘンな奴だ」と思われているんだろうな~~~と、思いつつも、してしまうんですよ。でも、決してマイナスポイントではないですよね。誰にも迷惑をかけていないし、礼儀を押し通しているだけなのだから。



こんなことも書いてありました。日本に住んでいる同じ英国人の友達は、玄関で靴を脱いでいるという事。彼の親や姉も、日本に来た事はないのに玄関で靴を脱ぐほうが良いと思っているそうです。日本人の清潔好きも「世界的に認知されれば幸い」と思います。



日本に対する良いところばかりでなく辛口の所もありますが、ケラケラと笑いながら、あっという間に読んでしまいました。笑いたい人、微笑みたい人・・・に推薦いたします。








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2017年12月21日木曜日

わたしの体の中で起こっている神秘


『ミトコンドリアが進化を決めた』(POWER,SEX,SUICIDE Mitochondria and the Meaning of Life:ニック・レーン著)を読んで。





とても興味深かったです。「宇宙や深海の神秘」なんて言うけど、わたしたち人間の体のなかにこそ神秘があったんだって言う感じ。大袈裟でなく、世界観が変わる程の読後感です。解説にも(田中正嗣)このように書かれています。



「最新の素粒子論や宇宙論を読むと星空を見上げる時の心が変化する。ある理念を有しているかどうかによって、自分自身・家族・人類・生命・宇宙・過去・未来に対する見方が左右される。レーンの緻密で堅固な説に接すると、自分の生命に対するまなざしが変わることに気づくだろう。」





先ず初めに、今まで読んだ本(『生命40億年全史』、『銃・病原菌・鉄』)で書かれていた「生命の始まりは原始スープとライトニング」という説が、最近の研究では間違いであったとされています。「化学浸透」が生命の生まれる起源です(何故かは本を読んでネ)。そこから細胞ができて、細菌が生まれ、真核生物が発生する。その「細菌」と「真核生物」の違いは、真核生物がすべてその核内にミトコンドリアを持っている(あるいは持っていた)という事実。



生命がここかまで多様に進化してきたことは、ただひとえに「細胞がミトコンドリアを持っている」ということにつきます。細菌はミトコンドリアを持っていません。細菌は20億年以上、細菌のままでいる。なぜ、細菌から進化したものがいないのか…その答えがミトコンドリアです。



「原始スープとライトニング」が生命の源であるという説では、そのラッキーなライトニングはただ一回しか起らなかったとしています。それは、地球上の生物の型が一種類であるという事実からです。ミトコンドリアの場合もそうです。真核細胞は古細菌が細菌(ミトコンドリア)を飲み込んで(あるいは細菌が宿主を見つけたか)、合体してしまったんですが、この合体も一回しか起らなかった。この合体はたった一回のミラクルだったのです。この一回の「古細菌+細菌」の発現から、地球上のすべての生物が生まれました。












ミトコンドリアは生物の細胞に寄生しているのではなく共生しているとのこと。また、宿主がミトコンドリアを吸収してしまったということでもありません。なぜなら、ミトコンドリアは僅かながらそのDNAを残しているから。しかしながら、ミトコンドリアは宿主から離れるともう生きてはいけません。そして、そのミトコンドリアのDNAは真核細胞の「核」に移されることなく、ミトコンドリア自身が保持しています。この「共生」が生物の進化の謎を解いてくれるのです。



生物は細胞の数を増やすことによって、大きくなれる、そして複雑になれる。大きくなれば、他の生物を捕食する事でより大きなエネルギーを確保できる。そしてまた大きく複雑になれる。この細胞間の連絡をミトコンドリアDNAがうまく取り仕切っているようです。例えば、どの細胞にエネルギーが必要とか、この細胞はもう役立たずだから殺して吸収してしまおうとかいう事。わたしが理解した範囲ですが・・・。



生物の「温血化」、「有性生殖」、ひいては「老化」、「死」をもミトコンドリアが担っています。その中で、「有性生殖」に興味深いことが言及されていました。「両性間の根源をなす生物学的差異は何か」と言う問題です。女性のおよそ6万人にひとりはY染色体を持ち、男子新生児500人に一人は、XXYの組み合わせの染色体を持つとのこと。進化の観点からは、「性は偶発的に生まれたもので、万華鏡のように変わる」のだと述べられています。つまり、男性と女性の区別は、「Y染色体」によるのではありません。











細胞一つ一つは、我々の意志に関係なく、日々生き延びるために努力しています。一つ一つが呼吸し、エネルギーを作り出し、お互いに協力し合い体全体を維持しています。この関係性を統括しているのが、ミトコンドリアDNAと言うことになります。そして、「腸が頭脳より大事だ」ということを、この本によって学びました。体が維持できての頭脳なのです。頭脳を人間の最優先事項とすることは、ヒトの驕りであります。



もちろん細胞には意志はないわけで、自然のままに活動しているわけだけど、そこがまた素晴らしい。「我々の内に自然はある」とスピノザは言ったけど、いやあ~、感動するね、自分の体の中で起こっていることに。





この本を読み終えての雑感です。本の全体像を描くことはわたしには無理なので、どうか現物にあたってみてください。












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