2018年7月15日日曜日

世界史からの―――日本の歴史に興味津々。



『アマテラスの誕生』を読んで





マクニ―ルの『世界史(A World History)』に取り憑かれています。マクニ―ルは文明を四つに分け、それ以外の文明はその文明の亜流であると書いています。その四つの文明とは、チグリス・ユーフラテス文明、ナイル文明、黄河文明と、インダス文明―――ではなく、ギリシャ文明。ギリシャ文明とは、少々変だと思いました。しかし、誤解していました。彼は、メソポタミア文明に影響を受けて興ったギリシャ文明、インダス文明、メソポタミア・エジプト文明と黄河文明―――と区分していたのです。



19世紀の終わり、あるいは20世紀の初め、『世界最古の物語』が発掘されました。4~5千年前に楔形文字で書かれた物語です。その内容はまだまだ研究つくされていませんが、近東地域に位置するバビロニア、ハッティ、カナアンの文明です。これが、彼の言う最初の文明でしょう。聖書もインド叙事詩もホメロスもこの影響下にあります。そして、そこからのギリシャ文明・メソポタミア文明・インダス文明・黄河文明ということです。



彼は、文明にはひとつの理論に基づいた官僚国家が必要だとしています。「ひとつの理論」とは、現在意味する「理論的」なものという事ではありません。人心をひとつにする「物語」です。つまりこの「物語」を他の文明は創り出すことが出来なかった。だからこの四大文明のどこかから拝借したのだと、彼は言います(四大文明以外の文明は亜流だという意味)。実際には「物語」とは、宗教です。西欧キリスト教、インドのヒンズー教、イスラム教と仏教。例えばモンゴルはどうでしょう。彼等のジンギス汗はユーラシア大陸を征服しましたが、人を説得する「ひとつの理念」は持っていませんでした。イスラム教に接触するとすぐイスラム教に転向してしまったのです。





マクニ―ルは『世界史』を書いています。その『世界史』がやや西欧中心的なのは致し方ありませんが、新しい世界史観を創出していることは確かだと思います。そこでは日本のことも触れられていますが、やはり日本人の書いた日本の歴史ほどではありません。そこで、実際、日本の歴史はどうなんだろうかと思った訳です。彼は、日本の歴史を中国文明に影響を受けたいわゆる「亜流」文明とみなしています。そこまで単純なのだろうかと思いました。故に『アマテラスの誕生』(溝口睦子著)に辿り着いたということです。



溝口氏は、「アマテラスを日本に統一国家をもたらすための皇祖神」としています。つまり、ひとつの文明に不可欠な「物語」。前置きが大変長くなってしまいましたが、やっと、お題の『アマテラス』に行き着きました。













『アマテラスの誕生』で溝口睦子氏は「なぜアマテラスが日本の皇祖神になったのか」という謎ときに挑んでいます。あくまでも溝口睦子氏の説です。わたしには、それが正しいとか間違っているとかの判断はできません。しかし、スッキリと納得はいたしました。



日本は近代化するまでに、対外的に三つの敗北があると溝口氏は言っています。ひとつは、5世紀初め高句麗と戦っての敗北。ふたつ目は、663年白村江の戦いで、唐と新羅の連合軍に負けた事。そして幕末期の黒船来航。幕末期に西欧諸国に対抗する為、「西欧から」学んだということは、日本のひとつの特徴です。中国、その他の国などは、その巨大な国力に安住して、気がついたら植民地化されていたということが見受けられますから。それと同様に、高句麗や唐・新羅に敗れた時も、日本はそこから新しい知識を学んだのです。



4~5世紀の東アジアは、ユーラシア大陸と朝鮮半島南部、日本列島を結ぶ文化の流通圏がありました。そして、5世紀初めに高句麗に敗北を喫すると、倭の独自性の強い文化から、朝鮮半島の影響の強い文化へと変化しました。古墳から掘りだされる遺物は、大陸文化そのものだと溝口氏は述べています。その頃大陸で流行っていた思想が、「天孫降臨神話」だったそうです。



敗北により、権力の集中と統一国家の立ち遅れを意識した倭王は、統一王権にふさわしい、唯一絶対性・至高性が必要と、天から神が降りられて王家の始祖となったという物語をここで取り入れました。その時の皇祖は「タカミムスヒ」であって、アマテラスではありません。溝口氏によりますと、ヤマト王権(5c~7c)はタカミムスヒが皇祖、律令制国家成立以降は(8c~)はアマテラスが皇祖ということになります。「この時になぜ皇祖の転換が成されたのか」が、『アマテラスの誕生』の主旨です。



663年に白村江で日本が敗北した時、時の権力は「もう大慌て」といった状況でした。唐と新羅の連合軍に敗れたので、唐が侵攻してくるのではないかという恐れから都を内陸部に移すということもしました。その頃はまだ数多の豪族の頭としての天皇でしたが、天武天皇は統一国家への改革を始めるのです。天武天皇(在位672~686)は、豪族の「部曲(土地・人民)廃止」を675年にします。これで、「私地・私民」が「公地・公民」となります。豪族は国から支給される扶持によって生活することになりました。中央集権の成立です。



もうひとつ重要な事が、思想面の改革です。天武天皇は歴史書の編纂を命令します。681年に開始されました。そして、720年『日本書紀』の完成です。天武天皇は大陸からのグループの神と見られがちなタカミムスヒをそのまま国家神とすると、大陸との繋がりが深い特定の豪族の官僚国家なのだと受けとられる事を恐れました。そこで、それ以前の土着の神である「アマテラス」を皇祖神として定め、人心の一新をはかり、新しい国家作りに挙国一致で向かう態度を示そうとしたのです。しかし、『日本書紀』ではまだ完全な転換を果たせず、『古事記』によってその意図は貫徹されます。『古事記』によって神話が一元化され、タカミムスヒは忘れられていきました。



しかしながらアマテラスが名実ともに皇祖神となったのは明治に入ってからの事で、明治2年明治天皇が伊勢神宮を参拝したのが、はじめての「天皇が伊勢神宮を参拝」ということになります(祖先を参拝するという事)。つまり、江戸時代まではいくら「皇祖神」「絶対神」「至高神」などと言われても、庶民は八百万の神を信じていたのですね。



そもそも国を統一する時は、なにか絶対的なものが必要だったという事が、納得できました。『日本書紀』や『古事記』は、キリスト教で言う「聖書」のようなものだったんだと、この『アマテラスの誕生』を読んで、思い至った次第です。












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2018年7月2日月曜日

今日は『ルンバ』の日です。



まだまだ囲碁三昧の日が続き、ブログのUPをサボっております。そこで少々近況報告。



iROBOT社のルンバを買ったことはお話しました。その「起動」の日が月曜日と木曜日です。今日は月曜日なので掃除を始めました。(と言って、ルンバが掃除するのだが)。やはり見入ってしまいますね。「チャラッラ、ラー、ピッピッピ…」と言って動き始めます。そんなに見ているほど暇ではないので、そっとドアを閉めてルンバに掃除を任せます。



単なる丸い形の掃除機なのに、一人で動き回るのを見ていると、何か感じてしまいます。今まででも一人で勝手に動き回る機械はありましたが、それはおもちゃの類で、ロボットとか電車とか自動車とか。人の役に立つものではありませんでした(それでも癒されるが)。それが掃除をしてくれるとなると、仲間という意識が何となく生まれるのでしょうか。先に『HUMAN』の感想文で書きました「ヒトは共感によって心が生まれた」という事でしょうか。



こんな形のものにも共感してしまうとなると、ヒト型ロボットが家庭に来たらどう言う事になってしまうのでしょう。現在、AIと繋がっている家電やロボット犬、話しかけると応答してくれる器機などが家庭に入っています。話しかけると「用事を済ませてくれる」機器のコマーシャルを見ていると、小さい時からこんな生活に慣れてしまうと「ヒトとは」どう。いうものになってしまうのだろうと思います。



もちろん昔から機器は進歩しており、それによって人は別段変わらず「人として」生きているということはわかります。が、これからの進歩は今までの進歩と「質が違う」という事を言っておられる「学者」の方々もいます。今までの進歩は人の外側で起こっていたのだと。自動車が発明された。人は歩かなくてもよくなった。等々は、「人の存在」そのものには関係がない事。しかし、これからの進歩は、人間の内側に関係する進歩であると。









今のロボットは機械です。そういう見かけです。しかし、人そのものの見かけのロボットが出現したら…。アンドロイド。SFの世界そのものになってしまいますね。最後には『マトリックス』の世界が待っているのか?と。



5月31日の新聞に「筋肉の伸縮で動くロボット」という見出しの記事がありました。「ラットの筋肉を使い、指のように動くロボットを、東京大学生産技術研究所の竹内昌治教授らが開発した。」というもの。また、昨日の新聞では「遺伝子解読、編集の次は人工細胞」という記事が目に留まりました。



50年前、「これはなかった、あれはなかった…」、等々と、仲間内で話題になります。ほんの50年前です。これが今後50年後の事を考えると、想像もできないような新たな世界が待っているような…。地球はAIに任せて、人類は、火星でパイオニア生活でもしますか。









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2018年6月17日日曜日

我々の住む「このような世界」は、どのように作られていったのでしょうか。





思うに、私たちは『心を人にだけ与えられたギフト』と考えがちです。しかし、ヒトは『人として』<神>に作られたものではなく、他の総ての生き物と同じく40億年をかけて進化し続けた結果であります。同様に心も始めから『心』として人類に備わっていたのではなく、進化によって手に入れたものであると思います。



HUMAN――なぜヒトは人間になれたか』という本に出会いました。NHKが番組として取材したものの記録です。ホモサピエンスはアフリカで約20万年前にサルから枝分かれしました。その時点ですでに身体的にはほぼ現代人と変わらぬ姿であったと言われています。それではなぜそれから今までの間、人類は身体的に進化しなかったのか。その答えを「それは人類が『心』を発達していた為」と考えて、この取材班は調査を始めました。



本は「協力する人」、「投げる人」、「耕す人」そして「交換する人」という章建です。取材班はそれぞれの項目で、世界中のその種の研究をしている学者にインタビューを試み、人類がどのように徐々に『心』を手に入れ、その他の地球上の生物を押しのけて、最強の生物として繁栄していったかの道程を検証します。



人類の進化の過程、あるいはなぜ他の生物には見られない発達過程を経たかという調査や学説は多々あります。この調査はそれを『心』と結びつけました。そこに新しさが感じられます。



『心』を論じると、おいおい哲学的方向に傾いていきがちです。しかし、この本は科学的スタンスを保ち続け、かつ、とても分かりやすく書かれています。と言って単純にはならず、各章で「なるほど!」と言った感想を持ち得ます。












第一章「協力する人」では、狩猟採集時代にヒトがお互いの獲物を分けあって、共に協力しながら家族・部族全体としての発展を成し遂げていくと述べられています。それを「共感」と位置付け他の種との差別化します。



チンパンジー同士は助けるが助け合わない。人間は助けられるから助け合う。相手の幸せを第一義的目的とし、率先して親切にしてやろうという意思があるのです。そして、そうすると結果的に自分にも利益が返ってくると気付く。「情けは人の為ならず」ですね。



隣同士の檻に入っているチンパンジーは、隣のチンパンジーが餌を手に入れるのに自分の檻にある道具が必要と気付くことが出来ます。そしてその道具を隣のチンパンジーに与えることが出来ます。しかし、隣の檻のチンパンジーはその道具を使って餌を手に入れた後、道具を与えてくれたチンパンジーと餌を分け合う事はしません。また、道具を渡したチンパンジーも分け前を要求しません。



一方、対立が「殺し合い」にまで発展していくのは、ヒトだけの特徴であると書かれています。一見矛盾するようなこの行為が、実はお互い裏腹の関係にあるという説明は、とても納得のいくものです。



「共感」があるが故に、「他者」が自分の仲間に不正な行為をすることを許せません。不公正な人が社会で勢力を得れば、「協力という美徳」が崩壊します。故に社会を保護するために、そのような人たちには罰が下されます。



第二章「投げる人」では、ホモサピエンスが「投げるという行為」を発見したことによる進化が語られています。



飛び道具の発見です。6万年前、ホモサピエンスはアフリカを旅たちました。紅海を渡りアラビア半島に辿り着きました。しかしこの「出アフリカ」は、第二回目でした。一回目は12万年前です。この時は、宿敵ネアンデルタール人に行く手を阻まれて敗退しました。この亜種人類ネアンデルタール人が、なぜホモサピエンスに駆逐されたのかには、いろいろな説があります。この本では、人類が「投げる人」になったからだと言っています。そしてこの投擲具が「心」を変えたのだと。



第三章「耕す人」では、農耕による富の蓄積が人の心にどのような影響を与えたかが述べられています。初めて「人間」がこの世界で上位に位置付けられました。そして、人間社会も平等社会から階級社会に変わっていきます。



最後に、第4章「交換する人」で述べられるのは、繁栄が人類の心をどう変えたのかです。「交換」とは非常に高度な信用に裏打ちされている…、とのこと。この章を一言では表現できませんが、ギリシャ、アテナイでの世界通貨と言うべきコインの発現が、『アンティゴネ』などのギリシャ悲劇を産み出したという指摘はとても興味深く感じました。





全体として、とても分かりやすく、読みやすく、興味どころ満載……、といった感想を持ちました。












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2018年6月11日月曜日

IoTの時代に向けて




今年の初め頃からどうも花粉症になったような気配がする。くしゃみと鼻水が止まらない。しかし、最近掃除をサボっていることもあるので、ダスト・アレルギーかもしれないとも思った。医者に掛からないので真相はわからない。



それで、ちょっとぜいたくかとは思ったが、iROBOT買った。もう、少しくらいの贅沢をしても良い歳だろう。使ってみると、なんて素晴らしいのだろうか。iROBOTの動きに見入ってしまう。



一回目の始動時は、部屋を右往左往しているのを見て、大丈夫かと心配した。二階の部屋で使っているが、そこは二部屋続きで、間に引き戸の溝と段差がある。そこで、その動きの回転が狂ったりして、二つの部屋を行ったり来たりと迷走していたのだ。使っている内に部屋の構造を掌握したのか、迷わず掃除し始めた。一回だけブラインドの紐に絡まって死んだようになっていたが、わたしが紐の処理をしてからは、上手く掃除している。








通常、週二回掃除している。iROBOTが部屋を掃除しやすいようにと邪魔なもの――椅子やクズ籠や床に置いてある体重計等――を廊下に出す。そして、ドアを閉めると言いう工程となる。ドアを開けておいて廊下も掃除してもらうというオプションもあるが、今のところは保留している。廊下からの階段から落ちないかと心配だから。もちろん落ちないだろうけど。



そして、わたしは一階に降りて、自分の朝の仕事を始める。しかし、iROBOTOのスィッチを入れてすぐにドアを閉めればいいものを、やはり少しの間iROBOTの動きを見つめてしまう。それは、少しバックして自分のホーム(充電器)から離れる。そして半回転して向きを変え、障害物にぶつかるまで前進する。と、また半回転して前進する。その毎回の半回転が微妙にずれていて、軌道が少しずつ横にずれていくという仕組みのようだ。初めは障害物にぶつかる時、思い切りぶつかって大きな音を立てていたが、今では学習したのかソフトになった。



わたしが、一階で仕事をしていると、時々二階からゴトゴトとiROBOTが部屋の敷居を往復している音が聞こえるが、その内にわたしはそんなことはすっかり忘れてしまう。しばらくして、何かの用事で二階に上がると、ああそうだと、iROBOTの存在を思い出す。「どうかな?」と、ドアをそっと開けてみる。すると、それはすでに自分のホームに帰り静かに収まりかえっているのだ。



ちょっと感動モノの一瞬だ。何も言う事を聞かない人々のいる人間社会で暮らしていて、何も文句を言わず、仕事を終えたら黙って自分の居場所に戻っているそれを見ると、愛おしさを感じる。こんなわたしみたいな人間は、人を避けて自分のいう事を聞く機械の方へのめり込んで行くのかも知れない。










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2018年6月1日金曜日

6月1日です。

ちょっと、ブログUPをサボっている間に、6月になってしまいましたねえ。

今まで、月に8回のUP目標が、囲碁の趣味が増えてから、月に4回になってしまいました。それが、この頃では、それさえ守れないように……。

今日は、今日の新聞から。

今までも取り上げていた『折々のことば』からです。

クラシック音楽の作曲家、指揮者の「武満徹」さんの言葉です。

人間の発音行為が全身によってなされずに、観念の嘴(くちばし)よってひょいとなされるようになってからは、音楽も詩も、みなつまらぬものに…

声を出そうとする行為は、肉体の挙動のひとつだと、彼は言っています。

わたしが、感じるところ、それが口先だけの発話になって、その語る意味も希薄になった……、というような事かと。」

彼が言うところ、

発話(これは私の言葉ですが)は、ため息や叫びと同じく「意味が言葉の容量を超える時に起こる運動」と。そして、それは時に、「論理性を断ち切り」もする。








わたしが言いたいことは、

日本語って、話し言葉ではなく「書き言葉」だよねー、という事。しゃべるときに、文字で話しているのではという事。

日本の小学校では、日本語の発音方法を教えていない。読む(音読ではない)事を重視。だから、英語とか中国語、その他の言語の習得の時につまずいてしまうのだ。彼等の方も、日本語の発音に注意を払っていない日本人の発音に戸惑ってしまっている。「何故、同じ単語で違う発音なの?」と。


なんでも、受け入れる日本語は、それなりにマスターしやすいとも言えそうですが。











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2018年5月18日金曜日

春、昆虫の季節です。

『昆虫はすごい』を読んで


昆虫に学術的に興味があるわけではありませんが、昆虫の存在自体に興味があります。なんせ、太古の昔からこの地球に存在し、地球上の生物のほとんどは昆虫が占めていると言っても過言ではないようですから。そして今なお、新しい「種」が発見されています。著者によりますと、新種発見というのはすごい事のようですが、それ自体はあまりたいしたことはないとのことです。なぜなら、今知られている昆虫の種の同数あるいはそれ以上の知られていない種が存在するからと。それよりも、それが新種であると科学的に判定することがたいへんなようです。



著者は、丸山宗利氏。1974年生まれの農学博士。アリやシロアリとの共生昆虫の多様性がご専門で、アジアでは第一人者です。彼は、あとがきで「昆虫により親しみを感じていただくために、ところどころ昆虫とわれわれヒトとを対比している。……、昆虫の本能的な行動と、人間の学習的な行動では意味が異なるし、昆虫の種間の関係と、ヒトの個体間、集団間の関係とは全く別物である。……、そのことだけは念を押しておきたい。」と述べていますが、そのことを踏まえつつも、「ヒトで言うとこんなことか」という例えは、とてもおもしろいですよ。とりわけ、学術的な興味を欠くわたしのような者は、そんなところに魅かれてしまうのです。













昆虫の種がものすごく多彩なのは、変態と飛翔に関係があります。昆虫では、「無変態」が一番原始的な状態です。そこから翅を持つものが現われ、さらに変態という武器を手に入れました。昆虫が翅を持ったこと、そしていろいろな場所に移動できたこと、そしていろいろな環境に適応していったこと、このようなことから、昆虫の多様性が生みだされたのです。



環境への適応、これがまた凄い。他の生物との共生です。植物との共生関係はご存じの通り、食べ物(蜜・花粉など)を頂いて植物の繁栄のお手伝いをすること等々。そして、共生相手との関係性において、より良いように進化していくという事になります。



植物の方もただ搾取されているままではありません。彼等もそれによって進化していきます。例えば、虫を殺す毒を生成出来るようになる。虫の方は、植物がその毒を分泌する腺を断ち切る方策を考える。共に切磋琢磨して向上して行くのですね。また、昆虫が寄り付かないように殺し屋(蜂など)を飼っている植物もいるそうです。



「植物を食す」のではなく、肉食の昆虫同士での切磋琢磨では、食料である昆虫の死体が日持ちするように、麻酔薬で生かさず殺さずの状態にしておくとか。また、親が用意したそれを頂く幼虫もその昆虫が死なないような場所から食していくのです。残酷なようですが、これが生の営みなんですね。



あるいは毒ガス攻撃、秘薬で引きつけて捕獲するとか。また、ゾンビ状態にして巣穴まで誘導するとか、「わたしは毒を持っているわよ~」とばかり、肢体を極彩色にしてあらかじめ警告を発し、襲われないようにするものもおりますよ。



擬態もあります。強い腕力のある虫に擬態する、食べると毒のある虫に擬態するなどです。ここで、おもしろい指摘がありました。擬態する昆虫の個体数は、擬態される昆虫の個体数に比べるとほんのわずかだということです。もし、真似している方が多いとすると、「なんのこっちゃ」ということになります。つまり、強い奴だと思ったら、弱かったとか、毒があるかと思ったら美味しかったとか。こういう「なんのこっちゃ体験」をする昆虫が増えると、擬態する意味がなくなるということですね。





この世界のすべての生き物の目的は、自分の遺伝子をより多く残すということです。「利己的な遺伝子」ですね。とりわけ昆虫の一生は、生まれて生殖作業をして、「死ぬ」です。そのためにも、いろいろな技術を昆虫たちは手に入れました。メスがオスを引き付けるフェロモンの感知能力、オスがメスを呼ぶための「声(振動)」など。また、贈り物作戦もあります。と言っても食料ですが。メスのためあるいは生まれてくる幼虫が餌を探さなくてもよいようにと…です。著者によりますと、究極の「贈り物」は自分自身。言わずと知れたカマキリです。



自分の遺伝子を最優先にするための作戦もあるようです。交尾後に粘液を出して、メスの生殖器を閉鎖するもの、ずっと交尾したままの状態を保つもの。つまり他のオスに交尾のチャンスを与えないのだね。しかし何事にも対抗策はありますよね。生殖器を封印されたメスが自らそれを取り除く手段を考案するとか、先を越されたオスが、先のオスの精子を取り除いてから事を運ぶとかです。何事もままならぬ人生ですよね。





このように、昆虫のお話の「種は尽きまじ」ですが、最後にとても唸ってしまったことありました。それは「人が作り出した昆虫」です。昆虫は環境に応じて種に変化が現われると書きましたが、その伝で人類がこの世界で繁栄をし出してから、人類に合わせて進化した昆虫たちの存在です。例えば、ヒトにしか共生しないヒトジラミ。イノシシが家畜化したブタにつくブタジラミ。人がブタを作りだしたのだから、これも人が作った昆虫となるでしょう。また、カイコは世界で唯一の家畜化昆虫で、彼らは自らの力で自然の中で生きることはできません。ミツバチなども人の手により品種改良が進んでいます(今では、サイボーグ昆虫も人は作り出しています。)。













以前、『動物が幸せを感じるとき』という本を読んだ時、豚とか牛、鶏と人の関係を著者は「共生」と述べていましたが、共生ではなく「搾取」だとわたしは思いました。今回の本の著者は、動物の使命がただ自分の遺伝子を残すことであるとするならば、逆説的に、家畜は人を利用して繁殖に励んでいるのかもしれないと言っています。昆虫の共生関係からの言及です。もちろん、著者は本気でそういっている訳ではありませんが。



という事は、動物が幸せかどうかとか、そんなことは抜きにして、彼らが「生まれて、子孫を残し死ぬ」という循環で生きているのであれば、その生活の充実度を度外視する時、人はその循環(彼らの望み)のお手伝いをして、食べ物を頂戴していると考えても良いのかもしれませんね。「家畜」の為に言い訳が必要ならば。








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2018年5月7日月曜日

『アンチクリストの誕生』  レオ・ペルッツ著



この著者をわたしは残念ながら知りませんでした。本の帯のキャッチコピーに、「ボルヘス、カルヴィーノをはじめ多くの作家たちを魅了した稀代のストーリーテラー、いよいよ文庫に初登場!」とあったから、興味を持ちました。



読み終えると、「わたしって小さい時からこんな本ばっかり(古典や純文学と言われるものではなく中間小説、エンターテインメントと言われているもの)読んでいるなあ。」と思いました。しかし、それがわたしの誇りでもあります。



解説の皆川博子さんが「花も実もある絵空事の作家」と書いているように、表題を含む8編の短編(あるいは中編)は、素晴らしいストーリー構成の「ホラ話」です(あるいはゴッシク・ホラー)。ある作品はマーク・トゥエインのようなバカバカしい「オチ」の付くホラ話、ある作品は、ドイツ・ゴシック小説と言った感じです。



「花も実もある絵空事の作家」と言うのは、柴田錬三郎の言だと解説を書いている皆川さんは言っています。わたしもシバレンの作品は多数読んでいます。その他「訳者あとがき」などにも紹介されている山田風太郎、夢野久作、久生十蘭、カルヴィーノ、ボルヘス、シャーロック・ホームズやグスタフ・マイリンク等々、悉くわたしの幼い頃から読み親しんだ作家でした。



さて、わたしはこの著者について全く知らないので少々紹介しますと(これを読んで下さる人はご存知か――、と茶々を入れる)、1882年、プラハ生まれウィーンで活躍したユダヤ系作家とありました。ユダヤ系作家と特筆されているのは、ユダヤ人迫害にあったということを意味しているのでしょう。



1915年に第1次世界大戦に従軍。翌年に重傷を負って、ウィーンで暗号解読に携わる。その後ナチスの台頭によりウィーンを追われ、パレスチナのテル・アヴィヴに移ります。しかし、彼はドイツ語で著作しているので、彼の作品がドイツでの出版を許可されなくなると、徐々に忘れられた存在となります。1970年代から再び世界で脚光を浴びるようになって来ました。シュールレアリスムや前衛的なものの流行、あるいは純文学と「そうでないもの」の評価の垣根が少し低くなって来たという時代背景でしょうか。








この本は中短編集です。各タイトルは、「主よ、われを憐れみたまえ」、「一九一六年十月十二日火曜日」、「アンチクリストの誕生」、「月は笑う」、「霰弾亭」、「ボタンを押すだけ」、「夜のない日」そして「ある兵士との会話」です。それぞれが違う時代、違う背景で書かれています。なのでわたしは、「東ヨーロッパとロシアの歴史を少々勉強した方がよさそうだぞ。」と、思いました。



西ヨーロッパの歴史はそれなりに見聞きする機会があり、多少なりともわかりますが、オーストリア、ルーマニアそしてロシアとなると……。(ところが、その辺の国の小説を読むと何故か変な臭いがしてくるのです。学生の時、実存主義の小説を読むと嫌な臭いがしてくるので、それでこれは実存主義の小説とわかると言った人がいました。気のせいでしょうかねえ。)



短編の作品は概ね大法螺のオチ付きの「なるほどね。」と思う作品です。その中で「月は笑う」は少々怪奇小説的な推理小説的な趣があります。中編小説の「アンチクリストの誕生」と「霰弾亭」は、素晴らしいストーリーテリングで、引き込まれます。



「アンチクリストの誕生」は、最初は純愛の夫婦の物語のように、おとぎ話のような優しい雰囲気で始まります。が、徐々にその夫婦の過去が暴かれて、おどろおどろしいお話に。さて、「アンチクリスト」とは何だったのでしょう。誰が誕生したのでしょうか。お楽しみにお読みください。



「霰弾亭」は、一番気に入りました。こちらの方は「大法螺話だあ」という感じで始まります。主人公のフワステク曹長が自殺します。しかし、話はその弾がどうなったかの方向へ。つまり、曹長が自らを撃った弾丸は、曹長を殺した後、その体を突き破り、曹長の部屋を横切り、皇帝の肖像画を粉砕し、隣の兵舎で寝ていた新米兵の膝をぶち抜き、背嚢にめり込み中に詰まっていたものを台無しにし、たまたま開いていた窓から飛び出し、云々かんぬんと続いていきます。



「だがこれらすべてはこの物語に何も関係がない。」と、おもむろに主人公の「人となり」にバック。曹長は毎日酒場でバカ騒ぎを繰り返していますが、その過去に何かがあり、彼自身過去に囚われている。この話は、この事件当時18歳であった新米兵が、12年後に思い出として語っています。



曹長の部屋で彼は一枚の写真を見つけます。曹長と若い美しい女性とのツーショット写真。その御夫人は、彼も幼い時知っていた女性。彼が、「親密な関係だったのでしょうか。」と嫉妬心も込めて曹長に尋ねました。



「覚えておけ」と曹長は言います。「人は人と親しくならない。覚えておけ、いいか。最上の友でさえ隣に立つにすぎない。同じ景色の前でだ。それを友情と呼ぼうが愛とか結婚と呼ぼうが、同じ額縁にむりやり押し込むことでしかない。」



ある時二人が道を歩いていると、写真の女性にばったり出会します。その隣には立派な夫である中尉が。曹長は亡霊にでも会ったように真っ青になります。その後、曹長が兵士に語ったことは、「いいかお前、だしぬけに己の過去に出くわすほど恐ろしい災難はない。サハラ砂漠で迷おうとも己の過去に迷ったよりはたやすく脱出できる。―――――――、ひとつだけ言わせてくれ。過ぎたことは振り返らんよう、くれぐれも気をつけろ。振り返っちゃおしまいだ。――――。」



そして、その日の夜、曹長は自殺しました。





訳者あとがきでは、曹長は過去に迷って自殺したと書かれています。わたしが思うには、曹長は、人間に絶望していたのではないかと。「過去からの亡霊」に会って、その日の夜、いつもの「霰弾亭」で、彼は彼の周りを見回した。そこにたむろしていた人々は、「クズどもや悪党やいかさま師や取り持ち屋」。彼を理解しない人々、理解しようとも思わない人々。



三島由紀夫の『命売ります』の最後で、主人公の羽二男が「人生のドタバタ劇」の後に見たものと同じ。羽二男は泣きたくなって星を見上げたが、曹長は……。










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