2013年8月13日火曜日

『世界史』 (2)



以前、わたしには興味のある事が3つあると書いたと思います。その一つが、「西欧諸国が世界の趨勢を支配した時、1500年~1800年、アジアやアフリカそしてアメリカ原住民はその勢いに屈したが、なぜ日本は免れたのか」というもの。



マクニ―ルの『世界史(A World History)』を読んで、そうかもしれないと思ったことがあります。まだ上巻しか読んでいませんが、その膨大な記述のなかで、日本について書かれた項が数ページあります。「中世ヨーロッパと日本――1000~1500年」です。



それによると、文明社会の両端のふたつの新文明、北西ヨーロッパと日本は隣接した高度な文明社会を持ち、際立って軍事中心の傾向を示していた、と言う事。つまり日本にとっては中国と武家社会。中国の高度な文明を受け入れつつ、サムライという特殊な文化を育て上げたことが、近代に移行した時に西欧に支配されない基盤になっていたということらしい。



日本の海岸線が水上輸送には良い条件だったということも良かった事の一つでありました。さらに、中国が海洋貿易に関心を示さず(彼の国はいろいろな民族がいる膨大な国土をひとつにまとめ上げるのに忙しかった上、国内でなんでも陸路で必要な物を揃えられたのであえて海路は必要なかったという事だ)、国を閉ざしてしまったことも、日本の海上輸送に有利に働いた。



��300年頃の日本では町人と船乗りが台頭し、都市生活の萌芽が見られた。ここで中産階級が生まれ、文明を築く基礎が培われた。ついでながら、以前読んだ『日本の歴史を読み直す』で触れられている「日本は農業国ではなく海洋事業で富を得て発達したのだ」ということもわたしの理解を助けました。日本が古くから農業国であるということは幻想にすぎないと(鎌倉・室町時代)。



結果、日本はこの時期に文明社会の仲間入りをしていたので、近代に入ってからも、完全な文化的、政治的自立を守る事ができたようです。





こう書いて行くと、なにか面映ゆい感もあるが、日本がすべからくサムライ社会であったことは、相当にユニークな事ではなかったかと思う。西欧の騎士の時代でも、政治や立法は市民が担っていた。日本のみ、政治や立法あるいは外交も武士階級の手でなされていた。江戸の後期には「武士」は名ばかりのものだったかもしれないが、開国をせまる西欧の外交官(民間人)と交渉をしたのは、「武士」であったという事実に、なにか秘密が隠されているような気がしてならないのです。





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