2013年8月13日火曜日

真実を求めて・・・



以前『イージースピーキング:レベル2』というオープンカレッジの講座を取っていると書きました。いきなりのホームワークがとても哲学的な課題だったので、非常に燃えていたんですが、蓋を開けたらがっかりでした。先生の目的は、critical thinkingということ。ですから、どのように議論が進んで行くんだろうかと、とても楽しみだったんですが。



例えば、PRIORITIESについては、「朝起きたら一番先に何をするか」との『質問』でした。しかし、授業の内容は置いといて、先生の示した課題を眺めていたらふと思いついたことがありました。それは、人類は『絶対的な真』を求めて苦悩し続けているんだな~~~、という事。宗教も哲学も文学も究極の真実を追い求めていると。それはどこかでヒトが見失ったもの。



でも結局ヒトはそれを手に入れることはできないだろうと思います。言葉がそれを邪魔しているから。言葉が発せられた時、物事が現れ出ます。そしてそれは最早「絶対的な物」ではない、相対的な物になってしまう。人が理解しうるあるいは人が作りだしたもの。また、それに続く「文化」があります。わたしは「言葉=文化」であると思っています。わたしたちは、いろいろな言語を持っている。そして、それに伴ういろいろな文化がある。よって、真実もそれぞれの真実になってしまいます(相対化)。「世の中にひとつであるべき絶対的真実」は消えうせるのです。



例えば、先生はカナダ人です…と思います。彼は、「人類は自然を支配している」と考えています…そう言っていました。彼はキリスト教徒ではないと言っていますが、西洋の教育を受けた人は意識しなくともキリスト教の教義の影響は受けています。我々日本人が意識しなくても儒教の教えを体内に蓄積しているように。キリスト教では、神の似姿で創られた人間が総てのものの頂点に立っています。自然は彼等にとって「支配/対立」の関係にある。前回書いたように、言葉の定義にも現れています。それに引きかえ、日本では、あるいは西洋以外の国々の人々にとっては、自然と人間は同じひとつの世界を構成する同等の要素です。(イスラム教はどうなんでしょうか。でも、キリスト教徒が自然を支配しているとしたのは、近世以降のことかなとも思います。つまりプロテスタントが主流になってからの。それ以前は、やはり人は自然を畏怖していたのではないのかな。例え話から話が逸れてしまいそうな気配。)



とにかく、まだ人が一つの文化で一つの世界を作っていた間は、絶対的真実を追求する意味もあった。「他者」のいない世界。あるいは他者を排除または統合できた時代は。しかし、現在は「他者」を尊重し、協調していかなければいけない時代。もう宗教も哲学も文学も、今までのようにひとつの真実を追求するのは時代遅れね。絶対的真実は、数式の中にあるのみかも。



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