2013年8月21日水曜日

読書会――もどき

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実はもうひとつ英語の講座を受けています。といっても、こちらは月一回で、講座とも言えません。生徒が三人集まれば、講座を開いてくれるところがあります。先生と場所を提供してくれて、アレンジもしてくれるものです。

 

わたしは前回も書きましたように、英語への情熱は薄れています。というか、満足いくクラスが存在しないと言うことですか。それで、読書会みたいなものを英語で持てたらいいな~~~と。英会話仲間に持ちかけたところ、三人集まりました。で、開催と言う運びとなりました。三人が順番に好きな本を選んで、10ページ程度の、それぞれ家で読んで来て、集まった時に意見を言い合うと言う形式となりました。

 

しかし、三人の思惑はそれぞれ違います。わたしは、ほんとに読書会を持ちたいと。つまり、英語で小説を読んで感想やら批評やらを英語で語り合いたい。もう一人の人は、Fさん、わたしの意見には賛同してくれましたが、どうも選ぶ本が子供向きのもの。とても、善良な精神の持主なのです。邪悪なわたしは、その本性を出していいものかどうかと悩みます。後の一人は、Uさん、彼女は、英語で何かを語りたいだけ。だから内容はどうでもいいけど、具体的に取っ付きやすく話すネタが散りばめられているのが良さそう。例えば、前回彼女が選んだのは、マイケル・J・フォックスの自伝的エッセイです。彼の不治の病にもメゲズ、前向きに立ち向かい、俳優業を充実させて行く精神はとても称賛できます・・・が、「それで、どうなの。」と、わたしは思ってしまう訳です。

 

次回はFさんが選んだ、まるで修身の(表現が古いね~~~、道徳か?)本から持ってきたような話。なんだか、子供の時に読んだような気もします。

 

イタリアの話のようです。多分19世紀半ばの。貧しい家族で、もちろん善良な、お父さんは働き者。子供は多い。いくら働いても貧乏から抜け出せません。それで、生業(レールマン)のほかにも、いろいろ仕事をしています。そのひとつが、宅配の荷物の住所をかくもの。

 

子供たちの中の一人は、「当然」賢く秀でています。父親自慢の「息子」です。彼は、父親が疲れているのになお働かなくてはいけないことをかわいそうに思います。そして、申し訳ないとも。息子が父親のその宛名書きの副業を手伝おうとしますが、父親はそれを許しません。「お前は優秀な子なのだから勉学に励みなさい。一生懸命勉強し、いい仕事に就いて家族を助けるのだよ」と。

 

それでも息子は、父親に隠れて夜中に宛名書きをします。どういう訳か父親は気付きません。しかし、幼い子なので、わからないが10歳くらい、夜中の仕事のため学校で寝てしまいます。先生から責められ、父親からも責められる。「どうしたんだいお前。見損なったよ。もうお前はわたしの優秀な息子ではない」と。息子は、父親からもう自分の息子ではないと言われ、絶望の淵に陥ります。そして、ある日、疲労のため真っ青になって気を失います。それで、お母さんが気付きます。父親は、悪かった、誤解していたと、「お前はやはりわたしの息子だ」と許しを乞います。息子も「内緒にしていてごめんなさい」と許しを乞います。

 

という、ハッピーエンド。どうですか。

 

 

19世紀の話なので仕方がないとは言えますが、第一に、家族の中で一番優秀な子が家族全員の面倒をみると言うのはどんなもんでしょうかね。こんな表現です。

……all the hopes of your family rest on you.

 

これを読んでいて、『コンゴジャーニー』を思い出してしまいました。幻のコンゴ恐竜をThe Marxist-Leninist People’s Republic of Congo Lake Teleに探しに行く旅行記のようなものです。イギリス人とアメリカ人のコンビの学者の珍道中。その中で、賄賂を強要するコンゴの役人たちに嫌気がさしていると、コンゴ大学の教授が、「彼等は、家族全員を養わなければいけないんだ。家族って言っても、兄弟の嫁の両親や兄弟姉妹、そして、叔父や叔母までもだよ。知らない間に家に居着いてしまうんだ。ある日家に帰ったら、また人数が増えているんだ。それに、今の仕事が永久に続くとは限らない。政権が代わればまた一文なしさ」と嘆きます。そんな感じです。

 

これに関連して、もうひとつ思うことは「不満が外に向かわない」と言うことです。貧しいことがすべて、自己責任となっていること。これは、言うまでもなく道徳的な話であり、美談です。ある意味、感動します。しかし、結局は、貧困を貧困のままにしておく体制側になんの打撃も与えない。それ以上に、体制は、善良な行為を利用して、自らの「悪」に蓋をしているのです。我々は、この話を通して「悪」の思惑を認知することはできない。

 

なぜ、父親は死ぬほど働いても貧乏なのか。そして、少年は父親を助けると言う「善」に向き合うばかりで、世の中の矛盾に気付くことは決してない、ということです。

 

 

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