2014年3月8日土曜日

World Literature と複数形のWorld Literatures


『ハックルベリー・フィンの冒険』の中で使われている「ニガー」という言葉が、人種差別の言葉であるとして、近年アメリカで違う言葉にして出版するという動きが活発だ。そんな動きの中で、nigger hipster robot にした版が出回っていると言う。そこまで行くともう改竄であると前回書いた。このように言葉を換えるということを考えていると、じゃあ翻訳はどうなんだと思った。

 

先日、ゾラン・ジフコヴィッチの『不思議な物語』という本を読んだ。出版元は黒田藩プレスである。ゾラン・ジフコヴィッチはユーゴスラビアの作家であるが英訳版もあるらしいので調べてみた。出版元はKurodahan Press とある。あらっ、同じジャン、と思って、出版社自体をチェックしてみると、やはり同じ会社。日本に住んでいる北米人三人が会社を設立して出版事業をしているらしい。最近、NPOに移行したと報告されていた。彼等の目的は、海外の日本未発表の本を日本語に翻訳し出版することと、日本のまだ海外に紹介されていない本、例えば江戸川乱歩など他の言語に訳しにくいもの、を翻訳し海外で販売することである。そのホームページをみると、日本の独特の文学がどのように英語に翻訳されているかをみるのも興味深いでしょうと書かれていた。―――う~~~ん、興味深いです。

 

また、最近、世界文学には単数形のWorld Literature と複数形のWorld Literatures があると知った。単数形の文学は、普遍/不変的価値を有する各国独自の正統的文学。複数形の文学は、グローバルな世界で単一の国家、言語、文化に属する事のない文学作品群。例えば、ハリーポッターやカズオ・イシグロの作品などだ。複数形の文学は単数形の文学が追求する美学、永遠性・独自性・翻訳不可能性には始めから執着せず、世界中の読者をそもそも前提として作品が書かれている。

 

前回、調子に乗って、ついつい「グローバル社会に賛成しているんじゃないよ。今のグローバル社会は、唯一の観念に収斂していって、開かれた『グローバル社会』とはとうてい言い難いから。」からなんて書いてしまったが、少々反省している。というのは、わたしの考えは少々古臭くなっているのかもと感じたから。

 

経済のグローバル化の場合は、やはり、西欧諸国主導の資本主義・自由主義経済に流されていると言える。資本主義の概念の「巨大さ」は容易には覆し得ないからだ。が、文化の面ではどうだろうか。もちろん、西欧文化が新興国を飲み込んで文化の帝国主義とか植民地化とか言われる面もあるが、それとは別にソーシャルメディアを通して培われた第二のバーチャルな世界が出現しているとも考えられる。

 

わたしの時代にはなかったコンピュータが、生まれた時から存在する世代あるいは青年期に遭遇して容易にコンピュータを駆使する事ができる世代が、違った共通の世界を作り出したのは当然の結果だ。そこは、国籍も言語の違いもない新たな世界だ。そこで生まれる文化は、やはりわたしが「美」と感じとる土着の文化を超える共通の「美」があるのだろう。




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