2014年3月21日金曜日

『黒船来航――日本語が動く』  (清水康行 著)


わたしは、「ことば」に興味があります。ソシュールのような論理的「言語学」は、ちょっと理解不能ですが、言葉は文化の源でありますから、言語の成り立ちなどを探れば日本の文化も同時にわかるのではないかとの思いです。ことばと「文化・歴史・政治」のコラボです。

 

この本は「そうだったんだ!日本語」シリーズの一冊です。黒船が江戸時代の日本に来航した時、その事実は日本語にどうような影響を与えたのか……本の帯には、「条約文に見える、新しい文章語への胎動」とありました。

 

ペリー来航に続く文明開化の明治時代、日本は西洋の言葉にさらされて、日本語としていろいろな単語を新たに生み出しました。欧米の単語を訳して新たに日本語となったものや、今までに日本語としてあった語を欧米語にあてはめて少々意味が変わってしまったものとか。そんな内容を期待してこの本を買ったのですが、少々思惑外れ。しかし、違った意味で興味深い点が多々ありました。

 

ペリーが浦賀に現われて以来、日本政府は諸外国と条約を締結する破目に陥ります。この本は条約を日本語で書く時、締結国との言語の違いによる齟齬がないように、日本語をどのように変化して行かなければならなかったのか、というのがメインテーマです。

 




 

浦賀に現われた黒船は4隻でした。2隻が蒸気船、2隻が帆船。そこに、浦賀の奉行所の役人と通詞が偵察に行きました。その時、役人、正確には通詞は、どの船に交渉すべき人が乗っているかということを知っていたのです。日本の湾に4隻の船が現われたら、西洋の知識が全くない人なら、戸惑うはずです。なぜ、役人はこの事態に対応できたのでしょう。それは、ペリーが来る前から、日本に西洋知識を取り入れるルートがあったからです。出島です。1543年のポルトガル人の種子島漂着以来、蘭学の名のもとに西洋知識・その日本独自の技術の発展が継承されていたのです。鎖国体制のもとで、出島は科学技術の摂取、さらに開発のバックグラウンドとして機能していました。

 

さて、浦賀奉行所の幕府船が、黒船の旗艦船に近づいた時の様子が、ペリー側の航海日誌に記されています。『ペルリ提督日本遠征記』です。(『黒船来航』からの引用です。)

 

「多数の予備船の内一隻がサスケェハナ号(旗艦船)に近づき、巻物を掲げた。士官がそれを受け取るのを拒否すると、巻物を高く掲げて読めるようにした。それは、フランス語の文章で『貴艦は退去すべし、碇泊すべからず』という命令書だった。」

 

つまり、幕府は、当時の西洋社会での外交関係における第一公用語がフランス語であると承知していたということです。実際、その時双方はお互いに船上と船上で睨み合って、怒鳴り合っていました。アメリカ側は日本語で、役人側はオランダ語で。しかし、お互いに何語を話しているのかを理解できず、日本側の通詞が「余は和蘭語を話すことができる。」と英語で怒鳴ったDutchという英単語をアメリカ側がキャッチし、それで意思の疎通が始まりました。

 

すごいでしょ。ワクワクするでしょ。映画が一本できそうですね~~~♪。

 

この時の通詞は堀達之助、アメリカ側の通訳はオランダ人ポートマン。もう一人ウィリアムズという通訳もいました。彼は、日本語を少々話すらしく、通詞の堀も英語を少々話せたので、公式の交渉はオランダ語で行われたものの、ちょっとした会話は、彼等の間で英語、日本語が使われていたようです。

 

 

アメリカとの日米和親条約を皮切りに、日本政府(あるいは江戸時代は幕府)は西洋列強と条約を結んで行くことになります。条約の条文は、お互いの利益を担保するもの。必然、意思を反映する正確な文章でなければいけません。そこが、日本政府の苦労したところのようです。先ず、政府は漢文を条約文から排除しました。漢文は日本で公的な言語として君臨してきたので、これは大きな出来事でした。つまり、条約の正文が漢文に訳されていたのが「オランダ語を正文」と改変したのです。この理由を政府は、漢文と和蘭文の齟齬と説明しています。正式に和文と和蘭文が双方で認定されました。ここで、和文が日本において公的にも正式な言語という認識が生まれたのです。

 

続いて、1854年、イギリス艦隊が長崎に入港します。スターリング提督の交渉で、イギリスはアメリカに続く二番目の条約締結国となります(日英和親約定)。この条約では、日本語、オランダ語、英語の三言語の版が作成されています。日本はオランダ語を主張したのですが、世界の覇者であるイギリスは、「英語が世界の言語である」と受け入れなかったのです。その後、イギリスは英語を正文とすることを求め、日本側は英語が上達してからにしてもらいたいと、時間の猶予を交渉します。それからの西洋諸国との条約締結に当たり、日本も世界言語としての英語・仏語の習得を図り、オランダ語の役目も終局となって行きました。日本の通詞はすぐに、英仏語を習得したと、この本では言及されています。

 

いずれにせよ、慎重に意味の定義をしなければいけない条文で、お互いの言語が違うということは大変重大な意味を持ちます。ひとつに欧米の論理的思考をどう日本語に移し替えるかという問題があります。入組んだ仮定的条項や構文の違いを克服しなければいけませんでした。日本語のひとつの変化は、「候文」から「べし文」への移行です。

 

なぜ「べし文」に変わったかの理由として挙げられていることは、候文は敬語の意味が含まれているということ。条約締結に及んでは、上下の関係を表わすことは相応しくない。「べし文」は、話し手の位置関係が含まれていないフラットな表現方法(だそうです)。また、こういう場合はこうする、など仮定的な構文を正確に表すには、「べし文」が優れていた(そうです)。

 

複雑な話は直接この本を読んでもらうとして、わたしが興味を持ったのは、構文の違い。上手く説明できませんが、卑近な例では、イエスとノーの違いがありますね。否定形の疑問分で、西欧とアジアで返事が違うということ。

 

「あなたは元気そうに見えませんね。」では、「いいえ、元気です。」と答えるところ、英語では、「イエス、元気です。」となる。

 

これは、単純な例ですが、複雑な表現でもこんなお互いに違う表現になっている例があるのです。

 

 

以上、たいへん長くなってしまいましたが、日本語ということで最後に一言。

 

出島で蘭学が盛んになり、通詞もたくさん輩出しました。そこで、西洋の本を翻訳する場合、今まで日本語になかったものは新しく創造しなければいけません。例えば、物理学の用語、重力・引力・遠心力・集点などは、179?年頃に通詞によって発明されました。また、化学では酸化・還元・飽和・元素等など…、1800年代初期の創作です。我々の祖先のこんな日本語の創出にわたしたちは多大な恩恵を受けているのです。このような用語を生みだせなかった国々は、科学知識を自らの言語で語ることができません。ある意味、日本人特有の「内向き志向」、例えば「ガラケイ」志向が、日本語を救ったと言えるのかも。

 

とにかく、明治維新前後に活躍した日本人のおかげで、我々は日本語を進化させ、欧米列強と渡り合い、自らの国家を代表する役割を担う言語を「日本語」であると宣言するに至りました。欧米の植民地政策によって言語を失った国は多々あります。言語を守り切ったということが、日本の独立性を担保するひとつの要因ではなかったでしょうか。





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