2015年10月19日月曜日

「ゴミ」 (上海滞在記 5)


上海の街はまるでゴミ箱だ。あるいは痰壺か。あなたは「何故?」と聞くかもしれない。わたしは答える。それはある意味教育であると。「ゴミをゴミ箱に捨てるだけの事が、何故教育に関係あるのか。」とあなたは憤慨するだろう。「ゴミ」とは文明なんだ。その昔は、すべてのものが自然界から生まれたものであり、すべてのものが自然界に帰って行った。そこにゴミと呼ばれるものはない。人間が「ゴミ」を発明したのだ。だから、それを始末する方法を我々は学ばなければならない。他の動物はゴミを産み出さない。彼らは、ECOLOGICAL CHAINのうちに存在するのみであるから。

 



 

人類に一番近い動物は何だと思いますか。ボノボです。以前はチンパンジーの一種と考えられていましたが、違う種族だとわかりました。99.9?パーセントのDNAは人間と同じです。その中で、カンジというボノボが実験観察のために米国の研究所で飼われています。彼はいまのところ、一番賢いボノボです。

 

彼は身体の構造から英語を話すことができませんが、研究者が話すことを理解できます。簡単な単語なら発音することができると聞きましたが、人間がそれを聞き取るのは少々難しいようです。その代りに彼はいつもキーボードを背中に背負っています。彼が何か言いたい時、あるいは何か聞かれたときはそのキーボードを押して伝えます。もちろんアルファベットが並んでいるキーボードではないようですが。詳しいことは知りません。

 

単純な文章しか理解できないのではないかとお思いかもしれませんが、彼は抽象的なことも理解できるそうです。例えば、ジュースは冷蔵庫の中にあるから、飲みたい時に飲んでも良いとか、妹(彼には妹が同じ研究室にいます)に鍵を持ってきてくれるように頼んでくれとかです。今では、妹に自分が学んだことを教えているそうですが、わたしは追リサーチをしていませんのでわかりません。

 

そんなカンジでも研究者が、コークを飲んだあとの空き缶をゴミの缶に捨てるように言っても理解できません。研究者は、カンジがコーク缶とゴミの缶の「缶」という事で理解不能に陥っているのではないと言っています。カンジはただゴミという概念が理解できないのだと。彼は、コーク缶をゴミの缶に入れることはできる。が、それにどういう意味があるのかは理解できない。なぜ「ゴミの缶」が存在するのかがわかりません。

 

 

わたしはもちろんの事、上海の人がゴミの概念を理解していないと主張しているわけではありません。人間はいろいろな物を発明しました。それは自然界のものではありません。「人工物」です。この頃は、自然界に戻る物も生産されていますが、おおむねその発明品は自然界に戻らず(あるいは戻るにしても時間がかかる)永久にこの世に存在します。そんな物が発明される前、人はゴミを地に返したり川に流したりしていました。そして人に役立たない「ゴミ」は自然界に戻っていったのです。自然界に戻らないものが生産されてからも、人はそんなものを川に流したり地面に埋めたりしてきました。その後どうなるのかを意識することなしに。だからそのことを知らせること(教育)が必要となります。

 

 

わたしの上海の友達は息子がいます。今、7歳の小学一年生(2003年の時)。彼は、学校で「ゴミはゴミ箱へ」と習っています。わたしも学校でそう教えられてことを思い出しました。母である友達も、息子に「ゴミはゴミ箱に捨てなさい。」と口が酸っぱくなるほど言っています。

 

が、ある日の事。仕事のため彼女が運転する車で移動していた時の事。彼女がキャンディを見せて、食べるかと聞きました。ありがとうと受け取りました。彼女もわたしも包みを開けて口にほりこみました。わたしは、包み紙をバッグの中に。彼女は、車の窓を開けて、外へ「ポイッ、と」。わたしが、「ちょっと、ちょっと。」と言うと、

 

「見てたかあ~~~。」って。

 

こうして上海の街にはいろいろなものが捨てられているのです。物以外のものもね。それはまたのお話です。








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