2013年8月13日火曜日

西洋哲学・・・文化教室のために



今回のテーマ:「心」について・・・と言うお題の前に言いたいこと。





この文化教室も六回目となった。しかし、わたしにはどうも西洋哲学という学問は性に合わないような気がする。各テーマを考えているうちに、どんどん先生の意図から外れていってしまう。「心」について述べる前に、何故かという事について考えてみた。



近代西洋哲学が花開いた時は、16世紀、17世紀、神からの脱却のためである。この時期の西洋では、人間としての対象は西洋人のみであった。つまり、民主主義を説いた古代ギリシャでは奴隷があたりまえであり、そのことを無視した平等であったように、彼等は西洋中心の世界観しか持ち得なかったと思う。彼等が「オリエント(イスラム)」を違う文化として知ることになったのはもっと先の話である。つまり、「西洋」哲学という呼称が示すように、これ自体がローカルな存在であって、西洋哲学が目指している「人類に普遍的な論理」を構築することは出来ない。



現在では、数学以外、学問で普遍的な理論は得られない。ひとつの理論が正しくある場を設定しなければ、その理論は通用しなくなった。例えば、ニュートンの理論は、通常の世界では通用するが、宇宙とか時間という概念を勘定に入れるともはや正しくなくなる。それからアインシュタイン。彼の理論もミクロの世界を想定すると通じなくなる。



なぜ西洋哲学は近代から脱け出せないのか。「時代の感覚」から離れたものになって来ているのに。もちろん、西洋哲学も時代とともに変化していると言えるが、現在ではそれらは「現代思想」と呼ばれ、哲学者も純粋な「哲学者」という人を思いつかない。社会学哲学者とか比較人類学哲学者という呼称は聞くけれども。我々が、「哲学を学ぶ」という時には「近代西洋哲学」を想像しはないか。相変わらずの、デカルト、カント、ヘーゲルである。もちろん、純粋に学問として学ぶ価値はある。しかし、もはや「温故知新」と言った立場に置かれている古典である。



もうひとつは、真実は「ここにある」のに、西洋哲学はわざわざ論理的手段を駆使して、真実から遠ざかっているのではないかという思いである。直截に真理に手を伸ばせばいいものを、それを横目に見ながら彼等は論理を組み立てる。しかし、それはそれだけでは終わらない。それに反対する論理が出てくるのである。このアンチテーゼは永久に繰り返され、真理には至らない。またそれを脱構築するために、上った山を降り始めるが、下りた先に真実はない。そしてまた登り続けるという繰り返しになる。



今、スピノザ入門書を読んでいるところである。その中に書かれていたことで、わたしの考えもあながちラディカルではないなと思った。スピノザは言う。知性は、・・・学者の議論で病んでいる。知性の病をいやす最善の処方は従って、哲学で武装した認識論みたいな理論ではない。ごく当たり前の誰でもわかる真理、「2+3=5」だとか円の本質とかいった単純な真理の存在である。『スピノザの世界』の著者である上野修氏は「『真理』という言葉の意味の単一性をスピノザは回復する。」と書いている。



「われわれは何が真であるか知っているのである。方法の与える真理基準がなければこの真理が確かには言えないというのは変であろう。」・・・つまり、真実は真実の内にあるのであり、真実を見つけるための理論を構築することは迂回することである。「方法は真理から自生するのである」と。



わたしは、これを読んで禅問答を思い出した。解を求めてはいけない。求めないところから真理が浮かび上がってくるのであるから。こういう考えは西洋以外の人々には馴染みのある事柄であると思う。西洋の力が世界を席巻した。そして、西洋の論理が地球を覆った。わたしたちが自らの真実を求めるためには、この覆われた地層を掘り起こす必要がある。近代西洋哲学はそれを拒否している。日本の哲学者あるいはその他の国の哲学者がこの論争に参加できるのは、それ以降の哲学である。つまり、西洋哲学の永久の命題として掲げられた「心とは」について、わたしは西洋哲学の論理を駆使しては語れないということになる。これが、わたしが先生の思惑から離れていってしまうということの言い訳なのである。







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