2013年8月13日火曜日

ハイデッガー



ハイデッガーの「存在と時間」を文化教室で学んでいると以前書きました。全八回で今日は六回目でした。いよいよ佳境と言うところです。





わたしが学んだ限りにおいては、ハイデッガーのキーワードは「道具」と「配慮」らしい。「道具」と日本語で言うというと紛らわしいが、存在者(人ではなく物)・・・人を取り巻くものを道具と言っているようだ。現存在(人)が道具の存在を問う事により、現存在の存在を浮かび上がらせる。それが「配慮」ということ。



例えば、インクで書かれた三角形を見る時、我々はインクを見はしない。書かれた三角形を見る。だから、道具としてのインクが現存在によって配慮されることにより、三角形が浮かび上がり、またそのことにより、それを見ている現存在の存在も浮かび上がる。もちろん道具を見るということは単純に見るという行為ではなく、現象学的に見るという事なのだが、単純なわたしは先生のこの説明でいつも「道具はすべて完全に理解しつくされているのか」と思ってしまう。「理解できない道具は存在しないという事なのか」と。



つまり、現象学的に見ると道具はそれ一つでは存在しない。一つの道具が違う道具との関連で解釈され、またその違う道具もまた違う道具との関連で解釈される。これは永遠に起こりうる事で、そして世界が解釈されるという事。しかしまた、道具一つ一つはその関連によって小さいところから大きいところへと順次解釈されるのではなく、始めからひと塊として存在しているのであり、単純に一個体ずつ存在している訳ではない。またここで人間の現存在がその一つ一つの有用性を配慮することによって、道具・世界の存在が浮き彫りにされているということだ。



ここでまた、単純なわたしは考える。道具はその有用性によって世界と繋がっている、または世界に存在しているなら、道具の有用性を間違える時、その存在性はどうなるのか。例えば、インクが机の上にある。インクは机に置かれるという事で両者は繋がっている。また、その机は部屋にある。机と部屋のつながり。また部屋はどこかの建物の中にあらねばならない。部屋とビルディングの関連性。そしてビルディングはどこかに建っている。永久に続きそうなこの関連性の中で、一カ所間違えたとしたらどうなる。例えば、どこかの社会では机は部屋に置くものでなく海辺に置くものであったのなら。我々は、この一つの間違いで、まったく別の違った世界に導かれるのか。あるいは、インクは書くものでなく、花に与えるものであると誰かが配慮して、皆がその方向に進んだら。我々はまた別の世界を作り上げてしまうのか。



わたしの考えは、きっとハイデッガーには関係ないところで存在しているのだろう。先生に質問していいものかと・・・思うところである。





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