2013年8月13日火曜日

フラッシュ・モブからソーシャル・メディア

フラッシュ・モブと言われるものは、2003年、Bill Wasik(雑誌の編集者)の呼びかけによりマンハッタンで起こりました。ネットで人々に集合するように呼び掛けて、パフォーマンスを試み、終わるとすぐに解散するものです。5月に集合がアナウンスされましたが、集合場所のお店にその情報が流れ、失敗に終わりました。同年6月3日に再び集合が掛かり、これは成功裡に終わったようです。



フラッシュ・モブの生みの親である彼の意図では、フラッシュ・モブは、見知らぬ多くの人が一カ所に集合し、エンターテイメント的なパフォーマンスをし、その場で解散するということです。その意味が徐々に変化し、政治的な行動や反社会的な行動に対しても使われるようになりました。このような使われ方に対し Bill Wasik は元々の意味の評判を落とすものだとし、反対しています。



フラッシュ・モブは、2004年にオックスフォードの辞書に付け加えられました。定義は、彼の意志を尊重したものになっています。”unusual and pointless acts” とし、政治的な意味を持つ集合とは区別しています。また、Webster でも “flash mob as a group of people who organize on the Internet and then quickly assemble in a public place, do something bizarre, and disperse” の定義です。メディアやその他の情報が広い意味でこの言葉を使用し、意味の変化をもたらしたのでしょう。



このような行動は、ソーシャル・メディアの発展により、政治的な意味合いが強くなりました。FACEBOOKの一般公開は2006年でした(日本語版は2008年)。一番記憶に新しいのは、今年8月のロンドン暴動でしょう。彼等はソーシャル・メディアにより集まった人々で、見知らぬ個人の集合でしたが、一部が暴徒化し世界の目を引きつけました。キャメロン英首相はこの行為に対し、政府がSNSやメッセージサービスに対するブロックを実施することを検討中だと発表しました。また、「自由な情報流通は良いことにも、悪いことにも利用される。人々がソーシャル・メディアを暴力のために使っているのなら、それをやめなければならない」とも語っています。暴動を巡っては、1300人余りが裁判所に出廷しており、裁判官は量刑ガイドラインにこだわらずに判決を下すように助言されていると言われ、ボトル入りのミネラルウォ―ターをスーパーから盗んだ学生は禁錮6カ月が下されたという報道もあります。弁護側や人権団体は「量刑が重すぎる」とし、抗議しています。



同様な事はアメリカ、サンフランシスコでも起こりました。ベイエリア高速鉄道(BART)構内でバート警察が、警官をナイフで襲撃した男を銃で射殺したことに対する抗議です。2009年にも同様、丸腰の男が、警官に射殺される事件が起きており、市民の警官に対する不信感が引金になったようです。抗議参加者は、携帯電話を通じてコミュニケートしていたことから、地下鉄運行担当者はダウンタウンにある4つの駅で携帯電話の接続サービスを一時停止にしました。バート側はすべて合法的な措置であると主張していますが、言論の自由と言う観点から疑問の声を上げている人々もいます。



翻って、チュニジア、エジプトに始まった「アラブの春」はどうでしょうか。今年1月にチュニジアの政権が崩壊、2月にはエジプトの政権が崩壊。どちらも、ツイッタ―やフェイスブックの存在が影響していると言われています。チュニジア、エジプト政権もこれらのソーシャル・メディアをブロックしようと試みています。それでも最終的には反政府側がこのブロックを解除するという事態になりました。グーグルとツイッタ―が共同で「ネットを介さずにツイートできるサービス」を立ち上げたこともありますが、なんらかの迂回策が出回る可能性はあります。体制側がどのような対策を企てるのか、あるいはそのようにソーシャル・メディアを規制することにどんな意味があるのかを考える必要性が感じ取れます。



ソーシャル・メディアは、今どのような意味を持つのでしょうか。イデオロギー対イデオロギーの従来型の政治の下に、もうひとつゆるやかな(ソーシャルな)政治の層が広がりつつあると言われています。米マサチューセッツ工科大、メディア・ラボ所長、伊藤穣一氏は「創発民主主義」を提唱しています。トップダウンではなく、個々の単純な動きが相互に作用し高度な秩序が生まれていくこと。人々が自分で判断し、発信することができるようになれば、直接民主主義に近い政治的秩序が生まれてくるのではないか、これが創発民主主義の理想のようです。



そういうプロセスがインターネットの普及で発生しやすくなりました。人々はネットを通じて必要な情報を独自に集め、思考を深め、お互いの間で質の高い議論を交わす。ソーシャル・メディアは、人種、性別、国籍に縛られず自由に討論できる場所。そこでは誰もが主役であり、サイバー空間で社会と自分を直接つなぎ自由に自己表現できる。つまり、自分と政治の間に介在する政治屋を排除できることになります。



しかし、人々がサイバー空間に留まっていては、何事も起りません。そこからOFFすることによって、お互いの考えが具象化する、顕在化すと言うことでしょうか。これで、わたしの論考も(政治的)フラッシュ・モブに戻ってきました。ネットの社会から這い出して、新しい組織を作り出す潮流があります。クウェートの無国籍住民「ビドゥン」の権利回復運動家ハキムさんは、ツイッタ―などで250人以上のビドゥンの若者と連絡を取っています。コンピュータや法律家などさまざまな専門家が集い議論をするサイトもあります。何か起これば連絡を取り合い、対応策を話し合います。ハキムさんの活動は、既存の組織に属さない市民が自主的に反政府活動に参加する新しい形を模索しています。



またお隣の韓国では、インターネットラジオのトーク番組が若者の間で政治の新しい流れを産み出しつつあります。番組から特ダネも飛び出して、韓国メディアにも影響を与えました。根拠のない批判を撒き散らしていると、取り締まりや規制を求める声も上がってきましたが、「来年の総選挙や大統領選挙に影響を及ぼす可能性もある」と分析している人もいます。



ハッカー集団と言われている「アノニマス」は独自の「告発サイト設立」を宣言しました。ウィッキリークスとの違いは、生のデータをそのまま出すのではなく、独自の取材を加え、調査報告の形式をとることです。内部告発を受け付け、その情報をもとに対象となる組織や人物に取材します。事実確認を経て、報告書としてサイトで公表するというものです。サイト名、「アノニマス・アナリティクス」は、「わかりやすい情報にすれば、影響力も強くなり、新たなジャーナリズムになる」と語っています。





以上、わたしの意見は記述してはいませんが、ソーシャル・メディアを巡る現状をわたしなりに考えてみました。





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