2017年8月13日日曜日

『身体から革命を起こす』  2.0


古武術家甲野善紀氏とフリーライターの田中聡氏の共著です。主に甲野氏が語った事を田中氏が文章化したらしい。甲野氏は、古武術の技を介護などに応用している人物で、日本の古い技を継承している貴重な存在の人なのだ…というわたしの感想。



もともと『忍者武芸帳』とか『カムイ外伝』などの白戸三平の劇画のファンだったので、わたし自身は昔の武術家の「凄技」を信じています。が、「本当のところはわからない」というのが本音です。甲野さんは、その凄技を体現し現実に出来ることを証明している人。どんな、技があるのかなあと軽いノリでこの本を手に取りましたが、さあ大変、「人の在り方」を問う深い内容でした。



とは言え、難しい本ではなく、甲野氏はただご自分の日々の修行のことを語っています。そして、甲野氏に圧倒された各分野の一流の人たちが、彼の「技」に対して共感しています。例えば、元巨人軍桑田真澄氏、コンテンポラリー・ダンサーの山田うん女史、フルート奏者の白川真理女史そして介護福祉士の岡田慎一郎氏などなど。



感銘を受けたところは多々ありますが、一番は「人間は自分の身体の使い方を忘れてしまった」ということ。わたしも常々、科学の進歩で「人間は何かヤバいことになっている」とうすうす感じていました。実際に「どうなのか」ということが語られていて、わたしが感じていたこともあながち間違いではなかったと思いました。









日本における最初の変化は、やはり「黒船来航」によるものでした。西欧人を見た日本の「偉い人たち」が、日本人の身体が西欧人と比べて貧弱であり、動き方も洗練されていないと感じたのです。もうひとつ、日本の近代化を促進する為の富国強兵に携わる軍隊が、日本人の身体行動パターンでは成り立たないということ。つまり、日本人は近代的な行動科学に基づく身体の動きをしていなかったということです。もちろんそれは日本人にとっては、理にかなった動きでありました。



近代医学で身体の構造を示されれば、なるほどそれは解剖してみればその通りだが、こういう構造だから、身体はこのように動いていると「概念化」されても、ところがどっこい、身体はそのように動いていないらしいのです。「医学的にあり得ないことが、我々の日常の暮らしである」と、著者は言っています。例えば、プロ野球でバッターがボールを打つことすら、情報の神経伝達の早さを考えると「ありえない」ことなのです。



いろいろな物が発明されるまでは、人間は己の身体を使って仕事をしていました。現在考えれば重労働のような仕事も、当時の人々はその仕事に合った身体の使い方をしていたので、それ程のことではないということです。当時は、身体の動き方で「何の仕事をしている人」とわかったそうです。日本人がアフリカの国々に行って、日常生活を体験するというテレビ番組がよくあります。そんな中で、アフリカの辺境に住む人々の身体能力に驚きますが、明治以前の日本においても、同様だったのではと。



著者によると、日本人の身体の動かし方はアジア人と比べてみても特殊なようです。しかし、例えどの国であっても(西欧でも)近代化される以前は、人は生活にあった動き方をしていました。科学的思考に基づき身体はこう動くものと概念化されたことにより、人は自分の自然な動きではなく、そのように概念化された動きに支配されるようになったと言えます。



「近代には、人々の暮らしが刻印された多様な身体に対して、一律な、あるべき体格や姿勢や動きが理想とされるようになる。健康で、清潔で、規律ある体である。その理想像の根拠をなしているのは、近代医学が解剖して見せる、一様な構造をもった身体である。(中略)。同様に、歩き方や運動の仕方も、日々の労働と無縁な、構造としての身体の営みとして指導されるようになる。学校は子供を家業の手伝いから引き離し、学校体育は、日々の暮らしと無縁な、すなわち生きるということと無関係な身体を築くべく教育する。」



と、書かれています。



冒頭で紹介したそれぞれ違った分野で活躍する人々は、甲野氏の講演や実技に接し、衝撃を受けます。そして、その一部でも自らの仕事にフィードバックできた時、彼らは「自分が持っていた感覚が蘇った」と感激します。



自分の持っている感覚を目覚めさせればいいんだと。フルート奏者の白川真理女史は述べています。



「音楽大学というのは、昔なかったんですよね。音楽は、本当に才能があって神様に選ばれた様な人だけがやっていた。それがフランス革命とかで市民階級が台頭して、その後有産階級の子弟が入れる学校ができて、ようするにお客さんになっちゃった。そうすると。大勢のほどほどの人に、そこそこのことができるように教えないといけないから、マニュアル化していった。」



才能がない人をそこそこにする教育ではなく、才能がなくても「身体の感覚を磨けば可能性が広がる」ということを、彼女は言いたかったのでは。



「マニュアル化する=学校」の存在は、資格制度の構築です。人間を平均化する事。だから、人は自らの能力を取り戻すしかない。自分の身体に聞いてみること。自分にとって何が正しいのかを見極める事。「生きているものとして在ること」、「生きている身体を取り戻すこと」…、そんな感想です。



また、西欧との違いはindividuality をどう見るかと言う事と思います。キリスト教文化と仏教文化の最たる違いはここにあります。この古武術を習得するにも、先ずは、意識を消すこと。己を消すこと。身体を自然な流れに任せ、意識せずに身体を動かせるようになる事とあります。



う~~~ん、西欧化してきた現代では、打ち破りがたい相克でしょうか。










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