2013年9月22日日曜日

囲碁とは・・・わたしにとって

 

たいそうな題ですが、つまり、囲碁の対戦で勝負に負けた時、何故そんなに落ち込むのだろうかと自問自答したのです。あくまでもド素人の囲碁を打ち始めたばかりのわたしの考えです。

 

将棋と囲碁はしばしば並び称せられますが、全く異質のものです。将棋の駒は、それぞれ意味を持っています。王とか飛車、角、金将、銀将などなど。それぞれが担う役割も違う、動き方も違う・・・。一方、囲碁の石は白と黒があるだけで、単なる石です。一つ一つの石、そこには何の意味もない、役割もない。そして、どこに置いても良いのです。

 

そんな石を前にして、戸惑うでしょ。なぜなら、その石自体には、なんの行動のヒントも含まれていないのですから。将棋なら、一つ一つの駒の意味を考え、動きを考え、どう動かして行けばいいのか、その関連性から「一歩を」踏み出せます。また、初めから布陣があって、自分自身で布陣を考える必要はありません。

 

もうひとつの違いは、将棋には明確な目的があります。「相手の王将を取る」と言うことです。そのひとつの目的に向かって邁進して行けば良いのです。しかし、囲碁の目的は「陣地を取る」という全く曖昧なものです。石をたくさん取るのではなく、陣地を確保するのです。それも、単に、「ひとつ」、一つの「目」を相手より多く確保すれば良いのです。十目勝ったって、二十目勝ったって、それは同じ「勝ち」なのですから。だから、この場所で少々地を失っても、違う場所で勝てばよい。地を囲えばいいのだから、石の捕り合いをする必要さえない。「わたしがこの場所をもらう」と宣言した場合に、相手が「ここはわたしの地所だ」と言い返した時、そこで初めて戦いが生じます。相手が「良いですよ。でもこちらはもらいますよ」と言えば、戦いは始まらないかもしれない。

 

つまり、勝負は相手との関連性です。はじめに布石を打つ。はじめから、自分で計画し構想を練らなければいけません。そして、石を打つことによって、相手と会話をしていると言う事。

「この辺りを少々頂いてもいいでしょうかね~~~。」とか。

「ここに入ってきたらユルサンゾ~~~。」とか。

「それは、あなた、欲張り過ぎなんじゃあアリマセンカ~~~。」とか。

 

日本的と言えば、日本的ですねえ。お互いにもたれ合って、最後にほんの少々勝たせてもらいますよ…、ってな感じで。それで、今、中国とか台湾、韓国の棋士たちが、もっとシビアーな戦いを挑んで来て、日本の棋士はちょっと形無しと言ったところでしょうか。しかし、彼等が一様に言うことは、「日本の棋譜」は美しいと言うこと。こんなところにも、日本の文化は「様式(スタイル)」を尊んでいるということが現われているのかと、感心致します。

 

 

話は元に戻って、それでは何故囲碁で負けると、将棋で負けた時よりも「落ち込む」のかと言うことについて。

 

それは、「石は動かないから」・・・、ではないかと思い至りました。いったん打たれた石はそこに留まっています。もちろん、捕られた時を除いてですが。勝負が終わるまでそこに在るのです。将棋の駒は動き回っているので、下手な手を指してもそこに永久に存在するわけではない。もちろん記録としては残りますが。

 

つまり、囲碁の場合は下手な石を打つと、そこに永久に存在し、「バカなわたし」を永久に指し示し続けるのです。

 

 




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