2014年4月19日土曜日

ラテンアメリカ文学・・・『百年の孤独』など


この17日、ガルシア=マルケスさんが他界した。87歳とのこと。1982年に『族長の秋』でノーベル文学賞を受賞した。わたしが学生の時は、ラテンアメリカ文学の巨匠ボルヘスを読むのが流行っていた。そのノリで、他のラテン文学の小説も読み漁っていた。ガルシア・マルケスは「族長の秋」「予告された殺人の記録」「エレンディラ」「ママ・グランデの葬儀」を、バルガス=リョサは「緑の家」「パンタレオン大尉と女たち」、そして、ちょっと志向が違うがプイグの「蜘蛛女のキス」、数十冊のボルヘスの本である。

 

マルケスの本で「予告された殺人の記録」「エレンディラ」は、すぐ読めた。「予告された殺人の記録」はアランドロンの息子の主役で映画化された。単純なミーハー的興味から「読んだ」と言える。「エレンディラ」も映画化されたが、夜中にテレビで放映されたものを見た。一生懸命、眠たいのをこらえて起きて見たのを思い出す。つまりこちらも軽いノリ。

 
 
 

バルガス=リョサの『緑の家』は、若い時分はトライしたが、読みこなせなかった。最近、本の整理のために昔買った本で読んでいない本を再び読み出して、手に取ったのがバルガス=リョサの『緑の家』。読んでみたら非常にワクワクもので長い本がすんなり読めた。

ラテンアメリカ文学は自然なストレートな感情を小説の中に残していると思う。「小説は終わった。が、ラテンアメリカ文学にのみが体現している。」と言われる。19世紀から欧州で発達してきた成熟した市民生活を表現する術が行き詰まりになっているのだ。

 

彼が育ったペルーは、アマゾン川流域の原始の世界から→中世、近世、現代までを含むさまざまな文化を内包している。『緑の家』もその要素が複雑に絡み合って、時の流れも過去と現代がこんがらがっていてストーリーそのものは単純ではないが、人間の感情はストレートだ。それに引きかえ欧米諸国の文学は人工的な技巧に頼っている。複雑な精神障害の世界だ(それも好きなの)。

 

マルケスの『ママ・グランデの葬儀』は短編集である。おとぎ話のような奇想天外なエピソードの羅列だ。しかし、やはりここにも物語がある。人を感傷に誘う物語だ。とは言え単なる単純なお話で終わってはいない。現実と対比する夢や希望といった虚構の世界が微妙に溶け合って退屈させない。

 

この『ママ・グランデの葬儀』の中の数編の短編は、マルケスの代表作である『百年の孤独』のエピソードの支流であるらしい。彼は『百年の孤独』で、架空の土地マコンドのブエンディア一族の百年に渡る出来事を、数多くのエピソードから構成している。以前、この本を買っちゃおうかなとチェックすると、まだ文庫本は出ていなかった。わたしが買ったとたんに、何故か文庫化されそうな気がして・・・少し躊躇したが、結局買った。

 

グーグルで検索したら、「『百年の孤独』を文庫化したら読もうとしている人は、損をしている。今すぐ買って読む価値はある。」という、コメントがあった。わたしも、この本は、それほど素晴らしいと思う。

 

粗筋は以下の様。ウィキペディアから。

 

ホセ・アルカディオ・ブエンディアとウルスラ・イグアランを始祖とするブエンディア一族が蜃気楼の村、マコンドを創設し、隆盛を迎えながらも、やがて滅亡するまでの100年間を舞台としている。

 
コロンビアのリオアチャにあるコミュニティでは近い血縁での婚姻が続いて、豚の尻尾が生えた奇形児が生まれてしまった。それを見たウルスラは性行為を拒否し、その事を馬鹿にされたため、彼女の又従兄弟で夫のホセ・アルカディオはその馬鹿にした男を殺してしまう。その殺された男が夫婦の前にずっと現れ続けたために、ホセ・アルカディオ夫妻は故郷を離れてジャングルを放浪した末に新しい住処「マコンド」を開拓する。そして、ウルスラは「豚のしっぽ」が生まれないように、婚姻の相手は血の繋がりが無い相手に限定する、という家訓を残した。様々な人間模様や紆余曲折がありながら「マコンド」は繁栄していったが、しかし、ウルスラが残した家訓は玄孫の代に叔母と甥の恋愛結婚という形で破られ、「マコンド」は衰退と滅亡へ向かっていく。

 

 

もちろん、あらすじなどでは語れない小説であるが、この設定を見ただけでも興味津津なのでは。いかが。






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