2014年6月23日月曜日

読書ノート


先日、本棚をプラプラと探索していたら、いつ書いたかわからない読書ノートを見つけた。中を見てみると、なんだか素敵な事が書いてあった。わたしにこんなこと書けるわけがないので、何かの本の書き写しと思う。

 

「人間は、哲学によって、人間であることから解放される。」

 

こう書いてあった。

 

多分、別冊宝島44『現代思想・入門――サルトルからデリダ、ドゥルーズまで、知の最前線の完全見取り図!』のノートと思う。中を見ると1985年発行とあった。約30年前だ。今はもう「最前線」ではない。この後にポストコロニアリズムやカルチャラル・スタディが続いて行く。

 

この頃は訳もなく、全然理解しないまま、心に引っかかったフレーズを書きとめていたのであろう。今は、少しわかるような気がする。人間は言葉を発明して以来、物事を抽象化し続けている。この抽象化したものと現実実体の乖離を埋めるものをヒトは探し続けているのだということがわたしにもわかってきたからだ。

 
 
 
 

デカルトは「認識と実在としての対象の一致は、神によって保証されている。」と言う。神が存在していた時代はこれでよかった。人が神を信じなくなってからは、人類は自らの手でこの問題を解決しなくてはいけない。そして、今なお哲学者と言われる人たちは、この問題に取り組んでいるのだ。

 

フーコーは、その著書『言葉と物』の中で、エピステーメの三つの時代について述べている。

1.ルネッサンス期とバロック期:言葉と事物が一致していた時代から、裂け目ができ始めた時代

2.古典主義の時代(17世紀前半~18世紀末):言葉と事物が分離し、言葉が事物の記号となった時代

3.19世紀以降のいわゆる近代:「人間」という中心的概念の要求

 

 

人間は、確かに宇宙の一部であった。しかし、近代が「合理的理性」を人間の土台に据えたため、人間は自分の中から「自然」を排除し始めた。それは永遠に到達できない目標である。銀河鉄道999の星野鉄郎のように機械の身体を求め続けて行くとでも言うのであろうか。






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