2021年9月25日土曜日

マスク




 

先日囲碁クラブに行きました。週2回は行っているのだが。。。


先生は、アマとしては大変な人らしく、わたしは現役時代を知りませんが、アマ日本一に10年くらい連続なっていたらしいです。


今では、そんな大層な先生らしい振る舞いはなく、わたしたち生徒(?)は、先生を弄くりまわしています。


先生は、マスクをしていない人に無料でマスクを渡し、「マスクを付けろ。」と言います。そのマスクの一箱が不良品だったとかで、着けているとヒモがすぐ切れてしまうと言うことでした。


わたしは思わず、「それは、中国製でしょう。」と言ってしまいました。先生も、「そうだ、中国製だ。」と。


わたしは、この類の話は「偏見」だと思っていました。しかし、2003年から2年ほど上海で過ごした後は、真実だと思います。それは、「良い悪い」の問題ではなく、感覚の違いあるいは文化の違いです。


日本人は、不良品を作ってしまったら、申し訳ないと思います。しかし、世界中の人が必ずしもそういう感覚を持ってはいません。中国の人を一括りに話すことは出来ませんが、たいていは、物を作れば不良品が出るのは「必然だ」と思っています。


中国の人と商取引をすると、例えば物を100個買うと120個以上は箱に入っています。不良品の分が予め入っているということです。




上海にいる時、上海人の友達に聞いてみました。

「わたしは、何を買うべきではない?」

彼女は、少し考えて、

「冷凍食品。」と答えました。「腐ったものを冷凍しているかもしれないから。」と。

「そんな腐った物を売ったら、評判が落ちて買い物客が減るんじゃないの?」と聞くと、

「そんなことは無い。騙された自分が悪いと思う。これからは気を付けようと思う。」と。


また、別の人は、「不良品を押し付けられたら、素早く他の人にそれを押し付けるんだ。」と。


海外にいるといろいろなことに驚きます。「日本人しか」そういう風に考えていないという事は多々ありますよ。


以前にも書きましたが、わたしのブログのすべてを読んでいる人はいないと思うので、もう一度書きますと、


上海の呑み屋さんで5~6人で飲んでいた時、日本人は私一人でした。枝豆を食べていると皆が私の方を見ています。友達が訳してくれました。


わたしが、自分のお皿の中に枝豆の殻をのせているのが気持ち悪いと言うのです。わたしは私で、彼らがテーブルの上に平気で殻を散らかしているのを不快に思っていました。


わたしは、ゴミは自分のところにという思い。彼等は、ゴミをじぶんのお皿にのせているのは、変だ(衛生上悪い?)という思いです。


わたしはそれを聞いて、ペーパーナプキンでお皿を作り、自分のお皿の中の殻をその中に入れました。友達が、「皆もそうしろ」と言ってくれたらしく、彼らは口々に「良い考えだね。」と賛成してくれました。


そんなことです。「悪感情」はそんなにあるわけではないのです。




2021年9月24日金曜日

昨日の「折々のことば」

 



朝日新聞のコラムです。長いお休みがありましたが、少々前から再開しています。


昨日の言葉は、


「まさに身近な者こそ愛することは不可能なので、愛しうるのは遠いものだけだ。」

ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』の中の物だそうです。


解説:

この言葉は他人と他者は違うと教える。赤の他人は私と無関係なので、他者としての存在は希薄だ。逆に身近な人は私と磁石の同極のような関係にある。我が鬩ぎ合い、意地を張り合い、些末な行き違いにそのつど引っかかる。つまり他者の度合いが高い。(鷲田清一)


「他者」という言葉は、何故か魅惑的だ。若い時分から興味がありました。『自己と他者』という心理学の本も学生時代に読みました。


他人より家族間の殺人事件が多いというのも納得できますネ。





2021年9月10日金曜日

ジャンポール・ベルモンドと朝日新聞


 


彼が亡くなって、朝日新聞では、3日連続の追悼記事を掲載している。フランの俳優だが、外国の俳優が亡くなって、これほど追悼記事が書かれるのは稀なことと思うが、どうでしょう。


ノーベル賞受賞級の作家とか、日本の作家では見たことはある。別役実とか安部公房氏等々。あとは、科学者とか政治家とかそんな類。




ジャンポール・ベルモンドはわたしの青春です。と言ってもリアルタイムではありませんが。当時は(40年くらい前)は、海外の書籍、映画などは、まあ5年は遅れて日本に入ってきていました。海外情報を得る知識がない限り、いくら頑張っても新情報に触れるには5年かかるということです。


しかし、わたしが彼に出会ったのは、リバイバルです。大学生時代にブームがありました。そして、そのブームに乗るのが「かっこいい事」でした。「きちがいピエロ」(今では差別用語)、「勝手にしやがれ」等々。ゴダールとの作品です。


その後には、商業映画にも多数主演し、アラン・ドロンとも共演。名実ともにフランスの大スターでした。


また、当時はヨーロッパ映画が多数日本でも上映されました。フランス映画、イタリア映画、ドイツ映画など。ゴダール、フェリーニ、ビスコンティなど……懐かしい~~~。


朝日新聞は、高校生くらいの時から読んでいます。朝日新聞を読んでいると言うと、「左よりだね。」とよく言われます。が、わたしは、政治問題でなく「文化面」がお気に入り。わたしの趣味によく合います。


書籍、映画、舞台、絵画の情報など、朝日新聞頼りでした。しかし、振り返って考えてみると、わたしが朝日新聞を選んだのか、朝日新聞がわたしを感化したのか?


大きな問題にぶち当たってしまいましたあ~~~。





2021年9月2日木曜日

いかん。。。

 



ピロリ菌の除去の薬を飲み終わって、ウィスキーを買ってしまった。スーパーで買ったので上等なものではないが。


昨日、薬を飲み終わって、今日、ヤバイ雰囲気。


呑んでいます。自重する理性がどこまで続くかです。




2021年8月27日金曜日

自分へのご褒美

 



自分へのご褒美なんて…今まで考えてもみませんでした。一人暮らしで、いつも自分の好きなものを買っているからです。


今回、


7月初めくらいまで、持病のため、薬を飲んでおりました。そして、禁酒しておりました。その治療がようやく終わり(30週間くらい)、ヤレヤレと思って、お医者様にビールを飲んでよいか聞きました。


肝臓が悪いわけではないので、良いです。。。との返事。


当然のことながら、飲酒開始。


で、


先日、クリニックに行きました。わたしは、定期健診と思っていましたら、


今日、来てもらったのはピロリ菌の薬を渡すためです、と。


なんてこったい!!!





そう言えば、そんな話は聞いていました。でも、治療の方に専念していて、すっかり忘れていました。しかし、その時、しっかり「禁酒するなら薬はやめる。」と言っておきました。先生は、飲んでも大丈夫と。


今回もしっかりその点を確認しました。先生は、そんな発言(飲んでも良い)は忘れていたようですが、「アルコールは、薬に影響しないと思いますよ~~~」的発言。「飲んで薬を飲むのを忘れる人がいますから気を付けるように。」と。


で、今回はビールは飲むけど控えめにしておこうと……決心。


で、


1週間、飲み終わったら、「自分へのご褒美」に美味し~~~いウィスキーを買って飲みます。この際奮発して5000円くらいのボトルを買います。



以上





2021年8月14日土曜日

スランプです。


 


囲碁のことです。スランプが続ています。どのように考えて打ったらいいのか混乱してます。


そこで、思いついたのは「あらゆる偏見を捨て、思い込みを捨て、仏のようになる。そして、『水溜りに好奇心で足を突っ込まない事』」です。


わたしの人生……いつも言われることは、「基本を学べ」です。その他、基本に忠実にとか、普通にやれ、とかーーー。


しかし、それって退屈じゃありませんか?わたしもわかっているのです。基本は大切、マスターしなければいけない、ってことは。でも、やっている内につまらなくなって、ついつい足を踏み外してしまいます。



「仏のように」とは、


最近思っていることは、「宗教って、結局は自己中」なのでは?

あらゆる宗教が唱えている事は、他の人にやさしくなること。ヒトのために働く事、等々。その意味は、自分が天国に行く為の行動です。己が成就すべきことのための鍛錬です。すべて自分の修行のための行為です。日本の諺の「情けは人の為ならず」ってことですか。


そして、最終的に、修行に全うした「その自分を抹消する」ことです。無になる。。。


そこまで達観はできませんが、己に向かって打つ努力をしようと考えました。


まあ、アホな独り言です。




2021年8月7日土曜日

『化け物心中』を読んで。


 

『化け物心中』

 

江戸時代、文政年間のお話です。舞台は、江戸の芝居町、役者とその贔屓筋が蠢く町です。

 

わたしは、江戸時代の末期あるいは明治初期が舞台の物語が好きです。何故でしょうか?思うに、「近世」と「まだまだ西洋の合理主義の洗礼を受けていない」時代の混沌とした世界が好きだからではと。理性と迷信が混ざり合っています。

 

この作品もそんなところです。余計なことですが、明治初期が舞台の作品としては、山田風太郎の『警視庁草子』や『幻燈辻馬車』などが好みです。言い忘れましたが、全てミステリー、推理小説の類の作品の事ですから。

 



さてお話は、役者6人と座元が集まって次回の演題の前読みをしていた夜の事。突然、蠟燭が消え暗闇の中で嫌な音が響き生首がゴロリと。そして灯りが点されたときには、生首はなく血の溜りと肉片が残されていました。

 

この時代の電灯がなく、いつも薄闇が拡がっているという雰囲気も良いですね。

 

これは、役者のなかの誰か一人が鬼に食べられて、その鬼が食した者と入れ替わっているのだと座元が推察します。そして、鬼は誰に入れ替わっているのかという探索をある人物に委託します。

 

それが、かつて一世を風靡した人気女形役者の白魚屋田村と魚之助。コンビを組むのは、鳥屋の藤九郎。魚之介は、舞台で教条的なファンに足を斬りつけられ(なぜなら魚之介の名の由来は、その足が白魚のように美しい事。)、両足の膝から下を切断する破目になったのでした。

 

魚之介は、藤九郎の背中に負われ彼を足代わりに犯人捜しです。魚之介と藤九郎の関係性もこの話の伏線です。

 

藤九郎は、大店の鳥屋の息子。彼は家業を助けながらも、暇な時間を町中ですごしています。江戸時代に「鳥屋」があったと言うのも少々驚きですが、世界でも一番の人口を抱える江戸の町、どんな道楽があっても不思議はないですね。

 

わたしの興味は、この「働きながらもブラブラしている」江戸時代の町人の生きる姿勢です。日本人の仕事は効率が悪いと言われても、「ブラブラ働く」という文化があるんですよと言いたい。

 

どんどん話が逸れていきますねえ。



藤九郎と魚之介の出会いは、藤九郎にとっては良いものではありませんでした。魚之介が鳥屋からカナリアを買います。その数日後、カナリアが病気になったから見に来てくれと鳥屋に連絡が入ります。そこで、藤九郎が様子を見に行くと……、

 

魚之介の家の座敷の畳の上に、カナリアが転がっていました。藤九郎が見ると、カナリアは両翼の骨を折られていたのでした。藤九郎は、鳥をとても可愛がっているので、この魚之介の行為に我慢できません。

 

カナリアを引き取って治療しますが、カナリアは命は取り留めたものの飛べなくなってしまいます。

 

こんな仕打ちをされた藤九郎は、なぜ魚之介の手助けをするのか?藤九郎の人の良さもありますが、このエピソードもお話の横の糸です。魚之介の気持ちがカギです。

 

そんなこんなで魚之介は、鬼に代わられたのではないかという6人の役者たちの一人一人を訪問、詰問します。その6人6様の「役者魂」が浮き彫りにされ、一人一人の「役者である事」の苦悩が強烈に話を支配します。

 

しかし、藤九郎はお芝居に関心なし。そんな藤九郎の狂言回しも面白い。

 



 

わたしは、ホントに鬼の仕業なのだろうかと疑って読んでいました。江戸時代でもホントに鬼が犯人なの?と。役者が鬼の仕業と仕組んだ殺人なのではと。

 

しかし、書いていいかどうかはわかりませんが、本当に鬼の仕業でした。闇に隠れて生きる鬼が、なぜ役者と言う一番人の目に触れる存在と成り替わったのか?

 

最後の謎解きは、鬼の心情となぜ『化け物心中』という題名なのかという理由を明かします。また、魚之介の女形である事と「男である」という苦悩の吐露、そして、藤九郎の純粋な気持ちの発露……泣いてしまいました。すぐ泣く人でスイマセン。

 

とにかく、楽しめました。