2014年2月23日日曜日

『ヒトの変異』  アルマン・マリー・ルロウ



著者は、ニュージーランド生まれ。国籍はオランダ。ニュージーランド、南アフリカ、カナダで少年期を過ごし、カナダの大学卒業後、カリフォルニア大学で博士号を取得。この本は何の分野に入るのでしょうか。ロンドンのカレッジの進化発生生物学部門リーダーを務めると紹介されています。

 
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彼がこの本で一番言いたいことは「総ての人がミュータント(遺伝子が変異しているということ)である」ということだと思う。「第一章ミュータント―――はじめに」で、「わたしたちはみなミュータントなのだ。ただその程度が、人によって違うだけなのだ」と言っている。

 

以前からこのブログでも主張しているように、「自分は正常だ」と思って生きているが、多かれ少なかれ人は異常なところを持っているものだ。一番気に入っているわたしの創作話は、『友達のさかなのペット』である。友達は珍しい魚をペットとして飼っているが、一匹だけとても凶暴な奴がいて他の魚を傷つけていると嘆く。わたしは、その魚が悪いのではなく、脳が傷ついているのかもしれないと彼を諭す話だ。

 

近年、科学の進歩は目覚ましく、今までわかっていなかった事が徐々に証明されてきている。共感覚の人がいることや発達障害の子供の事、性同一障害など。これまでは、単なるその人の個性と思われてきた事が、実は彼等にはなんの責任もない遺伝的障害だったのかもしれないのである。人間社会がこれ程発達していない時なら、彼等も少々変わった人として認知され、彼等の真実は発見されず、「友達のさかなのペット」のように訳もなく批難または排除されていただろう。

 

日常生活には支障はないが、やはりおかしいという事もある。見過ごされているケースだ。例えばこの本で紹介されている例で言うと、肋骨が余分にある人は成人十人に一人、内臓逆位で生まれる人は八千五百人に一人。何らかの遺伝的障害によって発達が抑制されたり、逆に大きくなりすぎたりする事例のない器官はほとんど一つもないと述べられている。「筋肉が余分にあっても気がつかないからか、仮に気がついたとしても気に病むほどのことはないからか、記録はされていない」と。

 

また、祖先から代々変異遺伝子を受け継いでいても、劣性遺伝であるため表面には現れず、そのまま次世代にまた伝えている可能性もある。つまり、人間の完璧なゲノムなど存在せず、生きているほとんどの人がなんらかの変異(ミュータント)を持っていると言える。

 

 

この本では、人が母親の胎内で胚からどのような過程を経て人になるかということが、とても丁寧に詳しく記載されている。わたしが述べていることは絶対的に正しいのだと言う押し付けがましさもなく、とても控え目で真摯だ。遺伝子がどんなに繊細な働きをして、わたしたちの体を作り上げていくのかが、すばらしく「美しく」語られている。これを書くためにどれだけの文献を精査したのだろうかと、素直に驚きと尊敬の念を持ってしまうほどに。

 

ヒト胚から人になっていくのは、その遺伝子情報に基づいている。その遺伝子の意味を変える「変異」は、人が持つ遺伝子のすべての65%にそれぞれ少なくとも一つ発見されると言う。この変異のうちのほとんどは人の形成にほとんど影響を及ぼさない物だ。残りのわずかな数の変異が人の身体に影響を及ぼす。例えば、無頭蓋骨症、結合性双生児など。しかし、これらの変異は時が経つにつれて自然選択され消滅する。(つまり、次世代にこの遺伝子を伝えるまで生きられないということ)。そして、この人の形成に悪い影響を与えない変異が人間の多様性を作り出している。

 

著者は、「人種と言われているもの」での皮膚の色の違いとか骨格の違いがどのように遺伝子的に生まれるのかに深い興味を抱いているが、この多様性による遺伝子の違いは、伝統的・民族文化人類学的な人種とは一致しないと述べている。人種間で見られる遺伝子の違いは、同じ民族間でも同様に見られるものであると。つまり、人類の間に境界線を引くことはできない。遺伝子学者は「人種」それ自体の存在に疑問を抱いているようだ。

 

このような発生生物学に関連して、文化人類学的な事象を考察している点がさらに興味深い。他の例で言うと、老化。老化とは一つの遺伝子疾患と言うより遺伝的疾患の集まりであると述べられている。老化の引き金を引く遺伝子があると仮定すると、それは中年あるいは老年期に現れるものであるから、自然選択(疾患のために早死にするほどは悪い遺伝子ではないと言う事)を免れて子孫に代々受けて継がれていく。そして現代にいたるという事。つまり、総ての人が、その老化の遺伝子的疾患を持っているという事だ。

 

反対に長寿の遺伝子もあるようだ。自然選択により長寿なショウジョウバエをつくるとどうなるか。寿命が延びるにつれて(一匹のショウジョウバエではなく、寿命の長い種ができるにつれて)若い頃の生殖活動が鈍化する。生殖活動を控えるようになるにつれて、エネルギーを体内に溜め込み、脂肪と糖分を備蓄する。動きが緩慢になるので新陳代謝は低下。つまり、著者が言うには、老化は若い頃に子孫を残した代償である。将来、人類は好きなだけ長生きする為に、いろいろな事をするだろうがその代償は中年並みの精力と食欲と魅力しかない二十歳の若者だろうとの著者の言。

 

また、「美」について。著者は「肉体的な美」について言及している。彼は、哲学者の言を紹介している。「美は生殖を促す。美しいものを目にすると、体全体がそれを複製したくなるものだ」は、現代の哲学者エレイン・スカリー。プラトンはソクラテスとディオティーマの恋愛論を引いている。「簡単に言えば、ソクラテスよ、愛の目的はおまえが考えているようなもの、つまり美そのものなどではない」とディオーティーマは語る。「それでは何なのですか?」「愛の目的は子をもうけ、美を生み出す事だ」「本当ですか?」「そうとも断言しよう」。ダーウィンはこう言う。「最も洗練された美とは、メスを引きつけるものであり、それ以外の何物でもない」。これが美の定義である。

 

著者の考えでは、「基本的に、美は生理的な条件に関連し、実際、健康の証明書である」。美は健康を現わしている。きれいな肌、輝く瞳、白い歯は美と共に健康であるということ。しかし現代、先進国では健康が行き渡った結果(基本的に)、総ての人が平均的に美しくなったのだろか。否、美は偏在する。これはある程度、美が健康の結果であると同時に富の結果でもあるからだ。では、総てが平等である社会を考えてみる。しかし、そこにも美の偏在はある。そこに、彼は遺伝子の変異を見る。わたしたちの顔は変異に非常に影響されやすい。奥深いところに現れた遺伝子の秩序の乱れも顔に現れる。

 

変異は人の意志ではどうにもできない「運に左右されるゲームのようなものだ」と著者は断わってはいるものの、美しいということは、遺伝的エラーが比較的少ないことを意味するのではないだろうかとの疑問を投げかけている。この疑問を証明するには至らないが、彼はその例として「血族結婚に見られる美の低下」と「ブラジル人のように混血の祖先をもつ人たちの美しさの面で劣性の変異が出てこない有利さ」を上げている。わたしとしては、心情的にそんなにスッキリとは割り切れないのだが。

 

最後に、興味深かった事がひとつ。それは、いま現在生きている生物・人間も過去に絶滅した生物の遺伝子を受け継いでいるということ。度々、指が五本ではなくそれ以上を持つ動物(あるいはヒト)が現れる。これは遺伝子の変異による奇形だと思われてきたが、新しく発見された化石から、四肢動物のすべてに多指の祖先がいたという事がわかった。三億六千年前ごろデボン紀の沼地に住んでいた三種類の両生類だ。それらは、それぞれ八本とか六本とか七本の指がある。つまり、多指の哺乳類は過去の名残を示しているという可能性が出てきたのだ。指のない魚から…デボン紀の多指の両生類…を経て五本指の四肢動物に至る五億年の旅。これもまた美しいかな。




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