2015年3月22日日曜日

1985年の切り抜き記事を見つけた!


先日机の抽斗を整理していたら、新聞の古い切抜きを発見した。メチャ黄ばんでいた。一番驚いたことは、字がすごく小さいということ。こんな小さな文字を若い頃は毎日読んでいたんだなあと思うと、自分が愛おしくなった。そして次に思ったことは、昔も(1985年、昭和60年の7月5日の記事です。)今もわたしがしていることは同じで、切り抜いている記事も同じようなものだということ。記事の題名は『女性論の現在―(4)』だった。内容はその頃はやりの論客の女性論。言っていることは今とあまり変わらない。ということは、世界は全然進歩していないということか。

 
 
 
 

明治大学教授、栗本慎一郎の言;「近代の市場社会は、男性論理によって動いていると思いますよ。」(氏は経済人類学が専門だそうです。)

 

近代社会は市場原理と合理的精神を柱としている。しかし、実はこれは非普遍的なもので、近代社会では西欧と日本だけ偶然成立した社会だと言う。

 

わたしも、今の社会の原理は非普遍的なものでいつでも変わりうると思っている。資本主義は人類の最終目標でもなければ、最後の理想の社会を実現したものでもないのである。わたしがそう言うと、たいていの人は、「資本主義社会じゃなかったら、何がその代わりになるの。」と、もう資本主義社会でなければ生きていけないような様相だ。しかし、王国で君主が支配していた近代以前の社会でも、人々はその社会以外の社会を想像することはなかった。王様が支配して我々は虐げられているが、世の中とはそういうものだと、自分の運命を受け入れていたのだ。

 

しかし、「近代社会では西欧と日本だけ偶然成立した社会だ」という所には、賛成しかねる。この「市場原理と合理的精神」は、たぶん(わたしは専門家ではないので)プロテスタントの思考だと思う。だから日本は例の如く受け入れたふりをして、好き勝手に解釈して己の道を進んでいるのだ。そして、西欧と言ってもカソリックの国々は少々事情が違うような気もするがいかんや。言わずもがな中国やその他アジアの国々、アラブやアフリカ諸国は、違うスタンダードを持っている。

 

氏が言いたかったことは、非普遍的なものは男性原理、そしてそれに対して普遍的なものが女性原理ということだ。もちろん、社会が「西欧論理」で進んできたのと同様に、支配権を持つ男性の「論理」で進んできたのは明白だ。この時代は(1985年)まだ、第三世界の勢力が顕著ではなかったので、単純に「男性対女性」という二元論になってしまったのであろう。世界は、現在もっと複雑な状況になっている。まして「性」も今や、「男と女」と単純には区分できないようになってきたしね。

 

 

記事は他の論者も紹介している。評論家、青木やよひ氏である。科学と自然を対比し、文化概念としての「女性の原理」の背後に「身体=自然」のイメージを捉えている。理性優先の西欧思想が、技術的な合理主義と結びつき、自然を支配する力となった。母性機能を持つゆえに、女性は身体感覚に敏感であり、自然に深い関心をもちうる。そこに氏は、未来の可能性を見ているようだ。

 

つまり、男性は自分の身体の中に「自然」を所有し難いが、女性は「産む性」として、常に自然と共にあると言うこと。わたしもこの点に関しては同意見だ。しかし、最近思うことは、自然を自分の身体から捨て去って、どんどん身体が「人工物」に変わっていくのは、人類の進化の方向なのかもしれないと言うこと。もちろん善し悪しは別にしてだが。直近の新聞で見た記事は、iPS細胞から、人は、神経も筋肉も脳でさえも造れるようになったと伝えていた。女性が「産む」ということも、将来は「野蛮な行為」と見做されるかもしれない。「あら嫌だ。あの人自分で子供を産んだんですってよ。」なんてね。

 

また、「女性原理」と「男性原理」に言及する人たちには、他に画家・評論家の宮迫千鶴子氏、東大助教授(准教授)の横山紘一郎氏(歴史学)がいると紹介している。彼らは、これらの原理が、現実の男性・女性を体現するものではなく、両性が潜在的に秘めている両性具有的なものであると考えている。その全体的統合に、将来の可能性を探っていると記事にあった。

 

わたしの考えは、彼らに一番近いかもしれない。この混沌とした世の中、女性・男性という二元論ではもう計りきれないし、女性・男性の観点ばかりでなく、全人類の多様性を考慮しなければいけない。すべての統合に…、というか、「統合しないこと」に将来の可能性を託したい。

 

 






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