2015年7月28日火曜日

わたしは「何故」囲碁を頑張っているのか。


自分の趣味が何であるかという事をあまり考えた事はありません。ただ、好きな事をしているだけです。なにかの拍子に「御趣味は」と聞かれた場合は、「読書です」あるいは少し前は「映画鑑賞です」と答えていました。しかし、趣味とは言えないなあ~~~。

 

2年ほど前から囲碁を始め、碁会所や棋院にも通っています。傍から見るとこれはまさにわたしの「趣味」のようです。我ながら、「わたしはなんでこんなに頑張って囲碁をしているんだろう。」と思う時もあります。だって、囲碁は単なるゲームなのですから。

 

何故なのだろうと考えると、わたしが好きで現在やっていることは、三つあると気付きました。ブログ、英語、囲碁です。ブログは、上海から戻った2005年頃に始めましたので、もう10年は続いています。何事も少しは一人前になるのに10年はかかると思っていますが、「ブログを書く」ことも最近ではスムースに書けるようになって来た感がします。もともと本を読むことが好きなので、自分でも何か書きたいという欲求はありました。その意味は?と考えると、どうも自己表現の欲求ではないかと。そして何かを創造(創作)することかと。

 

次に英語ですが、これはたぶん1998年ケープタウンの英語学校に行ったのが始まりと思います。なので、これも10年以上たっています。海外の英語学校でアドバンス・クラスに入ることができたのは、2007年マルタの学校の時ですから、やはり10年はかかっています。人と話すことがキライで、まして英語力はわたしの仕事に関係はなかったし、日本で暮らしているかぎり英語を使うシーンなどどこにもありません。2~3回道端で、英語で道を尋ねられた時に使っただけです。(余談ながら、海外旅行に英語は必要ありませんよ。中国語をしゃべれない私でも上海で暮らせましたしネ。)

 

では何故英語の勉強を続けていたのだろうかと考えると、やはり自己表現と思います。これはチョット屈折していますが、1998年頃英語を始めた時の先生(日本の学校の先生)があまりにも理不尽だと感じたからです。英語を話しているというだけで上から目線、そして英語を話せない生徒を子ども扱い…、または、自国の文化だけを良い文化、日本の文化は遅れていると、そんなところです。日本語は野蛮で、表現方法が洗練されていないと、言った先生もいましたよ。漫才や落語などの「日本の話芸」も、彼等は見下しています。日本語を理解していないのに、なぜ批評できるのかと思ってしまいます。そんな訳でわたしは彼等に反対意見を言うために英語を学び続けたのでした。そして、自分の意見を表現する技術を見に付け、創造の世界を手に入れたのです。(少々オーバーな表現があるところはお許しください。)

 
 
 
 

そして囲碁です。囲碁は、老いても続けられることは何かと思い、始めました。始める前に、NHKの囲碁講座を2~3カ月見続けました。これならできるという確証が欲しかったからです。やり始めたのはいいものの、たいへんな道のりです。今までのゲームでは、こうすれば勝てるという漠とした方法がすぐわかりましたが、碁はわかりません。やれどもやれども、新たな疑問符が湧いてくるのです。

 

わたしの周りの人たちは10年も20年も30年も囲碁を打ち続けている方々。先ずは、基本的知識と経験の不足だと思い、今は我慢の時と頑張っています。そうすると、「何故なんだ」という疑問が湧いてくるのです。囲碁なんて所詮ゲームじゃないか。なんの役にも立たないし、いっしょうけんめいやる価値は果たしてあるのかと。

 

しかし、囲碁も自己表現の一種ではないのかと思い至りました。昔の人が考えた定石を覚え、それを駆使して勝つことに何の意味があるのかと思いましたが、そこを乗り越えるところに意味があるのではと。数学の定理を覚えてからの自分のテーマの「発見」というように。

 

自分の「局」を創造すること――これかなと。でも、これはプロの棋士でも容易な業ではありません…と思います。これもまた、10年経てば微かな道が見えてくるのかなあと思う今日この頃です。とりあえずの目標は、2~3年内に有段者になることと、しておきましょう。









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