2016年4月26日火曜日

囲碁を打つ


井山名人が七冠を制覇しました。大変な快挙です。私の囲碁はと言いますと、まだまだ基礎の基礎です。数学で例えれば、定理とか方程式を勉強している段階。応用問題もまだ解けません。方程式を学んでそれを組合わせて問題を解くという段階にまで早く行きたいものです。その先にも、真理を探究する道が待っている訳なのですが。

 

英語の勉強で例えますと、まだまだ英単語を覚える段階。それを駆使して文を作り会話をする、プレゼンをする、文章を書く……など、まだまだ先の話です。実際のわたしの英語学習は、文章を書くまでは行きました。が、「良い文章」か、というとどうでしょうか。英語を勉強しても小説家にはなれないのですから。それにはそれなりの才能が必要です。

 

今、囲碁を打っていると、時々「何をしているんだろうか。」と思います。つまり、定石や手筋などを覚えて対局しても、自分の碁を打っているとは思えません。相手もそれなりに定石などを覚えているのですから。それで考えたことは、自分と相手が定石を駆使して闘い、それが「プラス・マイナス」ゼロになった時、ほんとうの勝負ができるのではないかということ。今は、どちらがたくさん基本情報を知っているかの戦いのようです。

 

プロ棋士となれば、すべての知識を手に入れた後の戦いです。そこに「自分の碁」を作り上げる才能が出てくるのでしょう。この先、囲碁の勉強を続けて行って、その段階に行ける可能性はあるのでしょうか。英語を学習しても作家にはなれないように、囲碁を続けていってもそこに自分の世界を描ける保証はありません。当然ながら。

 
 

 

わたしが通っている囲碁サロンの先生は、「囲碁を打つものは親の死には目にあえない」と常々言っています。親が臨終のときでも、囲碁の対局を途中で止めることはできないと言う意味です。それだけ囲碁に取り憑かれるということ。ネットゲームに耽溺している若者の批判などできませんよ。サロンの仲間は、たいてい毎日のようにいろいろなサロン、棋院、クラブなどを渡り歩いています。家に帰ればネット対戦です。

 

わたしは今のところ「週2」ですが、もう一日どこかに行っちゃうかも。とにかくOBSESSIONですよ。サロンの先生に「先生が百歳になった時に勝負しよう。」と言っております。その頃には、先生は耄碌してわたしが勝てるかもしれないと言う目論見です。先生は、「百歳までの楽しみが出来ましたね。」と。

 

日々精進です。









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