2017年9月2日土曜日

『ゾミア』を読んで



最近のテクノロジーの発展、科学の発展により、現在いろいろな事が明らかになって来ています。ビッグバン以前の宇宙がどんなものであったかも理論的には解明されつつあります。また、深海に生きる生物の生態なども深海まで到達できる潜水艦の技術により明らかになりつつあります。



それでは、わたしたちが住んでいるこの社会はどうなのか。わたしたちは、どうしてこのような社会に暮らしているのかは、わかっているのでしょうか。わたしの机の引き出しに「国民国家の問題点」というメモがひっそりしまわれています。『ゾミア――脱国家の世界史』を読んで、少しだけわたしにも理解ができそうな気がしてきました。



The Art of Not Being Governed---An Anarchist History of Upland Southeast Asia, by James C. Scott です。「脱国家」と謳われているように、デリダの「脱構築」系統の本のようです。











ゾミアはベトナム中央高原からインドの北東部に至る地域です。面積およそ250万平方キロメートル、約1億の少数民族の人々が住んでいます。一番驚いたことは、わたしの無知からですが、彼等は文明から取り残された人々ではないと言うことです。それ以上に、文明から逃れようとしている人々なのです。



文明とはなにかは、以前『HUMAN』という本を読んで少々理解できました。初期国家の人々は、大半は自由民ではなかった。国家に拘束された人々だった。国家(支配者)は、その存続を維持する為に、人々を囲い込み、労働力と徴税を確保しなければならなかった。つまり、人を土地に縛り付けコントロールしやすいようにする。考えてみたら、牧場のようなものかもしれませんね。そして、その人々に国家や支配者の正統性を敬うように明確なイデオロギー、セオリーを与える。宗教もそのひとつです。



そして、そのような束縛から逃れようとする人々がいる。労役と搾取からです。「国家」から離れて、「国家」の勢力が及ばないところを移動し続けるのです。止まれば捕まってしまいますから。そして、そのようなコントロールが効かない人々を、国家は、「文明」と対比して「野蛮な未開人」と呼ぶのです。



この「野蛮な未開人」は歴史の初期段階で留まっている人々ではありません。『ゾミア』には、このように書かれています。「山岳部族は、人類史の初期段階の残存者で、それは、水田稲作農耕を発見し、文字を学び、文明の技巧を発展させ、仏教を取り入れる前の人々・・・と考えるのは間違いである。・・・定住型農耕と国家様式の発明に失敗した古代社会ではない。」



つまり、今日狩猟採集民として暮らしている人々は、百年前も狩猟採集民族であったとは単純に考えられないということ。彼は農耕民であったが、「国家」の締め付けにより、辺鄙な土地に逃れた人々かもしれない。実際、今農耕民で裕福な生活を営んでいるのは、先進国の農業従事者だけだと、なにかの本で読んだ記憶があります。低地で土地に縛られて農耕を志すより、焼畑農耕で点々と場所を換えて作物を作る方が、より労働としては効率がよいそうです。焼き畑が環境を破壊すると言うのも、「文明」の側からの間違った喧伝だと。日本人が割り箸を使うので、森林が破壊されるという喧伝のようなものですか。



この逃亡は、何も古代のものではありません。実際、第二次世界大戦前までは、頻繁に起っていたことなのです。低地民が山岳に逃れたり、また山岳民が低地にまいもどったり。植民地時代にも、彼等は植民者の西欧人を悩ましていました。居場所が特定できないので、支配する事ができないのです。また、彼等には真の意味での「支配者」を持っていないので(彼等の社会は平等です。支配者が現われてそれが引き継がれていくのを嫌いました。彼等は頻繁に支配者を殺していたそうです。「支配する者」は殺されるという強迫です。)、支配者を通じて民を統括するということができないのです。植民者は、先ず、彼等の支配者をでっちあげるところから始めなければいけなかった。



彼等は、永住が必要な水田農耕を捨てた。また、ほかにいろいろなものを捨てました。歴史、文字、アイデンティティをもです。ここから、歴史とは何か。文字とは何か。アイデンティティとは何か、という疑問が湧きあがります。



第二次世界大戦以降、近代的国家の概念は世界を覆い尽くしています。国と国の間には国境線が引かれ、もうあいまいな場所はほとんどない。「文明」から逃れたい人々の行き場所がなくなりつつあります。著者は、「だれが文明人でだれが未開人であるかを見分けるための座標軸は、国家によって収奪しやすい形態であるかどうである。」と述べています。










訳者の佐藤仁氏は、「あとがき」でこのように述べています。



「彼等を小さく、端へ追いやることに加担してきた私たち自身の歴史に向き合うのは、ちょっとした勇気がいる。山の民という鏡の中に、国家や資本主義に依存する私たちの本当の姿を覗き見る覚悟を持てるかどうかが、今、問われている。」



日本にも「山の民」はいました。また、現在の中央集権政治体制から追いやられている「地方」の実情を考えると、まだまだ、わたしたちの社会は到達点を迎えられないと思わざるを得ません。拙い文章なので、この本の意図が伝わっているかどうか。興味がある方は、是非『ゾミア』を読んで下さい。












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