『最後に鴉がやってくる』
イタロ・カルヴィーノの初期短編集です。カルヴィーノが大好きな私としては、即購入。しかし、いつもと違う雰囲気です。いつもの彼の幻想的雰囲気やシュールな感じ、または、おとぎ話的要素がない。
ロシアの古典小説のような「貧困、父権、無知」が支配し、重苦しい趣です。が、読み進めるうちに、段々彼独特のユーモアが表れてきました(年代順になっているのでしょうか?調べていませんが。)。
『木登り男爵』のようなおとぎ話プラス批判精神や『レ・コスミコミケ』のようなSF的要素、『遠ざかる家』のようなシュールな物語、等々。
表題の『最後に鴉がやってくる』も、話としては重苦しいですが、不思議な雰囲気が漂っています。
戦争を背景に、兵士の団体の前に少年が一人表れる。少年は、兵士のスキを見てひとりから銃を取り上げる。兵士が驚いているうちに、少年は川面に飛び跳ねた魚を銃で仕留めます。兵士は感心して少年が同行することを認めます。少年は、銃を要求します。兵士も貸与します。
そうやって道を進んで行くのですが~~~。
兵士は、少年の銃の腕前から敵を攻撃するのに役に立つと思っています。少年は、ただ銃を撃ちたいだけ。
その晩、少年は兵士たちが寝ているうちに一番良さそうな銃を掴んで、ひとり戸外に出ます。そしてひとり道を進んで行き、手当たり次第に生きているものを撃ち続けます。カケス、山鼠、動かない毒キノコさえも。
やがて一人の兵士が少年を見つけると、少年と兵士の戦いになる。
しかし、少年は兵士を撃つという明確な目的を持っているわけではなく、動くものなら何でも打つというスタンス。
兵士は鴉が飛んでいるのを見た。少年が撃つだろうと思った。が、鴉は一向に撃ち落とされる気配はなく、兵士は、鴉は幻で「死にゆく者はあらゆる種類の鳥が飛ぶのを見るものなのだろう。そしていよいよ最期というときに鴉がやってくる。」と思う。
そして、兵士は、「鴉が飛んでいるぞ~。」と少年に叫びかける。そして……最期は。。。
この年代の作家は第二次世界大戦の面影に支配されています。彼もパルチザンとし戦いました。大江健三郎然り。彼らは戦争の残像に悩まされ、作品を残していきました。その後もベトナム戦争や学生運動など「戦いの中」に生きてきた人々です。
近年「小説は終わった」という意見があります。名前は忘れましたがノーベル文学賞を受賞した作家の言です。奇しくも大江健三郎氏も同じようなことを述べていました。
私にはどういう意味か確信はもてませんが、「題材としての戦争」が終わったという意味もあるのでしょうか。
段々、世の中物騒な方向に進んで行きます。如何かな。