2014年7月22日火曜日

まだ読みかけですが――『イエス・キリストは実在したのか』について


今、『イエス・キリストは実在したのか』という本を読んでいます。原題は『Zealot---The Life and Times of Jesus of Nazareth』なので、日本語の題との違和感がありますが…。第3部までの構成ですが、第2部まで読み終えました。まだ、最後まで読んでいませんから、今日のところは「何故わたしはこの本を読んでいるのか」ということについて書きます。

 

まず、著者であるレザー・アスランがムスリムであるということです。この本文の前の「本書の執筆にあたって」で、彼は次のように書いています。彼は、イランで生まれ「自分はペルシャ人だからムスリムなのだ」という思いしかなく、宗教的伝統のある社会に生まれた人にとって、宗教は肌の色と同じくらい生来のもので特に感慨はないと書いています。考えてみれば、我々は仏教徒ということになっていますが(あるいは神道か)、自分自身で決めたことではありませんね。

 

彼は、1972年にテヘランで生まれ、1979年イラン革命時に家族とともにアメリカに亡命したということ。サンタ・クララ大学で宗教学を学び、ハーバード大学院で修士号を取りました。またアイオワ大学で創作小説の修士号も取得しており、宗教学者で作家であります。

 

彼がイエスと出会ったのは、15歳の時の福音伝道キャンプでだと書いてあります。すっかりキリスト教に魅せられて、キリスト教に転向したようです。しかし、聖書を深く読めば読むほど、イエス・キリストの人物像に矛盾を感じ、宗教学を学ぶようになりました。研究するにつれて、それは確信に変わり、精神的な拠り所をなくしキリスト教を捨てました。「わたしは騙されて高価な偽文書を買わされたような気分になって、腹が立ちキリスト教信仰を捨てた。」と書いています。

 

そして、自分の祖先の信仰と文化を再考するようになり、自分の肌身に合った親近感をその中に見出したようです。それでも学者として宗教学の研究を進め、イエスを歴史上の人物として再考し、実際にどのように生きた人であるのかに焦点を当ててこの本を書き上げました。ですから、福音書やその他の資料を精査し、どの部分に歴史的意味が含まれているかを判断して、いわば「歴史書としてのキリスト教について」が書かれていると言えます。この本の本文は277ページありますが、原注として70ページほど割いています。自分の偏見が入らないように、忠実に資料を研究したという意思が窺えると思います。

 



 

この本はアメリカでベスト・セラーと聞きました。今や、キリスト教を体現している数少ない国と思われるアメリカにおいて、「本書がベスト・セラーになるとは」という驚きもこの本を読んでいる理由のひとつです。訳者あとがきでエピソードが紹介されています。

 

アメリカでの刊行のすぐあと、2013年に右寄りのテレビ番組がこの著者アスランにインタヴューをしました。

 

「なぜ、ムスリムのあなたがイエスのことを書いたのか?」

 

これに対するアスランの答えは、

 

「自分は宗教学者、歴史家、著述者としての学位を持ち、その知識と綿密なリサーチによって、歴史上の人物としてのイエスの側面を20年に渡って研究した集大成として本書を上梓した。これに対する賛成論、反対論については、その理由を添えて、巻末に50頁以上にわたってできるだけ公平に付加している。また、キリスト教徒の学者がイスラームの歴史やその始祖ムハンマドについて書いてはいけない、あるいは書けるはずがないと決めつけるのはおかしのと同様、ムスリムがイエスのことを書くことを疑問視するのは妥当ではないのではないか。」

 

わたしは、まだこの本を読書中ですが、1世紀当時のパレスチナで数多いた「メシアと名のる人」の一人であったイエスが、どのように神格化されて世界中に信仰者を得るまでになったのかというお話から、日本での「アマテラス」が天皇家にとってどのように重要な物になったのかという本、『アマテラスの誕生』と『伊勢神宮の謎を解く』を読んだ時と同様のワクワク感を得られました。どの国でも為政者は自分の正当性を確保する為にいろいろでっちあげるものですネ。

 

 

また、今のパレスチナとイスラエルの戦争状況を考える時、2000年以上も前からの歴史の積み重ねが関係しているのかと思うと、複雑です。






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