2017年5月12日金曜日

『愉楽』の感想文



大変長い本でした。前半は、面白ながらも、ちょっと読むのに時間がかかりました。しかし後半は、あれよあれよという間に、読み進んで行けました。前半は、後半に進むための長い長い段取りだったんですね。前半を丁寧に読むことによって、後半の息をも吐かせぬ大団円に私自身は滑り込むことができたと思います。



内容の話は後にして、周辺事情から書きますと、彼は、ラテンアメリカ文学のガルシア=マルケスによく例えられます。つまり、マジック・リアリズム。私見では、マジック・リアリズムとは、過去と現在そして近未来が混然と一体化しているところに生じるものと思います。



マルケスやリョサを生んだ南アメリカは近未来的近代都市とアマゾン川流域のまだ原始の名残がある地域、そして中世の雰囲気を醸し出しているその中間地帯から成り立っています。決してヨーロッパの「洗練された都会」からは生まれないもの。そして、著者閻連科の中国は、やはり高層ビルが立ち並ぶ北京、上海を始めとする近未来的大都会と、山奥の少数民族が暮らす地域、そして、まだ中世を残す農業地帯が見られます。この物語は中国の革命後の世界から現代までのお話。しかし、読んでいると時々、中世のあるいは日本の明治時代の話ではないかと錯覚させられてしまいます。



あるいは、中国映画の『山の郵便配達人』が彷彿とされます。この郵便配達人は、徒歩で山の頂上までそこに住む少数の人々のために、何日もかけて郵便物を配達するのです。が、配達人の背景に、高速道路を駆け抜けて行くトラックなどが見えるんですよ。徒歩で郵便物を配るということが、同じ現代に同居しているんですね。日本のどこかのテレビ局も配達人の追跡調査の番組を作っていましたよ。スイマセン脇道に逸れてしまいした。



もうひとつマジック的な事は、巻や章が奇数しかないこと。第1巻の次は第3巻、第1章の次は第3章が続きます。「訳者あとがき」では、これも内容の魔術性を強調するのだと言っていますが、それはどうなのかなあ。ちょっと瑣末なこととも思いますが。中国の独特な文化に関連づけられているかもしれません。それから、お話の中で「注」が入ります。その注は、「くどい話」という章にまとまっています。例えば、方言の説明などがあります。しかし、しばしばその「くどい話」の中にも注が付き、「くどい話」の「くどい話」の章があります。そこでは、中国の革命事情とか歴史的な話も書かれていて、本文より長く、それだけで読める話となっていたり、「う~~~ん」と唸っちゃうほど、話の補完になっていたこともありました。






ガルシア=マルケスの『百年の孤独』は、女族長が百年に渡り家族を束ねて行く物語でした。この『愉楽』も女の長が、一つの村を引っ張っていくお話です。しかし、『長』と言っても、このふたりの女性は何か罪悪感のようなものを持ち続けています。長であるが故の「皆を幸せにしなければならない」という責任感に基づく、自分の力不足そして皆に対する申し訳のなさでしょうか。



『愉楽』の女族長は茅枝という名です。そして彼女を長とする村は、障害者ばかりの村。この村の成り立ちには伝説があるのですが、早い話が、邪魔者扱いされる障害者たちが(めくら、ちんば、つんぼ、おし、下半身不随,腕無し、などなど差別用語満載ですが、そのまま本にも記述されています。これらの言葉なしにこの本は成り立ちません。)、「その村では皆が障害者でどんな者でも受け入れてもらえる」と、どんどん集まってきたということでしょうか。



茅枝は、革命戦士でした。彼女が所属していた紅軍が戦闘で破れ、負傷者は自分の村に帰ることになりました。その時、彼女は孤児で自分がどの村の出身かわからなかったのです。それで、ひとりでそれらしき村に向かっている時に、凍傷で足の指をなくし、また崖から落ちて片足の骨を折りびっこになってしまいました。その時、この障害者の村「受活(楽しく暮す)村」を見つけ留まることにしたのです。彼女が紅軍の戦士ということで、皆も彼女を長として迎え入れたのでした。つまり、彼女の栄光のために障害者である「我々」も、県から尊重され幸せに暮らせると言う彼らの読みです。ここまでが、第一巻の第一章です。ですから、この物語の全てをとても書き記すことはできません。



で、お話は、大きく分けて二つの本流があります。ひとつは、この茅枝のこと。彼女は革命戦士であったために公社(共産党の人民は、総てを分け合いお互いに助け合うのだという組織)に入社することが皆の幸せであると思い、入社します。しかしその後、そのために村は不幸の連続に見舞われます。それで、彼女は入社した事を後悔し、彼女が死ぬまでには必ず退社して見せると誓うのです。さて、それは上手く行ったのでしょうか。村はどんな不幸な目にあったのでしょうか。



二つ目は、県長の柳さんの野望。彼は、県長として立派に県を治め、県民を幸せにし、その上の段階の出世を目指します。そのためにロシアからレーニンの遺体を購入し、県の財産にし、世界中からの見学者を集め金儲けをし、県を豊かにしようともくろみます。しかし、レーニンの遺体を買うには、莫大なお金が必要です。それのため受活村の障害者たちを集め、絶技団を結成し、巡業してお金を得ようと計画します。



ここまでもお話が前半の部分です。さて、柳県庁の運命はいかに、受活村のめくらやちんばの運命はいかに。こうしてお話は後半になだれ込んで行きます。柳県長と茅枝は、どういうようにリンクし、どう共鳴し合い、どういう結末になだれ込んで行くのか。興味が湧きましたら読んでみてください。





最後に、著者である閻連科は「リアリズム」をどう考えていたのかについて。彼は、「後記に代えて」の中に、「イズムまみれの現実からの超越をもとめて」という一文を書いています。彼は、「今の状況からすると、リアリズムは文学を謀殺する最大の元凶である。」と言います。



つまり思うに、リアリズム文学が現われた時は、それなりにリアリズムが現実に存在していた、真摯な人間の営みであったでしょう。が、現時点では、人間生活はあまりにも自然からかけ離れた次元にあります。人間は、自然の中で営んできた。大地や海や山とともに。今や、人は自然の中から何も産み出していない(「何も」は言い過ぎだが。)。第3次産業が、主流の世の中です。人間はもはや「リアル」なものを扱っていないのです。



彼はこう書いています。



どうか「現実」とか「真実」とか「芸術の源泉は生活」だとか「生活は創作の唯一の源泉」などという、とりとめもない話を信じないで欲しい。事実、あなたの目の前には真実の生活など並べられていないし、どの真実も作家の頭を通った後はすべて虚偽となってしまっているのだ。



だから、



現世界に、もはやリアリズムなどない。芸術にリアリズムを求めるのは「ないものねだり」という事でしょうか。







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