2019年5月10日金曜日

読んでいない本の感想文です。








新聞の広告欄を見て興味を持った本です。今回は3冊興味のあるタイトルの本がありました。



1冊目は、『シンギュラリティは近い――人類が生命を超越するとき』です。キャッチコピーは、「2045年、これが私たちの衝撃の姿だ!」。または、「『ポスト・ヒューマン誕生』のエッセンスを集めた決定版!」。



先ず、「シンギュラリティとは何か。」と考えました。Singularの名詞形だなと。だから、単数、単一の意味かと。で、ふだんわたしが考えていること―――、『人類はサイボーグ化している。』つまりiPS細胞からの身体の再生や、コンピュータ制御の人工四肢や人工耳、人工眼、その他諸々で、人はもう自然界から遠い存在。SFの世界の「機械人間」です。この調子で行くと、人は死ななくなる。もはや生殖活動は必要ない。と言うことで、人類は単細胞生物のように「不死」となり、「性生殖」を失うということかなあと。つまり単一性。――シンギュラリティの意味の話ですが。



しかしアマゾンで検索したところ、どうも違うらしい。「特異性」という意味らしいとわかりました。「人類は生命を超越する」です。「AIが人類の知性を上回り、私たちは生物の限界を超えてついにシンギュラリティへと到達する──。」と紹介されていました。つまり、人類はAIのおかげで「生物」を越えてしまうということでしょうか。



著者は、「未来学者として技術的特異点の到来をいち早く予見し、人工知能(AI)の世界的権威として現在はGoogle社でAI開発の先頭に立つレイ・カーツワイル」とありました。彼は、その状況を肯定的にとらえているようで、さすがアメリカ人の楽観主義かあ…、と購入する意欲が失せました。










2冊目は、『ゼロから始める都市型狩猟採集生活』です。これはわたしが普段から抱いている感想から興味を持ちました。それは、「人は人ひとりで完結していない」ということです。たいていの生物は、他の仲間の助けを借りなくても一個体で生きていけます。しかし、人の生活は全てが細分化されており、もはや生活に必要な事を自分自身一人で出来なくなっています。それが、「社会生活」と呼ばれる人類発展のストラタジーなのだ……です。



この本は、都市でもできる狩猟採集生活――、つまり、都市でもひとりで人生を、生活を、完結することが出来る指南書なのかと思い、アマゾンで検索したところ、都市で暮らす路上生活者のお話のようです。



わたしの思いとちょっと違うなと。路上生活者は都市の「特異」です。物が溢れている都市だからこそ、お余りをお裾分けしてもらって生きていけると言うわけです。全ての人が貧乏な何も持っていない社会では、路上生活者は生きていけません。



アマゾンのカスタマーレビューに「普通、わたしたちは働いて金を得、その金でものを購入し消費する、その繰り返し、そのサイクルの中で生活し、またそれ以外の生活は考えられない、というより考える事もないわけだが、本書によるとその生活は一つの観念に過ぎないのだ。つまり、わたしたちはあまりにも一つの生き方に縛られ続けている。本書の一番のウマ味はその〈気づき〉にあると個人的に思う。」と書かれていました(引用してすいません)。また他のカスタマーレビューでは、「『<都市の幸>で暮らすことは、きみが起こすことのできる唯一の革命なのだ』(本書P148)。」とありました。



わたしはもうそのことに<気付いて>いるからこの本は購入しないことにしました。



その観点では、『増補 サバイバル! 人はズルなしで生きられるのか』と言う本も良いかも。日本海から北アルプスまでを、米と調味料だけを持ち縦断した記録、とあります。他の食料は現地調達し、自然の中で眠る生活というような感じでしょうか。「自然にじかに身体をさらすことで、おぼろげな個人の輪郭がはっきりとしてくる。」と書評にありました。でも、これも都市生活から一歩身を引いて、自分の生活を見直してみると言うことですね。



お金を払わなくてもいろいろなものが手に入るという「田舎暮らし」はまだまだ存在しています。そんな田舎の人々には、どうでもいいことでしょう。しかしこれはGDPの増減を気にしている政府にとっては、とんでもない行為でしょう。お金で物を買わなければGDPに換算されませんからね。



人の行動をいちいちお金に換算することは、もうやめようよ~。










三冊目は、『QJKJQ』。「2016年江戸川乱歩賞受賞作!」とありました。「17歳の女子高生。亜李亜の家族は全員が殺人鬼。ある日、兄の惨殺死体を発見する。亜李亜は父に疑いの目を向けるが、一家にはさらなる秘密があった――。」と。



有栖川有栖氏が、「これは平成の『ドグラ・マグラ』である」と批評しており、その「ドグラ・マグラ」に魅かれ目にとまった訳です。ご存知、夢野久作の『ドグラ・マグラ』です。わたしの本棚にもありますが、内容はすっかり忘れています。



アマゾンで検索したところ、あまり評判はよくなさそう。これは『ドグラ・マグラ』ではない!という一文も目に入りました。それで、即、購入はしないことに。



そのかわり、本棚にある『ドグラ・マグラ』をもう一度見てみました。その解説は「精神操作の恐怖と自由の問題」という題が付いていました。精神操作には、マインドコントロールとルビが打たれています。わたしは、昭和52年にこの本を買いました。しかし、発表されたのは1935年です。その時代に「マインドコントロールとはね。」と興味が湧きあがりました。



この作品が発表された時、多種多様な評価を受けたようです。



狂人自身が書いた狂気の世界――江戸川乱歩

思想の容器として独自の位置を占めている――鶴見俊輔

弁証法の傑作――森秀人

ありうべからざる幻想世界を通じて、ありうべき社会を予言した、狂気のアポカリプス――塚本邦雄

家父長への怨念小説――水沢周

物神崇拝の恐怖の中に人間の自由の問題を描いた作品で、日本推理小説史上の傑作――権田萬治

奔放な空想の極致を示す狂気の文学――荒正人



などなどです。



と言うことで、相当分厚い本で、今では、古くてカビ臭いのですが、読みなおしてみようかな、と思った次第です。



いろいろ迷走した挙句の「これらの本は買わない。」という結論でした。









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