2013年12月10日火曜日

『家制度』を考える



英会話の教室では、トピックを順番に持ち寄ってディスカッションをすることになっています。前回のトピックは「家制度と介護保険」でした。わたしが持っていったトピックではありませんが、異常に燃えました。

 

と言うのは、わたくし大学時代はウーマンリブ(アメリカ)の世代で、わたしたちも友達と共に、「女性問題研究会」を学内に立ち上げたのです。今でも、学内にその会は存続しています。つまり、わたしたちはその創始者。なれど、忘れられた存在でしょうが。言いたいことは、女性問題と「家制度」はリンクしていると言うこと。

 

それで、自分の本棚を探索してみたら、ありました、その手の本が。『家族制度』と『女性解放と現代』です。『家族制度』の方は、昭和33年に第一刷が発行され、わたしが買ったのは、第13刷の昭和46年のようです。つまり、1971年でしょうか。アマゾンで検索したところ、古本で「1円」で取引されていました。ほんとに、ほんとに昔の本です。

 

内容も少々古くなっておりましたが(パラパラと斜め読みしただけですが)、真実は変わっておりません。以下、わたしの考察です。

 

 

「家族法」(いわゆる家制度)とは、下級武士の「革命」で創立された明治政府が定めた法律です。その時、制度の近代化を図り、欧米列強諸国と肩を並べるために、法治国家となることが必要だったのです。「法律」という近代的な衣を着てはいましたが、所詮市民革命を経てできた国家ではありません。内容は、前近代的なものです。

 

どんな政府にも、人民をまとめ上げる理念が必要です。そのため、当時、武家社会の伝統と天皇制を合体し、「家制度」を確立したのです。「家を守ること」=「祖先を守ること」=「天皇を祭ること」、そんな構造です。国家統一のセオリーとして、「天皇を日本の父として万民が等しく天皇の臣下である」という確認です。そのため、家長は、家の財産を守り、家族を統率する責任を祖先に対して(ひいては天皇陛下に対して)負っている。家長の財産は個人のものではないのです。家のものです。責任と義務の在りかを明確にする為です。それが、国に対する責任と結びつきます。

 

第二次世界大戦後、新しい憲法ができました。為政者はそれを受け入れなくてはいけない。旧来の家族法もなくなりました。それ以前には、「家に個人の権利」を入れないことにより、明確な上下関係の秩序を保っておりましたが、戦後の憲法では、「個人の権利」が明確に担保されました。為政者は、家族法にも個人の権利を入れない訳にはいきませんでした。財産も平等に分けられますし、責任も平等です。そこで、為政者は、その「家長の権威、服従関係」が法律で否定されたことに対し、「家族の情」まで否定するものと問題をすり替えたのです。「子どもの親に対する道義はどうなる」と言うことです。それが、道徳教育による「家制度」の教えです。家族の中に権利意識が芽生えないようにとの試みです。

 

戦後でさえ、家族の関係は非合理な関係であり、家族法は他の法と本質的に異なるとする傾向にあります。家族の対立を権利の対立と考えないで、家族全体の幸福を図ると言う「和の回復」で処理しようとする傾向です。つまり、誰かが犠牲になるという意味(多くは女性の犠牲)。民主的な家庭ではなく、それは「家制度」の名残りによる「和」の押し付けかもしれない。

 

個人の利益主張は、それが自己の権利であるのか、それとも限界を超えた要求であるのかを客観的にとらえることが重要です。同時に、家族制度を壊す要因を科学し、その対策を社会で構築する事の必要性があります。つまり、社会保障や経済問題(労働問題)の解決です。

 

日本では「和の精神」以来、人間関係に適応する事が無条件に価値がある事と見なされる伝統があります。そのため、客観的な個人の権利主張も「こうあるべし」という倫理的命令の前で降伏せざるを得ない状況になることも。権利主張の正当性を認める民主主義を取るなら、個人の自主的権利放棄が行われない限り、その権利を認めるべきです。誰も人に自己犠牲を強いることはできない。権利を主張することをやめさせるのは、家族への愛だけ。その「愛のない家族」の崩壊を止める手立ては在りません。また、この「家族愛」に道徳教育と言う名目を乗せて、政府が介入し無理強いしてはならない。

 

 

現在の状況を見ると、日本版NSCや特定秘密保護法、福祉の見直し、道徳教育の復活など、徐々に時代に逆行していくかの感があります。個人の権利を基礎とした家族の在り方を探る必要性があると言えますが、逆に、「家族とは」とも考えてしまいます。世界的に見て先進国では、「家」(制度としての)の崩壊は始まっています。ひとつには、「家」を維持する必要性がなくなってきたことがあるのでは。つまり、今、仕事は個人単位であります。昔ながらの農家、家内工業においては、家の団結が経済的に必要だったかも知れませんが、現在、人は会社に行って働いて給料をもらってきます。

 

「家」は真に愛情だけが宿る場になったのかもしれません。愛情とはいつも「不確かなもの」。その「愛」を堅固にしようと画策する「家族法・結婚制度」という法的手段は、もう要らぬお世話かもですね。

 



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