2014年5月23日金曜日

『Self-Reference Engine』 (2)


プライベート・レッスンの第2弾、『Self-Reference Engine』は、無事に着地いたしました。先生も「おもしろい」と言うことで引き続き、この本でレッスンを続けて行くことになりました。まあ、先生のリアクションが真実かどうかはわかりませんが・・・。

 

でも、今回の先生は、今までの先生と違いとてもhumbleです。あまり英語スピーカーのaggressiveなところに突っ込んで言うと「スイマセン」と言うので、どうかなと。つまり、こちらがaggressiveになれない状況になってしまいました。

 

しかし、今回言いたいことが一つあります。この本を選んだ理由は二つあるのですが、ひとつは、円城塔氏がフィリップ・K・ディック特別賞をアメリカで取ったということ。ディックはわたしの大好きな作家なのです。円城氏のこの本に今回接したところ、なるほどフィリップ・K・ディックの賞に相応しいと感じました。それが一つの理由。

 

そしてもう一つが、日本語の本が英訳されてアメリカで賞を取ったということです。つまり、日本語がコンテキストであるということ。このことを主張すると、彼が申し訳なく感じるかもと。他のアグレッシヴな先生なら、自分の説を開陳するのになんの考慮もしないんですけれどもネ。

 
 
 

 

以前、「ワールド・リタリチャーと複数形のワールド・リタリチャーズ」について書きました。ワールド・リタリチャーはそれぞれの各国の文学で世界的な観照に耐えられる作品です。そして、それらの国々の作品が日本語に訳される時、日本語とその言語との微妙なニュアンスの違いは、日本語では訳しきれません。そんな作品をわたしが読むとき、その真実は彼らの側にあるのです。それが、英語の場合、先生達は訳された日本語が間違っていると、指摘します。まるで、文化の違いを考慮に入れず…、「だから、日本は」という感覚です。

 

訳された日本語が間違っているわけではないのです。日本語に訳しきれないということです。同じ表現方法がないということです。英語以外の文化圏では、いつもお互いの文化の違いを比較しているので、そのような独断的な解釈にはなりません。つまり、英語が、「今」世界でドミナントな位置にあるので英語が(英語の表現が)いつも正しいというような雰囲気になっている状況です。

 

しかし、日本の文学もワールド・リタリチャーあるいはワールド・リタリチャーズとして、英語に訳され、彼等がそれを読むことになると、真実は我々の側にあるという状況が生まれます。英語の文章と日本語の文書に齟齬がある場合、日本語が正しくて、英語の表現が間違っているということ。そんなこと当り前だと思われるかもしれませんが、英語スピーカーたちはなかなかこの真実を受け入れることが難しいようです。

 

 

Self-Reference Engine』の中で、「明後日(あさって)の方向」という表現が度々出てきます。この本の根幹は時間軸が崩壊し過去も未来もぐちゃぐちゃにこんがらがっている状況で話が展開しています。だから、「明後日の方向」というのは、文字どおりの意味で理解されうるということですが、日本語としては、「明後日の方向」とは、「デタラメ」という意味を含んでいます。この二つの意味が相まって、日本語での本は話に厚みがでています。が、英語では、意味が一つとなります。先生に確認済みです。英語にはそんな表現方法はないと。

 

あるいは、主語を明確に表現しない日本語でも我々は、何が主語かわかりますが、訳された英語では、主語が間違っていることがあります。そんないろいろな間違いに、「真実は我々の側にある」と主張できる幸せ(倒錯してますね、わたし)。とにかく、わたしが言いたいことは、文化の違いを謙虚に受け入れること。我々は、パーフェクトにお互い理解し合えないのです。それは、時間軸が狂った世界で、お互いが別々の違った方向に進んでいるのと同様に、時間軸の狂っていないこの現実世界でも、我々の意識は必ずしもリンクしないのだという事実。

 

つまり、我々はひとりひとりが、常に異次元の世界に住んでいると言えるのでしょう。






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