2014年5月17日土曜日

「犯罪の許し代」


前回、『自由か、さもなくば幸福か? ―― 二一世紀の<あり得べき社会>を問う』という本(の書評)について書きました。その中で、「全ての人間の身体にGPS機能付きのチップが埋め込まれている社会では、全ての人の行動が記録されるので犯罪がなくなるだろう。警察官とか政治家、その他の権力者の身体にもチップが埋め込まれ、それがコンピュータ管理されているので、彼らの横暴な権力行使も抑制できる究極の監視社会だ。監視社会で自由がなくなると言われるが、なくなるのは、『罪を犯す自由』だけではないのか。」と書かれていることを紹介しました。

 

そこで、わたしも「全ての人が…、一人残らず制御されてしまえば、犯罪の余地はなくなり、コンピュータが神となって、全てをコントロールしてくれたら、人類は平和に暮らせるでしょう。」と同意しましたが、それから2~3日考えて、今は、「いや、待てよ。」という心境に変わりました。

 

第一、罪を犯していない人などいません。もしくは、我々は毎日罪を犯しながら生きているともいえるでしょう。精神的な事を言っているのではありません。単なる、日々の行動のことを言っているのです。一番卑近な例を取れば、車の運転です。自動車を運転して、一度も交通違反をしていない人などいないでしょう。日常的にスピード違反をしているし、ちょっとした用事をすませるために違法駐車もするだろうし、「止まれ」の停止線をはみ出して止まったことだってあるでしょう。少し考えただけでも、日々「いっぱい」の罪を犯しています。

 

それくらいの罪は犯罪ではないという向きもあるかもしれませんが、頭にチップを埋め込まれた身となれば油断はできませんよ。コンピュータは「必ず」それら犯罪と認識するでしょうね。だって、彼らには「許しの糊代」がないのだから。ただ引かれた線のこちら側か向こう側かなのですから。

 

つまり、人にとっては、「罪を犯す自由」も必要なのです。犯罪のアロウワンスが人類の進化の源と言えるのかも…と思います。犯罪と正義の戦いの内に人類が進化しているのです。だから、頭にチップを埋め込まれての監視社会になれば、全てが整頓された平和な日々を人類は手に入れるかもしれませんが、それは本当に平穏な何も起こらない停滞状態でしょう。もちろん、前回書きましたように、それはわたしの理想とする「ハチやアリ」の世界の出現です。

 



 

なんだか矛盾したことを言っているようですが、わたしの言いたいことは、人類がこれからもこのような競争社会の形態で進化していきたのなら、四角四面なコンピュータに自分の頭を任してはいけないということです。しかし、違う形態の進化が必要ならコンピュータに頭を委ねてみるのも一考かと…。近代に西洋で編み出された「自我」とか「自由意志」の概念を捨て去って、宇宙の中のひとつの存在として停滞に身をユダネテみましょうよ。

 





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