2014年5月31日土曜日

第三回 『Self-Reference Engine』



プライベート・レッスンの第3弾です。『Self-Reference Engine』は、円城塔氏の著作。エピローグとプロローグの他に20のショート・ストーリーからなります。第一部Nearsideと第二部Farsideと、それぞれ10作品ずつの構成です。それぞれのお話はショート・ストーリーとしても読めますが、基本的に時空間が破壊されてこんがらがった世界を描写する意図、お話はお互いに微妙に交叉しているとも言えます。つまり、20個の話から成るひとつの作品ということです。

 

日本語のオリジナルの本と英語に訳された英語版の本を同時に読んでおります。日本語の方は第一部まで読み終えましたが、英語の方はプロローグ『Writing』と第一話の『Bullet』のみ。先生にはそこまでのコピーしか渡してありませんので、そこで停滞しております。それだけの読書量ですが、考えたことが六つあります。

 

第一番目の問題点は、コンテキストについて。前回もWorld Literatureと複数形のWorld Literaturesについて書きました。単数のWorld Literatureはそれぞれの各国の文学で世界的な観照に耐えられる作品、そして複数形のWorld Literaturesは、ハリーポッターや村上春樹のように(わたしはそう思っている)世界の共通項のところで勝負しているもの。つまり、文化とか土着性とかそういうものに関係なく全ての人の共感を得られるものです。

 

しかしながらWorld Literatureと言っても、原文で読める人はともかく、訳文でしか読めないとなると、それぞれの文化の違い言語の違い意識の違いで微妙なズレが生まれます。その上、World Literatureの世界は、未だ西洋文学が席巻しています。日本の作品も徐々に英訳されてWorld Literatureの仲間入りを果たしてはいますが。人気は「三島由紀夫」のよう。または、大江健三郎とか安部公房、わたしの先生は夏目漱石を学んだと言っておりました。しかし、彼らは英語でそれらの本を読んでいます。ハワイでの英語学校の先生は、大学(サンフランシスコ)で三島由紀夫について議論した時、日本人の留学生と討論になったが、彼女に、「わたしが正しいのよ。だって、わたしは『日本語』で彼の作品を読んでいるのよ。」と言われたと言っていました。日本の大学の英文科でスタインベックの作品を日本語で読んで卒論を書くというようなことが許されると思われますか。

 

 

思うに、第一の違いはキリスト教と思います。西洋では話される言語は違っても、キリスト教という確かなバックボーンがあります。理解の基礎となるものです。そして、World Literatureが、未だ彼らのものである時、彼らの概念は世界のスタンダードとなります。近年、漸く『カルチャラル・スタディ』という概念が知られるようになってはきましたが、まだまだ、西洋は「唯一の西洋」という観念から抜けきれません。

 

しかし、日本の文学もワールド・リタリチャーあるいはワールド・リタリチャーズとして、英語に訳され、彼等がそれを読むことになると、真実は我々の側にあるという状況が生まれます。英語の文章と日本語の文書に齟齬がある場合、日本語が正しくて、英語の表現が間違っているということです。そんなこと当り前だと思われるかもしれませんが、その真実がなかなか受けいれられないのです。

 


 

Self-Reference Engine』の中で、「明後日(あさって)の方向」という表現が度々出てきます。わたしは、円城氏はこの言葉に惹かれてこの小説を書いたのではないかと疑っています。この「あさっての方向」は、例えば、「Bullet」にも出てきます。このお話は頭の中に弾丸が入っているリタという少女が、彼女に近づく者にめったやたらとガンを撃ちまくります。それは、まだリタが母親のお腹の中にいる時に、母親が誰かに撃たれ、その弾丸がリタの頭蓋骨で止まったもの。この時間が錯綜した世界で、彼女は、自分の頭の中にある弾丸を「ないものにしよう」と、母親を撃った誰かを、母親が撃たれる前に殺してしまおうとしているのです。その中での英訳の表現です。

 

“Rita,” Jay would say, “is shooting her bullets at the day after tomorrow.”

 

この「あさっての方向」は日本語としては、「デタラメ」という意味です。日本人としては、この言葉を聞くと「デタラメ」という意味として受け取る。そして、この時空間がでたらめになった世界では、そういうことも実際にありうると思う。そんな構造です。わたしたちは、瞬時にこのことを理解し、「にやっと」笑うことができます。

 

この場面の英訳はこのようになっています。

 

“Rita,” Jay would say, “is shooting her bullets at the day after tomorrow.” He said it like he was sure of it.

 

That’s the way it is. No target, that’s just the way it is.

 

“Of course that’s not what I meant,” Jay would say without even looking this way. “Rita’s just having a shooting match with somebody in the future,” he went on.

 

 

日本語の方の本を読んでいると、日本語独自の表現が多々見られます。例えば、鯰がよく出てきます。なぜここで「鯰」を使うのか、作者の意図はまだわかりませんが、「瓢箪鯰」から来ているのかなとも思います。鰻の話もありました。備長炭で焼くとか、鰻の故郷はひとつとか。敷島という人物もでてきます。こんな日本の言い回しがどのように訳されているのか……今後の楽しみというものです。






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