2025年11月23日日曜日

音読


 

2~3年前から音読をしています。朝、新聞記事を3~4個声を出して読むだけですが、口内と喉の筋肉を鍛えるためです。歳とともにの誤嚥の予防のためにと。


毎回読む記事の一つに朝日新聞の「天声人語」があります。以前筆者紹介があったと記憶していますが、誰だったかも人数も覚えておりません。たぶん7~8人だったと。


毎日声に出して読んでいると初めは内容が頭に入りませんでしたが、徐々に同時に内容もわかるようになってきました。




さて、「天声人語」です。読んでいるうちに気付いたことがあります。いつも話題がジェンダーかマイノリティの筆者がいます(たぶん同じ人だと思うが)。男女平等ーーー大賛成です。しかし、話が退屈。


また、回文が好きな人がいます。一度は、回文ばかりの内容でした。その他、時にいきなり回文を放り込んで来ることも。落ちが回文のことも。


前置きが長い人もいます。半分以上が前置きで、さて何が言いたいのと思う頃に本題が。3分の1くらいが前置きというのは常です。


どうしても「落ち」を付けたい人もいるようです。足元をすくわれたような感覚になることもあります。大声で読みながらこれでスンナリ終わってくれよと思うと……。


最高なのは、何気なく自然な流れで文章が続き、素直な気持ちで心地よく読み進むうちに、すっと終わります。深い暖かい気持ちや深い「思い」が残ります。


生意気な物言いでした。これからも音読続けます。








2025年11月17日月曜日

今日の雑感ー2.



 少し前の『折々のことば』で、辻邦夫氏の言葉が引用されておりました。作家の辻邦夫氏は超有名ですが、わたしは本を読んだことはありません。


何故「ウっ!」と思ったかというと、全く関係なく辻佐保子さんがわたしが大学生の時のゼミの教授だったからです。辻邦夫のパートナー(妻)です。でしたか?お二人とも亡くなられておられますから。


ゼミでは、京都や奈良の寺、博物館などの見学ゼミ旅行がありました。佐保子先生だけホテル泊でしたが、私たち生徒7名と講師の先生、助手の先生は、一緒に旅館に泊まったものでした。(雑魚寝です。)


その宴会の時の話題でよく辻邦夫先生のことがでてきました。佐保子先生との日常生活は如何にとか。




そんな事が思い出されたのです。そしてもうひとつ。邦夫先生亡き後、佐保子先生は一人でマンション暮らしだったようで、ある時新聞に「辻佐保子さんが、孤独死していたのが見つかった。死後一週間は立っている模様。」と。


たいへんショックでした。その新聞記事を切り抜いて持っていましたが、見返したことはなく、捨てることも出来ず、なお、保管しております。







2025年11月4日火曜日

今日の雑感


 

今日のコラムに大佛さまは偉いと、大佛様に「うまい!」と言ってもらいたい一念でお菓子作りをしていた和菓子職人の話が書かれていた。


「自分を超えたものの存在に開かれている人にはどこか穏やかさが漂う。不遜にはならない。」との鷲田清一さんのコメントです。


わたしも大賛成であり、実感しています。大学に入った時、わたしよりうんと頭がいい人がいっぱいいて、自分の来し方を反省しました。わたしの父親も不遜な人でしたが、あるときある歌人に出会い謙虚な人になりました(少々ですが)。塚本邦夫氏です。「自分より出来る人に会った。」と言っておりました。





いろいろな事で秀でている人は、謙虚であると日々実感しています。英語の勉強をしていた時は、中級から中級の上、上級クラスに上がるごとに「人」が変わると思っていました。上級クラスの人達は、わたしの拙い英語にもチャンと耳を傾けてくれました。話す内容にもふむふむと思う事がいっぱいです。


その後に囲碁を始めたわけですが、同じことが言えます。段が上がっていくと、「人」が変わっていきます。現在は「有段者クラス」の末席を穢しておりますが、上手(うわて)の人は天井知らずです。だからでしょうか、少々腕の立つ人もとても謙虚です。わたしには勝つが、その人が対局で負ける人が一杯いるからです。「負ける心」を知っているーーーからでしょうか。


ですから私も精進し、より強い人と対局できるように努力しております。少しでも多くのステキな人々に会えますように。







2025年10月21日火曜日

今日の感想


 


高市早苗さんが、「日本初の女性総理になるか」とマスコミは騒いでいるが、今の私の心境は、あまり女性初の総理大臣に関心がない。前回は、政治的信条に関係なく、高市さんが総理になってアメリカ初の女性大統領ハリスさんと初対談すると面白いだろうなあ~、という意識だったが。


なぜかなあ~。何故か今回は、「女性初」というところに関心がいかない。もう私の中では「女性何々」ということがクリアーになったのかなあ。



また、今回の維新との連立のこと。こちらも、政治信条に関係なく、「新鮮だなあ~。」と思ってしまった。高市さんと吉村さんのツーショットは、いつものダークなスーツを着たおじさん(又はおじいさん)の絵柄と違って「観やすい」です。


またまた、政治信条に関係なく、若い人達または前に出て活躍できなかった女性の今後に期待します。期待しても、わたしの思惑と違う方に飛躍してしまうと困るが~~~。







2025年10月16日木曜日

『飛ぶ男』



 安部公房の遺作です。


『飛ぶ男』

 

 

安部公房の本は、金額的に余裕がある限り購入することにしている。この文庫本も生誕100年で発刊されたときに買っている。

 

 

令和6年です。それをようやく読む気になって読みました。「死後、フロッピーディスクに遺されていた原稿の文庫化」という予備知識しかなく読み始めました。内容は、『飛ぶ男』と『さまざまな父』の二作と思っていた訳です。が~。

 

一作目の『飛ぶ男』は、冒頭から本当に飛ぶ男が出現します(比喩ではなかった)。その飛んでいる男を目撃した三人がいます。一人は暴力団の男で、警察に連絡しようと思うが、立場上する必要はないだろうと。その時にしか登場しません(後に登場するのかもしれないが)。

 

あとの二人は、中学校の先生と怪しげな女です。飛ぶ男を見た女性は、驚きのあまり発作的に空気銃で撃ち落そうとします。傷ついた「男」は、中学校の先生である男の部屋に飛び込みます。その「男」は中学教師の弟だという事なのだが……。

 

空気銃で撃った女性は、教師のアパートの隣人でした。

 

この怪しげな三人の関係性とそれぞれの私生活が語られています。それは、心地よく永久に続いて欲しいと……。しかし、終わりは来ます。

 


 

解説文を読むと、この『飛ぶ男』は未完なのだと。そして、『さまざまな父』も『飛ぶ男』に関連して書かれたもののようだと。つまり、『飛ぶ男』は壮大な構想を持って書き始められた作品なのであると。

 

その長~い、長~~い話を読んでみたかったなあ。

 

 

解説者は、「安部公房―――内部の内部に外部を探し求めた作家」という文を書いています。

 

つまり、細胞生物学的に内部の内部は外部であるということ。細胞の内部に何かを取り込まなければならない時、あるいは内部の不要なものを外部に排出しなければならない時、細胞は同じ成分の内包を形成し、それを外に押し出しては外のものを内部に、また反対も然りということだそうです。

 

この作品の登場人物たちも、他の人の細胞膜を押し破り中に入っていこうとしたり、それを押し出そうとしているのだと。

 

 

まあ、そういうことは抜きにして、わたしはこの幻想的な不条理な関係性がいつまでも語られて、そこに浸っていたいなあ~、と思うばかりです。

 






2025年10月10日金曜日

ああ、そうだった


 


ノーベル化学賞を受賞した北川さんが科学を好きになったきっかけを話していた。中学生の頃に読んだSF小説だったんだあ~。それは、フレドリック・ブラウンです。SF短編の名手でメチャメチャ面白い。


京都に住む中学生だった北川さんは、大いに頭脳を刺激されて科学への道に進んだらしい。


で、わたし。同じ京都に中学生の時住んでいて、おおいにフレドリック・ブラウンのSF小説に親しんだ。


きっかけは、兄が「この本ぜんぜん面白くないからお前にやる。」と言って、『SFカーニバル』という文庫本をくれたこと。はじめて手にする文庫本でした。それまでは、子供向けのようなサイズの本しか読んでいなかったから。




読んだら、メチャメチャ面白い。ゲラゲラ笑いながら読んでいたら、母と兄が不審な目を向けてきた。気にせず、一気に読んでしまった。


その本はアンソロジーだったので、いろいろな作者がいたのだが、一番気に入ったのはフレドリック・ブラウン。それから、四条河原町の大きな本屋に一人で足を運んで、創元推理文庫の棚からフレドリック・ブラウンの本を探しては読み漁っていた。


それからいろいろな作家のSF小説に進んで行ったのだが、原点はフレドリック・ブラウン。





どんどんマニアック化が進んで行き、フリップ・K・ディック、J・G・バラードからスタニスワフ・レム。またファンタジー小説から怪奇小説、シュールレアリスム小説まで突き進んで行ったのでした。ラヴクラフト、ボルヘス、イタロ・カルヴィーノと・・・・・・。


フレドリック・ブラウンから科学の世界に魅せられた人もいれば、幻想の世界に入り込んでいった人もいる。わたしは今でも抜け出せず、本好きなのに「話し相手」がいないという現状です。






2025年10月9日木曜日

今日の妄想


 

昨日の新聞のコラムですが、こんなんです。


「だいたい、頼んでもいないのに生まれてきて、必ず死ぬってことじたい、『罠』みたいなことじゃないか。」

ーーー近藤康太郎


こんな周知の事実のようなこと、何で言うかなあ~と。


世の中「罠」だらけで、そんな中で罠をすり抜けたり、罠で遊ぶなどして愉しんでみるかあ~、という結論らしい。


まあ、生まれてきちゃったんだから生きるしかない。わたしの座右の銘は、「死ぬまで生きる」です。





もうひとつ、昨日の新聞のコラムです。


芥川龍之介が、小学2~3年生の時、かわいいと思うものと美しいと思うものを書きなさい、という課題が出たそうです。芥川少年は、美しいものを「雲」と書くと、先生が「雲などどこが美しい?」と×を付けたそうです。


昔の先生というかわたしの子供の時の先生も、こんな人が多かったなあ~、と思ったわけです。うちの息子の年代でもこんな先生がいたなあ。中学一年生の担任の先生は、息子の描いた絵を見せて、「こんな絵を描きました。」、と言いました。


母親の絵を描くという課題だったようですが、直線だけの「あたまのでかい」まんがのような絵でした。わたしは、「良い絵だなあ。」と思って、なんで先生が特にこれをわたしに示したのかがわからず、そのまま返しました。


あとで考えると、中学生でこんな絵を描いたがどう思うか、という問いだったらしい。わたしは、こんな直線だけでわたしの特徴をとらえ、線の勢いも素晴らしいと思ったんだけど。


あとで、息子が家に持って帰ってきたとき、サインしてもらって日付も入れてもらって、今も額に入れて飾っています。よく見たらその日付は、わたしの誕生日でした。(余分ですが、彼は今、漫画家です。)









2025年10月7日火曜日

今日のことば


 

「親がまずすべきことは、わが子の才能を最大限に評価できる独自のモノサシを持つことではないでしょうか。」   ーーーおおたとしまさ


新聞のコラムです。


折しも今日、ノーベル賞を日本の科学者が取ったという朗報があった。その坂口教授は、「興味を持つことが肝要」と言っていました。興味を持ったことに対し押し進むこと。


これでわたしが思ったことは、





こどもが興味を持ったことと「親の独自のモノサシ」が合えば良いなあ~。というか、世間の評価のモノサシではなく、ほんとに公正なモノサシなら良いなあ~、と。


我が身を振り返ると、親がこどもにまったく関心がなかったということが、良くも悪くも「助かった」と思います。






2025年9月25日木曜日

思いつくままに……


 

わたしは、人に会うのがとても苦手です。というか、人とお話をすると「思う」のが苦痛です。会ってしまえば、気ままに会話はできます。


が、会う「人と時間」が決まっていると、その何日か前から「シチュエーションから話すことから相手の返答から……」を想像して、繰り返し反復して、頭の中に渦巻いてしまいます。


そして、会った後もその人との会話がいちいち頭の中で繰り返されて、適宜に整理されて脳の定位置に収まるまで続きます。




今日の新聞記事でマインドワンダリングという言葉を知りました。「ぐるぐる思考」です。


何か課題に取り組んでいるときに、いつの間にかおかしなことを考えいたり、雑念が浮かんできたりして、だんだん気が重くなってくる症状のようです。なぜそうなるかわかっていませんでしたが、だんだん解明してきたとのことです。


非意図的なものと意図的なものがあり、非意図的なものは考えれば考えるほど不安になったり落ち込んだりします。意図的なものにはそのような傾向は見られないとか。


気になっていることをメモに書き出して、時間があるときに意図的に考えを巡らすと非意図的なマインドワンダリングの回数が減る効果がありとか。


マインドワンダリングをする人の方がクリエイティビリティーが高いという過去の研究もあるそうで、そこに一縷の望みを感じてしまいます。







2025年9月14日日曜日

最近刺さった言葉


 

「時間は、他の誰かと共有するなかではじめて、夢・幻でない現実として確実に流れ始めるのか。」


焚火の好きな父と火の前に坐っていたら、こんなことをできるのも最後かもしれないとの思いがこみ上げてきた。ーーーー、とのことです。


それは、……甘美な感触で、通り過ぎていく「いま」という時間が、戻ることのない一瞬の連続で、いとおしかった。ーーーー、とのことです。


年老いた父親との対峙によって、一瞬、一瞬の時間の流れが現実として捉えられたということですか。



わたしは、「時間」の概念が好きです。哲学的にも物理学的にも。この「他の誰かと共有することで時間が現実になる。」という言葉は、私の理解では、他者がいなければ時間は「無い」ということです。


誰とも会わない山奥とか無人島で暮らしていれば、時間は止まっているという事。「時間」というものが「いつ」できたのかと思うと、とても興味深いです。


わたしの好きな本に『ピダハン』があります。アマゾンの奥地の部族の名前です。彼らには時間がありません。従って自分の歳を数えることもありません。採集狩猟生活で時間にとらわれず気ままに暮らしています。


そこに研究取材に行った人類学者が、ピダハンに魅せられて自己のアイデンティティを失っていきます。


才能のないわたしは、このまま歳を数えて生きていくしかありませんがーーー。






2025年9月7日日曜日

最近のカタカナ英語事情

 


今までもカタカナ英語は、日本で氾濫していました。グローバル化とかエンターテイメントとかは「エンタメ」ともう普通の日本語です。


それで、


コロナの頃からテレビのニュースショウなどで、「バイアス」とか「エヴィデンス」とかが、普通に使われ始めました。ある解説者は、「日本語で偏見と証拠ですが日本語のニュアンスと少々違って、日本語では表現できないのでこう言います。」と言っていました。


そして最近では、アフォマティヴとかインセンティブとかも何の説明もなく使われ始めています。市井の人々には容易に理解しがたい単語です。



それで思ったんです。


漢文が日本語に入ってきたときもこんな感じだったんだろうかと。大化の改新の頃か???。


明治維新の時に日本に入ってきた西洋の単語を日本語に置き換えた人々は偉大だったと、以前UPしたことがあります。そのおかげで日本人は日本語でいろいろなことを語れるようになったと。他の国では、日常はその地域言語、学術的なことは英語を使うとか二分化しているところもあります。


しかしそれは間違いでした。気付きました。それは日本語に置き換えたのではなく、漢文に置換したのだと。その時日本が使用した単語を、後に中国でも使用するようになりましたから。



そんな訳で、


昨今のカタカナ事情も日本語にはないものを英語でカタカナで表現しているのかなあと。文句を言っているのではありません。これで日本語のボキャブラリーも増えて、より多くの事を庶民も表現できるようになるのかあ~と。


中国語を日本語に同化した時のように、普通の人々にも浸透するのは少し時間がかかるかも。しかし、SNS時代だから即カタカナだらけになるかもよ。







2025年9月1日月曜日

猛暑です。


 

日々の猛暑で、思ったんですが、


冬は、寒い時のお洒落なコートがあるんだから、夏も、猛暑用のオシャレなコートがあってもいいんじゃないの、と。


で、今日のニュースです。


オシャレな夏用のコートが売り出されたと。


防寒ならぬ、防暑でしょうか。さすが、企業はやるよネ!







2025年8月24日日曜日

SFもどき  (妄想です)



 先日、サイエンスゼロ(NHK番組)をそれとなく見ていたら、マイクロプラスチックが雲の中に含まれていると言っていました。


顕微鏡で見なければわからないほどのプラスチックゴミです。豪雨の出現にも影響しているとのこと。どこにでもありますね、プラスチックゴミ。魚や動物の体内、そして人間の体内からも見つかったと、何かで読みました。


そこで「人新生」です。「ひとしんせい」とか「じんしんせい」と読みますが、現在「じんしんせい」に定着しつつあるようです。個人的に、わたしは「ひとしんせい」が好きです。地質学の用語ですが哲学用語としても使われています。


1953年頃からをそう言うとされていますが、正式用語としては、今回認められませんでした。この頃からプラスチック等、人由来のものが地層から見つかります。イギリスの第2次産業革命以降散見しますが、はっきりと地層区分できるようになったのはこの頃のようです。




さて、恐竜が滅亡したのはなぜかという問いがあります。隕石とか氷河期が来たからとか。未来に「人間はなぜ滅亡したの」かという問いがあるとしたら、「自滅」ということでしょうか。


人が滅亡した後にこんな「問い」はないだろうと思われるかもしれませんが、否、全人類が影も形もなく滅亡することはないと思われます。現に恐竜の子孫である鳥がいるわけですから。


そこで、フィリップ・K・ディックです。アメリカ1950年代ごろからのSF作家です。彼の作品で読んだことがあります。


世界核戦争の後地中に潜った人々と、地上に残って放射能の影響を受け姿が変わってしまった人々。地中の人々はこの汚染された地球から逃れるためロケットを作り上げました。そして出発の時、地上の人々に別れを告げます。そして飛び立っていきます。



さて、地上に残された人々はどうしたか。姿態の変化した人々は、十分地球に順化しています。

「なんで、地球から飛び立つべさ。こんな居心地がいいのに。」とさ。


で、イーロン・マスク氏を思い出しました。すべての公害の元と一緒に火星に飛び立ってくれーーー。我々は、地上に留まって地道にくらしますから~~~。


今日の、新聞のコラムです。


猛暑の昼下がり、街に人がいない。街から人が消え去った。裏道で耳を澄ますと、エアコンの室外機がブーンとうなる音が聞こえてきた。


というお話でした。





2025年8月4日月曜日

読書感想文です。

 



『一次元の挿し木』を読んで

 

新聞の本の広告で見かけました。

 

「二百年前の人骨のDNAが四年前に失踪した妹のものと一致!?」というキャッチコピーと「このミステリーがすごい!」大賞・文庫グランプリ受賞作というのに目を惹かれ買ってしまいました。

 

わたしの好物の「古代遺跡の発掘」と「遺伝子」にピッタリはまりました。200年前は古代ではありませんが、ヒマラヤ山脈で発見された800人あまりの遺体というのはセンセーショナルです。

 

主人公は七瀬遥。大学院で遺伝子人類学を学んでいます。遺骨のDNA鑑定を担当教授に頼まれ、その鑑定結果が失踪した妹のものと一致し物語が始まります。

 

その遥は樹木の会という新興宗教に属している母親に育てられたという背景があります。その母親と再婚した七瀬京一という遺伝子の研究者が連れてきたのが妹である紫陽(しはる)です。つまり義理の妹です。母親は亡くなっていますが。

 

彼の指導教授の石見明彦を加え、複雑な人間関係の内に、「なぜ妹のDNAが200年前の骨から見つかったのか。」というミステリーです。

 


 

設定からいうと本格ミステリーかと思いましたがそうでもなく、樹木の会と牛尾というとんでもない怪物が現れるピカレスク小説の態です。

 

ミステリーですから、なぜ妹のDNAが?という答えは言えませんが、この複雑な人間関係がもつれあって、話はドキドキもので進みながら、しっかりとスッキリと大団円となるという優れモノでした。

  

わたしは『ドラゴンタトゥーの女』を思い出しました。スウェーデンの作家で、以前世界的なブームとなったシリーズです。ハリウッド映画にもなりましたよ。そんな要素があると思います。まだまだ小ぶりですが。

  

きっと第二弾が出ると……。なぜなら、樹木の会という存在が解決されていません。それから、遥の助手である女性の存在がどうも怪しい。一か所しか出てこないどうでもよさそうな人物なのに、しっかり彼女のエピソードが入っているからです。

 

彼女の恋人の謎の男性です。出会い系サイトで知り合ったのですが、バイト暮らしで彼女のアパートに来ては、横暴な振舞いをしています。彼女が帰ってというと帰っていくので―――そこまでではないと思いますが。

 

この人物が、第二弾の引き金になるのではと―――、想像ですが。

 

 

 


2025年8月1日金曜日

棋譜を読む


 

囲碁の棋譜です。名人戦の挑戦者決定リーグ戦の棋譜が新聞に載っています。たいていは8譜くらいまでいきます。


以前は、勉強・研究のためと読んでいました。しかし、棋譜を丁寧に読んだあとの対局はたいていボロボロになります。それは、棋譜に影響されて普段打たないような手をうってしまうから。


そうですよねェ~。プロの人達は考え抜いて打っているので、生半可に真似してもうまくはいきませんよネ。


これを格言でなんていうのかと考えていました~~~。「生兵法は大怪我の基」かなあ?


特に、強~~~い人達の棋譜を参考にするとえらい目にあいます。虎丸ちゃんや井山です。一力はまだ少々参考になります。なぜなら、正調だから。


と言って、参考になるような棋譜は退屈だあ~。生意気を言っておりますが~。





で、思いました。


棋譜は参考にするために読まないことにしよう。棋譜は読み物なのだ。小説を読むように、楽しんで、ワクワクして読もう~~~。


と言う訳で、最近では虎丸ちゃんの棋譜を中心に切り抜いております。


彼は天才だ。絵で言えば、ゴッホでしょうか。一力はピカソのような気がします。ーーーーー、という戯言でした。






2025年7月27日日曜日

少々以前の新聞のコラムです


 


女性コラムニストと思いますが、成人を迎えたときに、母親が「ハンコ」をプレゼントしてくれたそうです。それには名前しか彫ってありませんでした。その時は何も考えないで、反抗期なこともあり、机の引き出しにほおりこんでおいたそうです。


後に、母親が謝らないといけないことがあると神妙に打ち明けたそうです。


名前しかないハンコのことです。なぜ名前しかなかったというと、後に結婚して名字が変わっても使えるようにと。女は、結婚したら名字を夫の方に合わせるものだと思い込んでいたと。そんな考えで、あなたの人権を蔑にしてしまったと。


そのコラムニストが言いたかったことは、夫婦別性の事です。現在、母くらいの年代の人にも「夫婦別姓の選択」の自由が浸透してきた。だから、政治も早く結論を下すべきだということです。




これを読んで思ったことは、「あれ~、わたしも名前だけの印鑑もらったぞ~。」ということ。へ~、そんな意味があったのかと。


家は、商売系なので、ただの印鑑ではなく、実印でした。登録済みのもの。そして、名字と名前が彫られた印鑑と。こちらは普段使いにと。


わたしも夫婦別姓に賛成です。だけど、わたしは自分の名字が大嫌いです。家族の一員であるという思いにゾッとします。


私の場合、結婚して姓を変えて離婚してそのままの姓にしました。もちろんそのために結婚したのではありません。念のため申し添えます。たまたま、離婚に至ったということです。


でも、名字はほんとに極普通のどこにでもある姓なので、わたしは匿名性を得ることが出来たと……思ったものです。わたしは、何者でもない自分になった、と。


変ですよネ。