2025年12月15日月曜日

一つ、わかりました。


 


囲碁の話です。以前、囲碁が複雑なのは「勝利の最終図」が見えないからと書きました。そのことについて先生と話していたら、「最終図はわかりますよ。AⅠはわかっているし、プロならわかっています。」と言われました。


「え~っ」と思って、家で考えました。


数独は答えの最終図が見えているから簡単だ。オセロも「勝ちの図」から逆算して進めていけば、勝ちにつながる。しかし、囲碁は最終図がいろいろあるのでわからない。





が、それは、盤面が大きいからだと思いなおしました。囲碁の9路盤や13路盤なら、最終図が見えてくる。19路盤は、なかなか最終図に辿り着けないからわからない。


が、それは、「わたしの話」だった。AⅠなら最終図まで計算しつくしている。プロの棋士もきっと自分の勝ちの図がわかっているのだ。わたしの先生もプロではないが、ちゃんとわかっていると言っていた。


ここまでわかったところで、わたしの進む道はなにかなあ~~~。ひとつは構想力かもしれない。わたしの「勝ち図」を作り出すことだ。ひとつ難しさススンダーーーねェ。







2025年12月8日月曜日

今日の一冊


 

と言って、土曜日の新聞書評の一冊なんですが。


『ユージニア』  奥田睦著


土曜日の新聞は、本の紹介とその評が掲載されています。その中で、「石川県金沢が舞台の本はミステリアスだ。」とありました。


フムフムと読んでいたら、この『ユージニア』に目が留まりました。

「名家の当主の還暦祝いとその母の米寿祝いを兼ねた席でこども6人を含む17人が毒殺された。」というもの。しかしながら、この本はミステリー小説ではなく小説です。犯人は明確には指摘されていない模様。


事件の関係者のそれぞれの物語に、読者は翻弄されるという仕掛けのよう。面白そうでしょう。誰かが殺されない小説はあまり興味がない私にとっては、最適です。



が、アマゾンで検索したところ、なんだか「たいそうな」本らしく、買うのは躊躇でぃております。今は「保留」です。(文庫本もあるので値段的にはお高くありませんが)。






2025年12月7日日曜日

今日の雑感



 

女性初の首相高市早苗氏についての識者の意見をふたつ読んだ。新聞記事です。女性の専門家の意見です。何の専門かは忘れました。経済?フェミニズム?女性の識者でした。


お二人とも、政治信条に関係なく「女性が初めて首相になったのは、良いことだ。」と述べていました。(お二人とも自民党には傾倒していないようでしたが。)


ひとりは、女性が首相になったということで、これからの女性に選択肢が増えたと。「無い物にはなれない」。その点で具体的な存在には意義があると。


わたしも「政治信条に関係なく」、高市さんが首相になったのは、良いことだと思っています。




もう一人の人は(すいません。名前も覚えていなくて)、高市さんも今まで「女性である」ことでいろいろと闘ってきただろうと。男社会の中で、ひとり頭角を現すのは並大抵の努力ではなかっただろうと。


高市さんが、尊敬するサッチャーさん。彼女が「鉄の女」であることは必然であったでしょう。周りの男性に負けないほどの強さを見せなければならなかったから。そして、より強い姿を見せつけなければいけなかったでしょうから。


そして最後にその識者は、「保守党から先に女性の首相が現れたこと、そして、リベラル派からはその兆しがないことを検証しなければいけない。」と書いていました。わたしは、「ウっ」と唸ってしまいました。


そうですね。フェミニズム押しの政党から何故女性が台頭しないのか?わたしもいろいろ考察してみようとーーー、思いました。







2025年11月23日日曜日

音読


 

2~3年前から音読をしています。朝、新聞記事を3~4個声を出して読むだけですが、口内と喉の筋肉を鍛えるためです。歳とともにの誤嚥の予防のためにと。


毎回読む記事の一つに朝日新聞の「天声人語」があります。以前筆者紹介があったと記憶していますが、誰だったかも人数も覚えておりません。たぶん7~8人だったと。


毎日声に出して読んでいると初めは内容が頭に入りませんでしたが、徐々に同時に内容もわかるようになってきました。




さて、「天声人語」です。読んでいるうちに気付いたことがあります。いつも話題がジェンダーかマイノリティの筆者がいます(たぶん同じ人だと思うが)。男女平等ーーー大賛成です。しかし、話が退屈。


また、回文が好きな人がいます。一度は、回文ばかりの内容でした。その他、時にいきなり回文を放り込んで来ることも。落ちが回文のことも。


前置きが長い人もいます。半分以上が前置きで、さて何が言いたいのと思う頃に本題が。3分の1くらいが前置きというのは常です。


どうしても「落ち」を付けたい人もいるようです。足元をすくわれたような感覚になることもあります。大声で読みながらこれでスンナリ終わってくれよと思うと……。


最高なのは、何気なく自然な流れで文章が続き、素直な気持ちで心地よく読み進むうちに、すっと終わります。深い暖かい気持ちや深い「思い」が残ります。


生意気な物言いでした。これからも音読続けます。








2025年11月17日月曜日

今日の雑感ー2.



 少し前の『折々のことば』で、辻邦夫氏の言葉が引用されておりました。作家の辻邦夫氏は超有名ですが、わたしは本を読んだことはありません。


何故「ウっ!」と思ったかというと、全く関係なく辻佐保子さんがわたしが大学生の時のゼミの教授だったからです。辻邦夫のパートナー(妻)です。でしたか?お二人とも亡くなられておられますから。


ゼミでは、京都や奈良の寺、博物館などの見学ゼミ旅行がありました。佐保子先生だけホテル泊でしたが、私たち生徒7名と講師の先生、助手の先生は、一緒に旅館に泊まったものでした。(雑魚寝です。)


その宴会の時の話題でよく辻邦夫先生のことがでてきました。佐保子先生との日常生活は如何にとか。




そんな事が思い出されたのです。そしてもうひとつ。邦夫先生亡き後、佐保子先生は一人でマンション暮らしだったようで、ある時新聞に「辻佐保子さんが、孤独死していたのが見つかった。死後一週間は立っている模様。」と。


たいへんショックでした。その新聞記事を切り抜いて持っていましたが、見返したことはなく、捨てることも出来ず、なお、保管しております。







2025年11月4日火曜日

今日の雑感


 

今日のコラムに大佛さまは偉いと、大佛様に「うまい!」と言ってもらいたい一念でお菓子作りをしていた和菓子職人の話が書かれていた。


「自分を超えたものの存在に開かれている人にはどこか穏やかさが漂う。不遜にはならない。」との鷲田清一さんのコメントです。


わたしも大賛成であり、実感しています。大学に入った時、わたしよりうんと頭がいい人がいっぱいいて、自分の来し方を反省しました。わたしの父親も不遜な人でしたが、あるときある歌人に出会い謙虚な人になりました(少々ですが)。塚本邦夫氏です。「自分より出来る人に会った。」と言っておりました。





いろいろな事で秀でている人は、謙虚であると日々実感しています。英語の勉強をしていた時は、中級から中級の上、上級クラスに上がるごとに「人」が変わると思っていました。上級クラスの人達は、わたしの拙い英語にもチャンと耳を傾けてくれました。話す内容にもふむふむと思う事がいっぱいです。


その後に囲碁を始めたわけですが、同じことが言えます。段が上がっていくと、「人」が変わっていきます。現在は「有段者クラス」の末席を穢しておりますが、上手(うわて)の人は天井知らずです。だからでしょうか、少々腕の立つ人もとても謙虚です。わたしには勝つが、その人が対局で負ける人が一杯いるからです。「負ける心」を知っているーーーからでしょうか。


ですから私も精進し、より強い人と対局できるように努力しております。少しでも多くのステキな人々に会えますように。







2025年10月21日火曜日

今日の感想


 


高市早苗さんが、「日本初の女性総理になるか」とマスコミは騒いでいるが、今の私の心境は、あまり女性初の総理大臣に関心がない。前回は、政治的信条に関係なく、高市さんが総理になってアメリカ初の女性大統領ハリスさんと初対談すると面白いだろうなあ~、という意識だったが。


なぜかなあ~。何故か今回は、「女性初」というところに関心がいかない。もう私の中では「女性何々」ということがクリアーになったのかなあ。



また、今回の維新との連立のこと。こちらも、政治信条に関係なく、「新鮮だなあ~。」と思ってしまった。高市さんと吉村さんのツーショットは、いつものダークなスーツを着たおじさん(又はおじいさん)の絵柄と違って「観やすい」です。


またまた、政治信条に関係なく、若い人達または前に出て活躍できなかった女性の今後に期待します。期待しても、わたしの思惑と違う方に飛躍してしまうと困るが~~~。







2025年10月16日木曜日

『飛ぶ男』



 安部公房の遺作です。


『飛ぶ男』

 

 

安部公房の本は、金額的に余裕がある限り購入することにしている。この文庫本も生誕100年で発刊されたときに買っている。

 

 

令和6年です。それをようやく読む気になって読みました。「死後、フロッピーディスクに遺されていた原稿の文庫化」という予備知識しかなく読み始めました。内容は、『飛ぶ男』と『さまざまな父』の二作と思っていた訳です。が~。

 

一作目の『飛ぶ男』は、冒頭から本当に飛ぶ男が出現します(比喩ではなかった)。その飛んでいる男を目撃した三人がいます。一人は暴力団の男で、警察に連絡しようと思うが、立場上する必要はないだろうと。その時にしか登場しません(後に登場するのかもしれないが)。

 

あとの二人は、中学校の先生と怪しげな女です。飛ぶ男を見た女性は、驚きのあまり発作的に空気銃で撃ち落そうとします。傷ついた「男」は、中学校の先生である男の部屋に飛び込みます。その「男」は中学教師の弟だという事なのだが……。

 

空気銃で撃った女性は、教師のアパートの隣人でした。

 

この怪しげな三人の関係性とそれぞれの私生活が語られています。それは、心地よく永久に続いて欲しいと……。しかし、終わりは来ます。

 


 

解説文を読むと、この『飛ぶ男』は未完なのだと。そして、『さまざまな父』も『飛ぶ男』に関連して書かれたもののようだと。つまり、『飛ぶ男』は壮大な構想を持って書き始められた作品なのであると。

 

その長~い、長~~い話を読んでみたかったなあ。

 

 

解説者は、「安部公房―――内部の内部に外部を探し求めた作家」という文を書いています。

 

つまり、細胞生物学的に内部の内部は外部であるということ。細胞の内部に何かを取り込まなければならない時、あるいは内部の不要なものを外部に排出しなければならない時、細胞は同じ成分の内包を形成し、それを外に押し出しては外のものを内部に、また反対も然りということだそうです。

 

この作品の登場人物たちも、他の人の細胞膜を押し破り中に入っていこうとしたり、それを押し出そうとしているのだと。

 

 

まあ、そういうことは抜きにして、わたしはこの幻想的な不条理な関係性がいつまでも語られて、そこに浸っていたいなあ~、と思うばかりです。

 






2025年10月10日金曜日

ああ、そうだった


 


ノーベル化学賞を受賞した北川さんが科学を好きになったきっかけを話していた。中学生の頃に読んだSF小説だったんだあ~。それは、フレドリック・ブラウンです。SF短編の名手でメチャメチャ面白い。


京都に住む中学生だった北川さんは、大いに頭脳を刺激されて科学への道に進んだらしい。


で、わたし。同じ京都に中学生の時住んでいて、おおいにフレドリック・ブラウンのSF小説に親しんだ。


きっかけは、兄が「この本ぜんぜん面白くないからお前にやる。」と言って、『SFカーニバル』という文庫本をくれたこと。はじめて手にする文庫本でした。それまでは、子供向けのようなサイズの本しか読んでいなかったから。




読んだら、メチャメチャ面白い。ゲラゲラ笑いながら読んでいたら、母と兄が不審な目を向けてきた。気にせず、一気に読んでしまった。


その本はアンソロジーだったので、いろいろな作者がいたのだが、一番気に入ったのはフレドリック・ブラウン。それから、四条河原町の大きな本屋に一人で足を運んで、創元推理文庫の棚からフレドリック・ブラウンの本を探しては読み漁っていた。


それからいろいろな作家のSF小説に進んで行ったのだが、原点はフレドリック・ブラウン。





どんどんマニアック化が進んで行き、フリップ・K・ディック、J・G・バラードからスタニスワフ・レム。またファンタジー小説から怪奇小説、シュールレアリスム小説まで突き進んで行ったのでした。ラヴクラフト、ボルヘス、イタロ・カルヴィーノと・・・・・・。


フレドリック・ブラウンから科学の世界に魅せられた人もいれば、幻想の世界に入り込んでいった人もいる。わたしは今でも抜け出せず、本好きなのに「話し相手」がいないという現状です。






2025年10月9日木曜日

今日の妄想


 

昨日の新聞のコラムですが、こんなんです。


「だいたい、頼んでもいないのに生まれてきて、必ず死ぬってことじたい、『罠』みたいなことじゃないか。」

ーーー近藤康太郎


こんな周知の事実のようなこと、何で言うかなあ~と。


世の中「罠」だらけで、そんな中で罠をすり抜けたり、罠で遊ぶなどして愉しんでみるかあ~、という結論らしい。


まあ、生まれてきちゃったんだから生きるしかない。わたしの座右の銘は、「死ぬまで生きる」です。





もうひとつ、昨日の新聞のコラムです。


芥川龍之介が、小学2~3年生の時、かわいいと思うものと美しいと思うものを書きなさい、という課題が出たそうです。芥川少年は、美しいものを「雲」と書くと、先生が「雲などどこが美しい?」と×を付けたそうです。


昔の先生というかわたしの子供の時の先生も、こんな人が多かったなあ~、と思ったわけです。うちの息子の年代でもこんな先生がいたなあ。中学一年生の担任の先生は、息子の描いた絵を見せて、「こんな絵を描きました。」、と言いました。


母親の絵を描くという課題だったようですが、直線だけの「あたまのでかい」まんがのような絵でした。わたしは、「良い絵だなあ。」と思って、なんで先生が特にこれをわたしに示したのかがわからず、そのまま返しました。


あとで考えると、中学生でこんな絵を描いたがどう思うか、という問いだったらしい。わたしは、こんな直線だけでわたしの特徴をとらえ、線の勢いも素晴らしいと思ったんだけど。


あとで、息子が家に持って帰ってきたとき、サインしてもらって日付も入れてもらって、今も額に入れて飾っています。よく見たらその日付は、わたしの誕生日でした。(余分ですが、彼は今、漫画家です。)









2025年10月7日火曜日

今日のことば


 

「親がまずすべきことは、わが子の才能を最大限に評価できる独自のモノサシを持つことではないでしょうか。」   ーーーおおたとしまさ


新聞のコラムです。


折しも今日、ノーベル賞を日本の科学者が取ったという朗報があった。その坂口教授は、「興味を持つことが肝要」と言っていました。興味を持ったことに対し押し進むこと。


これでわたしが思ったことは、





こどもが興味を持ったことと「親の独自のモノサシ」が合えば良いなあ~。というか、世間の評価のモノサシではなく、ほんとに公正なモノサシなら良いなあ~、と。


我が身を振り返ると、親がこどもにまったく関心がなかったということが、良くも悪くも「助かった」と思います。






2025年9月25日木曜日

思いつくままに……


 

わたしは、人に会うのがとても苦手です。というか、人とお話をすると「思う」のが苦痛です。会ってしまえば、気ままに会話はできます。


が、会う「人と時間」が決まっていると、その何日か前から「シチュエーションから話すことから相手の返答から……」を想像して、繰り返し反復して、頭の中に渦巻いてしまいます。


そして、会った後もその人との会話がいちいち頭の中で繰り返されて、適宜に整理されて脳の定位置に収まるまで続きます。




今日の新聞記事でマインドワンダリングという言葉を知りました。「ぐるぐる思考」です。


何か課題に取り組んでいるときに、いつの間にかおかしなことを考えいたり、雑念が浮かんできたりして、だんだん気が重くなってくる症状のようです。なぜそうなるかわかっていませんでしたが、だんだん解明してきたとのことです。


非意図的なものと意図的なものがあり、非意図的なものは考えれば考えるほど不安になったり落ち込んだりします。意図的なものにはそのような傾向は見られないとか。


気になっていることをメモに書き出して、時間があるときに意図的に考えを巡らすと非意図的なマインドワンダリングの回数が減る効果がありとか。


マインドワンダリングをする人の方がクリエイティビリティーが高いという過去の研究もあるそうで、そこに一縷の望みを感じてしまいます。







2025年9月14日日曜日

最近刺さった言葉


 

「時間は、他の誰かと共有するなかではじめて、夢・幻でない現実として確実に流れ始めるのか。」


焚火の好きな父と火の前に坐っていたら、こんなことをできるのも最後かもしれないとの思いがこみ上げてきた。ーーーー、とのことです。


それは、……甘美な感触で、通り過ぎていく「いま」という時間が、戻ることのない一瞬の連続で、いとおしかった。ーーーー、とのことです。


年老いた父親との対峙によって、一瞬、一瞬の時間の流れが現実として捉えられたということですか。



わたしは、「時間」の概念が好きです。哲学的にも物理学的にも。この「他の誰かと共有することで時間が現実になる。」という言葉は、私の理解では、他者がいなければ時間は「無い」ということです。


誰とも会わない山奥とか無人島で暮らしていれば、時間は止まっているという事。「時間」というものが「いつ」できたのかと思うと、とても興味深いです。


わたしの好きな本に『ピダハン』があります。アマゾンの奥地の部族の名前です。彼らには時間がありません。従って自分の歳を数えることもありません。採集狩猟生活で時間にとらわれず気ままに暮らしています。


そこに研究取材に行った人類学者が、ピダハンに魅せられて自己のアイデンティティを失っていきます。


才能のないわたしは、このまま歳を数えて生きていくしかありませんがーーー。






2025年9月7日日曜日

最近のカタカナ英語事情

 


今までもカタカナ英語は、日本で氾濫していました。グローバル化とかエンターテイメントとかは「エンタメ」ともう普通の日本語です。


それで、


コロナの頃からテレビのニュースショウなどで、「バイアス」とか「エヴィデンス」とかが、普通に使われ始めました。ある解説者は、「日本語で偏見と証拠ですが日本語のニュアンスと少々違って、日本語では表現できないのでこう言います。」と言っていました。


そして最近では、アフォマティヴとかインセンティブとかも何の説明もなく使われ始めています。市井の人々には容易に理解しがたい単語です。



それで思ったんです。


漢文が日本語に入ってきたときもこんな感じだったんだろうかと。大化の改新の頃か???。


明治維新の時に日本に入ってきた西洋の単語を日本語に置き換えた人々は偉大だったと、以前UPしたことがあります。そのおかげで日本人は日本語でいろいろなことを語れるようになったと。他の国では、日常はその地域言語、学術的なことは英語を使うとか二分化しているところもあります。


しかしそれは間違いでした。気付きました。それは日本語に置き換えたのではなく、漢文に置換したのだと。その時日本が使用した単語を、後に中国でも使用するようになりましたから。



そんな訳で、


昨今のカタカナ事情も日本語にはないものを英語でカタカナで表現しているのかなあと。文句を言っているのではありません。これで日本語のボキャブラリーも増えて、より多くの事を庶民も表現できるようになるのかあ~と。


中国語を日本語に同化した時のように、普通の人々にも浸透するのは少し時間がかかるかも。しかし、SNS時代だから即カタカナだらけになるかもよ。







2025年9月1日月曜日

猛暑です。


 

日々の猛暑で、思ったんですが、


冬は、寒い時のお洒落なコートがあるんだから、夏も、猛暑用のオシャレなコートがあってもいいんじゃないの、と。


で、今日のニュースです。


オシャレな夏用のコートが売り出されたと。


防寒ならぬ、防暑でしょうか。さすが、企業はやるよネ!







2025年8月24日日曜日

SFもどき  (妄想です)



 先日、サイエンスゼロ(NHK番組)をそれとなく見ていたら、マイクロプラスチックが雲の中に含まれていると言っていました。


顕微鏡で見なければわからないほどのプラスチックゴミです。豪雨の出現にも影響しているとのこと。どこにでもありますね、プラスチックゴミ。魚や動物の体内、そして人間の体内からも見つかったと、何かで読みました。


そこで「人新生」です。「ひとしんせい」とか「じんしんせい」と読みますが、現在「じんしんせい」に定着しつつあるようです。個人的に、わたしは「ひとしんせい」が好きです。地質学の用語ですが哲学用語としても使われています。


1953年頃からをそう言うとされていますが、正式用語としては、今回認められませんでした。この頃からプラスチック等、人由来のものが地層から見つかります。イギリスの第2次産業革命以降散見しますが、はっきりと地層区分できるようになったのはこの頃のようです。




さて、恐竜が滅亡したのはなぜかという問いがあります。隕石とか氷河期が来たからとか。未来に「人間はなぜ滅亡したの」かという問いがあるとしたら、「自滅」ということでしょうか。


人が滅亡した後にこんな「問い」はないだろうと思われるかもしれませんが、否、全人類が影も形もなく滅亡することはないと思われます。現に恐竜の子孫である鳥がいるわけですから。


そこで、フィリップ・K・ディックです。アメリカ1950年代ごろからのSF作家です。彼の作品で読んだことがあります。


世界核戦争の後地中に潜った人々と、地上に残って放射能の影響を受け姿が変わってしまった人々。地中の人々はこの汚染された地球から逃れるためロケットを作り上げました。そして出発の時、地上の人々に別れを告げます。そして飛び立っていきます。



さて、地上に残された人々はどうしたか。姿態の変化した人々は、十分地球に順化しています。

「なんで、地球から飛び立つべさ。こんな居心地がいいのに。」とさ。


で、イーロン・マスク氏を思い出しました。すべての公害の元と一緒に火星に飛び立ってくれーーー。我々は、地上に留まって地道にくらしますから~~~。


今日の、新聞のコラムです。


猛暑の昼下がり、街に人がいない。街から人が消え去った。裏道で耳を澄ますと、エアコンの室外機がブーンとうなる音が聞こえてきた。


というお話でした。