2013年8月13日火曜日

太宰治











太宰治の生誕百年です。最近新聞などで特集されているのでわたしも刺激されてしまいました。それで、太宰治の本はあまり読んでいないのですが一冊だけ持っていたのを思い出しました。「人間失格」です。本棚の隅から探し当てました。薄い文庫本です。若い時分に読んだことは覚えていますが、いつ買ったのかなと奥付を調べてみると昭和四十四年。価格は八十円でした。



内容は覚えていません。「理解できなかった」という記憶のみです。多分、突っ張っていた時代ですからタイトルに惹かれて買ったんでしょう。(「蟹工船」も持っているだけで警察に捕まった、ということだけで買ったんですから)。それでもう一度読み返してみることに。読んだのは先週の事です。で、この一週間憂鬱な沈んだ日々を送っていました。



「解説」を読んでみると、太宰治はこの小説を書き上げてすぐ投身自殺したそうです。三回に分けて雑誌に連載されたそうですが、その最後の掲載の前に自殺したそうで、読者にとって最終章は死者からの手紙でしょうね。



では何故わたしは一週間落ち込んでいたのか。今回は充分理解できたからでしょうね。それだけ人生経験を積んだということか。この主人公の葉チャンは世間との付き合い方がわからず、自分を演技することでしか人との関係を結べません。自分が道化になって人に笑われること、そうすることによって自分の本心を見せない。そうやって、自分と「世間」の位置を測って生きてきました。



しかし、「第三の手記」(最後の手記です)である人に「・・・これ以上は、世間がゆるさないからな」と言われた時、「世間というのは、君じゃないか」と気付きます。人は「世間が」と世間をバックにしてものを言うが、言っているのはきみ自身じゃないか、個人じゃないか、という思い。「“世間とは個人じゃないか”という、思想めいたものを持つようになってから自分は、いままでよりは多少、自分の意志で動く事が出来るようになりました。」と書いています。



汝は、汝個人のおそろしさ、怪奇、悪辣、古狸性、妖婆性を知れ!・・・・・・と。



つまり「世間」という大きな怪物は実はちっぽけな個人の集まりであるという事を発見し、少しは対抗できるものと思う事ができたということでしょうか。葉ちゃんの絶望が解消されたということではありませんが。





わたしも若いころ(高校生くらい)から「世間」とは自分と相・対立するもの、わたしは「世間の外にある」と思っていました。そして、三十代の初めにできたボーイフレンドがわたしのボーイフレンドにしては珍しくノーマルでうまく人生を歩んでいるので、聞いてみました。



「あなたにとって、世間とは何なの。」と。



彼は、

「自分の属している社会かな~。」と。



わたしは、心の中で「おオ、マイゴッド!」と叫びましたよ。世間を素直に受け入れている人が居るんだ、と。それも、自分がその一部として・・・つまり属しているのだと。そしてその後、わたしは理解しました。そういう人たちがマジョリティでわたしがマイノリティーだったんだと。で、みんなちゃんと社会でふつうに生きていけるんだ。





それからわたしは多少世間というものを理解し、多少折り合いをつけながら生きてまいりましたが、どうなんでしょうねェ。・・・ということをこの一週間考えてきて、憂鬱だったという訳です。









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